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檜男

作者: 穂波じん

本作は、西洋の某有名な童話を元に、純和風へローカライズした上で色々アレンジしてみたお話です。お楽しみ頂けたら幸いです。

 昔々ある所に、大変腕の良い仏師の男がおりました。その評判はたいそう高く、遠く都までも聞こえていた程です。


 男の元には毎日毎日、それはもう多くの依頼が舞い込んでいました。その多さは、朝も昼も夜も、盆も正月もお釈迦様の誕生日にも、海の風香る崖近くの男の家からノミを振るう音が聞こえない時は無い程でした。


 この仏師の男の名を、善兵衛(ぜんべえ)久慈右衛門(くじえもん)と言いました。


 そんな善兵衛の家でしたが、ある日を境にパタリのノミの音が聞こえなくなります。

 元々身体の弱かった善兵衛の女房が、仏様の元へと導かれてしまったのです。

 村の中でも仲睦まじいオシドリ夫婦と評判だっただけに善兵衛の悲しみようは大層深く、善兵衛は女房の墓に縋って三日三晩と泣き続けました。

 その姿に村の者達も哀れに思い、なんとか立ち直るまではと善兵衛の世話を焼きました。


 そうして一月が経ち、二月が経ち、しかし善兵衛は一向に働き出す気配がありません。それ所かゴロゴロ、ゴロゴロと寝て過ごすばかり。

 善兵衛の仕事場はすっかり荒れ果て、あんなに艷やかな光を返していた数々のノミにも錆が浮いています。

 仏様の像の依頼主達の使いも始めの頃は頻繁に訪れていましたが、蜘蛛の糸の筋交う屋内の様子に何も言わずに帰って行き、やがて誰も訪れる者は居なくなりました。


 見かねた村の長老が、善兵衛に後添いの世話をしようとしますが、


「のう、善兵衛よ。最近のおめえの様子は余りに見てはおれん。

 どうじゃ、ここらで一つ後添いを迎えてはどうじゃ。

 おんしは腕は良いんじゃ。おんしさえその気になれば……」


「じいさま、そんなことより大変だ! あれを見よ!

 火事だ! 火の手が上がっておるぞ!!」


「何、真かっ!? 一大事じゃ! 早よう村の者に知らせねば!」


 声を荒立て、彼方を指差す善兵衛に促されて長老は慌てて外へと転び出ます。しかし、煙が見えません。


「どこじゃ! 火の手はどこじゃ!」


「見えんのか、じいさま! ほれ、あそこだ! あそこだ!」


「ええい、埒があかん! ほれ、行くぞ! 近づけばすぐ分かるはずじゃ!」


 長老はツルリとした頭をピシャリと打って、普段の膝の痛みも忘れて走り出します。

 幸いな事に林を抜けてすぐの畑に村の若い男がおりました。


「おおい! おお~い!」


「どうした、じいさま。そんなに慌てて」


「火事じゃ! 村の者に伝えてくれ! 火事じゃ!」


「火事? はて、そんな様子は無いが、誰に言われたんじゃ?」


 鍬の手を止めた男が天を仰いで首を傾げます。つられて長老も見ますが、そこには雲一つ無い綺麗な皐月晴れが広がっていました。


「おかしいの、善兵衛が確かに火事じゃと言っておったのじゃが」


「なんだ、じいさま。善兵衛に聞いたのか。そりゃあ、嘘じゃな」


「何? 嘘? 善兵衛と言えば正直者で通っておったではないか」


「ここらじゃ、今は嘘つき善兵衛で通ってるよ。まったく、善兵衛もすっかり変わっちまったもんだ」


「むむ、これはもう一度善兵衛と話さなければなるまい。後添いの話も途中じゃったしのう」


 長老は男から水を一杯だけ貰ってから、痛む足にびっこを引き引き元来た道を返します。

 家に入ると、善兵衛が尻を掻きながら寝そべっていました。


「善兵衛よ」


「なんだ、じいさま。もう帰ってきたのか」


「火事なぞ無かったぞ」


「そりゃそうだ! 嘘だからな! はは、何だいじいさま、その顔は!

