041 走る
100メートル走が終わり、選手がゲート方面へ退場する。
その途中、夏姫は次の競技の為に待機している生徒の中に知った顔を見つけた。
「光一郎」
「おう、お嬢様。見てたぜ、やったじゃねぇか」
白の鉢巻を額に結い、体育着の半袖を肩まで捲った光一郎が白い歯を見せる。
拳を突き出し、親指をビッと天に向けた。
夏姫は口の端を軽く上げ、小さく頷く。
「ありがとう。光一郎は次の種目に出るんだな」
「ああ、1500メートル走だ。同じ白組なんだ、応援よろしく頼むぜ」
手を振り、グラウンドの方へ歩いていく光一郎。
夏姫はその背中を見送った。
(100メートル走や1500メートル走の選手は、大抵クラスの陸上部の部員や足の速い生徒が自動的に選ばれるものだ。光一郎も運動が得意だったんだな)
よくよく思い返せば、光一郎は割と筋肉質な身体つきをしていた。
日々の筋力トレーニングをこなさなければ、あの肉体は得られないだろう。
(ゆっくりと観戦させて貰うか)
夏姫はクラスのスペースに戻り、ひな壇になっている観覧席の最上部に腰掛けた。
プログラムは一年男子、女子と行われ、光一郎が出場する二年男子の番になった。
光一郎はスタートラインの前に移動し、ブロックに足を掛けてクラウチングスタートの体勢を取る。
「位置について、ヨーイ!」
スターターピストルから火薬を破裂させる音が響き渡った。
選手が一斉に飛び出す。
団子状だった一団が、トラックを周回する毎に徐々に差をつけ始めた。
光一郎は現在3位の位置についている。
(これは中々に厳しいな。前を走る選手2名は、とても綺麗なフォームで走っている。恐らく陸上部員だろう。それに比べると光一郎は大振りな動きが目立つ)
敗北を予感し、夏姫は僅かに眉尻を下げた。
残りトラック1週半。
夏姫のクラスの前を走り抜ける光一郎の顔に、野性的な笑みが浮かんでいた。
「ウラアアアアアッ!」
雄叫びを上げ、光一郎が動かす手足の速度を上げた。
ペースを守り走っていた2位の横を過ぎ去る。
そして1位の背中をすぐ後ろに捕えた。
「白ーッ! 頑張れッ!!」
観客からの応援も熱を帯びる。
光一郎が1位を守る赤組の選手の横に並んだ。
しかし、それと同時に赤組の選手が余力を振り絞ってラストスパートを掛ける。
じりじりと、再び両者の距離が離さていく。
赤組生徒がゴールテープを先んじて身体で切った。
僅かな間を置いて、光一郎がゴールラインを通過する。
周りから拍手が巻き起こった。
夏姫も光一郎の健闘を讃え、両手を鳴らす。
(惜しかったな。いや、でもよく頑張ったぞ、光一郎)
白組選手に囲まれている光一郎に、夏姫は温かい眼差しを向けた。
負けた光一郎は悔しそうだったが、周りの生徒の様子は明るい。
「柏陵院さん……」
不意に声を掛けられた。
隣を見れば嶋良江が傍に立っている。
長身の彼女は縮こまるように背中を曲げ、不安げな表情をしていた。
「どうしたんだ、嶋さん」
「あの……やっぱり私心配で……良かったら練習に付き合って欲しいんです」
「練習というと、三人四脚の?」
良江がこくりと頷く。
その手には足を結ぶための帯が握られていた。
夏姫はフムと顎に手を添える。
「構わないが、岡さんは?」
「岡さんは、面倒くさいからパスって……」
三人四脚は夏姫と良江、そして岡沙苗という女子と共にやる手筈になっていた。
沙苗は運動能力は並みだが体育祭にノリ気ではなく、適当な競技に参加してとりあえず義務は果たす程度のやる気しか見せていなかった。
(皆が皆、やる気があるわけではない。仕方のない事だが……)
夏姫は良江を連れ、グラウンドの端に移動した。
己の足首と良江の足首に帯を巻き付け、固く結ぶ。
「私が真ん中のポジションだから、岡さんがいなくてもキミの練習にはなる。早速始めよう」
号令を掛ける。
1で左足を前に出し、2で右足を前へ。
最初はゆっくりと慣らし、徐々にペースを上げていく。
「1,2! 1,2! 1,2ッ――」
良江の足がもつれた。
体勢を崩し、彼女の身体が前に倒れる。
夏姫は咄嗟に自由な足を前に出し、彼女の転倒を前方から支えて食い止めた。
「あっ……ごめんなさい」
「いや、大丈夫だ。足を挫いたりしていないか?」
「はい……大丈夫です。ごめんなさい」
良江が落ち込んで俯く。
彼女はこれまでの練習でも、速度を上げると足が付いていかなくなり、よく転んでしまっていた。
無理をしなければ転倒はしないのだが、到底1位を狙えるようなペースではない。
(全ての生徒が運動神経が良いわけではないからな。割り切りだって必要だ)
実際、夏姫が在籍するクラスは三人四脚という種目を切り捨てていた。
運動神経が悪い良江や、やる気のない沙苗をこの競技に参加させ、他の種目に力を注ぎ込んでいた。
夏姫は埋まらなかった穴を埋めるオマケのようなものだ。
(だが、やるからには悔いが残らないようにしたいな)
夏姫は良江の肩に手を回す。
彼女は驚いたように目を大きくした。
