アプスワーゲナル夫人の寵児
長い長い冬も漸く終わりに近付き少しずつ生命の息吹が増し、春の精霊の奏でる音風(シャラシャラと暖かな風に楽器を奏でたような不思議な音が混ざる現象)が聞こえ始めた今日この頃。
卒業の式典には絶好の日和であるにもかかわらず、それを盛大な音を立てて壊すような喧騒が起こった。
「ローズ・ヒュプレス!貴様がした悪行の数々、しらばっくれてもこのバントリー全て知っているぞ!!大人しく全ての罪を自白せよ!」
卒業の式辞の為、台に上がり拡声魔法が施された陣に足を乗せようとした令嬢を大声で引き留め、それからビシッと令嬢に向かって指差し鼻を鳴らすのはこの国の第四王子殿下。
スペアにもならないほど下位な王子であるが、果たして本人は事の重大さに気付いているのか。
婚約者として据えられた公爵令嬢。名だたる名家から選りすぐり一番争いにならず穏便にいくであろう公爵家に婿入りさせようとの父母の気遣いを蔑ろにし、踏みにじったに飽きたらず唾を吐きかけるような行い同然である振る舞い。
彼は己の身分を、未来をも捨てる気なのか。
冷ややかな視線と嘲るような視線を向ける観衆のそれを、己が断罪しようとしている少女に向けられているものと都合のよい勘違いをしつつ彼はよく回る舌を更に動かし言葉を放つ。
一歩一歩、確実に取り返しのつかないような地獄への道を踏み出しているとも知らずに。
「悪い噂を流し、彼女を傷つけただけには飽きたらずノートを隠し教科書を破り、母親の形見たる指輪を奪い投げ捨て、悪漢にまで襲わせた!!もう我慢ならない、今日をもって貴様との婚約は破棄だ!更にいずれ王妃となるものを脅かした罪として次期国王の名の下において国外追放を命じる!」
次期国王には絶対になれぬ位置にある彼が次期国王の名を語った罪も重い、しかしそれより何よりもっと恐ろしい事をしでかした彼に周りは皆一様に血の気が引く思いをした。
「お、お前は何という事を……!」
わなわなと式典に訪れていた王が身を震わせながら思わずと言ったように口を開き、そして立ち上がって息子を鋭い目で睨みつけた。
「このッ、大馬鹿者が!」
長年患った腰痛も、最近感じ始めていた足の筋肉の衰えも全て忘れて王は己の末の息子たる彼を怒鳴りつけた。怒鳴られて驚いたのか、目を見開き一瞬怯む彼が漸く口を閉じたのを見て更にたたみかけるよう続ける。
「身勝手に多くの者を巻き込み伝統ある式を台無しにするとは何事か!この日の為にと常々準備をしてきたであろう者の努力を知らず無駄にしおってからに!!更にそなたの為にと幼き頃より研鑽を重ねておった令嬢を衆目のある場にて辱めるとは!お前の護衛を任せていた者達よりそこな小娘がローズ嬢を疎い、方々に卑しい術をしかけローズ嬢を嵌めようとしていた事は既に把握しておる。そのような輩に言いように操られ、罪なき公爵令嬢にありもしない罪を被せようなどとよくもそんな外道な行いができたものだ!!無理をおしてお前との婚約に頷いてくれた公爵に顔向けできんではないか!」
子が子であるなら親はやはり親であろうか。
怒りに任せ回る舌で王は一つ一つ王子がしでかした事をあげては断ち、あげては断つ。完膚なきまでにその言葉を叩きつけられた王子は僅かに動揺を見せるが、それもあくまで多少である。
「で、ですが父上……!」
「この期に及んでまだ言い募るか!!お前のせいでこの国は破滅するかもしれないのだぞ!」
「は、はぁ…?破滅ですか?」
王の言葉より愛しい平民の娘の言葉を尊重しようとし、けれどわけのわかない言葉でまた止められた王子は眉を寄せて怪訝そうに王を見据え何の冗談のつもりだろうかと、真意を探ろうと再び口を閉じる。