 それで、何か用だったか?」


「……いいや、何でもない。おんしの顔も見れたし、儂も膝が痛い。もう帰るとするわい」


「そうかい。そういや、じいさまは膝が悪いんだったな。それは悪いことしたなぁ。

 そうだ、最近うちの近くに火を吹く車がよく来やがるんだ。

 大層速いし、ちょいと待ってアレに乗せてって貰ったらどうだい」


「はっはっは、本当ならそりゃあ良いな。じゃがノンビリ待つのは儂の性に合わんわい」


 長老はよいせ、と善兵衛に手を貸して貰って立ち上がると戸口へと向かいます。

 そして戸に手をかけて、しかし途中で止めて眉を寄せた顔を善兵衛へと向けました。


「のう、善兵衛よ。いつまでこうしておるつもりなんじゃ」


「何言ってんだ、じいさま。俺はこんなにも幸せだってえのに」


 善兵衛は埃塗れの腕を大きく大きく拡げて、にっこりと笑いました。





 そんな善兵衛の様子を、海の彼方から悲しげに見つめる一人の女がいました。


「桜さん、桜さん。また旦那さんのことを見ているの?」


 波の穏やかな海辺から鯨が顔を出し、女に声を掛けました。

 桜と呼ばれたこの女は先頃この常世の国に来たばかりの、善兵衛の女房でした。

 本来、この常世の国に渡った者は、まずは最初に中央のお宮へ向かい、そこで沙汰を受けるのが仕来りなのですが、しかし桜は岸辺から一歩も動かず遺してきた夫の様子をずっと伺っていたのでした。

 そうしている内に、この常世の国への渡し守の鯨ともすっかり顔馴染みになっていたのでした。


「あの人、また変な嘘をついて村の人を困らせているみたいなの。

 いつまでもいつまでも仕事もせずにメソメソと、オラの事なんか、さっさと忘れちまえばいいのに」


「桜さん……」


「あ、またっ! もう、じじは膝が悪いのにっ!」


「本当に、困ったものですね」


 直接声を掛けて叱りつけることが出来たらどんなに良いことか、と桜がもどかしくしていると、ふわり、と花の香りが漂ってきました。それは、何とも澄んだ蓮の香りでした。


「え? ひゃあ、お釈迦様!? どうしてこの様な所に!?」


 浜辺に現れた、その蓮の香りの主に鯨が頓狂な声を上げます。

 桜も驚いて振り返ると、そこに柔和なお顔立ちをしたお釈迦様が立っていらっしゃいました。


 桜も鯨と同じようにどうしてと問いかけそうになって、しかしそのお顔を見る内に悟り、止めました。


「もう、行かなければならないのですね」


 踵を返して歩みだすお釈迦様に続いて、桜も歩き出します。心配で心配で堪らない夫の様子を覗こうと、何度も何度も振り返りながら。

 鯨は二人を見送り、そして大海原へとゆっくりと沈んでいきました。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「ふあああぁぁあぁぁぁぁあぁぁあっ! う~む、何やら妙な夢を見た気がする」


