003 新生活
翌日の夕方、宣言通りに現れた光一郎に連れられ、夏姫は病院を後にした。
四月初旬、春とはいえ日が陰ると少しばかり寒い時節。
太陽は既に西日となっており、時折吹く冷たい風が服をはためかせていく。
「外出用の服を持ってきて貰ったのは感謝するが、なんで学校の制服を選んだんだ?」
夏姫は病衣から白のブレザーにチェックのスカートを合わせた昴星学園の制服に着替えていた。
彼女の問いに、横を歩いていた光一郎は軽く肩を竦めて見せる。
「女物の服のコーディネートなんて、俺には分からん」
「……清田なら出来そうな気がするが」
「あー。爺さんなら、そういうのも容易にこなせそうだなぁ」
クックック、と光一郎は面白げに笑う。
おそらく、齢七十に近い祖父が、若い女性用の服を真剣に見立てている姿を想像したのだろう。
楽しそうな光一郎に比べて、夏姫の表情は物憂げである。
(このスカートってのは、どうも慣れんな……)
柏陵院夏姫の記憶は残っていても、物の考え方や捉え方はすっかり失われてしまっている。
志島秋生としての感覚では、スカートを履くなど生まれて初めての経験なのである。
脚の間、太ももの内側まで空気が通る感覚に戸惑いが隠せない。
夏姫がスカートの無防備さに四苦八苦しているうちに、二人は目的地に到着した。
昴星学園からほど近い立地にある二階建てのアパート。
その二階の一番奥まったところにある部屋の前で、光一郎は足を止める。
ポケットから鍵を取り出し、金属製の扉を開いた。
「ここが今日からアンタの住む部屋だ」
「……案外普通だな」
六畳半の1LDK。
多少窮屈さを感じるものの、一人暮らしをするには十分な部屋である。
テーブル、テレビ、ベッドやソファ等の家具は既に配置されており、夏姫の私物が入っているであろうダンボールが壁際に山積みにされていた。
「旦那様から養育費を預かっているとはいえ、必要最低限の額しか用意されてないんだ。御屋敷の部屋に比べたら質素で狭苦しいだろうが、まぁ我慢してくれ」
「あんまり広くても落ち着かないし、私としてはこれくらいの部屋で丁度いいくらいだ」
「ほー。箱入りのお嬢様らしい反応を見せてくれると思ったら、随分適応のお早い事で」
夏姫は首を傾げる。
「お嬢様らしい反応?」
「『こんな犬小屋に住めだなんて、冗談じゃありませんわ』とか」
言いながら、光一郎はクツクツと笑った。
夏姫は軽く手を振って彼の冗談を受け流し、改めて部屋の中を眺める。
(確かに、元の夏姫だったら拒否反応を起こしそうな部屋だ。だが、俺からしてみれば、個室ってだけでも上等過ぎる。しかも、ノミもダニも羽虫も居ない清潔な部屋だ! 素晴らしい……)
夏姫の頬が緩む。
この部屋に今日からずっと住めると考えると、自然と心が弾んだ。
そんな彼女の横で、光一郎は壁に掛かった時計を一瞥して頷く。
「さて、と。ちっと早いが、晩飯の準備でも始めるか」
「晩飯? 作ってくれるのか?」
「当たり前だろ。俺はアンタの世話役なんだ」
光一郎は制服の上着を脱いで、無造作にソファの上に放った。
シャツの袖を捲り、キッチンへ向かう。
夏姫はその背中に声を掛けた。
「なぁ、もしかしてこれから毎日飯を作りに来るのか?」
「ん~。特に変わった用事でもなければ、そうなるな」
冷蔵庫の中を物色しながら、光一郎は事も無げに肯定する。
「別にそこまでしてくれなくていいんだぞ? 飯くらい一人で作れる」
その夏姫の言葉に、彼は深く溜息を吐いた。
振り返り、夏姫の目をじっと見据える。
「全部言葉にしなきゃわかんねーか? 世話役なんて言っているが――とどのつまり、俺は自棄になったアンタが、何か仕出かさないか見張ってんだよ。柏陵院の不利益になるような事を二度とさせない、そういう役目を請け負ってるんだ」
光一郎の声音はあくまで平坦で静かなものだった。
しかし、彼から発せられる怒気が、場に緊張をもたらす。
夏姫は決まり悪そうに後頭部を掻いた。
