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翠雨緑化  作者: roro
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すいうりょっか


 南の町、東の町と順々に旅をし、順調に翆を集めて回った。志乃の忍び服姿も板につき、守護神の使い方も勇ましいものとなったいた。時には弓を引かれた際、全てを叩き落した程だ。灑羅の巾着袋半分が目標である翆を、半分以上集め、俺たちはさらに旅を続ける。


 都を通り、西へと向かうことになった俺たちは、都で一時留まることになった。志乃と出会って約半年。長いようで短かった気がする。


「本当に買い物が好きだよな……」


 俺を茶屋に置き、灑羅と志乃は二人で買い物へと出かけてしまった。志乃は相変わらず、自分を飾ることはあまりしようとしない。だが、贈り物は好きらしく、暇を見つけては買い物で選んできた物を、俺たちに贈ってくれる。そこまでしなくていいとは言うが、何よりも嬉しそうなのが志乃自身なのだから、これ以上は何も言えなくなってしまう。


「志乃も、自分自身を満たす買い物するようになればいいのにな……」


 俺は茶をすすりながら、ぼうっと空を眺めていた。あれ程息苦しかった都の空が、今では他の町と、なんら変わらずに見える。この半年、息苦しさを感じる事なんか無かった。不安でさえ、消し去るほどの幸福感。楽しい、嬉しい。そんな毎日が、続いているせいか、一抹の不安がよぎる。なにか、出来過ぎてる。これから大きな何かが起きるのではないか。


「そんなこと、ねぇか……俺の考えすぎだよな」


 ただ、最近の灑羅に、一瞬違和感を感じた。なんだろう、何がだっけ? 思い出すが嫌なような……。


「あの[[rb:白君 > しらきみ]]がか?」

「ああ、噂だけどな」


 そんなことを考えていると、ふと隣の腰掛けの男二人の会話が耳に入ってくる。俺は聞き耳を立てる。白君が、なんだって……?


「妾って……。金持ちもいたもんだよなぁ。……俺なんて見たこともねぇよ」

「俺もだって。本当にいたんだなぁ……白君……」


 白君が? 妾? なんだよ、それ……!


「おい! その話、詳しく聞かせてくれ! 白君がどうしたんだよ!?」

「え!? ……いやぁ、噂だけどよ、白君が大名の妾になるらしいんだよ。あんた、白君の松かい?」


 ここでは、白君の虜となった男のことを、「白君の松」と呼ぶ。「松」と「待つ」を掛けたもので、だいたいは皮肉に使われる言葉だ。「松」は旦那を意味し、一生で会えるかも分からない白君を待つ、馬鹿な男。そして、旦那になることを夢見る、救えない男だと。


「妾って……! どこの大名だよ!?」


 笑っていた男も、俺の気迫に押され、たじろぎながら答える。


「な、なんでも、[[rb:藤長 > ふじなが]]って大名らしい」

「藤長……」

「どうしたんじゃ? 狩之」

「狩之助さん?」


 藤長って、藤長って何だよ! 俺は、買い物から戻った灑羅たちを置いて、走り出していた。白君に会わなきゃいけねぇ……!


 ひたすら夜を待ち、花街が開くと同時に白君を呼ぶ。部屋で待つ時間が、苛つくほど長く感じた。俺は酒も飲まず、ただひたすら、待ち続けた。


「白君様がお入りです」


 どれだけ時間が経っただろうか。この声で、ふすまが開く。


「白君どす。お頼もうします」

「白君……!」


 ふすまが閉まる、と同時に、俺は白君に詰め寄っていた。


「どうかしたの? あなたが呼ぶなんて珍しくて、胸が躍っていたのに」

「お前、噂は本当かよ!?」


 白君は、和やかに笑うだけで、表情を変えない。


「噂? 何のことかしら?」

「だから、藤長の……」

「それより、私も座席についていいかしら? ここでの話しも何でしょう?」


 白君がふすまに寄り掛かるくらい、俺は詰め寄っていた事に気づく。


「あ、ああ……悪い」


 改めて座席に戻り、酌を受ける。


「はぁ……もう、噂が立ってるか。……私なんて、幻の様なものなのに」

その言葉に、手がピクリと反応した。杯の酒が、波打つ。

「本当、なんだな」

「ええ。本当よ。私、買われちゃったの」


 少しも悲しさを見せず、白君はさらっと言った。


「…………」

「いつの間にか、汚れてしまった」


 沈黙の後、さっきまでの白君とは打って変わって、自傷気味に笑った。


「ここの女たちが、汚れてるなんて思わない。彼女たちは、汚れた世界で懸命に生きる、光よ。でも、私は、光になれなかった。彼女たちを守れもしなかった。……権力なんて、何の役にも立たないのね」

「お前は汚れてなんかいない。汚れてるのは、藤長の血を引く俺だ」


 また、和やかに微笑む。


「権力よりも、金を選んでしまった。もう、あなたの知ってる雪耶じゃないわ。雪は、溶けてしまったの。……もう、戻れない選択をした」


 俺に酌をしながら、言葉を続ける。飲んでもいない杯に、酒がたまっていく。


「あなたには、感謝してる。そう言ったでしょう? だから、あなたは気にしないで。大丈夫よ……大丈夫」

「俺は……!」


 俺が汚した。真っ白な雪。それを、踏みつけて、泥まみれにした。


「あなたは汚れてなんていない。だから、ここに居るんでしょう?」


 ガチャンと音を立てて、杯が落ちる。酒が、畳に染み込んでいく。


「ごめん。ごめん……」


 俺は、泣きながら、白君を抱き寄せていた。白君は驚きつつも、俺の身体に寄り添う。


「あなたが好きよ。……でも、あなたには決まった人がいるものね」

「ごめん……」


 俺は白君を愛せない。愛す資格なんて無いから。そして、白君を助けることも出来ない。親父には、敵わないから。俺はあいつから逃げたから。白君の為に、親父の所に戻ることも出来ない。


「藤長の一族に入れるんだもの。あなたと同じ姓を持つことができる。私たちは、親族になれるのよ? ……[[rb:藤長虎之助 > ふじながとらのすけ]]さん」


 白君にはもっと、幸せにしてくれる奴がいる。この世のどこかで、そいつが待ってるだろ……? 親父の妾なんて、そんなの……。


「いつ、なんだよ……」

「ふふ、実は明日なの」

「明日!?」


 噂が立って間もないのに、早すぎる。


「だから、今日はもう帰って? 最後に、あなたに会えてよかったわ」


 そう言って俺をふすまへと促すと、笑う。


「それから、これは私の問題。いくらあなたであろうと、邪魔するのは許さないから」

「白君……」

「さよなら。狩之助さん」


 そうして俺は、部屋から出される。仕方なく、俺も帰ることにした。


「…………」


 結局、俺は何も出来ない。自分の幸せを優先して、あいつを、[[rb:雪耶 > ゆきや]]を犠牲にした。


(いつの間にか、汚れてしまった)


「お前は、汚れてないだろ?」


 真っ白な雪が、泥にまみれてく。そして溶けて、最後は跡形も無く消えていく。そんな想像に、ぞくっとした。


「駄目だ」


 お前の幸せは、俺が守らなきゃいけない。


「そうじゃないだろ……!」


 同じ姓を持つことができる? 馬鹿言うな。


「お前には、もっと……!」


 幸せは、幸福は。悩んで、頑張って、努力して、人の痛みが分かるような、そんな奴が掴まないで、誰が掴む。


「……行こう」


 殺せなくて、逃がしたままだった虎を、狩りに行こうか。……己の生きる、全てで。



「お帰りなさい……」

「狩之?」


 一時的な滞在だからと泊まっている宿に、俺は帰ってくる。部屋に戻ると、灑羅と志乃が迎えてくれる。だが、今日の俺の行動に、戸惑っているらしい。


「…………」

「あの、今日はごめんなさい。……買い物に時間がかかってしまって……」


 志乃が謝る。……違うそうじゃない。


「具合でも悪いのか? 顔色が悪いぜよ」

「…………」


 これは俺の問題だ。二人を巻き込むわけにはいかない。だが、どうしても、明るく振舞える気分じゃない。帰って来たのは、間違いだったか……。


「狩之」


 灑羅が、すっと俺の手を取った。


「わしらは、家族であろう? なにを悩んでおるかは分からんが、一人で抱え込むでない」

「家族……?」


 家族。俺の知ってる家族とは、一族繁栄の為、互いが利用するというもの。それが、いかに血の繋がった者でも。でも違う。灑羅の言ってる家族は、血は繋がって無くても、一緒にいる期間が短くても。笑い合えて、分かち合える俺たちは、家族なんだろう。


「狩之。わしらを頼れ。一人で苦しむ姿など、わしらは見たくなどない」

「狩之助さん……私もそう思います」


 ああ、俺たちは、こんなにも繋がってたんだ。金よりも、大事なものを。俺はもう、手に入れてた。


「……悪い。心配かけて」


 志乃に、灑羅に。こんな顔させてしまうなんて。俺は、何やってんだか。


「話したいことがある。長くなるが、聞いてくれ」


 そうして俺は、これまでの人生を語る。大名の生まれであること、世の中が金で回ってると思ってた、馬鹿な奴であったこと。白君のこと、おじさんのこと。全部話した。


「驚きました。狩之助さんは大名の生まれだったんですね」

「まあ、そんな感じではあったがの。初めて会った時、そう感じていた」

「灑羅には見抜かれてはいたと思ってたがな。……最悪な奴だろ、俺」


 志乃は、俺の問いに笑った。


「だから、狩之助さんは優しいんですね。それが分かった気がします」

「この話でか? どういうことだ?」


 志乃は、いつもの優しい目で、俺を見てくれる。


「だって、人の痛みが分かったから、名を捨ててまで、お金を捨ててまで、自分を見つめ直したのでしょう? 自分が汚れてると思い詰めるまで、悩みぬいた……。だから狩之助さんは優しいんだなって思ったんです」

「幻滅しないのか?」

「幻滅なんてしません。むしろ、狩之助さんの優しさが、もっと感じられます」


 ……こんな俺を、幻滅しないでくれてる。俺の胸の塊りが、少しづつ溶けるような、そんな感覚が、俺の心を占める。


「そうじゃの。狩之は、会った時から悩んでおったからの。……もう自分を責めるのは止めることじゃき」

「灑羅……」

「それよりも、明日がその、白君の嫁ぐ日なのじゃろう? それを止める算段はあるのかの?」

「嫁ぐっていうか……妾になる日な。正直、算段は無い。妾だろうから別段なにかしらの式などはしないだろうが、自分の屋敷で祝いでもする可能性はある」


 その言葉に、志乃は首をかしげた。


「あの、お妾さん……なんですよね? 狩之助さんのお母様は、お怒りになったりはしないのでしょうか……」

「大名の家柄は、一族繁栄が最大の目的だ。……父親に、自分の旦那に妾が付くなんて、珍しいことじゃない」

「そうなんですか……」


 志乃は、少ししゅんと沈む。


「お前が沈むことじゃないだろう。気にするな」

「で、明日はどうするつもりじゃ?」


 俺は、少し息を吸うと、静かに吐き出し、言う。


「自分のことに、巻き込んでるのは分かってる。……それが危険な事で、もしかしたら二人の人生を変えてしまうことかもしれないってことも、分かってる。でも……」


 俺は、二人を見た。


「力を貸してほしい。白君を助けたいんだ……」


 二人は顔を見合わせ、笑う。


「当たり前じゃろう。なぜ我々が今まで話しを聞いておったと思うのじゃ?」

「私たちは、巻き込まれるのではありませんよ。自分から巻き込まれたんです。狩之助さんの問題は、私たちの問題ですから」

「……ありがとう。灑羅、志乃」


 独りきりで歩いていた道に、灑羅が、志乃が。歩いて付いて来る。いつの間にか、夜道が明るくなったような。そんな安心感を、俺は感じた。


「出来るだけ、情報は集める。責任も俺が持つ。だから、よろしく頼む」

「責任なんて……みんな一緒ですよ? 狩之助さん」

「わしらは、家族じゃからの」


 そして俺たちは、白君救出の作戦を練った。そして、その日を迎える。



 次の日の夜。俺は上手く潜り込み、家長の城にいた。昼間、情報を収集していると、続々と大名や高官が集まるのを見て、その大勢に紛れてのことだった。服やら何やらは、自分の部屋から調達させてもらった。てっきりもう無くなっていたかと思えば、俺の部屋は、あの日と変わらずにあった。志乃も、灑羅も。侍女などに紛れているだろう。


「さてさて、潜り込んだはいいが、まさか宴なんぞ開くとはな。てっきり、妾なんて知られたくないだろうから、ひっそりと行うもんだとばかり思っていたが……。白君を手に入れた自慢って奴か? やっかいな……」


 その時、廊下で何やら話している高官たちが通り過ぎる。


「ん?」


 俺は自然と聞き耳を立てる。


「まさか、病気で伏せられておる虎之助殿が祝言を挙げるとは……」

「ええ、本当に。もう伏せられてから二年は経ちましょうか。その間に、何があったのでしょう……」


 なるほどな。俺は病気で伏せってて、まだ藤長に居るってことになってんのか。それで、今日は俺の祝言ね……。病気にかこつければ、俺がいなくても、祝言事態は成り立つってか。あの、くそ親父が。


「狩之助さん」

「おお、志乃か」


 上手く紛れながら、そっと怪しまれないように俺に話しかける。


「……一応、お城の構図は把握しましたが……逃げるのは困難かと……」

「だよな。俺も最上階でやるとは思ってなかったからな……」


 白君を抱えて逃げるにしても、白無垢姿じゃ、着物が重すぎる。脱がせてる時間も無いし、なにより、出口まで距離がありすぎる。どうする……?


「最上階……?」


 ここは最上階。白君は白無垢姿。病気で伏せてた俺の祝言……。使えるな。


「志乃、頼みがある」

「え?」


 俺は、志乃に耳打ちをする。それを聞いた志乃は、驚きのあまり声が出そうになったものの、こらえてくれる。


「…………本気ですか?」

「ああ、頼む」


 志乃は悩む。


「危険です。本当に成功するか分かりませんよ?」

「大丈夫だ。それでもいい」


 志乃は少し迷ったようだが、渋々同意してくれる。


「……分かりました。全力でお助けしますが……無理はしないでくださいね」

「ありがとう。灑羅には俺が伝えとく。志乃は準備しててくれ。合図は出す」

「はい。くれぐれも、気をつけて下さい」


 そう言って、志乃は去っていく。俺は、寄り掛かっていた障子に声をかける。


「ってことで頼む。灑羅」

「……力仕事とは……後で覚えておれ」


 後ろに灑羅がいることは、分かっていた。背中が温かかったから。志乃との話しを、聞いてたことも。


「仕方ないの……じゃが」


 灑羅が離れていく。背中の温かみが消える。そして、声がした。


「かっこつけすぎるでないぞ」

「ああ……。さあて、俺はあいさつにでも行くかなぁ」


 どんなに足掻いても、成功させる。俺は静かに、その場を離れた。


「失礼致します」

「誰だ」


 威厳のある声が、部屋に響く。白君を妾に出来るとあってか、機嫌がいいようだ。


「お久しぶりですね。父上」

「お、お前は……虎之助!?」


 ふすまを開け、入ってきた俺に、親父は驚いてる。まぁ、黙って二年間、姿をくらましたからな。


「俺がここから旅立ってから、二年も経ちますか。お元気そうでなによりです」

「な、なぜここに!?」

「勝手に旅立ったこと、誠に申し訳ありません」

「そ、そんなことは良い! ここに来た理由を言わんか!」


 苛立ってしょうがない、とでも言わんばかりに、ひじ掛けを俺に投げてよこす。


「お前のせいで、藤長は評判を落とす所だったというのに……!」

「……聞けば、今日は俺の祝言だとか」

「ふん! そんなもの形でしかない。これはわしの妾を披露する場なのだ。お前には関係ない!」


 俺は、安堵したように言う。


「そうでしたか……! どうやら俺の勘違いだったようですね。俺には恋人がいるので、父上を説得にと参ったのですが……」

「恋人だと? どこのどいつだ、言ってみろ」


 俺は、少し微笑む。


「白君、という名の花街の女性です。実は、もう半年以上の付き合いで、相思相愛なのです」

「白君だと? わはははは! 残念だったな、虎之助よ。それは、今からわしの妾となる女だ」


 俺は驚く振りをする。……少しわざとらしかったか?