 起き抜けの伸びをして、善兵衛は今しがた見ていた夢を思い返します。しかしどうにも思い出すことができません。

 仕方がないと早々に諦めて善兵衛はおひつの中を覗き込みますが、既に空っぽになっていました。


「腹が減ったが、う~む、仕方がない。何か食えそうなものでも探してくるか」


 よいせ、と立ち上がって外に出ます。既にお日様は大分高く上がっていました。

 さて、どちらへ探しに行こうか、と善兵衛が思案を巡らせていると、何やらあまり聞き慣れない音が聞こえてきます。


「はて、何の音か」


 善兵衛は訝しく思いながらも、音に誘われて奥山へと入っていきます。


「この方向は……、ああ、春になると昔はよく二人で出かけていたものだ。あの桜の木は、今はどうしているものか」


 歩きながら、善兵衛は懐かしい思い出に頬を緩めます。今はもう、花の季節ではありませんが、ついでにそちらも確かめてみることにしました。

 べん、べん、べん。森の中を何かの音が響きます。どうやらこれは、琵琶の爪弾かれる音の様です。


「こんな山ん中に、一体誰が?」


 善兵衛がますます訝しく思いながら藪を抜けると、小高い丘の上、一本生えた見事な桜の木の下に人影が見えました。


「なんでえ、盲の坊さんが何でまたこんな所に」


 それは蒼い、藍で染めた袈裟を掛けた琵琶法師でした。静かな森の中を法師が奏でる琵琶の音色だけが響き渡ります。


「おう、じいさん。こんな所に一人でどうしたよ。供の者はいないのかい。村まで連れてってやろうか」


 善兵衛が声を掛けると、法師は一度べん、と一際強く琵琶をかき鳴らして演奏をやめます。そして、すっと真っ直ぐ上を指さしました。


「なんでぇ? って、おわわわっ!?」


 法師の指差す方に顔を向けた善兵衛が慌てた声を上げたのは無理もありません。立派な桜の枝が一本、善兵衛目掛けて落ちてくる所だったのです。

 枝を避けようと善兵衛は右へ左へと動こうとしますが、最近の怠けた生活が祟って体がついてきません。

 遂にはゴチン、と善兵衛の頭に枝が落ちてしまいました。


「痛っつつつつつつ……!」


 善兵衛は思わずしゃがみ込んでしまい、痛みに堪えます。何だかまるで、拳骨を落とされたような気分です。


「じいさん、教えてくれるならもっと早くだな」


 頭に出来たタンコブを撫でつつ善兵衛が先程の法師に身勝手な抗議を上げます。


「あれ?」


 しかし顔を上げると、不思議なことにそこには誰もいません。

 そこにはただ、立派な桜の枝と微かな琵琶の音、そして大きなタンコブだけが残されました。





「さぁて、こいつをどうするか」


 あれから善兵衛は桜の枝を家に持ち帰りました。あんな立派な桜の枝をそのまま捨てていくなんて、善兵衛にはとても出来なかったのです。

 枝の形を見て、木の肌を触り、節の位置を調べる。ノミを入れるなら何処からどの角度で入れれば良いか。そんなことを考えながら矯めつ眇めつし、やがて己が心の苦さにクツクツと笑ってしまいました。