「ローズ嬢はただ公爵令嬢であるだけではない。アプスワーゲナル夫人の加護を受けた寵児であるのだ」
「……そのアプスワーゲナル夫人とやらは何者なんです?貴族では聞いた覚えがない名ですが」
この国の重要なポストにいる貴族の名は、第四王子であるとは言え覚えさせられている。あまり頭がよくないからこそ取り返しのつかない事を彼らにしでかさないように。
けれど王子は王の出した名に聞き覚えがなかった。という事はさほど重要ではない貴族のものなのだろうか、いやしかしそれにしては王が恐れているのと辻褄が合わない。
そんな考えている事が手に取るようにわかる王子の表情に、もはや怒りより呆れが勝ったのか王は額に右手をやり溜め息を吐いた。
「よもや……そこまで出来が悪いとは。アプスワーゲナル夫人は……」
「とある悪神の血を引く、恐ろしい力を持った生きる災いの女、ですわ。ねぇ、オフェリアンス国王陛下?」
王の話を遮って、突如女の声が彼らの会話に割って入る。無礼な、と叫ぼうとした王子は乱入者の女を探し周囲を見渡したが目を見開きそのまま固まってしまった。
目に焼き付くような出で立ちをした女。その女がいたのはなんと空中だったのだ。
伝説の生き物であるとされる銀色の毛並みをした虎のような大きく凛々しい姿をした生き物の背に軽く腰をかけたといった形で乗る彼女は赤い豪華なドレスを身に纏い、頭には黒い羽根飾りと真珠、そして赤い赤い薔薇のついた帽子を被っていた。
ふくよかな体型と優しげに見える顔立ちとは裏腹に、彼女の眼差しはまるで氷の如く冷ややかだ。微笑みを浮かべているのに、全く温かみを感じられない。
そしてなにより、彼女の纏う何かに。
それは殺気にも似た刺すような威圧感、魔力にも似た底知れぬもの。ぞわぞわと毒虫が肌を這うような不快な感覚。下手に近寄れば気絶しブクブクと泡を吐いて倒れてしまいそうだ。
そんな彼女の登場に驚き騒然となる会場の者達。公爵令嬢に罪を被せようとした平民の娘は訳が分からないと言った顔をして誰よ、あのババアはと思わず呟き、王子やその他の取り巻き達もまた唖然とするばかり。
噂などで彼女の事を少なからず知る者らは顔色を悪くし、はてはあまりの事に気絶しそうな者までいた。王と王妃とて例外ではなく、いや、噂程度では済まない程に彼女の情報を知り得ていたからこそその動揺は激しかった。
冷や汗油汗などわからないほどぶわりと額に汗を浮かべ、顔色は土気色。言葉を紡ごうと開かれる唇はしかし意味のない呻きや唸り声を吐き出すのみ。それでも酸欠で気を失いかけた王妃とは違い、王は何とか意識を保ち続けただけ流石と言えよう。
そんな彼らをぐるりと見渡し、彼女は右手に持った扇で口元を隠し目を細めた。
「私の愛しい子の側に控えさせた我が子が知らせてくれましたのよ。あの子が嵌められ傷つけられようとしていると。全く、酷いではありませんか、オフェリアンス王。目に入れても痛くないと可愛がっておりました私の愛し子を守り慈しんで下さると約束をいたしましたのに、それを王家に連なる者自らお破りになられるなんて……。この国は私と一戦構えるおつもりと受け取ってよろしゅうございますね?」
「と、とんでもない!これは、我が愚息が犯した罪。しかし我らもただ黙ってそれを看過していたわけではございません!」
アプスワーゲナル夫人に目をつけられたならその地は焦土と化すのみならず、王は必死に弁明を図った。曰わく、王子が暴挙に出ないようそれとなく女狐の情報を聞かせようとしたと。