「そんな……!? 白君が父上の妾に……!?」

「恋人だろうが、相思相愛だろうが。お前に渡す訳がなかろう」


 俺は悲しくて仕方がない、でも、父上には逆らえない……。そんな葛藤を表現する。……くそ、難しいな……。


「そうでしたか……。父上の欲しいものを、奪うような俺ではありません。それに、父上のそばに居るならば、白君も、幸せでしょうから……」


 俺の悲しみの表情に、少しはたじろいだものの、すぐに気を良くする。俺の大切なものを、奪えたのが嬉しいらしい。


「当たり前だ。そうと分かったら、さっさと消えてしまえ」

「そんな……お願いです! 父上! お邪魔はけしてしません! 白君のことも諦めます! だから、せめて……俺に形だけでも祝言を上げさせて下さい! 今日は、俺の祝言だと言ってあるのでしょう!?」

「ぐ……それは……」


 もう少しだ。このまま押し切る。


「祝言が終われば、俺は出ていきます。藤長の名を捨て、父上の言うとおりにしますから……」

「ふむ……それでは、の前で宣言するのだ。『自分は、藤長の後継者から降りる』と……。病気の為、継ぐことは出来ない。そうちゃんと、皆の前で宣言するのだ。……もし、わしと白君の間に子ができれば、お前が居なくとも跡を継がせることができるからな」


 いやらしい笑みだ。お前に白君を渡すわけないだろ。


「……分かりました。それでは、俺は準備してまいります」

「ああ、下がれ」


 そう言って俺はふすまを閉める。……さあ、色々と準備しなくちゃな。俺は、自分の部屋に戻り、着替え、城を漁り、最後に白君の元へと向かった。


「失礼」

「誰ですか?」


 甘いような声が、響く。俺はふすまを開けた。俺の顔を見て、白君は驚愕する。


「虎之助さん!?」

「よっ。……ほう、白無垢姿は、一段ときれいだな」

「なぜあなたがここへ? 私には、関わらなくていいと言ったのに……」


 そう言いつつも、不安だったんだろう。俺を見て、安堵の表情を見せる。


「今日は俺の祝言ってことになっててな。参加させてもらった」

「……そう」


 諦めたような顔で、白君はうつむく。


「白君。悪いが、ここに血判を押してくれないか?」

「血判?」


 俺は、紙の最後の部分。俺と白君の名前が書いてある所を見せた。すでに俺は血判を押している。


「なに? これは……」

「いいから」


 白君は怪訝な顔をしていたが、血判を押してくれる。


「よし。それでな。祝言の最中は、何も喋らず、俺の言うとおりにしてほしい」

「なにか分からないけど、従うしかないのかしら?」


 白君は笑う。諦め半分の顔は崩さない。


「ああ、お前は何もしなくていい。俺に身を任せてくれ」

「分かったわ……」

「失礼します。もうすぐ式が始まりますので、ご準備を」

「ああ、悪い。今行く」


 俺は、白君の部屋を出て、自分の部屋に戻った。さあ、作戦の始まりだ。



 俺たちは、太鼓の音と共に、高官や大名の集いし大部屋へと踏み入れた。まさかこれが妾を披露する場だとは、思ってもいないだろう。白君を見て、騒ぐ奴らもいたが、親父の咳払い一つで静まった。そして、盃を前に、親父は俺に話しをするよう促す。俺は、話し始める。


「今日は、お集まり頂き、誠にありがとうございます。この二年、病気で伏せてはいましたが、こうして今日を迎えられたこと、嬉しく思います」


 高官や大名の反応はそれぞれ。つまらないとばかりに顔をそむける者もいれば、この場で家長に取り入りたいという魂胆からか、熱心に聞き入る者もいる。


「私たちは、恥ずかしながら、相思相愛で祝言に至りました。看病に来てくれる白君に、その、私が惚れたと申しますか……」


 俺の言葉に、笑いが起こる。


「実を申しますと、私の命は、あとわずかなのです。これ以上手を尽くしても、医者の見立てでは治らないそうなのです。ですので、皆さまにお話ししたいことがあります」


 起こるざわめきを一蹴するように、俺は言う。


「わたくし、家長虎之助は、家長の後継者から辞退いたします」


 その言葉に、ざわめきがさらに大きくなる。


「私も虎之助から聞かされた時、驚きましたが、余命わずかの虎之助の決意に、同意せざる負えませんでした。せめて、この祝言だけでも、叶えさせてやりたいと、そう思った所存です」


 親父がわざとらしく言う。……心にもないことを言うのには慣れているだろうが。もっと悲しそうにしろよ。ったく……。


「私の余命はあとわずか。それでも、この私に白君は付いてきてくれるという。……そこで、私と白君は、ある決断をしました」


 親父が、話しが違うと言いたげにこっちを見るが、そんなの関係あるか。


「さあ、白君」

「え、ええ……」


 立ち上がった俺の手を、戸惑いながら取り、俺たちは窓辺へと向かう。


「な、何を……!」

「私たちは、先に参ります。祝言を挙げられたことで、もう、充分です」


 もちろん祝言自体は正式に終わってはいないが、ざわめいている人間にとってはどうでもいいことだろう。俺は、遺書を置き、持っていた石を隠れて外に投げ捨てる。志乃、頼むぞ。


「何をしてる!」

「虎之助さん……?」

「俺を信じて、流れに合わせてくれ」


 小さく言うと、白君は少し笑った。俺たちは、抱き合うようにして、後ろへと倒れ込む。……そう、深い堀のある下まで、落ちるように。


「くっ……! 取り押さえろ!」

「摑まってろよ!」


 外へと倒れ込んだ俺たちを、誰も捕まえられなかった。落下していく中、下で声が聞こえる。


「[[rb:深陽 > しんよう]]!」


 その言葉で、起こった風が、俺たちを受け止める。と同時に、大きな石と、白い着物が堀へと投げ捨てられる。俺たちは風に運ばれ、志乃と灑羅の元へと着いた。


「なにゆえわしが、石と着物を投げる役なのじゃ!」


「はぁ……心臓に悪いですよ! 深陽で受け止められなかったら、どうするつもりですか!」


 下で準備していた二人が、俺に責め寄る。


「まぁまぁ。成功したんだし、そう言うなよ」


 そう言って、俺は懐に隠していた紙をばら撒き、二人に告げる。


「文句はあとで聞く! 今は走るぞ! 撤収だ!」


 こうして、白君の救出作戦は、終わりを告げたのだった。



「で、結局どうなったのじゃ? 成功したということで良いんじゃろうな?」


 あのまま白君を抱えて宿へと戻り、白君の服装を変えて俺たちは都を出た。今は灑羅が用意してくれた荷車に白君を乗せ、都から離れながらの話しだ。


「ああ。俺たちは、相思相愛で祝言に至ったが、俺の病気が治らないことで、心中を決意。祝言の最中に自害した……そう思わせた」

「上手く、そう思ってくれたのでしょうか……?」


 志乃は、心配そうに、何度も都を振り返る。


「俺と白君の血判付きの遺書も置いてきたし、灑羅が投げてくれた石と着物が、堀に落ちたと思わせただろう。あの高さに、夜の暗がりだ。見降ろしても見えやしない。それに、こんなに着物を着て堀に落ちれば、助かることは不可能だからな」

「では、最後に置いてきた紙はなんなのじゃ?」

「あれは、ただの嫌がらせだ。家長の不正を書いた書状を置いてきた。まぁ、あれが他の高官やら大名に見つかれば、藤長もおしまいかもな」


 笑って言った俺に、白君はうつむきながら言う。


「そこまでしていいの? ……私を助けるために、こんな……」

「いいんだよ。藤長に未練はないし、元々不正で私腹を肥やしてたんだ。露呈するのも時間の問題だったんだし、雪耶が気にすることじゃない」

「でも……」


 うつむく白君に、志乃が声をかける。


「本当に美しいですね。白君さん。なんだか、女の私でさえ溜め息が出ちゃいます」

「そんな……! 自己紹介がまだでしたね。太夫の名を白君。芸者の時の名を雪耶といいます。今回は、助けて下さり、ありがとうございました」


 深々と頭を下げる白君に、志乃と灑羅は明るく言った。


「気にすることはないじゃき。わしらは狩之に手を貸しただけじゃ。作戦も何もかも、狩之が考えたしの。ああ、でも、志乃には感謝するがよい。お主らを助けたのは、志乃じゃからの」

「いえいえ! そんな! 助けたのは私ではなく、深陽ですから……」

「深陽……さん?」


 白君は首をかしげる。


「あ、えっと……」


 言っていいものかと俺の顔を見た志乃に変わって、俺は説明する。


「理由は言えんが、俺たちはある目的で旅をしててな。志乃には守り神がついてて、俺たちを助けてくれたのさ」

「あの時、堀に落ちる所を?」

「ああ」


 白君は目を丸くしていたが、事情を知ってか、深くは聞かなかった。


「そう……あなたも本当に無茶をするんだから……。でも、ありがとう」

「これは俺の、藤長との決着でもあった。俺は死んだことになったから、しがらみも無くなった。こっちこそ、感謝してる。それと、志乃、灑羅」


 俺は二人を見渡す。


「本当にありがとう」


 俺は頭を下げる。その頭を、灑羅が叩いた。


「痛って! なんだよ!」

「今回はお前の功績じゃろう? わしらはほんの少し手助けしたに過ぎん」

「そうですよ! まさか、あんな逃げ道を考えるとは思いませんでしたが」

「……ああ、ありがとう」


 心が、温かい。こんなにも、俺は支えられてる。もう虎は狩ったんだ。……居なくなったんだ。


「それで? 白君はこれからどうするつもりなのじゃ? 狩之、考えていなかったわけではあるまい?」

「ああ、白君は、故郷に連れて行こうと考えていたんだが……」


 俺は白君を見る。白君は、突然のことで戸惑ってるようだ。


「故郷……ですか……」

「駄目か? やっぱり、花街を離れなれないとか……?」

「いえ。花街は、任せて来た子がいます。……あの子なら、花街の女たちを、これからも守って行けるでしょう。ですが、私がいきなり故郷に帰るなんて……信じられません。私は、ここに売られてきた身ですから……」


 その言葉に、志乃は言う。


「……白君さんが帰って、迷惑だと思う方はいませんよ。きっと。みなさん、待ってるはずです。……あなたの帰りを」

「志乃さん……?」

「私も、売られてた身です。でも、狩之助さんや、灑羅さんに、助けてもらいました」


 志乃は俺たちと手を繋ぐ。


「私には、帰る場所は無い。でも、居るべき場所がある。そして、白君さんには帰る場所がある。帰らないで、どうするんですか……」


 帰りたくても帰れない。それを知ってるからこそ、帰る場所がある白君には、帰ってほしいのだ。志乃の気持ちが、少しだけ分かる。


「そうだ。帰って、無事だって報告してやれ。……売られたことを、憎んでいなければな」

「私が売られたことは、覚悟の上。家を、村を助けるため、自分から志願しました。恨むなんて……。それよりも、故郷の親や、姉妹が心配。……帰ってもいいなら、帰りたい……」


 そう言って、白君は涙を見せる。


「幸い、白君の顔を見た人物は少ない。普通に生きてれば、誰も都随一の美しさを誇る『幻の花』、あの白君だとは思わんさ」

「帰って、顔を見せてやるがよい……。故郷とは、どこじゃ?」

「私の故郷は、西にあります」


 西と聞き、俺たちは顔を見合わせる。


「西は、わしらが向かう方向じゃったな」

「ああ、ちょうどいい」

「西の、どの辺りですか?」


 志乃は、西に故郷があるからな。もしかして、近かったりして。


「西の深い高地の、小さな集落です」


 その言葉に、志乃は声を上げる。


「え? もしかして、その高地というのは、『[[rb:翁賀州山 > おうがしゅうさん]]』のふもとですか?」

「あら、知ってるの? そうよ、翁賀州山のふもとの村よ」

「私の村に近いです。『[[rb:刻砥 > こくと]]の民』と言えば分かりますでしょうか……」


 白君も驚いたように声を上げた。


「あの神聖な『刻砥の民』ですか!? 志乃さん、あなたがあの……」

「はい、私は刻砥の民です。神聖な、と言われたのは初めてですが……」

「私たちの村では、あなた方刻砥の民を、崇めております。神聖な領域を守り、神々の言葉を受け継ぐ、神聖な民。まさか、こんなところで会えるなんて……」


 お互い、びっくりしたようだ。白君が、志乃の故郷を崇めてる存在だったなんて……。世の中広しといえど、偶然とはあるもんだ。それから、志乃と白君は意気投合したらしく、いつまでも楽しそうに話していた。そんな志乃たちを見ながら、俺と灑羅は顔を見合わせて笑った。



 二週間は歩いただろうか。途中途中で宿に泊まったりと休みながらも、ようやく白君の故郷へと着いたのだった。


「ああ、懐かしい……。全然変わってないわ……」


 白君は、感激した様子で村を眺める。その時、近寄って来る娘がいた。警戒してるようで、棒を手にしている。


「だ、誰だ! お前たち! この村は、お前たちの様なよそ者に……!」

「[[rb:楓 > かえで]]……?」

「な、なぜ私の名を…………菊ねぇ……ちゃん……?」

「楓!」


 白君は、よろつきながらも、娘、楓の元に駆け寄り、抱きしめる。一方の楓は、呆然としながらも、ようやく理解できたようで、信じられないという様子で白君を見た。


「菊ねぇちゃん? 菊ねぇちゃんなの? 本当に……? 本当に……!?」

「ええ! そうよ! みんなは元気?」

「菊ねぇちゃん! また、またこうして会えるなんて……! おとうも、おかあもずっと心配してたんだ! だって、私たちを……助けるために……! う、うわあああん!」


 こうして、村中に白君、いや、菊が帰ってきたことは、瞬く間に広まった。


「お菊!」

「父ちゃん! 母ちゃん!」

「お前、お前、よく帰ってきたなぁ……! ごめん、ごめんな……!」

「ああ、夢じゃないかい!? お菊が、私の目の前に居るよ……!」


 抱きしめ合ったり、喜んだり、泣いたり。村中の反応が、菊の存在がどれだけ大事かを物語る。そして、今までの話しをするために、俺たちは、菊の家へと招かれた。


「本当に感謝しております。……突然のことで、何が何だか……」

「あのね……」


 菊が、これまでのことを話す。その話を聞くたび、菊の母親は涙を流した。


「本当に辛い想いを……許しておくれ……」

「いや、許さなくていい。だが、菊。お前がいいのならば、この村に戻って来てはくれないか。私たちのしたことは、許されないことだろうが……」


 菊は、首を振る。


「そんなことない。みんなを憎んだこともない。だから、許されるなら、私はここに居たい……」

「白君、いや、お菊さんのことについては、俺から話さなければならないことがあります」


 今まで黙っていた俺だが、話さなければならないことがあった。……菊の足のことだ。俺は、自分の家柄、自分の言動、なぜ菊が足を動かせなくなったかを説明した。それを聞いた村人は俺に敵意をむき出しにする。もちろん、菊の両親も例外ではない。


「なんてこと……!」

「では、お前が菊の足を……!」

「違うの! 違うのよ! 狩之助さんは関係ないの! 私が勝手にしたことだから……」


 菊は俺をかばうが、村人の怒りは収まらない。菊の父親は立ち上がると、俺の顔を殴った。


「止めて!」

「いや、もっと殴って下さい。気が済むまで。こんなことで、許されるとは思っていません」


 俺は立ち上がり、菊の父親の前に立つ。拳を握りしめていた菊の父親は、静かに言う。


「……菊を助けてくれたことは、礼を言う。私たちも、菊を犠牲にして村を選んだ人間だ。憎しみだけをあんたに、ぶつけるられるような立場ではない……だが」


 菊の父親は、俺を睨む。


「あんたを許すことは出来ない……! もう二度と、私たちと菊に、顔を見せないでくれ……!」

「父ちゃん!」

「分かりました。すぐに俺は村を発ちます。ただ、そこの二人、志乃と灑羅には、なんの罪もありません。……どうか、俺と同じだと、考えないでください。彼女たちは、俺と同類ではありません」

「ああ、灑羅さんと志乃さんは、私たちが感謝をこめておもてなしします」

「……ありがとうございます」


 最後に深々と頭を下げた後、俺は家を出ていく。


「狩之!」

「狩之助さん!」


 二人の呼び止める声で、歩みを止める。


「俺は、村の外にいる。二人は、もてなしを受けるといい」


 もう一度歩き出そうとした時、お菊に呼び止められる。


「狩之助さん……。あんな事まで、言わなくて良かったのに、なぜ……? あれは私の責任だと言ったはずよ?」

「……お前の責任じゃない。俺の責任だ。……これでよかったんだよ」


 俺は振り返る。


「幸せになれよ。俺が壊した時間は戻らないけど、こんなこと、俺に言う資格なんてないけど。幸せを掴んでほしい」

「狩之助さん……」

「今までごめんな。それと、ありがとう」


 俺はそのまま、村の外へと歩き出した。これで、良かったんだ。


 夜になり、辺りはしんと静まり返る。虫の鳴く声だけが、俺の耳に入る音。


「こうしてると、灑羅と会った日を思い出すな……」


 真っ暗で、月明りだけが照らしてて。あいつの言動には、俺もびびったもんだ。いきなり「盗賊じゃ」なんていうから、俺の身ぐるみでも剥がされるんじゃないかと思ったもんだ。家を出て半年。灑羅と旅して一年。志乃と会って半年。この二年間で、俺は、少しでも罪滅ぼし出来たんだろうか。菊の父親は、一発じゃ殴り足りなかっただろうに。……もっと罵って、殴って、俺をもっと怒ってほしかった。その方が、良かったのに……。


「おーおー腫れておるのう。拳の跡がくっきりじゃき」

「本当ですね。音だけでも痛かったですし……」

「二人とも? もう、もてなしは終わったのか?」


 灑羅と志乃の声に、俺は立ち上がる。二人はなんだか、怒っているようだった。


「もてなし? そんなもの、わしらは受けてはおらんが? のう? 志乃」

「はい。私たちは、狩之助さんと同じく村を出て、その辺を散歩してました」

「どういうことだ?」


 そう問うと、志乃は拗ねたように言う。


「『俺と同じだと、考えないでください。彼女たちは、俺と同類ではありません』……。そんな酷いことを言った、狩之助さんへのお仕置きです」

「狩之を独りにするために、わしらはお菊と散歩をしとったんじゃき」

「お仕置きって……」


 志乃も、灑羅も。怒りながら俺に詰め寄った。


「なんであんなこと言うんですか!?」

「わしらと同類は嫌じゃ、ということかの?」

「え、いや、そんな風に言ったつもりは……」


 なんで二人が怒るんだ?