「柏陵院さん……」
「さぁ、まだ時間はある。後悔しないように練習しておこう」
再び号令を掛ける。
競技が始まるギリギリまで、2人は練習を続けた。
「本当に練習してたんだ。よくやるねぇ」
そろそろ練習を終えようと足の帯を解いている途中、岡沙苗がやって来た。
気だるげな瞳をこちらに向け、口元を手で隠して欠伸をする。
「眠そうだな、岡さん」
「昨夜は遅くまでゲームしててね。寝不足なんだぁ」
沙苗はちらりと良江の方を一瞥する。
「本番は転ばないようにね、嶋さん。巻き込まれたら、たまんないし」
「は、はい……気をつけます」
良江が三白眼をあちこちに彷徨わせ、コクコクと頷いた。
ふぅーと細長い息を吐き、沙苗は二人に背を向ける。
「もう時間だよ。ゲートに集合だってさ」
「ああ、分かった」
夏姫と沙苗も彼女の後に続く。
「続きまして、プログラム番号6番三人四脚を始めます。選手入場ッ!」
放送委員のアナウンスと共に、ゲート前に集まった選手達がグラウンドへ移動した。
まずは一年生男子がスタートラインに立ち、競技が開始される。
「それにしても変わったよねぇ、柏陵院さん」
隣りに座って待機する沙苗が話しかけてきた。
「変わった? 私が?」
「変わったよ。私の事なんて覚えてないかもしれないけどさ、柏陵院さんとは三年連続で同じクラスだったもの。今年度になってからの貴女は、すっごく変わった」
「……そうか」
言われ頭を捻っても、夏姫は過去のクラスに沙苗が居た記憶を思い出せなかった。
彼女が特別印象が薄かったわけではない。
――柏陵院夏姫は他人に興味が無かったのだ。
「体育祭も私と負けず劣らずやる気なかったのに、今回はノリ気だしさぁ。何でそう……あっ、いや、もちろん良い意味で変わったと思うよ! うん!」
沙苗が慌てたように付け足し、お茶を濁した。
恐らく、変化の原因が新乃宮礼司との婚約破棄にあると思い至ったのだろう。
それは半分アタリで、半分ハズレだ。
夏姫はフッと小さな笑みを浮かべた。
「今はとにかく楽しいんだ。誰かと共に全力で物事に当たる事がね」
「へぇー……なんか意外」
沙苗がニマリと唇に弧を描かせる。
「んじゃ、頑張りましょか。そろそろ出番だし」
「ああ。嶋さんも準備いいかい?」
「はい、大丈夫です……」
夏姫が真ん中になり、足首に帯を結ぶ。
3人が立ち上がり、それぞれが肩や腰に手を回した。
三年女子がスタートラインに立つ。
「位置について、ヨーイ!」
男子生徒がスターターピストルの引き金を絞る。
パァンと景気の良い音が響き渡り、選手が一斉に走り出した。
「1,2! 1,2! 1,2!」
選手全員の掛け声が重なり、徐々にズレれていく。
夏姫たちは良江が合わせられるペースで走り続けた。
6組いる生徒の中の5番目の位置だ。
しかし、そのすぐ後ろには赤組の選手達が追いかけてきている。
(慌てるな。無理にペースを上げる必要はない。この速度が最善だ)
先ほどの練習で、夏姫は良江が転ばずにすむギリギリの速度を見極めていた。
このペースを守っていれば、ビリになることはあるまい。
良江も順調に足を進めている。
(ん、これは――)
不意に右足に違和感を覚えた。
右隣に並ぶ沙苗、その足の歩幅が大きくなり始めていた。
足を動かすペースもほんの少しずつ早くなってきている。
(これはマズい……ペースを少しだけ早めるか? 嶋さんが付いてこれるか、賭けになるが……)
夏姫が沙苗の足の動きに合わせて、掛け声を早める。
沙苗は前を走る組の背中しか見ていなかった。
良江に視線を向けると、彼女と一瞬目が合う。
彼女は小さく頷いた。
(良い決意だ――だったら、もう少し頑張ろう!)
ペースを速める。
左足、右足、左足、右足――意識を集中させ、動作を正確に。
前の3人の横に夏姫たちが並んだ。
「1,2! 1,2! 1,2!」
走る、走る、走る。
追い抜かれまいと必死になる前の組の、僅か先に夏姫たちの身体が躍り出た。
そして、ゴール。
「1、――ッ!?」
同時に、3人は転倒した。
ゴールの瞬間に緊張の糸がプツリと切れ、集中が乱れてしまったのだ。
「あたたた……くぅ~、最後の最後で……!」
「大丈夫か? 嶋さん、岡さん?」
「……はい、大丈夫です。ちょっと擦り剝いちゃいましたけど」
グラウンドに倒れ込んでいた3者が上半身を起こす。
3人とも体育着や手足が砂埃に塗れていた。
暫く視線を行き交わせ、自然と笑いが零れた。
「フフ……」
「アハハハ! 全く高校最後の体育祭で、柄にもなく張り切っちゃったわ、もう」
夏姫は立ち上がり、2人の手を引いて起こした。
両者の背中に手を当てる。
「いい走りだった。楽しかったな」
「はい……!」
「まぁ、こういうのも悪くないかなぁ」
チームの順位は4位だった。
だが、その順位以上に晴れやかな気分が3者の胸の中に広がっていた。
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