「やめだやめだ! 俺はもう掘るのは止めたんだ。それに、道具ももう錆びついてらぁな。

 この枝は家の前にでも植えちまおう! うまくすりゃ来年の春には花を拝めるかもしれねぇ」


 善兵衛は一頻り笑って腹に収めると、枝を担いで立ち上がります。

 そのまま、外へ出ようとして、


「~~~~~っ!?」


 何かに蹴躓いて、足の小指を大いに打ってしまいました。余りの痛さに、善兵衛は呻くことも出来ずに蹲ってしまいます。


 どれ程時間がたったでしょうか。

 ジンジンと痺れる痛みも引いてきて、善兵衛は漸く顔を上げます。すると思わぬものが目に入りました。

 それは床に散らばった善兵衛の仕事道具、様々な大きさ形のノミ。善兵衛が躓いたのは道具箱だったのです。


「こりゃあ一体、どういう事だ?」


 善兵衛は震える手で、その内の一本を拾い上げます。持ち上げられたノミが、善兵衛の手の中でキラリと光りました。

 長く手入れをしていなかったはずの刃が、しっかりと研ぎ上がって輝いているのです。

 善兵衛は腰を降ろすと、木槌を取り、枝にノミを当てます。


 コン。コン。コン。


 木槌でノミを叩くと、小気味良い音に合わせてスルスルと枝が削れていきました。ノミも木槌もしっかりと手に馴染み、善兵衛の思うがままに動いてくれるのです。


 それからは、もう夢中でした。


 夢中で、無心で、一心で、枝を削っていきました。

 善兵衛の家から、再びノミを振るう音が聞こえるようになって、村の者達も顔を見合わせて良かった良かったと笑い合いました。


 ノミの音が止んだのは、とっぷりと夜も更けた頃でした。

 月を陰っていた雲が流れ、淡い光が窓から差し込みます。


「俺はまた、なんでこんな像を掘っちまったんだ」


 木屑が散乱する床を払い、善兵衛は彫り終えたばかりの像を起きます。


「桜……」


 善兵衛はポツリと零して、像に手を合わせます。

 月に照らされて闇の中から浮かび上がったそれは、善兵衛の女房、桜の似姿でした。


「なあ、桜。俺はやっぱり寂しいよ。

 お前さんはこれからも仏様を彫り続けて欲しいなんて言ったけどよ。

 桜。俺は、俺は」


「何、馬鹿な事言ってんだい! いつまでも、ウウジウジと!」


 ゴチン、と夜の帳に良い音が響きました。

 突然落とされたゲンコツと懐かしい声に、善兵衛は痛みも忘れて目を丸くしました。

 顔を上げると、腰に両手を当てて眼尻を釣り上げた桜が立っていました。


「桜? 桜なのか?」


「そうだよ。お前さんがあんまりにもウジウジしているもんだから、向こうでゆっくり出来やしない。

 だから一度尻を引っ叩いてやろうと思ってきたんだよ」


「桜、桜! うっ、うっ……!」


「おうおう、よしよし。なんだい、全く。オラの亭主はこんなにも泣き虫だったかね」


 とうとう泣き出してしまった善兵衛を、桜は優しく慰めます。その間に、自分の目尻に溜まった涙をこっそりと拭うのも忘れません。

 二人は暫くそうして、やがて落ち着いた頃に改めて抱擁を交わしました。

 それから、桜は常世の国から現し世へ帰ってきた所以を話し始めました。


「お前さん、良くお聞き。オラがここに居るのは、お前さんの事を哀れに思われた仏様の思し召しなんだよ。

 仏様はね、お前さんが仕事もせず、嘘を言い振らしてみんなを困らせてばかりだから、それを改めさせようとしてオラを遣わされたんだ

 だから、これからはちゃんと仕事して、それから嘘をついたりしたら駄目だよ」


「そうか、仏様が。

 分かった。もう、嘘はつかねえ。

 でも、仕事は……、きっともう俺の腕は錆びついてる。前みたいに彫れるわけがねえ。それに客だって、もう」


「はあ、本当に、もう。

 確かに仏様の思し召しはあったけどね、オラがちゃんと帰ってこれたのはお前さんの彫った像が良く出来ていたからだよ!

 だからオラはその化身としてここに降りられたんだ」


「そうなのか」


「そうだよ。だから、ほら、しっかりおし!」


 バシンと景気の良い音を立てて桜が善兵衛の背中を叩きます。


「それに、腕が鈍ってたからって、それがどうしたね!

 そん時は、また昔みたいに地道にコツコツやればいいじゃないか」


 ニカっと笑った桜の言葉に、善兵衛は暫し狐に摘まれた様な顔で呆けました。

 それから、久しぶりに腹の底からの笑い声を上げます。


「はは、あっはっはっは! そうか!

 二人で、また一からやれば良いだけか!

  そうか、そうだな!」


「あはは、その調子、その調子。

 そうでなくちゃ、いつまで経ってもオラは帰れねえ」


「桜。お前はずっとここに居られるのか?」


「いいや。少しの間だけだって。

 オラがここに居るのも、仏様と閻魔様の特別な思し召しだからって」


「そうか、少しだけか。

 ……なあ、桜」


「何だい、お前さん」




「おかえり」


「ただいま」





 こうして善兵衛は常世の国から帰ってきた女房と二人、明くる日から再び真面目に仕事始めました。

 ノミの音が盛んに聞こえるようになったので村人が様子を見に来ると、そこに桜の姿があって吃驚仰天! 噂はまたたく間に村中を駆け巡りました。

 村の長老などはすっかり腰を抜かしてしまい、それはもう大変な騒ぎとなりました。


 一方善兵衛はというと、こちらは以前にも増して真面目に仕事に精を出すようになりました。鈍った腕も直ぐ様取り戻し、それどころかより素晴らしくなった腕を求めて、さらに遠方から客が訪れるようにもなりました。


 そうして、あっという間に一年という月日が流れました。


 コツ。コツ。コツ。コツ。


「それじゃあ、お前さん。オラは隣町へ仏像を届けに行ってくるよ」


 コッ。コツコツコツ。


「ああ、気を付けてな」


 カッ。コッ。コココ。

 今日も今日とて巧みにノミを振るう善兵衛。桜は彫り上がった仏像を風呂敷に詰め、隣町へと届けに行くところだ。


「ところで、お前さん。

 体は大丈夫なのかい?」


「何の事だ?」


 コツ。コツ。コツ。


「最近、夜中によく咳をしているじゃないか」


「大丈夫だ、何でもねえよ」


 カツッ。カツッ。カツッ。

 心配声の桜にも善兵衛は顔を向けることもなく答えます。


「本当かい? うん? お前さん、なんだか鼻が伸びてやしないかい?」


「鼻ぁ?」


 カッ。

 桜に言われて、善兵衛は思わず手を止めて鼻を触りました。

 確かに、なんだかいつもと触り心地が違います。


「お前さん、もしかしてオラに何か嘘をついてやしないかい?