「悲しくなりました! 狩之助さんが、まさかあんな風に思っていたなんて……」

「わしは見損なったぜよ。お前が、そんな男だったとはの!」

「え、な、なんでだよ……! 俺、そんなに酷いこと言ったか?」


 その言葉に、志乃はますます怒る。


「さっきも言ったじゃないですか!『俺と同じだと、考えないでください。彼女たちは、俺と同類ではありません』って言いましたよね!」

「あ、ああ……」

「私たちは、家族じゃないんですか!?」

「え……」


 その言葉が、胸に刺さる。


「私たちは、狩之助さんと居たいんです! 同じじゃなきゃ嫌なんです! 狩之助さんの罪は、私たちの罪じゃないですか!」

「そうじゃ! わしらは家族であろう!? 一人でかっこつけおって、誰が今までお前を支えて来たと思っておる!」

「でも、俺は……そんな奴じゃ……」


 そう言いかけた時、灑羅と志乃の声が重なった。


「支えたいと思うから、支えるのではないか!」

「支えたいと思うから、支えるんじゃないですか!」


 その言葉が、俺の胸を貫いたようだった。ああ、俺って本当に情けないな……。


「悪い……」

「まぁ、反省してるなら良い」

「あんなこと、もう二度と言わないでくださいね!」


 なんだろう。怒られてるのに、そんな気がしない。ただ、温かい何かを、渡されたような感覚。


「それでじゃ。狩之を独りにさせるためもあるが、夜になったのはもう一つ理由があるじゃき」

「理由?」

「さっき、私たちはお菊さんと散歩してたと言いましたよね?」

「ああ」


 二人は、顔を見合わせ、笑う。なんだ? 一体……。


「もうよいぞ」

「はい」

「なっ……!」


 お菊が、姿を現した。どうやら草陰に隠れていたらしい。


「私たちを見送る為に、こっそり村から来て下さったんですよ」

「夜じゃないと、みなに見つかるとな」

「狩之助さん」


 よろよろと俺に近づき、俺の手を取る。


「もう少しこうしてて下さいね。そうしないと、立っていられませんから」

「あ、ああ……」


 なんだか、恥ずかしいな……。


「足のこと、本当に責任は感じないでくださいね。私が決めたことですから」

「…………」

「あなたは背負いすぎる。優しすぎるのよ。……それはとてもすてきなことよ? でも、時には、自分にとって大事な人を傷つけることになるかもしれない。本当に信頼しているなら、分かち合うことも必要でしょう?」


 みんな、俺を買い被り過ぎる。そんな奴じゃない。傷つけるのが怖いから、自分で背負った方が楽なんだ。


「でも、安心したわ。あなたには、こんなにも想ってくれる人が二人もいる。それは、とても幸せなことだわ。……ね?」

「そうだな……」


 俺は恵まれてる。灑羅に、志乃に、白君、いやお菊に。みんなに、支えられてるのだから。


「私の自己責任を、あなたに背負ってほしくないの。……それこそ、私の方が苦しくなってしまうわ」

「……ごめん」

「だから……。また、村に来て? いつでも待ってるから。家族と村の人たちには、ちゃんと説明しておくわ。……だから、たまには会いに来て?」


 お菊は笑う。俺もつられて笑った。


「ああ、考えておくよ」

「なによそれ。約束してくれないの?」


 拗ねながら言うが、こう言われることを分かってたらしい。「俺の頑固さに観念した」とばかりに、微笑む。


「灑羅さんも、志乃さんも、狩之助さんも。本当にありがとうございました。私はここに居ますから、遊びに来て下さいね。……その時は、狩之助さん抜きで、女同士、話しをしましょう」

「はい。楽しみにしてますね」

「お主も、そくさいでの」

「俺抜きって……。まぁ、いいけど。一人で戻れるか?」


 お菊は、笑う。


「大丈夫、杖があるから。それでは、さようなら。道中気をつけてね」

「ああ、さよなら」


 俺たちは、手を振って、お菊の村を後にした。



「お菊さん。本当に素敵な方でしたね。幸せになってくれるといいなぁ……」

「おいおい。それは志乃も同じだろ? 志乃も、ちゃんと先のこと考えないと」

「今は、これでいいんです」


 村からの帰り道、俺たちは、西の大きな町を目指す。山が深いから、夜道でも歩き、なるべく早く町に行き、そこで宿を取るか、空家でも探そう、ということになった。


「…………」

「でもよ……。なぁ? 灑羅もそう思うだろ?」

「…………」


 灑羅は、さっきからぼうっとして、無言で歩き続けていた。どうかしたのか……?


「灑羅?」

「…………」

「おい、灑羅!」


 俺の声にやっと反応を見せた灑羅だったが、なんだか調子が悪いようにも見える。月に照らされた顔は、白かった。


「ん? すまん。なんじゃ?」

「いや、お前……具合でも悪いのか? さっきから黙りこんでるし、顔色も悪いようだが……」


 まぁ、この暗さだ。顔色なんて、判別できないが、どう見ても、いつもの灑羅らしい感じがしない。


「そう言えば、先ほどから、歩調もゆっくりですし……。大丈夫ですか?」

「なんじゃろうの……。調子が悪いというわけではないが……」

「…………?」


 俺が首をかしげたその時、いきなり灑羅が倒れ込んだ。


「灑羅!?」

「灑羅さん!?」


 そのまま意識を失った灑羅に、俺たちは、動揺した。


「灑羅!? 灑羅!」

「狩之助さん! 早く町へ! 町ならば、薬師もいるでしょうから、見てもらった方が……!」

「あ、ああ……」


 俺は灑羅を抱き、道を駆ける。そんな……まさか……! 俺の中を不安が渦巻く。


「まさか……! まさか……!」


 俺は走りながら、祈る。風邪でも引いたんだよな? それか、ちょっと体調を崩しただけとか……! 一番怖いのは、薬師になんでもないと言われることだった。


 その後、急患として灑羅を見てもらった。


「あの、それで、灑羅さんは……」

「んー……。それが、どんなに見ても、なんでもないんだよ。ただ眠っているだけとしか……」


 その言葉に、俺は愕然とした。……悪い予感が、当たってしまった。


「そうですか……。よかったですね。狩之助さん」

「あ、ああ……」


 志乃はほっとしたように、俺に笑いかける。俺も笑いかけるが、その顔は引きつっていただろう。


「狩之助さん?」

「すみません。急に倒れもので、動揺してしまって……。もしかしたら、疲れていたのかもしれません」

「一応、滋養の薬は出しておくから、飲ませてあげるといい」

「ありがとうございます……。行こう、志乃」

「は、はい……」


 志乃は不安げに俺を見ている。……俺が動揺してるからだよな。落ちつけ……。落ちつけよ、俺……。


「空が白んできましたね。宿を取るんですか? それとも、空家を?」

「……空家の方がいいだろう。今は、宿もやってない。少し待って、家主に貸してもらおう」


 そして、家主とも話しがつき、俺は灑羅を布団で寝かせた。立派な空家だ。ふすまを隔てて、もう一つ部屋がある。風邪を引いた嫁が居ると聞いて、気を利かせてくれたらしい。


「いきなりどうしてしまったんでしょうか……。先ほどまで、あんなに元気だったのに……」

「…………」

「狩之助さん?」


 志乃の言葉に、はっとする。俺は取り繕うように笑う。


「悪い。こいつを担いで走ったせいか、俺も疲れちまった。まぁ、すぐに起きるさ。大丈夫だよ。薬師もなんともないって言ってただろ?」

「そうだと、いいんですが……」


 駄目だ。志乃まで不安にさせてはいけない。まだ、そうと決まった訳じゃないだろ。悪い方向へ考えるな……。


「俺たちも、少し休もう。寝てないから、疲れただろ」

「私は大丈夫ですが……」

「ほら、無理するな。灑羅は、俺が見てるから。志乃は寝とけ」

「いえ、大丈夫です……」


 俺の言葉に、志乃は首を振る。それから、騒がしく朝が始まる。雀の声も、町の活気も。何もかも耳に入らなかった。どうしよう……。俺の予想が的中したら? いや、薬師の言うとおり、なにもないかもしれない。でも、具体的になにかあってほしかった。病気であってほしかったとかじゃなくて、ただ、体調が悪かっただけとか、疲れが溜まってたとか……。そうじゃないと、俺の予想に近い状態になってしまう。なにもないのに、突然倒れた……。くそっ! 悪い方向へしか考えが浮かばない……! 


 考えに没頭していたせいか、いつの間にか夕方になっていた。そして、志乃も、いつの間にか寝てしまっていた。壁に寄りかかったままじゃ大変だろうとは思ったが、俺自身も、眠気に襲われる。俺もそのまま、眠ってしまった。


「狩之助さん! 起きて下さい!」


 志乃の動揺した声で目を覚ます。辺りを見渡すと、灯りが灯され、夜となっていた。


「ど、どうした……! 俺、眠ってたか……」

「灑羅さんが、灑羅さんがいないんです!」


 うろたえた志乃は、今にも泣きそうな声で俺に叫ぶ。


「灑羅が、いない……!?」

「はい。私もいつも間にか眠ってしまっていて、さっき目が覚めたら、灑羅さんが布団から居なくなっていて……!」

「お、俺、外を探して来る!」

「私も行きます!」


 志乃は立ち上がったが、俺は首を振った。


「お前は灑羅が帰ってくるかもしれないから、ここに居てくれ。……灑羅……!」


 俺は、夜の街を、走り回った。だが、どこを探しても、灑羅は見つからない。


「どこに行った……! はぁ……はぁ……」


 一回家に戻った方がいいかもしれない。もう灑羅が帰って来てるかもしれないし……。


「志乃、灑羅は……はぁ……はぁ……戻って、来てるか……?」


 玄関で待っていた志乃は、首を振る。戻ってきてない……?


「狩之助さん……どうしましょう……」


 志乃は、不安で混乱している。俺は、明るく振舞う。


「だ、大丈夫だ。灑羅の奴、もしかしたら案外町中を見て回ってるかもしれないしな。ほら、西の町はまだ灑羅は見てなかったし……」

「こんな夜にですか?」

「あ、えっと……」


 言葉が詰まってしまう。自分もうろたえているもんだから、志乃にかける言葉が見つからない。その時だった。後ろから砂を踏む音がする。月明りの影に浮かぶ影、間違いなく灑羅だ。心配掛けやがって……!


「お前……! 灯りも持たず、どこに行ってたんだよ!? こっちは心配して……」

「あ……」


 俺と志乃は絶句した。家の灯りに照らされた灑羅の服と顔には、血が付いていたからだ。左手には、どこから持ってきたのか、刀を握りしめていた。


「灯りなど無くとも、見えるからの」

「な、怪我してんのか……?」

「いや、これは返り血じゃき」

「か、返り血……」


 冷めたような声で、こともなげに言った。


「喧嘩を吹っ掛けて来た者がいた。だから振り払ったのじゃが、相手が刀を抜いたのでな。斬り合いになっただけじゃき。相手は、わしに恐れをなして逃げおった。死ぬような怪我ではない。……疲れたゆえ、休むぜよ」

「あ、灑羅……!」


 俺たちを一瞥するでもなく、すっと奥の間へ行ってしまう。


「狩之助さん……!」


 不安げな志乃に、俺は明るく言う。


「悪いが湯の準備してくれるか? 真夜中だから、なるべく静かに」

「は、はい。分かりました」


 俺は、ふすまの前に立った。


「入るぞ」


 ゆっくりふすまを開けると、灑羅は灯りも点けず、暗い部屋で、刀を抱くように座っている。


「なぁ……今、志乃に湯の準備してもらってんだ。……結構派手に汚れてるから、落としてゆっくりしたらどうだ?」


 俺の言葉をうるさそうに、払いのける。


「落とさずともよい。……少し、一人にしてくれんかの。さっき休むと言ったじゃろう」


 何とも言えない威圧感が、部屋に満ちる。


「じゃ、じゃあよ、せめて着替えくらいしろよ。今、志乃に……」

「うるさいの」

「あ……」


 苛立ったように、俺を見た。その目の、まるで獣のような鋭さに、俺は気押される。


「何もいらぬと言っておるじゃろう。お前、わしに斬られたいのか? 今日は高ぶっておる故、お前とて斬ってしまうかもしれんのう」


 そんな灑羅を見ることに、怖さよりも、悲しみの方が強かった。


「……分かった。出ていく……おやすみ」


 今ので、確信した。……やっぱり、俺の予想が、当たってしまった。


「狩之助さん……お湯の準備、できましたけど……」


 志乃は、巻き込まない方がいいのだろうか。だが、巻き込まずにはいられない。なぜなら、志乃は「神の使い」という大事な役目の為に俺たちと共にいる。……どうやったって、志乃を逃れさせることは出来ないんだ。だったらせめて、不安にさせないように……。


「いや、いいってさ。悪かったな、手間かけさせて」


 俺は笑う。


「……いえ。でも、せめて着替えだけでも……」

「それも、いいってさ。なに、明日にはころっと元に戻るだろ。心配しなくても……」

「狩之助さん」


 笑う俺に、いつになく沈んだ志乃の声が響く。うつむいたまま、顔を上げない。


「な、なんだよ?」

「私は、狩之助さんがとても優しい人だと知っています」


 志乃が、俺になにを言いたいのか、分からない。


「どうした? 急に……」

「灑羅さんのことを、とても大切に想ってらっしゃることも知っています」

「志乃……?」


 どうしたんだ? そう言いかけた時、志乃が顔を上げる。志乃は、泣いていた。


「それは、私だって同じです。灑羅さんと狩之助さんは、私にとって大切な人なんです……! だから……」


 志乃が、俺の着物の袖をつまんで、叫ぶ。


「辛い気持ちを押し殺して、そんな明るい顔しないでください! 私に隠したいことがあるのはいいんです! でも! ……私のために、自分だけ傷つくのだけはやめて下さい……! 私たちは、家族じゃないですか……!」

「志乃……」


 もう、無理だ。不安にさせまいと、志乃には伏せていたことが、志乃にとって、自分だけが知らないというのは、辛かったんだろう。俺の気づかいが、逆に志乃を苦しめてしまった。


「ごめんな……」

「私、知っています」

「え?」


 突然真剣な表情になった志乃に、俺はびっくりする。


「灑羅さんが、人ではないと、とっくに気づいています」

「お前、どこで……!」


 俺は言葉を失った。それ以上、声が出なかった。


「灑羅さんは、北の地出身と言っていましたよね?」

「あ、ああ。北の地に、アオヤミがいるらしい」

「私の村では、北の地を「最終地」と呼んでいました。最後に人が行き着く場所。それは、神々の住む未開の地。そういい伝えられています。狩之助さんは、灑羅さんと出逢うまで、北に地があることを、ご存じでしたか?」

「いや……」


 実際、知らなかった。こいつから話しを聞いた時も、半分冗談だと思っていた。だが、灑羅は嘘をつかない。それを知って以来、北にも陸地があるんだな、としか思っていなかった。


「そうです。この国にいる人間は、北に地があることさえ知らないのです。ましてや樹海であるため、人は迷ってしまいます。いつしか人間は立ち入らなくなり、地図からも消えてしまいました。そこが故郷だと言うことができるのは、神だけです」

