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ヘテロチャイルド  作者: 半藤一夜
第三章 異能たちの饗宴
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015 同じ穴の矛盾

 そんなに早く戻ってくることはないだろうと思いつつ、僕たちは何となくその場に残って上井出の帰還を待つことにした。

 隣で不安そうな顔をしている玖恩さんの様子を窺っていると、伴動さんが小声で話しかけてきた。

「お手水に行ってきてもいいかしら?」

「オチョウズって何?」

「雪隠のことよ」

「セッチン? さっきから何を言ってるんだ君は」

「お手洗いに行かせてください」

「……ああ、そういう意味」

「持ってあと二分といったところよ」

「切迫!」

 けっこう前から我慢していたのか? 言ってくれればよかったのに。

「行ってきなよ。今は特に危険はなさそうだし」

「そ。ありがと」

 伴動さんの背中を見送った後、固く閉ざされた連絡通路への扉を眺めながら、僕は先ほどの夜夢さんの言葉を思い出していた。

 ――彼の人格と能力を、言ってしまえば君は自由に操れるのだからね。

 それは玖恩さんに向けた言葉だったが、僕は別のことを連想していた。

 美來の『意識誘導』。誰かの意識を操って思い通りに動かしたいと、そんな風に願うことがあったのだろうか。

 だとしたら、誰に、何を望んだのか。

 ……なんて、こんな詮無いことを考えてしまう理由はわかっている。

 僕はやっぱり納得できていないのだ。

「あの、各務くん」

 玖恩さんに声を掛けられ、思考を中断する。

「さっきはその、ありがとう」

 そう言って両手を前に、ぺこりと三十度のお辞儀をしてくる。

「お礼を言われるようなことはしてないよ」

「ううん、各務くんがあそこで〝信じる〟って言ってくれたから、私も言いたいことを言おうって思えたんだ。鞍馬くんもきっと嬉しかったと思う。だから、ありがとう」

「そうか。それなら良かった」

 若干の後ろめたさを感じる。信じる、と言ったのは偽らざる本音だったけど、僕には最初から上井出に外を見て来てほしいという下心があったのも事実だ。

「それから、さっきの鞍馬くんのことなんだけど……」

 説明する義務があると思ったのだろう、彼女の方から切り出してきた。

「ああ、ちょうど僕も聞こうと思ってたんだ」

 あの悪夢のような豹変について。

 彼女からその話題に触れてくれてよかった。もしかすると、上井出鞍馬のかなり踏み込んだ部分にまで触れる可能性があるからだ。

「今までにもああいうことが?」

「うん。実は一回だけ……」

「あったのか。その時はどういう状況だったんだ?」

「私と鞍馬くん、プログラムも一緒のことが多いんだけど。私がうまくできなくて、けっこうひどい怒られ方して泣いちゃったことがあったのね。そしたら急に、さっきみたいに」

「職員相手に暴れたのか?」

「うん……幸い誰にも怪我はなかったんだけど、そのせいで鞍馬くん三日くらい戻ってこれなくて。かなり大変な目にあったみたい。私のせいで」

「君のせいってことはないだろ。上井出が勝手に怒って暴れただけだし、君にだって迷惑かけてる」

「それは、でも……」

 そこで玖恩さんは言い淀む。

 玖恩千里は本質的に優しい人間だ。いざという時は他人のために身を投げうつ強さもある。しかしその優しさは自信のなさの裏返しで、簡単に自分を差し出してしまうのは自分を軽く見ているからとも言える。僕も人のことは言えないが、だからこそよくわかる。

「とにかく、上井出が怒った理由は君ってことか。君が目の前で誰かに傷つけられることが上井出には許せない」

「う、うん。多分……そうなんだと思う」

「けどそれにしたって、あの怒り方は普通じゃなかった。なんかこう、悪霊にでも取り憑かれたような……」

 実を言うとまだ膝が笑っている。死を身近に感じたことは過去に何度もあるが、あれほどリアルに予感したのは初めてだった。

 上井出のことは信じている。だが――あの上井出を信じる気には到底なれない。

「鞍馬くんも暴れてる時のことは全然覚えてないらしいんだ。どうやってあんなにメチャクチャにできたかもわからないし、誰も教えてくれなかったって」

「メチャクチャって、何をやったんだ?」

「施設の設備とか機械をね、かなり派手に壊しちゃったんだって」

「うわ……」

 そりゃあ怒られても仕方ない。中央棟のプログラムルームには高価な最新鋭の機器がたくさんあるのだ。僕たちには弁償する術もない。

「机とかも壊しちゃったんだって」

「それはまた……え?」

 机を〝壊した〟? 引っくり返したとか傷をつけたではなく〝破壊した〟と、そう言ったのか?

 先ほどの攻防が頭をよぎる。

 客観的に見れば、ただキレた男ががむしゃらに腕を振り回して暴れていただけなのに、どうして僕はあんなに恐怖を感じたのか。とっさに伴動さんを突き飛ばしたり、カズを止めたりしたのか。その答えが朧気ながらも見えてきたような気がした。

 ふいに意見を聞きたくなって夜夢さんの姿を探す――と、扉の前に立って何やら考え事をしているようだった。

「どうした夜夢さん?」

「うん? ああ、ちょっとね。妄想をしていたのさ」

 妄想という単語に僕が警戒心を滲ませたのを感じ取ったらしく、彼女はハンズアップの姿勢を取った。

「嫌だな、いやらしいやつじゃないよ。君は私を重度の変態か何かと勘違いしているようだけど、そういう類の妄想は日に三度までと決めている」

「突っ込まないぞ」

「あははっ、朝の発言を気にしているのなら、あれはさすがに冗談だよ。まあ実際私は快楽主義者ではあるけれど。人生楽しんだ者勝ちだからね。カガミンももう少し肩の力を抜いて生きることを私はお薦めするよ」