 仏様が言ってたよ。

 今度嘘をついてしまったら鼻やら手やら伸ばして、終いには木に変えられてしまうぞ、って。

 それがオラを戻す時にした閻魔様とのお約束なんだって」


「う、嘘なんかついちゃいねえよ」


 にゅにゅ、と善兵衛の鼻がまた高くなります。


「ほら、やっぱり! さあ、白状しなさいな!」


 詰め寄る桜を善兵衛は慌てて押しとどめます。


「わ、分かった、分かった。ちゃんと話すから、今は早く仏像を届けに行ってくれ。

 あまり刻限に余裕はないのだろう?

 帰ったらちゃんと話すから」


「まったく、仕方がない。帰ったら、みっちり聞かせて貰うからね」


 不承不承といった様子で桜は包みを背負い直すと、急ぎ足で家を出て行きました。


「まいった。一つ嘘をつくと、また次の嘘もつかなきゃならなくなるのか」


 天狗様のようになってしまった鼻を一摩り、善兵衛は桜の姿が見えなくなるまで見送ってから再びノミを取ります。


 コツ。コツ。コツ。


 カツ。カツ。カツ。


 コッ。コホッ。ゴホッ。


「まあ、風邪を押して根を詰め過ぎるのも良くないか。

 桜が帰ったら、風邪の事を話してゆっくり養生すれば……」


 手を休めて、善兵衛が誰にともなくそう言った時でした。


「ん、なんだ? これは」


 急に足の先に痺れるような痛みが走りました。

 痛みはすぐに収まりましたが、恐る恐る足先を見てみると、


「こりゃあ驚いた。本当に木になってらぁ」


 足の先が木に変わっているではありませんか。

 これは仏様が閻魔様と約束したという、嘘をついた事に対する、即ち不妄語への仏罰に違いありません。

 しかし、と善兵衛は首を傾げます。


「はて、俺は一体いつ嘘をついたのか」


 暫し考えて見ますが、よく分かりません。

 考えても仕方がないので善兵衛はまたノミを振るい始めます。

 桜に話して、謝って、タンコブを覚悟して、そんな事を考えながら。


 コツ。コツ。コホッ。コツ。カツ。カツ。ゴホッ。ゴホッ。カツ。カツ。


 コッ。コッ。コッ。ゴホッ。ゴホッ。ゴボッ。


「うん? 俺は朱など取り出した覚えはないのだが」


 一際大きく咳き込んで、止まってしまった手をまた動かそうとして善兵衛は気づきました。

 掌に真っ赤な染料が着いてしまっています。

 このままでは掘りかけの仏様に朱色が着いてしまいます。

 仕方がないので、善兵衛はノミを置いて袂から手拭いを取り出しました。


 ゴボッ。ゴボッ。


 再び大きく咳き込んでしまい、善兵衛は慌てて口元を覆います。

 掌を拭く前に、手拭いは鮮やかに染まってしまいました。


「……なんでえ、朱を出したのは俺だったか」


 咳を繰り返した息苦しさに、善兵衛は水を一服。息を整えながら、善兵衛は思いました。


「ただの風邪だ風邪だと思ってたが、もしや違うのか。

 て事は何か、俺がついちまった嘘ってのは、まさか」


 善兵衛は足先に目を向けます。そして言いました。


「俺は桜に病気の事を話す」


 再び痺れるような痛みが走り、(くるぶし)の辺りまで木に変じてしまいました。


「俺の病気は治る」


 木の部分がじわりと拡がります。


「桜は怠け者だ」


「仏様は嘘つきだ」


「閻魔様は大馬鹿者だ」


 善兵衛が立て続けについた嘘に、とうとう腿の辺りまで木になってしまいました。


「俺はもう一度、桜と会って話が出来る」


 善兵衛が確かめる様にそう口にすると、遂には足の全てが木になってしまいました。


「そうか。そうかぁ」


 そうか、そうか、と善兵衛は繰り返しながらすっかり変わってしまった足を撫でました。何度も。何度も。何度も。

 やがて、善兵衛はある事に気付きます。


「そういえば、この木肌。これは檜か。

 ははは、仏様も粋な事をして下さる。俺が一番好きな木に変えて下さるとは」


 軽く拳で叩いてみると、コン、コンと小気味良い音が返ってきました。


「このまま沢山嘘をついていれば、俺は一本の檜の木になるのかね」


 体が檜の木に変わる気配はありません。

 善兵衛は目を瞑り、暫しの間考えます。そして、


「俺はもう一度、桜に会える」