「じゃあ、何でお前は、その事を知っているんだ?」

「それは、私の村の先祖が、北の地の神だからです。そう、代々言い伝えられています」


 北の地の神……。そういうことか。


「神の使いか……灑羅が選ぶ理由はこれか。志乃は、本物なんだな」

「教えて下さい。灑羅さんに今、何が起こっているのかを」


 俺は、少しの沈黙後、喋り始める。


「合わせ鏡って知ってるだろ?」

「はい。よく、霊などが現れるとされるものですね?」

「そうだ。それを神が行うと、鏡に写った自分が飛び出し、写し身を造りだせるそうだ」

「写し身を?」


 志乃の顔が、怪訝に揺れる。


「神自身が弱り、動けなくなった時、その写し身を世へ出す。そして、信仰心などを集めさせ、自分の力を高める」

「では、灑羅さんは……!」

「ああ、灑羅は、アオヤミの写し身だと言っていた。アオヤミは翠を力としている。その為の、翠集めなんだと……」


 どうしよう。話しているうちに、どんどん現実味を帯びていることを実感する。


「……ですが、今の灑羅さんの状態と、どう関係が?」

「写し身は、時が経ちすぎると、獣へと姿を変えるらしい。心も思考も。……たぶん、写し身が自分の意思を持ち、裏切るのを防ぐためだ。……写し身の、自由を奪うために」


 志乃は、驚きのあまり、声が大きくなっていることに気がついてないらしい。


「では、一刻も早く、アオヤミ様の元へ帰るべきでは……!」

「それが、そうもいかないんだ」

「なぜですか!?」

「写し身が、元の存在へ帰るときは、消えるとき。……そう、言ってた」

「…………! でも……!」


 志乃も、俺と同じことを考えてるな。


「ああ。俺も同じことを考えたけど、無理だった。アオヤミに同じことをしてもらって、同じ写し身として、再度生み出されればと……。でも、消えるんだ。灑羅という存在は、二度と生まれない。記憶も、感情も。考え方も、性格も、しゃべり方も。温もりも、優しさも、全て。灑羅という存在は消える」

「そんな……」


 沈黙が流れる。灑羅から話しを聞いていても、どこか他人事のように感じていた。現実味が無かったせいか、自分でも楽観視していた部分もある。どうにかなるだろう。……そんな思いが、まさか、こんなにも早く打ち砕かれるとは。


「俺は、北の地へ行くことに賛成だ」

「え……? なにを言ってるんですか……? なぜ!」


 志乃は、俺の言葉が信じられないとばかりに、俺に詰め寄った。俺は、静かに言う。


「最初から、灑羅が望んでいるからだ。だから……」

「だから灑羅さんを、失ってもいいと言うのですか!?」


 その言葉が、俺の心の深くを抉る。押さえていた感情が、一気に溢れだした。


「俺だって、ずっと一緒にいたい!! 失いたくなんかない……!! でも、見たくないんだ……! 今日みたいに、返り血浴びて、鋭い殺気を纏って。まるで、俺たちを獲物のように見る……! だんだん獣へと姿も、心も変わっていくあいつを、俺は見たくないんだよ!!」


 どうしよう、こんなこと言っても、なにも変わらないのは分かってるのに。志乃に怒鳴ったって、どうしようもないのに……。


「それなら、あいつがあいつのままで、消える寸前に、笑って別れたいんだ……。だから俺は、北の地へ、あいつと行きたい」

「狩之助さん……」


 その時、ふすまが開いた。灑羅が、冷たい目で俺たちを見下ろす。


「さっきから聞いておれば、ずいぶん勝手なことばかりじゃのう」

「灑羅……」

「灑羅さん……」


 灑羅の冷たい声が、部屋に響く。


「わしは最初から、自分が道具だと納得しておるじゃき。それをなぜお主らが悩まなければならないのじゃ?」


 なぜだと? そんなの、決まってるじゃねぇか……!


「それは、お前が」


 俺は、灑羅を見据える。一瞬の沈黙の後、口を開いた。


「お前が、好きだからだ」

「狩之……」


 その言葉に、一瞬灑羅の眼の色が変わったように感じた。いつもの、温かい眼差しに。だがそれも、一瞬のうちに消えることになる。灑羅の身体から、何かが現れたからだ。


「おお。耳と尾が生えてきよった。いよいよ、時間も大詰めじゃのう」


 それを嬉々としてるのか、悲しんでいるのか。俺には、分からない。


「灑羅……」

「気持ちが高ぶる……抑えるのも、難しいものじゃのう」


 そう言った灑羅の顔が歪む。それと同時に、膝をつき、倒れてしまう。


「灑羅さん!」

「おい、灑羅!」


 俺は身体をゆするが、眼を開けない。


「気を失っているようですね……」

「ああ……灑羅なりに、獣へと変わることを拒んでんだろうな」


 きっと、苦しいだろう。自分が、自分じゃなくなるなんて、怖いだろう。でも、それなのに、俺は、なにも出来ない。


「……狩之助さん」

「どうした?」


 志乃は、俺の眼を見据え、力強く言った。


「私の村へ、行きませんか?」

「志乃の村?」

「前にお話しした通り、私の村には、様々な言い伝えがあります。そして、それを風化させないため、文献として遺されています。確か、村長のみが入れる、書庫がありました。北の地の神が残した文献ならば、写し身を獣化させない方法が記されているかも知れません」


 志乃の眼は、まだ何か宿している。……俺とは、反対に。


「だが、お前が村へ戻れば、家族にも影響があるんだろ……? 大丈夫なのか?」

「……灑羅さんの指先を見てください」

「指先?」


 言われた通り、指先を見た。少し、爪が伸びているような気がする。


「昨日までの灑羅さんの爪は、こんなに尖っていませんでした。おそらく、状況は一刻を争います。悩む猶予はありません。……すぐにでも、出立できますか?」


 志乃は、希望を捨てない。心が強いからかな。でも、俺は……。


「…………」

「狩之助さん?」

「……もう、いいよ」


 もう、いい。これが灑羅の望んだ結末なんだ。


「灑羅は、自分の巾着の半分くらいの翆が必要だと、最初に言っていた。……だが、灑羅は、もうとっくに半分以上集まっていたのに、旅を止めようとはしなかった」


 思い出すのが怖かった、灑羅に対しての違和感。それが、これだった。


「おかしいとは思ったんだ。でも、俺は気づかなかった。……いや、気づきたくなかった。あんまりにも幸せだったから、俺はその違和感を無視した。気づかない方が、楽だったから」


 まだ、そばに居たい。この幸せを壊したくない。灑羅の笑顔を、見ていたい。……それが、消えるのが、怖かった。


「……灑羅自身、きっと分かってたんだろう。自分の結末を。長すぎる旅は、危険だと。それでも止めようとしなかった。だから、もう……」


 そう言いかけた俺の頬に、痛みが走った。志乃の顔と、頬の痛みで気付いた。俺は、志乃に平手打ちされたんだと。


「……狩之助さんが諦めて、どうするんですか……!」


 志乃の顔はもう、涙でぐしゃぐしゃで。それでも、瞳の中の希望は、失っていなかった。


「灑羅さんは、危険を感じながらも、旅を続けたかったんでしょう!? それは、灑羅さんが、灑羅さん自身がもっと生きたかったからでしょう!? もっと生きて……、きっと狩之助さんと、もっと、もっと、一緒に過ごしたかったからですよ……!」


 志乃は、叫ぶ。こんなに声を荒げた志乃は、初めて見た。


「それなのに、狩之助さんは諦めてしまうのですか!? 生きたいと願う灑羅さんを、そのまま黙って消えるのを見てるんですか!?」


 ああ、そうだ。俺は灑羅に言ったはずだ。


(絶対守るから。だから、俺にお前の結末、預けてくれないか? 不安なら、俺がそばに居る。泣きたいときは、俺が胸を貸してやるから)


「狩之助さんが可能性を信じないで、誰が信じるんですか……!」


 絶対守る。そう、俺は灑羅に言ったんだ。


「志乃、悪い。俺、見失ってた」


 男が言っておきながら、放棄するなんて、何考えてんだ俺は。俺が、灑羅を守るんだろ?


「行こう。志乃の村に」

「狩之助さん……!」

「腑抜けた姿を見せて悪かった。……ごめんな。そして、ありがとう」

「い、いえ。私もその、叩いたりして、すみません……」


 俺は、笑う。志乃が叩いてでもしてくれなかったら、ああ言ってくれなかったら。腑抜けた自分のままだった。


「お前のおかげで眼が覚めた。灑羅を、助けに行くか」

「はい!」


 そうして、俺たちは旅立つ。家主に起き手紙と金を残し、夜が明ける前に町を出た。灑羅は温かい。背負ってる背中を、その温もりが安心させる。まだ、大丈夫。消えたりなんか、獣化なんかしないんだ。俺は、それを強く念じながら、志乃の案内で進んでいく。そして、西の町を出て、夕暮れ。歩きっぱなしで着いた所が、西の村だった。


「着きました」


 そこはひっそりとしていて、夕暮れだからか、そうじゃなくてもか、人は少ない。


「なんて言うか、小さい村だな。ここが志乃の故郷なのか?」

「いえ、ここからまだ先にある森を抜けなければなりません。ここは、私の村「刻砥」の者が、唯一売買をする村です」


 まだ先か……。そう思った瞬間、後ろから声が聞こえた。


「志乃……?」

「え?」


 振り返ると、若い男が、驚いたように志乃を見ていた。


「志乃……だよな?」

「あ……。けん……」


 言葉を発しようとした自分に気づき、志乃は自分の口を押さえた。けん? 名前か?


「お前、生きてたのか!? あれから、みんなお前は死んだものだとばかり……!」


 けんと呼ばれた若者は、嬉しさと驚きのあまり、志乃の肩を掴む。だが、志乃は冷えた声で言った。

「あなたは、[[rb:刻砥 > こくと]]の民の者ですね。恐れながら、あなたの村の村長殿に謁見を申し出たい。村長殿に、これをお渡し願いますか?」


 志乃は紙を差しだす。まるで感情の無いような、冷たい声と、眼差し。こんな志乃は、初めて見た。その対応に驚いてか、若者は一瞬たじろいだ。


「志乃……? 俺が分からないのか!? けんごだよ! 昔から、いつも……!」

「よろしくお願い致します」


 けんごの言葉を振り払い、志乃は頭を下げた。その姿に驚愕していたけんごだが、渋々紙を受け取る。


「……分かった、村長には渡しておく。……なにがなんだか分かんねぇけど、お前は帰って来たんだろ? 話しは、ゆっくり聞かせてもらうからな」


 そう言って、けんごは立ち去った。俺は、志乃の背中に声をかける。


「いいのか?」

「丁度よかったです。村にはよそ者は入れませんから。この村に降りてきている刻砥の者に頼むつもりでしたから」


 振り返らずに言う志乃の声は、相変わらず冷めたまま。


「いや……そうじゃなくて。知り合いだったんじゃないのか?」


 俺の言葉に少し沈黙したものの、振り返った志乃の顔は、元に戻っていた。


「……うまく話が通れば、夜には位の高い人間に会えるはずです。ですが、この村には宿がありません。私は森を抜け、村の入り口まで行って人を待ちますが……狩之助さんはどうしますか?」


 俺の問いには答えない。それだけ、あのけんごという人物とはなにかあるのだろう。俺は、それ以上追及はしない。


「俺も行くよ。その志乃の村の入り口で野宿するさ。灑羅も毛皮被せてあるし、人に見られることもないだろう」

「分かりました。この森の奥です。行きましょう」


 志乃の言うとおり、森を抜ける。そこは、本当に小さな集落になっていて、入口は堅牢に閉ざさせていた。門番らしき男が、志乃を見て近づいて来る。


「[[rb:絢穀 > けんごく]]に話しは聞いた。……まさか、お前が生きていたとは……。良かったよ」

「…………」

「だが、すまないな。お前でも、ここからは入れられない。……分かるよな?」

「分かっています。ここで待っていても構いませんか?」


 また、冷たい声。志乃は、苦しいのだろうか。


「ああ、構わない。だが、そいつらは?」


 門番は俺と灑羅をじろっと睨む。


「彼らは、私の大切な人たちです。村に入ることはありません」

「……そうか。なら、そこで滞在しててもいい」

「……ありがとうございます。狩之助さん、もう少し離れたところで野宿しましょう」


 志乃に背を向けられた門番は、少し声を落して、志乃に尋ねる。


「[[rb:絢穀 > けんごく]]には聞いていたが……。なにかあったのか? お前は、そんな表情をする娘じゃなかったはずだ」


 その言葉に、志乃は一瞬足を止めた。顔が一瞬歪むが、すぐに冷たい表情へと変えた。


「お話しは、村長殿に致しますので、失礼します。……行きましょう」

「ああ……」


 志乃の案内で、少し離れた場所にたき火を起こす。もう、空は暗くなっている。灑羅は相変わらず気を失ったままで、俺たちは、たき火の前で沈黙していた。


「本当は、狩之助さんと灑羅さんが、北の地へ向かう間に、私が方法を調べられればよかったのですが……」


 志乃が沈黙を破った。


「どうしてだ?」

「もしも方法が見つからなかった場合、アオヤミ様の元にいなければ、灑羅さんは完全な獣化してしまうでしょう。少なくとも、アオヤミ様の元にいれば、お別れもできるでしょうから……」


 志乃は、うつむく。


「ですが、北の地は樹海。おそらく、灑羅さんと共に入らなければ、アオヤミ様の元にはたどり着けないでしょう……もどかしいです」


 志乃は、苦しみを一人で抱える癖がある。俺には独りで抱えるな、と言うが、実際、自分も抱え過ぎてしまっている。


「……昔ってほどでもないか。こいつと出逢ったときの俺は、誰とも喋ろうとは思わなかったし、誰とも関わろうとも思わなかった。自分が嫌いだったんだ。人と関わることが怖かった。人に話しかけるくらいなら、そこらの野良猫に話しかけた方が楽だって思えたほどだ。そんなとき、灑羅が声をかけてきた。最初は無視してたんだが、酒屋に入る俺に付いて来て、隣に座るんだ。最初はしつこい奴だ、早く帰れよって思ってならなかったが、隣に座ってるこいつが、なんとも不思議な奴に思えて、つい溢したんだ。「人と関わりたくないんだ」って。そしたらこいつ、当然のように言った。「わしは、人ではない」と。さすがに驚いた。でも、不思議と納得したんだ。そしたら、自然と口にしてた。「自分が嫌いだ。だが、嫌われるのが怖い。だから、関わらない……」そしたら、こいつなんて言ったと思う?」

「えっと……」


 俺の急な昔話に戸惑っていたようだったが、志乃は聞いていてくれた。少し考えた後、喋り始める。


「灑羅さんだから、「それは、間違ったことじゃない」とかですか?」


 俺は頷いた。


「志乃はほんと勘がいいよな。俺は馬鹿にされるって思ってた。そしたら、こう言ったんだ。「そう感じるのは、お前が純粋に強い人間だからじゃ。お前の言ってることは、矛盾してるようで、矛盾していない。世の中を渡るには、ずる賢さや、嘘も必要じゃが、それを当然と思うようになった奴は、心がもう、世の中に染まっておる。そう言えるお前は、純白さを保てる、強い人間だからじゃ」って」


 まだ一年半しか経っていないのに、酷く懐かしい感じがする。


「嬉しかったけど、俺はそんな人間じゃない。最初から黒なんだ。人をいっぱい傷つけたし、金で世界が回ってると思ってた、最低の人間だ。そう言ったら、またこいつは言ったんだ。「それを認識している所が、純粋の証拠。もしお主が黒だったなら、それはすごいことじゃ。黒は何にも染められない。藍にも朱にもなれない。そんなお主が今純白なのは、何にも変えられない、お主の努力。黒から純白になるなんて、そう簡単な事じゃない。頑張ったの」……そう言われた。それで不覚にも泣いちまってな。俺の黒い感情を吐き出した。それでもこいつは、俺が純白だと笑ってくれた」


 俺は、灑羅を見る。あの灑羅からは考えられないほどの、静けさ。


「それから、こいつと行動を共にするようになった。……縁ってほんと不思議だよなぁ。今こうしてるのが、夢みたいだ。灑羅がいて、志乃がいて。俺の生き方が、変わった」


 俺は、静かに話を聞いてくれている志乃に笑いかける。


「志乃。俺はさ、色んな人に支えてもらって、今の俺になった。灑羅や志乃、白君におじさん。みんなのおかげで、俺は汚れてないって思えるようにもなった」


 志乃。お前も、支えられてる。


「志乃もさ、誰かに頼っていいんだ。……村には必要ないからとか、家族に迷惑かけるからとか。そんなの背負ってたら、動けないだろ? 抱えきれなくなったら、俺たちにその荷物、全部放り投げてみろ。一緒に考えて、整理して。お前が納得いくまで、何度でも同じく悩んでやる。いい方法を見つけてやる」