(自殺を図ったような娘をフリーにはさせないか。まぁ、考えてみれば当たり前の話だな)
暫く夏姫を睨みつけていた光一郎だが、軽く鼻を鳴らして冷蔵庫の中を再び漁り始めた。
背中越しに彼は忠告する。
「いいか、お嬢様。アンタも今年で最上級生だ。あと一年、大人しくしとけ。学園を卒業すれば俺の仕事も終わりだ、見張りもいなくなるだろうよ。だから、くれぐれも問題を起こすなよ」
「……わかったよ。それまで、世話になる」
ソファに腰掛け、夏姫は天井を仰いだ。
正直に言えば、納得はしていなかった。
しかし、反論の余地もない。
彼女は深く嘆息する。
(結局、もろもろの後始末をするのは俺なのか。全く、面倒な事をしてくれたよ、私は……)
夏姫が心情を整理していると、部屋の中に調理の音が響き始めた。
包丁が奏でるリズミカルな音。
ガスコンロに火を灯し、食材を炒める音。
グツグツとソースを煮立てる音。
様々な音が耳朶を震わせ、食欲を煽る匂いが鼻をくすぐる。
夏姫は立ち上がり、光一郎の傍に寄った。
「へぇ。手際がいいな」
「……柏陵院家には専属の料理人が居るから、執事が料理を作る事はない。だけど、料理の心得くらいはないと、一流の執事なんて名乗れねーからな」
実際、彼の動きはよどみも迷いもなくテキパキとしていた。
包丁使いも危なげなく、火加減にも細心の注意を払い、調理と同時に使った器具を洗って片付けていく。
(新兵の頃は俺も炊事をよくやらされたなぁ。初めの頃は、ジャガイモの皮を剥くついでに、自分の指の皮も剥いてたっけ)
光一郎の調理姿を眺めながら、夏姫は前世の記憶を思い返した。
ついでに血だらけになった指の痛みも脳裏に蘇り、無意識のうちに両手を擦る。
幾ばくも時間が経たぬうちに光一郎は調理を終え、テーブルに一人分の料理を並べた。
「今日のメニューは、豚肉のピカタのピリ辛ソース掛けだ。御屋敷で使っているような高級な食材は、一切使っていない。庶民の料理が口に合えばいいがな」
嫌味なのか本音なのか、どちらともつかない真顔のまま光一郎はそう言った。
確かに柏陵院の実家で供される料理と比べると、目の前の献立は質素である。
「いただきます」
夏姫は箸を持ち、早速主菜を口に運んだ。
甘辛いソースの味が口いっぱいに広がり、次いでしっかりとした肉の旨みが舌を喜ばせる。
嚥下し、一息ついた後、夏姫は微笑する。
「うん、美味い。お上品な屋敷の料理より、私はこっちの味の方が好みだな」
「ん……おう、そうか」
夏姫の反応に、光一郎は毒気が抜かれたように硬い表情を緩めた。
彼女は世辞など一切言っていない事を体現するかのように、笑顔で食を進めていく。
その様子をどこか満足そうに眺める光一郎。
しかし、ふと夏姫の動作が止まる。
「なぁ」
「ん? どうした、お嬢様?」
「そんなに見つめられてると、食べづらいんだが」
光一郎に対し、夏姫は眉根を寄せて抗議の視線を送った。
不躾な視線を送っていたことに気づいたのか、光一郎は目を伏せて「ああ、すまん」と小さく謝罪した。
「光一郎、キミは食べないのか?」
夏姫からの問いに、光一郎は首を振る。
「格好だけでも今のアンタは俺の主人なんだ。主人と執事が一緒に飯を食うなんてありえないだろ?」
「……そういうものか? だが私としては、傍で待機されるより一緒に卓に着いてもらった方が心安らぐんだがな」
夏姫の言に嘘はなかった。
六畳半の狭い空間の中、一人食事をする様子をじっと見詰められ続ける。
なんとも居心地の悪いシチュエーションである。
光一郎は暫く顎に手を当てて思案した後、ゆっくり頷いた。
「そうだな、分かった。じゃあ、明日からは俺もお相伴預からせてもらうぜ」
「そうか」
夏姫は内心ホッと胸を撫でおろす。
光一郎はそんな彼女の様子を見て、クツクツと笑った。
「ホントにお嬢様らしくないな、アンタは」
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