002 星に願いを
「そこ、誰かいるのか!?」
木花の甲高い声は二人の守衛にしっかり届いていたようで、背中を見せて遠ざかっていた二人が振り返り、気色ばんだ声を出した。
懐中電灯であちこちを照らしながら、じりじりと近づいてくる。
くそ、せっかくここまで順調に来たのに。これほど条件の揃う日がまた来るかどうか。それに今日のことで警備が強化されてしまったらもう中庭にも出られなくなる可能性もある。
だが、捕まってしまっては元も子もない。今日は退散して次の機会を待つしかないか……。
「木花、僕が飛び出して引き付けるから、その隙に走って宿舎に戻れ」
「えっ! 想介はどうするの?」
「適当に撒いてから戻るさ。行くぞ」
と、僕が飛び出そうとしたその時だった。
異変に気付く。
少し目を離した隙に、二人の守衛が倒れていた。恐る恐る近寄って確かめると、どちらも白目を剥いて気を失っていた。
「ったく、怠慢だぜ」と、二人の守衛を気絶させた犯人が姿を現した。
「人が必死こいて時間稼いでやったってのに、何をタラタラしてやがる」
「カズ。助かったよ」
追ってこない守衛を不審に思い、逆に追跡してきたらしい。しかしどうやって物音も立てずに二人を倒したのだろう。まさに電光石火の早業だった。
ともあれ、無事に三人が揃った。守衛二人の会話からするとまだ騒ぎにはなっていないようなので、しばらくは安心して行動できるというわけだ。
落ちたら危ないからと木花を先に登らせようとしたが、スカートだから気になると言うので、仕方なくカズ、僕、木花という順番で登ることにした。
壁の高さは五メートルはある。たいした高さではないが、落ちてタダで済む高さでもない。
カズは猿のような身軽さであっという間に登り切り、僕は少し苦心しながらなんとか辿り着き、しゃくとり虫のような遅さで登ってきた木花を僕とカズが引っ張り上げ、三人が壁の上に揃った頃には全員が疲れ果てていた。
「ああ疲れた。マジでもう勘弁だぜ」
「まったくね。それにしても、どうやって二人を気絶させたんだ?」
「適当にぶん殴っただけだ」
「うわあああー! すごい!」
木花があげた声に、その視線を追った僕は、眼前の光景に目を見張った。
圧巻の光景だった。
連なる山々は闇と静寂に満たされていたが、それでも僕たちがいかにちっぽけな存在であるかを雄弁に物語っていた。山嶺から続く尾根の流麗なシルエット。満天の星と月光に照らされた山肌が静かに息づいている。日中であれば紅葉がさぞ美しいことだろう。
遥か遠くには町の灯りが見えた。もう何年も離れている人々の営みの光は、懐かしいような、胸がぎゅっとするような、不思議な感動を僕の心にもたらした。
初めて見るに等しい、広大な世界そのものだった。
「……すげえな」
「……ああ」
僕もカズも、それ以上の言葉が出なかった。
木花は涙を流していた。何も言わず、ただ眼前の光景を見つめていた。
この時僕らを包んでいた感情の名前を僕は知らない。
時間にしてほんの数分だったけど、それは確かに永遠に感じられた。
***
「秋の四辺形って知ってるか?」
ようやく泣き止んだ木花に僕は切り出した。
「ううん、知らない。夏の大三角みたいなやつ?」
「そう。ベガとアルタイル、デネブを繋げた夏の大三角みたいに、秋の夜空でひときわ輝く四つの星を指してそう呼ぶんだ。春も夏も冬も三角だけど、秋だけは四角なんだよ」
「へえー。どれどれ?」
「ほら、あそこ」
身を乗り出してくる木花に、指を空にかざして場所を伝える。
「本当だ! 明るいのが四つ並んでる!」
楽しそうにはしゃぐので、僕も嬉しくなる。
「四つともペガスス座の星だから、ペガスス四辺形なんて風にも呼ばれてる。あの四角は天界に続く入り口だとか、あそこから神様が地上を覗いてるなんて逸話もあるらしい」
「ペガサスって、角が生えてる馬だっけ?」
「それはユニコーン。ペガススはギリシア神話に出てくる翼の生えた馬だよ。ほら、その四角形が胴体で、右下に首が伸びてて、馬が逆さまになってるように見えないか?」
「ううん……ちょっとわからないかも。でも、そっか。四つの星かあ」
「くはは。まるで俺たちみたいだな」
木花は驚いたようにカズを見た。きっと同じことを考えていたのだろう。そして寂しそうに、「一緒に見られたらよかったなぁ」と呟く。
「見れるよ。次は冬に皆で一緒に見よう」
「冬? でも冬は三角形でしょ?」
僕が〝その話〟をすると、不安そうだった顔が一等星のように輝いた。
「そっかあ! じゃあ絶対にまた来ないとだね!」
と、左手を天にかざす。
「私、決めたよ」
「決めたって、何を?」
「二つの夢! この施設を出たら私、この力を使って世界を救うんだ。世界中から争いをなくして、私たちみたいな子供が平和に暮らしていけるように!」
「また大きく出やがったな」
「ボーイズ・ビー・シドヴィシャス!」
「パンクロックと平和って相性悪そうだけど」
三人で笑う。
「その時は二人とも、協力してよね」
それはたぶん、木花の二つ目の願い――願掛けに託した願い。
それから僕たちは急いで壁から降り、寄宿舎へと戻った。
例の守衛二人は結局報告をしなかったらしく、誰に見つかることも咎められることもなく、僕たちの小さな冒険は、万事快調にとはいかなかったものの、無事に目的を果たすことができた。
***
これはいつかの記憶。
……いつか? いつだろう。これはいつの記憶だったろう。思い出せない。
僕はこれから現実に戻るのだろう。これはただの思い出、ただの夢だから。
目が覚めたら忘れてしまうかもしれない。でも、忘れてはいけない何かがある。
この記憶には――違和感がある。