「…………」

「俺たちは、誰が何と言おうと、お前の味方だ。相手が何百人であろうと、お前の側に付く。だから、独りで苦しむなよ」


 志乃は、うつむいたまま肩を震わせてる。……この小さい肩に、どれほどの覚悟が、圧し掛かっているのだろう。


「怖いんです……」


 やっと喋った志乃の声は、嗚咽交じりで。でも、隠してた思いが、零れてくるようだ。


「私は、この村に、必要、無かったから。だから、売られて。それも、自分の人生だと、受け入れようと、したけど、それも、駄目で。……でも、お二人に会えたことは、本当に嬉しいんです。ただ、また必要と、されなくなるんじゃないか、とか……!」


 ……そんなこと考えてたのか。そんなの絶対無いのに。


「灑羅さんと、狩之助さんの邪魔は、したくない。……でも、村に帰るわけにも、いかない。……私の居場所が、分からないんです。……最低ですよね。灑羅さんが大変な時に、こんなこと考えるなんて……。私自身、嫌になります」


 志乃は、自分が許せないとばかりに、拳を握りしめた。……俺と灑羅に気をつかって、閉ざしてた思いが、きっと自分の村に来て、増幅したのだろう。……あの、けんごとかいう若者にも会ったこともあって。


「なぁ志乃。そんなに自分を責めるなよ。お前は、なにも悪くないんだからさ」

「でも……!」

「俺たちに、そんなに気をつかわせて悪かった。……気付けなかったことも。でもな、俺にとって、志乃は、なんだか妹っていうか、娘みたいな感覚なんだよな。俺には妹はいないし、当然娘もいないが、なんだかそんな気持ちになるんだよ。……いつか、志乃は、自分の幸せを見つけて、俺たちから離れていくんだろうな、とか。その時、寂しくなるだろうな、とか。きっと灑羅も、同じ気持ちだろう。だからさ」


 俺は、顔を歪ませてる志乃の頭を撫でた。


「俺たちが、志乃を必要としなくなるなんて、ないんだよ。邪魔に思うことなんて絶対にない。志乃が良ければ、いつまでだってそばに居ていいんだ。……いや、俺たちが、そばに居てほしいのかな。……志乃が言っただろ? 俺たちは、家族だって」

「…………!」

「志乃の幸せ、みんなで探そう。そしていつか、お前が本当の幸せを見つけた時、みんなで笑おう」

「……はい」


 志乃は微笑む。いつか、幸せが見つかる。その時まで、一緒にいような。



 その日の夜深く。何人かの護衛と共に、村長が現れた。志乃は頭を下げた後、話し始める。


「わざわざお越し頂き、感謝致します。文は読んで頂けたでしょうか?」

「志乃か。まさかとは思ったが、本当に戻って来たとは」

「……文に書いたとおり、北の地の神の危機なのです。ご協力、頂けますよね?」


 村長は、少し考える仕草をする。そして、答えた。


「北の地の神の為とあらば致し方ない。書庫に入ることを許そう」

「あ、ありがとうございます」

「だが、村の中をうろつくことは許さん。お前は神隠しに遭った身、それを覆してはならぬ」

「そんな言い方……!」


 声を荒げた俺を、志乃は無言で止めた。


「分かっております。村をうろつくなど、致しません」

「あと、村に入れてもらうという気持ちを形で示して欲しい」

「形で示す?」


 志乃の顔が曇る。俺はすぐにぴんときた。……汚い野郎だ。


「……金か」

「え?」


 俺の言葉に、志乃は驚愕した。信じられないと、村長を見るが、沈黙が意味しているのは、そういうことだ。


「本来入れてはならぬ人間を入れるのだ。感謝の意くらい、示してもよかろう」

「…………!」

「分かった。金ならいくらでも渡す。……どのくらいだ」


 村長の護衛が示した金額を、俺は渡そうとしたその時、志乃が呟く。


「それは、私たちが盗んだお金です。……それでも、お受け取りになると?」


 村長の伸ばした手が、一瞬止まるが、なんでもないように受け取った。その光景に、志乃は顔を歪ませた。


「お前たちの話などどうでもよい。形で示せばよいのだ。……滞在は一日。明日の深夜、出て行ってもらう」

「……はい。狩之助さん、少し、待ってて下さいね。必ず、見つけて来ますから」


 志乃は、無理して微笑みながら、村へと入って行った。


「くそっ! なにが村長だ! 結局金じゃねぇか……!」


 俺は苛立ちながらも、灑羅の元へ戻る。気分は、最悪だった。そんな時、俺に近づいて来る奴がいた。


「あんたか。志乃と一緒に居た奴って」


 馴れ馴れしく話しかけてくる奴に、俺は内心苛立ってしょうがない。


「けんご、だったか?」

「そ、そうだが、あんたが呼ぶな! 俺は[[rb:絢穀 > けんごく]]だ! 愛称がけんごなんだよ!」


 ああ、そうかよ。悪かったな。そう言って顔を逸らすが、一向に去る気配はない。それどころか、俺に食いついて来る。


「あんた、なんで志乃といるんだ? 志乃の行動は、あんたのためなんだろ?」

「お前は、志乃のなんなんだよ? ……恋人、じゃあねぇよな」

「お、俺は! 志乃の……幼なじみだ!」

「幼なじみ、ね……そんなもんか」

「な……! 家が隣で、物心つく前からずっと一緒にいたんだ! そんなもんじゃねぇよ!」


 くそっ。苛つくな。お前みたいなのが、志乃の幼なじみか。


「志乃はなんであんたといるんだ?」

「……簡潔に言えば、俺が買った」


 俺は、さらっと言った。説明するのも面倒だ。


「はぁ!? な、なんだよそれ!? どういうことだよ!?」

「だから、人売りから買ったんだよ」


 なんなんだ? この、こいつに対する苛立ちは。だんだん俺も、昔の言葉づかいになってる気がする。……いや、こいつがさせてるんだ。


「なっ……! あんた、志乃になんかしたんじゃねぇだろうな!? 手ぇ出してたら、許さねぇぞ!」


 その言葉についに、俺の中で何かが切れた。


「……つくづく苛つかせる奴だな。お前みたいなのが一番近くにいた男だなんて、志乃も不憫過ぎるよなぁ!?」

「なんだとこらぁ!」


 俺たちは顔を見合わせ、睨みあう。


「お前が怒るとこはそこなのか、って話だ!」

「あぁ!?」

「俺が買った買わないの以前に、なぜ志乃は売られていたかを考えろって言ってんだよ!」

「…………!」


 やっと気づいたか! この鈍感が!


「志乃は、どんな人生歩んでたか分からねぇんだぞ!? もしかしたら、都の花街で、今頃男相手に身をたててたかもしれないしな!」

「なんだと!? み、都の、花街……」


 落ちつけ、俺。こんな奴相手に、大人げないだろ。


「お前が疑うべきは俺じゃない。お前らの悪しき儀式とやらだ」


 その言葉に、一瞬たじろいだらしい。急に声を落してしおらしくなる。


「そ、それは……俺も納得いかない部分もある。……が、あんたに口出しされるいわれはねぇよ。……志乃も覚悟の上だったしな」

「生け贄の覚悟? そんなもん、なぜあんな年頃の娘に背負わせなきゃならない! お前らは馬鹿なのか?」

「んだとこらぁ!?」


 こいつは、志乃の気持ちを考えたことあるのか?


「死んだと思ってたということは、生贄として神に捧げられたって思ってたんだろ?」

「ああ、そうだよ」

「んじゃ、お前はさっき、俺が志乃に手を出したかどうとか言ってたな。……志乃はそんな辱しめを受けてまで、俺の言うこと聞いてるとでも思ってんのか? 生贄としての使命を全うせず、男に身を売って逃げたとでも?」

「そ、そこまでは……言ってねぇけど……。でも……」


 ああ、駄目だ。苛立ちを押さえられない。俺は、叫んだ。


「ふざけんな!」

「…………!」

「お前は志乃を疑ってんのか!? 男に身を売ってまで、生き長らえる奴だとでも思ってんのか!? ……俺の知ってる志乃は、そんなことしない。自分が侮蔑されながら生きるくらいなら、自害を選ぶはずだ」

「…………」


 俺に気圧されたのか、絢穀は押し黙った。


「お前が志乃を疑うってんなら、俺は今すぐお前を殴る。幼なじみだかなんだか知らないが、お前みたいな奴とずっと一緒だったなんて、志乃が可哀想で仕方ねぇよ」

「てめぇ……勝手に言わせておけば……!」

「……。お前、志乃の顔、ちゃんと見たのか?」


 怒りで握りしめていた手を、絢穀は下ろす。そして、静かに言った。


「……見たよ」

「志乃にとって、幼なじみと会えたのは、とても嬉しいことのはずだ。同じ村の人間に会えたことも。でも、志乃は冷たい顔をしてた。感情の無い声で、話をしてた。……俺はあんな志乃、初めて見たよ。志乃は、「故郷に帰ることは恥だ」と言っていたが、故郷に帰りたかったはずなんだ。それなのに、なぜ故郷の人間に見せる顔があんなに冷たいんだ?」

「…………」


 俺の言葉に、押し黙ったまま、答えない。


「なぁ、ちゃんと考えろ。志乃が売られてた事実。儀式の正体。そして、志乃の冷たい表情。それを結び付ければ、お前にだってなんか分かるだろ?」

「…………」


 絢穀は沈黙を守る。俺は、喋ることを止めない。


「疑うべきは、志乃の方か? それとも、村の方か? よく考えろ。いきなり男連れて戻って来たからって、食いつくべきとこは本当にそこなのか?」

「……どうしろって言うんだ。村を、儀式を疑えって言いたいのか?」


 沈黙を守っていた絢穀が、静かに言う。


「お前は村長の言うことと、志乃の言うこと。どちらを信じるのかって言いたいだけだ」


 絢穀は、おもむろに俺の隣に座った。そして、話し始める。


「……俺たちは、この地と共に生きてる。自然に身を任せ、風の言葉を聞く。異質だとか、変だとか。そんなことは言われ慣れてる」


 俺も話を聞くために、絢穀の隣に座る。


「村の人間の結束力は固い。みんなが家族のように暮らし、見守っている。だからこそ、生贄という存在は辛い部分がある。誰がそうなるにしても、悲しまない奴なんていないんだ」


 だが、と言葉を紡ぎ、無表情のまま言う。


「神と共に生きる以上、深く関わってはいけない。様々な事柄を取り決めるは、村長だけが行ない、村長と補佐以外、詳細に知ることは許されない。……ただ俺たちは、取り決められた事柄に、従うだけだ。何の疑いもなくな」


 この村で生きる以上。守るべきことがあるわけか。


「疑ってはいけない。深く知ってはいけない。……それは、神への冒涜だからだ。実際、二十七年前の生贄が、姿を消してから戻ってくることはなかった。それは、なぜだか分からない。だが、追及してはならない。考えてはならない」

「お前たちにとって、それが当たり前なのか」


 絢穀は顔を歪ませる。


「俺は、志乃が生贄になることは、小さい頃から知っていた。悲しいことだとは理解しても、それを回避できないかなどとは思わなかった。だが、実際居なくなってみると、疑問が頭をよぎるんだ。なぜ生贄は必要だったのか。儀式とはなんなのか。消えた後、どうなるのか。死んだのか? 生きてるのか? それすら、考えてはならないことだった。だから俺は、志乃が消えた日からずっと、毎日修行してきた。頭から、そんな考えが消えるように。……志乃のことを、忘れられるように……」


 苦痛のその表情が、俺になんとなく、信じてもいい奴だと、思わせる。


「でも、いつまで経っても消えなかった。それどころか、志乃のことが、頭から離れなくて……」


 その表情が、俺に向けられる。


「なぁ、教えてくれないか? 志乃のことを。これまでの、経緯を」

「それはお前にとって、禁じられたことじゃないのか?」

「それでも知りたい。どうしても……」


 こいつは、きっと志乃が大切なんだ。禁を破ってまで、志乃のことが知りたいんだ。だから俺は、話し始める。


「じゃぁ、話してやるよ」


 そう言って、灑羅を目で差す。


「ここで寝てる奴はな、北の地の神、アオヤミの写し身なんだ。写し身とは、神の……まぁ、身代わりみたいなものらしくてな。信仰心が源のアオヤミの力が衰弱し、翆と呼ばれる清き気を集める為の旅をしていた。そこで必要なのは、『神の使い』と呼ばれる人間だった。それが、志乃だ」

「『神の使い』?」

「翆を神に捧げることの出来る人間らしい。俺たちは人売りに売られてた志乃を買い、旅を続けた。そして現在、この写し身である灑羅が、消えてしまう事態に陥った。俺はこいつを愛してる。だから、それを回避する方法を、志乃に調べてもらっている」

「写し身を、あんたは愛したのか?」


 絢穀は、驚いたように、俺をじっと見る。


「ああ。おかしいか?」

「いや……。で、志乃はなぜ売られてたんだよ?」

「志乃の話では、儀式だと呼ばれて行ったら、すでに売られていたとの話だった。……きっと、今までの生贄もそうであったのかもしれないと」

「…………!」


 その事実に、絢穀は言葉が出ない。


「本当のことは、俺にも分からない。だが、それで金を得ていたことは事実だろう。さっきも、村長には金を要求された。盗んだ金だと言っても、躊躇なく受け取ってたよ」

「そんな……こと……」

「なぁ、俺はさ。人間だとか、写し身だとか。そんなの関係なく、俺はこいつに惚れたんだよ。こいつが消えないでいられるなら、なんだってやる。それは、愛してるからだ。志乃が協力してくれるのは、俺たちが家族だからだと言ってくれた。志乃にとっても大切だから、自分の村に行こうと。……諦めていた俺に、平手打ちを喰らわせたくらいだ」


 俺は思い出して苦笑した。確かに、あの平手打ちは効いた。


「お前も、志乃を愛してるなら、志乃の気持ち、理解してやれよ。今のあいつは、自分の居場所がなくなったらと、酷く怯えている。……村長とやらの態度もそうだったが、この村は、志乃に対して冷たい。お前だけでも、志乃の居場所になってやれ。大切だと、思うのなら」

「……あんた、名前は?」


 その問いに、笑う。


「ずいぶん今更だな」

「いや、最初に思ってたより、いい奴だなって思ったから」

「俺もだ。さっきまで、うるさい奴だと思っていたが、絢穀。お前、いい子じゃないか」

「い、いい子ってなんだよ! がき扱いすんな!」

「ああ、悪い悪い」


 がきって言われて、怒るのは、がきの証拠ってな。まぁ、言うとめんどくさいから言わないが。


「俺は狩之助だ」

「狩之助な。分かった」

「「さん」くらいつけろよ。年上だぞ」

「いらねぇだろ。誰がつけるか」


 俺たちは笑う。なんだか、こいつ、面白い。志乃のことも大切に思ってるみたいだし、なにより純粋だ。


「弟……はないな」


 ないない。俺の弟だったら、もっと可愛いだろう。そんなことを考えていると、絢穀は怪訝そうに俺を見る。


「ああ? なんだよ、さっきからぶつぶつと。俺は戻るぞ」

「なんでもない。じゃあな」

「……狩之助と志乃は、いつ発つんだ?」

「ん? 村長は明日の深夜までって言ってたな。こっちは、志乃が戻って来しだい、出立する」

「明日の、深夜……か」


 少し考えてる様子の絢穀は、俺に背を向け、手を振った。


「俺が今出来る事、やってみる。志乃は、お前になんか渡さねぇから。じゃぁな!」


 そう言って、走って行った。


「はは、若いねぇ……って俺もまだ若いっつーの。……まぁ、頑張れよ」


 そんなこんなで、夜は明けていくのだった。


 夜が明け、朝になる。俺は灑羅の手をずっと握っていた。志乃を信じないわけじゃない。だた、可能性として、灑羅を救う方法が見つからない場合もある。それが不安で、祈らずには居られなかった。もし見つからなかったとして、俺が落ち込めば、志乃が罪悪感を感じるのは目に見えている。でも、それでも。俺は、落ち込まずにいられるだろうか。志乃に対して、当たり散らしたりしないだろうか。なにも出来ない俺が、なにかを言う資格なんてないのに、志乃を、傷つけたりしないだろうか……。


「ああ、駄目だ。一旦悪い方向へ考えが行くと、ますます深みにはまる。今はただ……」


 手に触れてる、こいつの体温を。忘れないように、刻みつけておきたい。そう思ってた時だった。灑羅の手が、ぴくりと動いたのだ。


「灑羅?」


 そして、瞳がゆっくりと開く。


「灑羅!」

「……狩之……?」


 嬉しさと共に、不安が込み上げる。また、俺を斬るだとか言い出したらどうしよう。獣化が進んでいたら……。そんなことを考えながら、灑羅の瞳を覗き込むが、灑羅はぼんやりと俺見つめて、微笑んだ。