「さっき玖恩さんに必要以上に突っかかったのも〝楽しむ〟ためか?」

 僕の皮肉に、彼女は「おやおや」と肩をすくめた。

「それは誤解だよ。私にか弱い女の子を苛める加虐趣味はない。あれは一種のブラフ、反応を窺っていただけさ。どうやら彼女はシロのようだけどね」

「まあ、それについては同意だけど」

 どこまで本当なのか、この人の心理だけはいまいち読み切れない。

「そうそう、私が考えていたのはね」と、夜夢さんはおもむろに扉の取っ手を握った。

「もしこの扉が開いていたりしたら、面白いと思わないかい?」

「……そんなことを考えていたのか」

 いかにも天邪鬼な彼女らしい発想だけど、上井出の決死行を見届けた後でそれは、さすがに悪趣味ではないか?

 僕の懐疑的な視線に気付いてか、「思わないだろうね」と先回りする。

「だからこそだよ。誰もそんなことは考えない。朝に確認した時は施錠されていたのだし、それから状況は変わらぬまま、今も当然閉まっていると思い込んでいる。もしいつの間にか開いていたとしても、誰もそのことに気付かない。現に誰も、あれからもう一度確かめたりはしていないのだろう?」

 僕が返事に困っていると、「馬鹿な真似はすんなよ」とカズが割って入ってきた。

「本当なら近づくことすら禁じられてるんだぜ。俺まで共犯にされかねない、今すぐその手を離せ、夜夢」

 ガチャ、と。扉が音を立てた。

 カズの制止をまるで無視して、取っ手を握った手に力をこめたのだ。

「おい!」

 その状態のまま、夜夢さんの動きが停止する。変わらず微笑を浮かべたままで。

「夜夢さん? まさか本当に――」

「うん、ダメだね。全然開かない」

 と、取っ手から手を離したので、僕はずっこけそうになる。

「今の意味深な間はなんだったんだよ!」

「あはは、引っ掛かったね。少しでも期待したかい?」

 ……この人は本当、一緒にいると疲れるな。

「それで、私に何か用だったかい?」

「いや、なんでもない」

 彼女に意見を求めようなんて考えた僕が馬鹿だった。まともな意見が返ってくるとも思えないし、これ以上惑わされるのはごめんだ。

 と、その時。

 何気なく視線を落とした僕は、ふと視界に違和感を覚え、その正体に気付いた。目がその一点に釘付けになる。

 ――なんだ、これは?

 しゃがんで観察するが、見間違いではない。

 床がえぐれていた。

 注視しないと気付かないレベルではあるが、確かに円形にえぐれている。機械で掘削されたかのような、人工的な真円の形に。

 前からあっただろうか? 目立たないから気付かなかっただけかもしれない。しかしそれよりも、コンクリートの床がどうやってこのような形にえぐれたのかが引っ掛かる。

 周囲の床や壁を見回してみるが、同様の異常は見当たらなかった。

「何キョロキョロしてんだ、想介?」

「ん、いや。ちょっとね」

 とっさに誤魔化そうとカズの顔を見た僕は、さらなる異変に気付いた。

「カズ……お前、髪」

「髪? 髪がどうしたって?」

 僕の視線を追ってカズが自分の前髪を触った――いや、正確には触れなかった。

 眉毛のあたりまでかかっていた前髪が、ごっそりとなくなっていたのだ。

「おおおおおーっ!!??」

 絶叫が廊下に響き渡る。

「何だこりゃあ!!」

「大変だ、カズがハゲた!」

「なに? 吾棟くんがハゲた?」

「きゃああーっ!」

 阿鼻叫喚。

「ちょっと皆、一回落ち着こう! カズの歳でいきなり禿げたりするわけがないし……よくよく見るとこれ、途中からばっさり切られてるみたいだ」

 まるでハサミをいれたように切り揃えられていた。食堂で話した時には前髪はあったはずだからこの場所に来てからということになるが、辺りに髪の毛は落ちていない。

 カズの前髪と、えぐられたコンクリの床。

 似ているとも言えるこの二つの現象には何か関係があるのか?

 攻撃を受けているわけではない。しかし偶然というには説明がつかない。

 共通点は……ある。

 無茶苦茶に振り回していた、上井出の腕。

 やはりそうだ。僕があの時、どうしてあそこまで上井出に恐怖を感じたのか。どうしてカズが殺されると確信したのか。

 情報の断片が合わさり、頭の中でひとつのイメージが形成されていく。

「誰がハゲたってー?」

 語尾を伸ばす独特の喋り方。声が飛んできた方向、廊下の右奥を見ると、ちょうど曲がり角のところに車椅子のシルエットが見えた。

 天照彩子が、一人でそこにいた。

「なんだ、でけー声がしたから来てみたら皆一緒かよ。あたしらだけ除け者なんてはくじょーじゃねーか」

 そんな呑気なことを言いながらゆっくりと車椅子を転がしてくる。

「天照さん。華雅は?」

 後ろからついてくる気配はない。ということは、彼女は単独でここに来たということであり、すなわち華雅もまた一人でいるということだ。

「リオンなら例の空き部屋にいるぜ。あたしは嫌だっつーのにどうしてもって聞かなくてよ、しょーがなく部屋の前で待ってたんだけど、お前らの声が聞こえたから――」

「カズ、夜夢さん! 玖恩さんを頼んだ!」

 返事を待つ余裕もなく、僕は駆けだした。


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