曰わく、それでも目を覚まさずに何やら不穏な動きを見せる彼らに各々の生家にて病養や何らかの事故を装い矯正、または王家より名を削る準備が整えられつつあったことなど。
その聞かされる何とも都合のいい話しに夫人は目を細めて王をじっと見つめ、推し量るように暫し黙してから口を開こうとした。しかし……
「私が平民に……!?馬鹿な、何を仰られます、王様!そのような事、認められるわけが」
「嘘よ、嘘!皆がそんな事になりそうだったなんて、だって皆、『あの思い出の姫君へ』の人気キャラ達だもの!そんな事されるはずないじゃない!!」
王子とその腕に抱かれた少女は喚きだす。現実が受け入れられないのか。それとも夫人を見てもその脅威を感じ取れないほどに感覚が鈍っているのか。
夫人は扇子で顔を隠しつつも毛虫か何かを見てしまったような不快さを隠しもせずに示しつつ顔を顰める。
「本当になんて醜い子どもたちなの。ロージー、こんな子たち要らないわね?」
「ダメです、おばさま!お待ちになって!」
ビクリと肩を跳ねさせ狼狽えるように瞳を泳がせたローズ嬢だがしかしすぐにハッとしたように宙に浮かぶ夫人に手を伸ばす。
しかし夫人は取り合わずに左手を口許に運ぶと扇子を少しのけて、ふぅっと紫煙を吐きだした。
その吐息は雲のように大きく広がってまるで意思のある生き物のごとく王子と少女のもとへ向かっていく。逃れる術もなく二人は煙に包まれ咳き込みだした。他の者は恐ろしさに何が起こるかわからないと慌てて二人から距離を取る。王も彼女の不興を買うのが恐ろしいのか騎士を向かわせるでもない。
そうして二人の姿が完全に見えなくなってから程なく獣の雄叫びのような壮絶な声があがり、その場にいるすべてのものが耳を塞ぎたい思いに駆られたが夫人の凍てつくような視線がそれを許さず誰も動くことができない。
次第に声は弱々しくなっていき、ついには途絶え、紫煙が晴れるとそこにはもう人の影も形もなく。
王の呻くような僅かな音がしんと静まり返った場に落ちた。王として相応しくはない行いだとしても親としての情が、人としての心が我が子を目の前で失った痛みを訴えたのであろう。
誰も咎めはしない。夫人も王らしからぬ失態をそれ以上犯すでもない王に目を瞑る事にしたらしくパチンと扇を音を立てて閉じると何事もなかったかのようにローズ嬢のもとへと銀の虎を向かわせ地に足を下ろし、にこやかな笑みをローズ嬢に向けるとふっくらとしたその肉厚な手で華奢なローズ嬢の顎を取り両頬へと軽く唇を寄せた。
蝶の鱗粉が風に運ばれるようにその動きに合わせ金色の粉が舞う。言葉にすれば幻想的にも見えそうなものだが、夫人の大きな口はローズ嬢をいとも容易く飲み込んでしまいそうな大きさであるのを考慮するとそこらの深窓の令嬢が出くわせば気を失う事だろう。
「貴方を苦しめ、汚そうとするものは私が取り払い、これからじっくりと罰を与えてあげますからね。愛しい愛しい、私だけの花。私だけの宝石」
「……おばさま」
先程のあれはただ捕えただけ。あんなにも苦し気な声であったのにまだその先に地獄があるのだと知っている少女は青白い顔で茫然としたように夫人からの囁きを受け、やがて諦めたように小さく、そして弱々しく微笑みを返した。
おばさまは令嬢ちゃんを目に入れても痛くないくらいに溺愛してます。令嬢ちゃんが望めばイケメンに変身して娶ってもくれるでしょうが、その対価は国一つの人の命だったりと何かと物騒なので心優しき令嬢ちゃんはおばさまに必要以上におねだりや助力を乞うなどをしません。
それどころかおばさま怖いと思って近寄られるのも本当は嫌とか。