「ああ……狩之か……。そうか……夢だったか……」

「どうした? 具合でも悪いか?」


 ぼんやりした灑羅は、俺の手を握り返しながら安心したように微笑むばかりだった。


「いや……ずっと、黒い渦に溺れる夢を見ておった……。どこに手を伸ばしても、なにもなくてな。怖くて、泣き叫んでおった……。ふふ。わしらしくなかろう?」


 灑羅は何度も強く、俺の手を握る。まるで、手を繋いでいることを、確かめるように。


「でも、温かい感触で、気づいた。わしは、独りじゃないと。そうしたら、目が覚めた。ふふ、お前の手じゃったか……」

「安心しろ。ずっとそばに居る。ずっと、手を繋いでおくから……」

「ああ……すまんの」


 灑羅は、安心したように、また、目を閉じた。今度は安らかな寝顔だった。


「きっと、夢で眠ってなかったんだな……安心して眠れ。お前は、もう、なにも考えなくていいから……」


 苦しんでるのは灑羅なのに、気づけば俺が泣いていた。どうしても涙は止まらなくて、灑羅の寝顔を見ては、心を落ち着かせるばかりだった。



 夜が深くなるにつれて、どんどん緊張が増していく。志乃は、大丈夫だろうか……。方法が見つかる、見つからないも気になるが、村での、志乃への対応も気になる。また、手を回されて、俺の知らない内に、売られでもしてたら? もしかしたら、もうすでに……。駄目だ。悪い方向へ考えすぎだ。志乃が育った村だ。信用しないでどうする。今は、落ちついて報告を待とう。そう思い、灑羅の手を強く握ったその時だった。人影が、走って来る。志乃だ。


「狩之助さん!」

「志乃!」


 息を切らして俺に駆け寄ると、俺の両腕を掴んで嬉しそうに言った。


「見つかりました! 書庫の文献にあったんです!」

「本当か!? ど、どうすればいいんだ?」


 息を整え、志乃は言う。


「まずは、アオヤミ様の元へ行きましょう。行きながら、説明します。……灑羅さんの様子は、どうですか?」

「ああ……、朝に一回、目を覚ましたんだ。夢に囚われて眠ってなかったらしくてな。俺と少し話した後、安心して眠ったよ。……穏やかだった」

「そうですか、良かった……!」

「アオヤミの元へ戻るって、それじゃ、灑羅は……!」


 志乃は首を振る。


「消えません。写し身が元の存在と会っても、消えないんです。消えるか否かは、創りだした存在。つまりは、アオヤミ様の意思ですので……」

「そうか……。志乃、ありがとな……! 本当に、ありがとう……!」


 俺は泣きそうだった。そんな俺を優しく見守ると、志乃は言う。


「いえ……。ですが、まだ解決はしていません。急いで、北の地へ向かわなければ。行きましょう」

「ああ」


 俺たちは、灑羅を背負い、出立する。その時、後ろから声がした。


「志乃!」

「けんご……」


 走って来たのは、絢穀だった。


「俺、村を出るよ」

「え?」

「今すぐにとは言えないけど、いつか必ず村を出る……。そして、自立できるようになったら、そしたら……」


 絢穀は志乃の肩を掴み、言った。


「俺と一緒に、居てくれないか!」

「け、けんご……?」


 戸惑う志乃に、絢穀は顔を赤くしながら言う。……頑張れ。


「お前の、その役目とやらが終わって、俺も生活が安定したら、お前を呼ぶから。その時は、俺の……嫁になってくれ!」

「で、でも、そんな、いきなり……。村を出ることは、容易なことじゃないわ」

「分かってる。それに、今すぐに返事をくれとは言わない。ただ俺は……お前の居場所になりたいんだ」

「…………!」


 志乃が絢穀に背を向ける。俺には志乃の顔がはっきり見えてた。


「けんご……今、急いでるから。だから、行くね……?」

「俺、お前を迎えに行くから! その時まで、考えててくれよ!」


 歩き出した志乃に、俺も付いて行く。


「狩之助! それまで、志乃を頼むからな!」

「ああ、任せろ」


 俺たちは、絢穀から遠ざかる。俺は呟いた。


「声、出してもいいぞ。……意地張らずに、素直に泣けばいいのに」

「ふっ……! うう……!」


 ずっと絢穀の前で泣かないようにしていた志乃が、耐えきれず、声を漏らす。


「嫁になるかどうかはともかく、絢穀の気持ち、大切にしてやれよ……あいつなりの、自分に出来ること、なんだろ」


 男らしいじゃないか。[[rb:絢穀 > けんごく]]。志乃の気持ちは、どうなんだろう。あいつのこと、好きなのかな。まぁ、俺が詮索することじゃないが。


「う、嬉しいんです……でも、村を出れば、親とは勘当と同じ……。けんごを、私の為に、不幸にしては……いけない……」

「不幸になるために、お前にそう言ったわけじゃないだろ? 幸せになるために、絢穀は自分で決めたんじゃないか? 少なくとも、俺はそう思うよ」


 絢穀という居場所。それは志乃にとって、どんなものになるのかな。


「でも……!」

「これは、志乃が決めることだ。でも、志乃が望むのなら、一緒に考える。……どうしたい?」


 少し自分を落ちつかせた後、志乃は言う。


「……今は、灑羅さんのことだけを考えます。……けんごのことは、全てが落ち着いてから。その時は……」


 志乃は、俺を見る。


「灑羅さんと、狩之助さんも、一緒に考えてくれますか?」


 やっと頼ってくれた。嬉しくて、俺は笑う。


「もちろんだ。妹、いや、娘の将来だもんな。相手はしっかり選ばないと」

「か、狩之助さん……! もう……」


 志乃は、恥ずかしそうに、でも、嬉しそうに、笑ったのだった。


 北の地へと向かいながら、俺たちは話す。志乃の調べたことを詳細に聞くために。


「で、灑羅は、アオヤミと会ったからって、すぐには消えないんだよな?」

「はい。ですが、アオヤミ様の判断で、消されてしまう可能性もあります」

「それでも、アオヤミの元には行かなきゃいけない理由があるんだな?」


 志乃は頷く。


「はい。文献には、写し身の獣化を止めるには、『神の息吹』が必要だそうです。それは、写し身の元の存在、アオヤミ様にしか出来ないこと。……過去に一人、写し身を人間へと変えた事例があったそうです」

「それじゃ、灑羅のほかに、写し身から人間に変わって生きた奴がいたってことか!?」


 志乃は頷くが、少し首を傾げて言った。


「はい。ですが、それは比較的新しい文献に書いてありました。……まだ、そんなに時が経ってないということ……?」

「まぁ、とにかく。アオヤミに頼むしかないってことだな」


 俺たちは、希望を抱きながら、歩き続けた。そして、北の地の入口へとたどり着く。


「ここからが、樹海ですね……」


 同じ木が生い茂り、印をつけて歩いても、迷いそうだ。


「このまま入ってもいいのか? もう戻って来れないような気がするんだが……」

「灑羅さんと歩けば、迷わずアオヤミ様の元へ辿りつけると思ったのですが……。間違っていたら、取り返しがつかなくなる……。今は灑羅さんに聞くことはできませんし……」


 俺たちは暫し立ちつくし、お互いに考えていた。その時。


「そうです! 深陽に聞いてみましょう」

「聞くって……。深陽が案内してくれるのか?」

「分かりませんが、聞いてみます」


 志乃は目を閉じると、自分の中で深陽と話しているようだ。しばらくして、志乃が嬉しそうに顔を上げた。


「案内してくれるそうです!」

「え、深陽が、姿を見せてくれるのか?」


 そう言った時、一つの風が吹き抜ける。その風は一定の間隔で吹き続けた。


「案内って、そういうことか……」

「さあ、行きましょう!」


 俺たちは、踏み入れる。風が導く、樹海の中に。



 歩き続け、同じ所をずっと回り続けてるんじゃないか? と思い始めた頃。風が止み、林を抜け、開けた場所に出た。そこに、横たわる人物、アオヤミが、不敵に笑う。


「ここまでご苦労じゃったの」


 声も、姿も、灑羅と同じ。でも、異様な空気が、この澄んだ景色の中に、溶け込まずに漂っている。


「お前が、異質なミモリか。会いたかったぞ」

「異質……?」


 俺を見て、アオヤミは笑う。


「そうじゃ。灑羅も混乱するほどの、矛盾や謎……。まぁ無理もない。こんなミモリは初めてじゃからの」

「どういうことだ」


 アオヤミの雰囲気に呑み込まれまいとするが、どうしてもアオヤミの話しに乗ってしまう。


「お前が異質だと言うことには、三つ理由がある。一つは、二人目のミモリであること」

「二人目?」

「二人目とは、どういうことですか? 灑羅さんの話では、神の誕生から結末まで、記録し伝えるのが役目だと聞きましたが……」


 志乃の意見に、アオヤミは頷く。


「確かにそれは間違いではない。じゃが考えてみよ。誕生から見守るなど、不可能だと思わんか? ミモリは生まれた時点で決まるもの。赤子には理解できんじゃろ。それゆえに、幼き頃に守護神と盃を交わし、二十歳になりしころ、守護神の導きにより、ここへ来る。そしてミモリとしての契約を交わし、その者は時間の流れから外れ、ミモリとしての役目を担う……通常であればの」


 そう言って、アオヤミは目を瞑る。


「ただ、ミモリも人間。守護神との盃を破棄し、死を選ぶ者もいる。今から二十七年前、ミモリとして生を受けた人間が、契約を交わす前に死んでしまった」

「二十七年前……!」


 志乃は、驚く。俺もすぐに分かった。二十七年前。それは、志乃の前に生贄になった人物と重なる。そいつは、ミモリだったのか……?


「それゆえ、次のミモリを……とは思うたが、ミモリとなるべき人間は、なかなか生まれない。そしてやっと生まれたのがお前じゃ」


 目を開き、俺を射抜く。俺は気圧された。


「じゃが、お前は異質だった。二つ目の理由は、導かれぬミモリだと言うことじゃ」

「導かれぬ……?」


 くそっ……! 灑羅を助けに来たのに、言葉が出ない……!


「さっきも言ったじゃろう。守護神が、ここへ導くと。じゃがお前はを、盃を交わしたことさえ忘れてしまった。それでは、守護神は導けない……。それで、わしは灑羅を創り出した。……お前を迎えに行かせるために」

「なっ……!」


 灑羅は、最初から俺を……?


「灑羅自身はそのことを知らん。お前と出逢ったことは、偶然だと思っておるじゃろう」


 ……灑羅自身ではなく、アオヤミに命じられて俺を選んでいたのか? 俺は、灑羅自身に選ばれたかったのに……。


「わしも弱っていたこともあり、お前と出逢い、翠を集め、神の使いと共にここへ来る。それがわしの望んだものであったが……。少し形が違ったようじゃの」


 アオヤミは忌まわしそうに、俺の背に眠る灑羅を見る。


「それが、最後の理由。写し身のミモリじゃ」

「写し身のミモリって……」


 ど、どういうことだ? 俺は、意味が分からない。……いや、さっきから何にも頭に入ってこないのだが。


「お前は、わしのミモリではない、灑羅のミモリじゃ」

「灑羅の……?」


 そうだよ。灑羅を、早く助けたいのに……!


「本来、写し身である灑羅に、ミモリなど付かん。じゃが、どうゆう手違いか、わしに付くはずだったミモリが、灑羅に付いてしまった……。これは恐らく、お前が灑羅を愛したが故に起こったことじゃろう」


 アオヤミは、俺に笑いかける。


「じゃが、安心するといい。わしの写し身、つまり、お前が愛したのはこのわしじゃ。灑羅を消せば、自ずとわしのミモリとなろう」


 なにを勝手なことを言ってんだ? 俺の、さっきからの気圧されてる感覚が、今の言葉で吹き飛ぶ。


「俺が愛したのがお前だぁ? ふざけるなよ」


 姿形が同じでも、お前と灑羅は違う。


「俺が愛したのは灑羅だ。俺たちは灑羅を、獣化せず、人間として存在させたくてここまで来たんだ。あんたなら、それくらいできんだろ? 前にも、一人居たらしいじゃねぇか」


 アオヤミは、見下すよな目つきで、溜め息をつきながら言う。


「ああ、あの者か……。あやつはわしがミモリ時代、わしがミモリを努めた神の写し身だった。「人間が好きだ」と言ってな。人間として生きることを望んだ。数年前に、死んだがな」

「人間が好き……?」


 もしかして。


(私は、人間が好きだ。こうして独りでいても、誰かが心配してくれる。ここに来たばかりの頃は、本当に勉強の毎日だったよ。生活の仕方、人との関わり方。色んなことを教えてもらい、支えてもらった)

(おじさんも、なにも知らなかったのか?)

(私にも色々あるからね。兄ちゃんとは、違う人生を歩んできた。みんなそうだろう?)


 おじさんが写し身だったのか……? いや、憶測に過ぎんが、数年前に亡くなっているということ、生活の仕方、人との関わり方を知らなかったということは、可能性は十分ある。……おじさんが生きてたら、話したかった。おじさんがもし写し身から人間になっていたなら、今の俺を、どう思うのかな。


「灑羅を人間にすることはできる……が、それには翠が足りん。わしの息吹で、灑羅の獣化は止まり、人間となることができる。……しかし、わしが息吹を吹き込むには、わしの気が最高まで満たされてなければならん上に、息吹は多く気を使う。それに、わしが息吹を使えば、気は半分も消費してしまう。分かるか? 必要な気、つまり翠は、今のわしを最高まで満たす分と、息吹を吹き込んだあと、補充する分の、二つの量が必要となる。……お前たちが用意した翠では、わしを満たすので精一杯。それでは息吹を吹き込むことすらできん」

「…………!」


 志乃の持っていた、灑羅の巾着を見て、アオヤミは言う。……元々灑羅が求めていた翆の量はアオヤミを満たす分。巾着の半分以上あるといえど、神の息吹に使うには少なすぎたか……!


「あの、私には、翠は宿っていないのですか?」

「志乃?」


 いきなり、なにを言ってるんだ?


「宿っておるぞ。上質な翠がたくさんの」

「……灑羅さんが言っていました。「翠が人に宿っていても、持ち帰ることはできない」と。では、もし私に翠が宿っているならば、それを取り出すことができるのではありませんか?」


 志乃の言葉に、アオヤミは嬉しそうに笑う。


「賢い娘じゃ……できるぞ。お主には良質な翠が満ち溢れておる。お主の翠だけで、わしの力がまかなえるほどに」

「それでは……!」

「が、取り出したあと、お主も獣化してしまうじゃろう」

「な、なぜですか!?」


 一瞬の希望が、空しく沈む。


「なぜ、あの泉に、翠を取り出した金品が沈められていると思う?」

「え……それは……」


 アオヤミは、そばの泉を指した。小さな泉で、上から水が落ちてくる。透明なきれいな水で、泉はなぜか、輝いている。


「翠を取り出すと、邪気が憑くからじゃ。文字どおり、悪い気じゃ。邪気に侵された者は、人間としての姿を保てん。だからこそ、金のような物から翠を取り出す。そうすれば、なんら危害がないからの。じゃが、邪気は物にもとりつく。邪気が集まるのはよいことではないからの。ああして、清き泉に沈めておくのじゃ」


 金が沈んでるから輝いてるのか。しかし、邪気とは面倒な……!


「それに、じゃ」


 アオヤミは、楽しそうに笑う。……まるで、俺たちの困ってる姿が、おかしくて仕方ないとばかりに。


「わしは一度も、灑羅を人間にしてやる、などとは言っておらんぞ? 翆の量がどうあれ、灑羅を人間にするつもりは毛頭ない」

「そ、そんな……!」


 くそっ! おそらく、別の方法なんて無い。アオヤミの神の息吹が唯一の方法……。


「まぁ、お主らが、自分の役割を果たす、と言うのならば、考えてやらんこともない」

「それでも構いません! 私は……!」

「待て、志乃」


 志乃は、アオヤミの言葉に呑まれ過ぎてる。ここは、落ちつかないと駄目だ。


「狩之助さん……」


 考えろ。アオヤミはなにを要求している……? そう、俺たちが役目を果たすこと。そうすれば、考えてやる……。そう言った。だが、灑羅を人間にするには、息吹を吹き込むことが必要。そして、アオヤミを最高まで満たす分の翆はある。つまり今、息吹を吹き込むことは可能なんだ。


 でも、吹きこんだ後の翆が足りないということは、アオヤミは、灑羅を人間にした後、弱ってしまうということ。……自分が弱っている状態で写し身を人間にしてしまうと、俺たちは裏切ると予想してるだろう。だからこそ、灑羅を盾に、俺たちを自分の配下にしてしまえば、アオヤミの心配もなくなる。……アオヤミが本当に約束を守るとしても、翆を集めるのが先だと言うだろう。そうなると、今から翆を集めていたら、灑羅は獣化してしまう……。


「俺たちが、もし役目を果たす為、お前に下ると言っても、今すぐに灑羅に息吹を吹き込むつもりはないんだろ?」

「……もちろん、その分の翆を集めてからじゃな」


 ……やはりな。その時間が無いからこそ、俺たちを追いこんでる、ということか……。ん? 