 善兵衛はそう口にした結果に、満足するように幾度も頷きました。

 そして、道具箱から大きめのノミを手に取りました。





 一方、桜はというと、今は村を離れて海岸沿いの街道を歩いている所でした。

 歩きながらも、やはりどうしても気になります。

 何故なら、善兵衛の鼻が伸びたのは体調を問うた時だったのですから。


「注文された仏像を納めに行くのは大切な事だけれど、やっぱり戻った方が良い気がする」


 桜は歩を緩めて大分傾き始めた空を仰ぎます。既に村からはかなり歩いてしまっていました。

 日の傾き具合からして、今から戻っては途中で野宿は避けられないでしょう。

 どうしようか。桜が迷っていると、背に負った荷物から仏像が一つ、勝手に転がり出てきて桜の行く道を塞ぎました。


「仏様! オラに戻れ、と?

 でも……」


 元々町で一泊する予定だったため、野宿の用意もなければ夜の道を行く用意も桜にはありません。

 まして、いくら往来のある街道とはいえ、夜の道を女一人で行くのは憚られます。


「お~い! おお~い!」


 ふと、遠く沖の方から、何やら懐かしい声が聞こえてきました。


「鯨さん!」


 ザバリと海が持ち上がって、大きな大きな黒い体が現れます。

 それは桜が常世の国ですっかり顔なじみになっていた、あの渡し守の鯨でした。


「鯨さん、どうしてこんな所に?」


「うん、それがね、閻魔様がね。

 突然ある事ない事誰かに言われている気がして、気になって調べたら桜さんの旦那さんだったんだって!」


「善兵衛が!?」


「そう! それでね!

 嘘をついたら罰が下るのに、こんなに沢山嘘をつくの只事ではないって!

 だからね、ボクに桜さんを旦那さんの所まで急いで連れて行ってやれって!」


 鯨はよほど急いで来たのでしょう。とても早口で桜にそう話すと、今度は大きく大きく口を開けました。


「さあ、急いで!」



 そして満月が高く空に上がった頃、善兵衛の家の側の崖に、大きな鯨が身を乗り出していました。

 口の中から飛び出した桜は、髪を振り乱して家へと急ぎます。


「お前さん!」


 ノミの音の聞こえない、暗がりの家の戸を勢いよく開きます。

 バシン! 大きな音を立てて、明るい月の光が家の中へと差し込みました。

 風が入り、ザア、ザア、と波の音に混ざって葉擦れの音が響きます。


「お前さん? お前さん?」


 桜は家の中に入りながら、善兵衛を呼びます。しかし、応えはありません。


「お前さん? お前さん?」


 家の中には善兵衛の姿は無く、ただ、その代わりのように、善兵衛が仕事の為によく座っていた辺りから一本の立派な檜の木が聳え立っていました。

 高さはとても高く、屋根を突き抜けています。

 きっと天辺まで登ったならば、桜達の村どころか隣町まで見渡せることでしょう。


「お前さん? お前さん?」


 厨も厠も、桜は善兵衛を探します。しかし、居ません。

 檜の木の前に戻ってきた桜は、その枝の一本が根元から断ち切られていることに気付きました。その切り口は、何度もノミで削ったかの様です。


 はっとした桜は、檜の木へと駆け寄りました。

 そしてその根元に、二体の木彫りの像が置かれているのに気がつきました。

 桜はその像を胸にぎゅっと抱きしめます。

 そして檜の木に腕を回して、


「お前さん……お前さん……」


 そのまま三日三晩、桜は檜に縋り、泣いたのです。





「桜さん、もう良いの?」


 明け方、崖際から鯨が声をかけます。


「そろそろ、仏様の仰った刻限だから」


「そっか。それじゃあ、おいで。ボクが連れて行ってあげる」


 鯨がまた大きな口を開きます。

 そして暁の空の下、一声鳴いて沖の方へとゆっくり泳ぎ去っていきました。



 崖の側にはただ一本、大きな大きな檜の木が残されました。


長編作品も連載中です。

もしお時間が許すようでしたら、そちらも読んで頂けると大変嬉しく思います。

感想もお待ちしています。


連載作品はURLはこちら!

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