(ミモリは、翠の塊のようなものじゃ)


 灑羅は、確かそう言ってた。


「俺はミモリなんだよな?」

「ああ、そうじゃな」

「ミモリは、翠の塊……なんだろ?」

「…………」


 アオヤミは、一度ミモリを失っている。ここで失うわけにはいかないはずだ。ってことは、だ。俺を餌に、揺さぶれるってことか?


「……俺をやるよ」

「ほう?」


 アオヤミは、意外そうに声を上げる。


「あんたはミモリが欲しい。俺たちは灑羅に息吹を吹き込んで欲しい……。これ以上の交換条件はねぇよな?」


 これで、間違ってないはずだ。


「……勘違いするなよ。わしは灑羅を消すことが出来ると言ったはずじゃ。そんなもの、交換条件にもならん」

いや、もっと考えれば、相手をつける。

「俺の聞いた話じゃ、ミモリは受け継ぐものなんだってな?」

「……ああ。まぁ、受け継ぐと言っても、守護神に命真名を還すことを言うがの」

「契約をすれば、永遠の命と、神になる権利がある……だったか?」

「…………」


 いける。


「だが、俺は灑羅のミモリ。そして、灑羅と契約はしていない……。つまりだ。俺は人間のまま、死ねるってことだ。そして、誰にも受け継ぐことなく死ねば、あんたのミモリは、一時的かもしれないが、存在しなくなる。……それはあんたにとって、いい結末じゃねぇよな?」

「……賢い男よ」


 アオヤミは、余裕を崩さない。……まだ、決定的ななにかが、足りない。


「面白い。わしはお前の頼みを聞くしかないと言うことじゃな? ……人間の言いなりにならねばならんとは、初めてじゃ」


 そう言っても、笑ってる。なにかあるのか。


「じゃが、わしを追い込むにしては、一つ欠点があるのう」

「欠点?」

「お前は[[rb:命真名 > みことな]]を忘れている……。守り神との契約の証の命真名じゃ」

「それになんの関係がある」


 ……まさか、これが、アオヤミの余裕の理由か……!


「命真名を持てるのは、『神の使い』、そして『ミモリ』。命真名は、強力な、いわば結界じゃ。己を他に変えられないよう、自分を守る結界……。お前はそれを忘れた時点で、すでにわしに負けておる」

「負ける?」

「忘れたか? わしは神じゃ。人間を好きなように操ることも可能……。じゃからの」


 楽しくてしょうがない。そんな笑みが、こぼれる。


「命真名を忘れたお前ごとき、言いなりにさせることなど、簡単なことじゃ」


 俺の記憶にない、守り神の盃。それが今、仇となるとは……!


「……灑羅を消し、俺を無理やり、あんたと契約させられるって訳か……」

「その通り。いくら賢くても、どうしようもなかったの」


 思い出せ……! ……くそっ! 思い出せよ! ……駄目だ思い出すったって、盃を交わしたことすら……。


「あ……」


(まったく、ややこしい命真名を付けてしまったものだ)


 狼は、深陽は。何であんなこと言ったんだ? ややこしい? 何がややこしかったんだ? 落ちついて考えろ……。


(命真名は、誰にも口にしてはならぬ)


 志乃の時、そう言ってたな。ってことは、口にしてはならないという掟を、俺は破りそうだった……? いや、破っていた? あるいは、破っているようにして、破ってはいなかった……!? だから、ややこしかったのか……!?


「どうした。さっきまでの威勢はどこにいった?」


 アオヤミの言葉に、耳を貸すな。考えろ。……もし、破っているようにして、破っていなかった、ということが正しければ、俺は命真名を口にしてるはずだ。思い出せ……。最初からだ。俺の記憶にある限り、なにか違和感はなかったか……? 最初から知っていたようで、知らなかった。そんな言葉が……!


(わしか? わしの名は……)


 ふと、灑羅と初めて会った時を思い出す。あいつは、なんて言ってた?


「わしの名は……?」


(シャラ)


「……ああ、そうか。思い出した……」


「なに……!」


 俺の中に、風が吹き抜けるような感覚が突き抜ける。ああ、そうだ。あの時感じた違和感。俺の命真名は、[[rb:紗羅 > しゃら]]。


「……そうだ。こいつと会って、初めて名を聞いた時、妙に違和感があったんだ。どこかで聞いたことのあるような、俺にとって、大事ななにかを思い出したような……」


 俺は、背中の温かみに感謝する。お前の、おかげだよ。


「そうか、俺の命真名はこいつか……。はは、どんな偶然だよ……」


 命真名を思い出した俺に、アオヤミは取り乱す。今までの余裕の表情が、焦りに変わった。


「くそっ! 人間ごときに従わねばならんだと!? ありえん……そんなことありえん! わしは神じゃぞ!」


 神だろうが、なんだろうが。俺たちには関係ない。


「悪いな。……俺と灑羅が出会ったのは、運命だったらしい」

「おのれ! 人間風情が!」


 アオヤミは怒り、俺たちに木の葉を矢にし、攻撃する。


「深陽!」


 それを、志乃に呼び出された深陽の風が、全て塵に変える。


「ぐっ……!」

「大人しく交換条件を呑め。灑羅を消そうとするなよ……俺はいつでも死ねる」


 俺は、短刀を自分の首に押し付けた。血が、すうっと流れるのが分かる。……いざという時の為に常に持っていたものだが、ここで役に立つとはな。


「……分かった。そうしよう。お前には負けた。だが……お前から翠を取り出せば、邪気が付く。邪気は人間の心に棲むもの。それだけは、いくら命真名でも防げない。それに、お前は自分を差し出した。そしてミモリとなると約束した。それは間違いないな?」

「……ああ」

「狩之助さん……!」


 志乃は、俺を心配そうに見上げてる。


「大丈夫だ」


 ……永遠の命なんて、いらない。灑羅と、寿命の限り一緒にいられればそれでいい。それだけでいい。……志乃はいつか、離れていくだろうからな。その時は、幸せな志乃を見送りたい。だけど、約束しちまったもんな。それは、しょうがねぇよな……。


「お前はわしのミモリとして契約してもらう。そして、わしの指示に従え。ミモリになるとは、そういうことじゃ」

「分かってるよ」

「狩之助さん……」


 志乃は泣き出す。俺は、頭を撫でた。


「泣くなよ。灑羅のこと、頼むな。そして、お前も幸せになれ」

「でも、狩之助さんは、灑羅さんと……!」


 泣かなくていい。泣かないでくれ。


「いいんだよ……あいつが幸せなら」


 これでいい。大丈夫だ。


「では、こちらも約束通り、灑羅を人間にしよう。お前の翠でな」

「ああ、頼む」

「翠を取り出した直後は、強力な邪気にとりつかれるだろう。だが、十年も泉に浸かれば、邪気も消えて無くなる」

「十年……」


 短そうで、長い年月。その間に俺は、どう変わってしまうんだろう。


「では、始めるぞ。灑羅をそこに下ろすがいい」


 俺は、言われた通り、灑羅を横たえる。背中の温もりが、無くなった。


「……神の使いの娘よ。お前がこやつの翆を取り出せ」

「わ、私が……?」

「翆の取り出しは、神の使いしか行えん。手をかざし、念じるだけでよい」

「い、嫌です! 狩之助さんから、翆を奪うなんて……!」


 志乃は泣きながら叫ぶ。


「駄目だ。逆らうな」

「でも……!」

「心配してくれてるのは、ありがたい。でも、これでいいんだ。お前が責任を感じることじゃない。俺の最後の頼みだ。頼む」

「最後なんて……! そんなの……!」


 だから、泣くなよ。俺は、できるだけ優しく、志乃に言う。


「大丈夫だから。な? 頼む」

「う……ううっ……」

「早くしろ。それとも、灑羅が獣化しても良いのか?」

「…………! 分かりました……」


 アオヤミの脅しに、志乃は屈服しないとばかりに、アオヤミを睨み返す。そして、俺に手をかざし、目を瞑る。……段々と、視界が霞んできた……!


「狩之助さんは、全然分かってません!」


 霞む目に映るのは、志乃の涙と、灑羅の寝顔。志乃の叫びが、飽和してこだまする。


「灑羅さんの気持ち……分かって……ないです……!」


 視界が、暗くなる。……悪い、志乃。俺には、こうするしか……。倒れこみそうになった瞬間、灑羅の寝顔が、目に入って、勝手に涙が零れた。


「[[rb:灑羅 > しゃら]]……愛してる」



 暗くて、ふわふわして、まるで海の中に漂っているような気分だ。でも……気持ち悪い。人の嫌な気持ちが、一気に流れ込んでくるようだ。これが、邪気か……。十年。光も音も無いこの世界で、十年とは、どれほどの時間だろうか。


 長いのか? 短いのか? それすら、分からない。ただ、こうして、人の黒い感情に、身を委ねるだけ。……せっかく、灑羅が、志乃が。菊が、おじさんが。白だと思わせてくれたのに。俺はまた、黒に戻るのか……。


「また会ったな。……とっさに命真名を思い出すとは、驚いた」


 白い姿が、暗い景色に浮かぶ。


(……深陽か)


「いや、違う。お前は我に、別の名を付けただろう」


(……思い出せない)


「お前は、本当にこれでよいのか?」


 どういう意味だ? なにが言いたい。


(他に方法が無いだろ……)


「……お前は昔から変わっていたな。幼き頃のお前が、我に初めて会った時、なんと言ったか覚えているか?」


(……覚えてない)


「「自分が触ると、その白い毛が汚れるから、あまり近づかないで」と、そう言った」


(…………)


 そんなこと、俺は言ったのか……。


「お前は優しい人間だ。あの環境下でありながら、と驚いたものだ」


(昔話はいい。志乃の所へ戻れ……)


 泣いていた志乃が、今は気がかりだ。アオヤミに、利用される可能性もある。……灑羅も、人間になれたんだろうか。


「その必要はない」


(…………?)


 やけに自信ありげに言うな。どうしたんだ?


「……さあ、そろそろだ。準備をするといい」


(なにを言ってる……?)


「未来が、変わった」


 なにを言ってるのか、さっぱり分からない。頭がぼんやりしてるからか?


「最後に聞こう。……我の名を、覚えてはいないか? ……夜に浮かぶ、我の名を」


(お前の、名……)


 ああ、そうだ。思い出した……。闇に浮かぶ、その白い姿に、俺は目を見張ったんだ。月に、似てると思った。


([[rb:月影 > つきかげ]]……?)


「正解だ。さあ、もう起きろ……」


 その言葉が、その姿が。白い光となり、視界が真っ白に変わる。まぶしい……。


「――之! 狩之!」

「狩之助さん!」

「うっ……! なんだ……? まぶ、しい……」


 光が、段々と落ちついていく。色づき、そして、俺を覗き込む人物の顔が、はっきりしてくる。


「灑羅……? 志乃……?」


 灑羅と志乃が、俺を、見下ろしてる……?


「目を覚ましましたか!」

「狩之……」

「ここは……? まさか、もう十年経ったとか……?」


 俺は起きあがる。志乃を見る限り、年を取ってる感じはしないが……。その時、急に身体が倒れ込んだ。ぼんやりしているせいで、押し倒されたのだと気づくのに、時間がかかった。灑羅の顔が、見上げてるのに、垂れ下がる髪で、よく見えない。


「灑羅……?」

「この、馬鹿者!」


 その叫び声で、その、顔で。ぼんやりした頭が覚醒していく。こんなに泣きじゃくった灑羅なんて、見たことがなかった。


「わしを助ける為に、お前が犠牲になるじゃと……!? お前が居なくなったら、なんの意味も無いと、なぜ分からぬ……!」


 ああ。俺たちは、いつも不器用だよな。お互いを想ってるのに、うまくいかない。別の存在だからとか、いつか、消えるから、とか。でも、でもさ……。


「お前は、人間に、なれた……のか?」

「お前と、志乃のおかげでの……人間と、なれた」


 俺たちは、また、一緒に居られるのか? 同じ、人間として。


「……よかったな……。本当に、よかったな……」


 俺は、起きあがる。そして、灑羅を抱きしめた。もう、二人とも涙が止まらなくて。ただ、もうこの温かみを失うことはないんだって、確かめたくて。力が入り過ぎるくらい、俺たちは抱き合って。そして、自然と口づけする。


「よかったですね……。お二人とも……」

「し、志乃!」


 俺は、驚いて灑羅から手を放す。えっと……。


「あ、ご、ごめんなさい! お邪魔するつもりは……!」

「邪魔ではない。むしろ、こうしたいくらいじゃ」

「わっ! 灑羅さん!?」


 灑羅は、俺と志乃を抱きしめる。……そうだよな。三人一緒が、一番だよな。俺も二人を抱きしめる。


「わわっ! 苦しいですよ……」


 でも、志乃は笑ってる。俺たちは、顔を見合わせて、三人で笑った。嬉しさを確かめた後、俺は疑問を口にした。


「それで? 俺は、どうなったんだ? あの後、なにがあった」

「……あの後、狩之助さんは倒れてしまい、アオヤミ様が、狩之助さんの翆で灑羅さんを人間へと変えました。そして、すぐに私たちの集めた翆でアオヤミ様を満たしたのですが……、灑羅さんが目覚め……」

「ことのあらましを志乃から聞き、わしとアオヤミは口論になっての」

「……狩之助さんは邪気に取りつかれてしまいますし、どうすればよいかと迷っていたら、あの方が……」


 志乃は視線を向ける。そこには、白い狼が座っていた。月影……? ではなさそうだな……。俺たちをずっと見ていたらしく、顔を向けた俺に、狼は喋り出す。


「ふふふ。お前がミモリとやらかい」


 やはり、月影とは違う。


「何者だ」

「私はヨカド」

「……何者かを聞いている」


 そう聞くと、狼は目を瞑って言った。


「『存在する者』……そうとしか言いようがないねぇ……」

「『存在する者』? 神の類いか?」


 俺の言葉に、狼は笑った。


「ふはははは! 神か! ……人間は、相も変わらず笑わせてくれる……!」


 なにがそんなにおかしいのか。眉をひそめる俺に、志乃は小さく言った。


「あの方、ヨカド様が、アオヤミ様を……その……」

「アオヤミを、殺しおった」


 志乃の言葉の続きを、灑羅が言い放つ。


「アオヤミが、殺された……!? そ、そんなこと、出来るのかよ!」

「おやおや、人聞きの悪い。せっかくお前を助けたのにねぇ」

「ど、どういうことだよ……!」


 そうだ。俺は、なぜ邪気から解放されてる? アオヤミが殺されたって? なぜだ?


「殺したのではなく、消しただけさ。……力を奪って、消滅させた。……まぁ、元は我々の力だからね。奪ったではなく、還してもらった、ということになるかねぇ」

「消滅って……」

「ああ。お前の邪気も、祓っておいたよ。翆とやらも、戻しておいた」


 元は、自分の力? 邪気を祓う? 翆も戻した……? こいつ、何者なんだ……? 神である、アオヤミ以上の存在ってことか?


「そんなに警戒しなくてもいい。我々はアオヤミの敵でも、お前たちの敵でもない。……ただし、味方でもないがねぇ……」


 声の出ない俺に、狼は言う。


「ヨカド。ではそなたは、どうしてわしらを助けたのじゃ?」

「これは遊びなのだよ。お前たち醜い人間での、我々の戯れだ」


 灑羅の言葉に、狼は笑う。……いや、笑って見えるから、不思議なもんだ。


「人間は面白い。神などというありもしないものを創り出し、崇め、時には都合のいい解釈を喜び、時には自ら縛られ、絶望し嘆く。……何百年と見てきたが、本当に解らぬ生き物よ」

「……ヨカド様は、神を否定なさるのですか?」


 志乃は静かに言った。志乃は、神を崇めて育ったのだ。それが否定されるのは、気分がいいわけがない。


「否定、と言われれば、そうなのだろうねぇ。先ほども言った通り、我々の遊びなのだよ。最初は一人の人間だった。神だ神だと幻想に溺れる者に、試しにその神とやらに近い力を与えてやった……。その者は得意になって自分が神なのだと疑わなかったよ。そして寿命を迎える際、その力にあらゆる条件を付け、他の人間に受け継がせた……」


 不気味なその言葉の数々に、俺は、アオヤミとは、ただの人間の延長でしかなかったのだと知る。……この、本物の前では。


「そうやって勘違いを繰り返してできたのが、この地の神とやらさ。アオヤミも所詮、それに過ぎん」

「では、わしらを助けた理由はなんじゃ?」

「言ったであろう? 全ては戯れ。それに飽きたから終わらせたまで」


 灑羅の言葉に、ヨカドは淡々と告げる。


「お前たち人間は、この世を何か勘違いしてるらしいねぇ……? この世にあるものは、自分たち人間のためであると」


 ヨカドは、鼻先を地面につけた。そこから、花が一輪咲く。そして、となりにもう一度、鼻先を付け、もう一輪、別の花を咲かせた。


「人間は、この花を醜いという。だが、こっちの花はきれいだという。……おかしいと思わないかい? 花にとって、そんなことどうでもよいことさ。鮮やかだろうが、地味だろうが、花は花。お前たちに観賞されるためにあるわけではない。花は花として生き、そんなものは関係ないのさ」


 ヨカドが話し終えると、花は光り、砕け散る。


「何事も都合良く解釈する。その精神は、我々にはとてもじゃないが理解できない」


 呆然としている俺たちをよそに、吹き抜ける風に耳を澄ます。


「この世の全ての生命は、『遺す』為に生きている。子孫を遺し、自分たちの存在を紡ぐ。だが、人間は違う。……全てではないが、人間は『満たす』為に生きる。欲を満たし、他を蹂躙してでも己を幸福にしたい。……それが、我々の気に入らない部分さ」


 何を言われてるか、よく分からない。それを察知したように、狼は続ける。


「分からなくていい。今の人間は、大して我々に影響しないからねぇ」


 そう言って目を瞑り、心地よさそうに風を受ける。


「風の声、水の声、草木の声、大地の声。様々な声を、我々は聞き取る。我々は、この自然そのものだ」

「…………」


 自然そのもの。その言葉を疑う必要も無いくらい、ヨカドはなぜか納得出来る存在に思えた。


「さあ、もう人間と関わることはないよ。守護神などやめ、我々と共に来るといい。神やミモリなどに創られた、名も無き守護神よ」


 その声と共に、月影が頭を垂れて現れる。


「深陽……」

「月影……」

「…………」


 俺たちの守護神は、少し沈黙し、喋り出す。


「我はに縛られし身。人間が我に命真名を還さぬ限り、離れられぬ」

「そんなもの、お前自身が破棄すればよいことさ。いつまでも人間の世界にいることはないんだよ」


 ……確かに、こいつも縛られた存在。アオヤミが居なくなった今、守護神は必要無くなってしまった。


「我に意味は分からない。創られたのか。何故護らねばならぬのか。分からないが、それが我の役目」

「それでも、我々はお前を受け入れる。我々と共に来るといい」


 それでも、月影は動かない。


「……ありがたき言葉、嬉しく思う。だが、我は貴殿のような『存在するもの』としてのから外れた別の存在。貴殿に力を与えられた人間から創られた、つまりは貴殿らの戯れからできた存在。我は、どこにも属せぬ紛い物なのだ」


 その言葉に怒りは無く、ただ、淡々と告げるだけ。


「……どんな存在でもよい。しかし、お前が望むなら、在り方を変える必要はないよ。だが、我々はいつでも受け入れる。それは忘れないことだ」

「……すまない」


 月影は、深々と頭を垂れた。


「はぁ。本当に人間以外の生命とは、清々しいものだよ。……いかに、人間が愚かかを感じるねぇ」

「なぜそこまで、人間を嫌う」


 俺の言葉に、ヨカドは遠くに視線を向ける。


「我々には、先に起こることが分かる。未来が見えるのさ。……お前たち人間の、繁栄と絶滅が」

「に、人間は、絶滅するのですか……?」


 志乃の言葉に、ヨカドはまた笑う。


「なに、遠い未来の話しさ。お前たちの子孫……そうだね。数百年は先の話さ。……人間は豊かさを求めるあまり、自ら築いたもので自滅する。その影響が、人間だけに及ぼすものじゃないから、わずらわしいものさ。巻き込まれる生命の身にもなってほしいねぇ……」

「未来……」


 俺たち人間は、他の生命にそんなに影響させるほどのなにかを、未来に起こすのだろうか。


「お前たちには、関係が無いようで、多少はあるかもねぇ……。まあ、どうせ変えられはしない」


 ヨカドの言葉に、俺はとっさに反論した。


「未来は変えられる。どんな未来でも、お前の思い通りにはならない。それに、どんな生命にも死はある。……絶滅も、ある意味、人間の死だ。終わりがあることは、お前たちの生命と同じじゃないか?」


 俺の言葉をどう受け取ったのか。ヨカドは笑い、俺たちを見る。


「……少し喋り過ぎたかねぇ。我々はもう、人間に関わるつもりはない。……さあ、ここを去るがいい。私も去ろう。……いつか消えゆく人間よ。今を、大切にすることだ」


 そう言って、ヨカドは消えた。俺たちは、暫し呆然とする。その時、月影が、おもむろに喋り出した。


「我は、人間は嫌いではない。興味深いと思っている」

「え?」


 志乃の声に、月影は志乃を見つめる。


「二十七年前。そなたの村の者が、ミモリとなった。だが、その者は生贄に選ばれており、我に命真名を還したのだ。「私は神に捧げられるから、ミモリは努められない。すまない」と。……命真名を還した者に、我は声をかけられなくなる。それは、お前も同じだったな」


 そう言って、俺を見た。


「えっと、悪い……」

「責めているわけではない。……その後、我はその者の結末を見ていた。神に捧げられるとは、どういうことなのか。その者が命をかけるほどの意味があるのか……。だが、儀式は偽りで、その者は売られてしまったのだ。売られた、という意味はあとで知ったのだが、その者は真実を知るなり、自害した。……その光景が、今でも焼き付いている」

「じゃあ、二十七年前も……」


 私と同じだったんだ……。と、志乃は肩を落とす。その志乃に、月影は言った。


「我は、その者を見て、人間は興味深いと思った。……ヨカド殿は愚かだと言っていたが、全てがそうではないと分かった。だから、これからも、お前たちに付きたいと、そう思ったのだ」

「俺たちに、縛られてるんじゃないのか……?」


 月影は首を振る。


「いつまで存在出来るか、我にも分からない。だが、我自身が、人間の結末を見たいと思ったのだ。縛られているわけではない……これからも、見守っていよう」


 そう言って、月影は風となって消えた。


「深陽は、やさしい狼さんですね。お話が聞けて、よかったです」

「ああ、そうじゃの」

「志乃、大丈夫か……? あの、生贄の話し……」


 志乃は笑う。


「はい。……二十七年前の儀式も、私の時と同じだった。……でも、その人は、強い覚悟で、儀式を迎えたんだと思います。……だからこそ、真実を知った時、絶望したのでしょう。だから、自害を選んだ……。私はその人を、その人と同じ村の出身だということを、誇りに思います。……その人は、きっと示したかったのだと、思うんです。や、お金に囚われた、愚かな人たちに、私たち刻砥の民は、屈しないと。……私の、勝手な思いですが……」


 志乃は、大切そうに、その話を噛みしめていた。……その時、ふと、思い出してしまう。


(それで、わしは灑羅を創り出した。……お前を迎えに行かせるために。灑羅自身はそのことを知らん。お前と出逢ったことは、偶然だと思っておるじゃろう)


 あのアオヤミの言葉。俺の胸に張り付いて、どうしようもなく、不安になる。灑羅は、やはり、アオヤミがそう創ったからこそ、俺を選んだのだろうか。灑羅に聞くのも、忍びない。そう思った時、灑羅の手が触れる。


「どうしたのじゃ? また不安そうな顔しおって」

「あ……いや、別に……」


 灑羅は、俺を見つめ、諭す。


「そうやって不安を溜めこむのは、良くないじゃろう。言いたいことがあれば、言うことじゃ」


 その言葉に、俺は小さく呟いた。


「あ、アオヤミがさ……。お前を創ったのは、俺を迎えに行かせるためだって言ってたんだ」

「迎え?」

「灑羅は知らないが、俺と出会ったのは偶然じゃなくて、アオヤミの指示だったんだよ……。だから」


 それ以上、言うか迷った。でも、灑羅の言葉が聞きたくて、俺は言った。


「お前が俺を選んだ理由は、その、……指示されたから、なのかなって。……灑羅自身が選んだんじゃ、ないんじゃないか……と」


 そう言った俺の頭を、灑羅は叩く。


「痛って!」

「お前もつくづく馬鹿じゃのう!」

「ば、馬鹿って……!」


 灑羅は、顔を近づけて、言った。


「最初はそうであったとしても、アオヤミの指示は、お前と会え。それだけじゃろう。志乃から話は聞いたが、お前がわしを愛したから、ややこしくなったのじゃろう? それなのに、お前を愛せと指示するわけがなかろう。わしは、お前と出会い、過ごした中で、お前が好きになったんじゃき。それは誰の指示でもない! わしの意思じゃ!」


 ……よく考えれば、そうだ。アオヤミにとって、灑羅が俺を愛することは、煩わしいことだ。それを灑羅に指示するはずがない。……よく考えれば分かることじゃねぇか……! ああ、恥ずかしいことこの上ない。


「信じられぬと言うなら、わしが……」

「分かった! もう分かったよ。……疑って、悪い。ありがとな」

「……分かれば、よいのじゃ」

「ふふっ」


 なぜか灑羅は赤面しており、俺も、たぶん、赤面しているのだろう。志乃が微笑んでるのが、なによりの証拠。俺たちは暫し、顔を合わせられず、空を見ていた。……それでも、ちゃんと、手は、繋いでたんだけどな。



 それからの俺たちは、何気ない毎日を過ごしていた。西北の小さな町に住居を構え、続いていた旅の生活から腰を下ろした。畑を借りて、金がなくても、それなりに暮らしていけた。でも、金が必要な時もある。その時は、畑で作った野菜を売る。俺が昔、想像できなかった暮らしが、穏やかに続いた。もう偽る必要もないから、堂々と近所には、俺と灑羅は夫婦だと言いたいのだが、まだ人間慣れしていないからか、祝言の話を出すと、避けられてしまう。


「祝言は、別にせんでもよいではないか? 今までと変わらんじゃろ?」

「だ、だが……やっぱり形にしたいじゃないか」


 俺は、灑羅にもう一度言うが、灑羅は、避けるばかり。


「じゃが、今すぐでなくともよかろう? ……わしはちょっと、畑を見てくるじゃき……」

「……逃げるなよ」


 俺は、灑羅の行く手を阻むように、壁に手をついた。


「狩之……」

「っ…………!」


 俺は、言葉を発しかけた口を、閉じる。そのまま俺たちは、口づけを交わす。……俺は、わがままなのだろうか。


 俺のこと、愛してないのか?などと、口にするところだった。


「悪い……無理強いはしない。ただ、頭には入れててくれ」


 ……そうは言っても、灑羅と祝言を上げたいのは事実。自分のわがままを押しつけてるのか? と悩む俺に、志乃は

恥ずかしいだけですよとこっそり耳打ちしてくれた。いきなり、色々と変わったんだ。戸惑うのも当然。だから、もう少し、長い目で見よう。……灑羅の気持ちが、落ちつくまで。


 それと、問題を抱えてるのは、俺たちだけじゃない。……志乃と絢穀だ。以前、誤解が解けたからと、菊が文を寄越し、村に邪魔したところ、偶然立ち寄った絢穀と、俺たちの話しで盛り上がったとか。絢穀は村を出て、俺たちを探しながら、薬草を売って生計を立ててるらしい。それで、今日、菊に聞いた絢穀の住む西南の町に行こうということになった。俺としては、「迎えに行く」などと言っていたのだから、迎えに来いと言いたい気持ちではある。


「で、志乃は。結局のところ、[[rb:絢穀 > けんごく]]のことが好きなのか?」

「え!? ……えっと、その……。けんごは、小さい頃からの、幼なじみで……」


 うん、それ、絢穀から聞いたぞ。……絢穀の話しをすると頬を赤らめ動揺する志乃に、いささか複雑な気持ちになる。


「これ、狩之。そんな聞き方をするでない。……志乃だって、恥ずかしくて喋りにくかろう」

「でも、どうせはっきりさせなきゃいけないだろ? ……あいつが勝手に勘違いして、志乃が連れ去られでもしたらどうする」


 俺は真面目に言ったつもりだった。……だが、その言葉に灑羅と志乃は顔を見合わせ、急に笑い出す。


「えっ! なんで笑うんだよ! なにもおかしなこと言ってないぞ!」

「くっ……ふふふ! いや、お前は志乃の……ふふっ、父親みたいじゃの」

「なっ……!」


 そう、灑羅に言われる始末。それはそれで複雑で、なぜだか恥ずかしい気持ちだ。そんな気持ちで出かけることとなり、たまには、と立ち寄った飯屋。


「半妖だー!!」

「きゃぁー!!」

「下ろせ、狩之!」


 俺は、灑羅を肩に担ぎ、急いで店を出る。


「馬鹿野郎! 逃げんだよ! 志乃! ついて来てるな!?」

「は、はいっ!」

「何故わしらが逃げねばならんのじゃ! 横暴じゃろう!」

「お前が怒るからだろ!? お前は怒ると、まだ獣の耳が出るんだからよ!」


 灑羅は、まだ獣化の影響を受けているのか、怒るとたまに獣の耳が出る。


「しかし、あの店主! 志乃には美人じゃからと漬け物をおまけしたくせに、わしにはなにもおまけせんのじゃき!」

「だからって「わしは美人ではないと言うか!!」って怒ってその耳出たら、そりゃ驚くだろ!?  少しは気をつけろ! 毛皮被っとけ!」

「納得いかんじゃき!」


 俺の肩で、じたばたと騒ぐ。


「これじゃ食い逃げじゃなくて、払い逃げだよ! どんな客だ! ったく、俺まだ一口しか食ってねぇのに……」

「ま、まあまあ狩之助さん。灑羅さんには悪気があった訳ではないですし……」

「半妖などと、覚えておれ! お主の店には一生行かんぜよ!」


 俺は、走りながら志乃の顔を見た。


「志乃……これで悪気がないって?」

「あはは……」

「わしの顔、とくと覚えておれ!」

「だから毛皮を被れ!」


 ――――と、毎日が騒がしい。でも。


「……のう狩之」

「ああ!?」

「わしの生きる世界は、広いのう」


 灑羅は、騒ぐことを止め、静かに空を見上げる。


「……ああそうだな……」


 ――――なんだかんだ言ってさ。幸せなんだよな。未来、いやもしかしたら明日には、またなんか問題が起こって、色々考えそうだけど。


「あっ……!」


 志乃が、急に立ち止る。どうしたのかと、俺も立ち止った。


「志乃!」

「けんご、なぜここに?」


 逃げてる最中に、絢穀とばったり会う。


「……お前がなんでこんなとこにいるんだよ」


 なんとなく、自然に声が低くなってしまう。


「狩之助! いや、な? お菊さんにお前たちの家聞いたからさ。志乃を迎えに行こうと……」

「お前、俺になんか言うことないか……?」


 あの日、「それまで、志乃を頼む」と言っただろう? 礼の一つも、あっていいんじゃないか?


「なにがだ?」

「……相変わらず、礼儀がなってねぇなぁ!?」

「ああ!? なんだいきなり!」


 俺と絢穀は、睨みあう。すると、灑羅がおもむろに俺の肩をつついた。


「狩之。なんだか周りが騒がしいぜよ?」


 ざわざわと、視線の中央にあるのは、俺と絢穀……ではなく、灑羅。


「お前のせいだろ!? 毛皮被っとけって何度言ったらわかる!」


 まったく、少しは周りを気にしろよ……!


「志乃! 絢穀! 今は逃げるぞ! 走れ!」

「あ、はい!」

「なんだか分からんが、走るんだろ? 志乃。ほら、手」

「あ、……ありがとう」


 ――――さっきの撤回。今すぐに色々考えそうだけど。


「自己紹介がまだじゃったの。わしは灑羅じゃ。わしは志乃の姉のようなものじゃき。よろしくの」

「あ、俺、絢穀です! よろしくお願いします! 姉さん!」


 灑羅は、担がれてるから、後ろを向いた状態になっている。それで、後ろで和やかに会話してるのだ。


「お前ら、この状況で和むな! ってか、灑羅! お前もう降りろよ! あと絢穀! 灑羅には礼儀正しいな、お前!」

「なんじゃ、狩之が勝手に担ぐから、仕方なく担がれてやってるというに」

「当たり前だろ。志乃と一緒になったら、俺の姉さんになるんだからよ」

「え……?」


 さも当たり前のように言う二人といい、顔を赤らめる志乃といい……ああ、まったく!


「あー、もう! お前ら、いい加減にしろよ!?」

 

 ――――そう。悲しいことも、あるだろうけどさ。


「狩之」

「ああ!?」


 ――――俺たちなら、乗り越えられるよな?


「なんだか、楽しいの」

「……そうかもな」


 根本的な未来は、変わらないのかもしれない。人間は、ヨカドの言う通り、絶滅の道を歩むのかもしれない。でもさ。俺たちの未来は、少なくとも、変わったよな? 絶望的だったあの頃が、こうして今、輝いてる。


 そりゃ、穏やかな生活だけじゃないだろう。明るい未来ばかりじゃないだろう。でもさ、これから、色々あるだろうけどさ。まぁ、よろしく頼むよ。……俺の愛しい、嫁さん。共に、人生を、歩んで行こうな。


                                            《終》


投稿していたと思ったら、投稿されてなかった悲しみ。

完結です。

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