第九話 噂
伏見城内
三成一行がちょうど城に帰り着いたころ、家康は自分に割り当てた部屋で一人ほくそえんでいた。昨日のうちに主である豊臣秀頼に挨拶を済ませ、今日は一日、秀頼の後見役として政務を代行していた。
今のところ彼は一応、豊臣家の家臣として振る舞っている。だがその内心は忠義の心など、ひとかけらも持ってはいない。信用してくれた秀吉からの“秀頼成人までの後見役を家康に依頼する”という遺言を利用して、秀吉の死後は、前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の四人を差し置いて、五大老筆頭として、好き勝手に振る舞っていた。
その一例が、大名家同士の婚姻である。これは生前の秀吉によって禁止されていた。だがそれを彼は平然と破り、これを快く思わない大老の前田利家や三成の派遣した詰問の使者も追い返した。一応その後、いったんは和解したものの、その行為は野望を捨てたという意味ではなかった。
利家が病死すると、三成を嫌う加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の七将が三成を襲撃する事件が起きる。それを機に仲裁の名目で三成を引退させ、佐和山城に謹慎させた。これで利家・三成と最も邪魔だった者はいなくなった。
その翌日に五奉行が管理していた伏見城に堂々、入城。今に至る。今まで天下を狙いつつも、耐え忍んできた彼の野望の成就は目前に迫っていた。あとは、宇喜多・上杉・毛利の三大名の影響力を排除できれば、天下は自分のものとなる。
自分のところに転がり込んでくる天下のことを想像していた家康のもとに突如として、黒装束の男が現れた。石田領内に不穏な動きがないか、調査を命じていた忍である。
「殿! 石田領内の偵察、終了いたしました」
「ふむ、ご苦労だった。して?」
「はい、今のところ、挙兵等の不審な動きは見られませんでした。ただ、治部少に関する妙な噂が……」
「妙な噂?」
「はっ! 治部少が記憶喪失になったとの噂でございます。はっきりいって、眉唾物だとは思いますが……」
「なるほど……」
忍の報告を聞いても、表情をまったく変えなかった家康であったが、内心は喜んでいた。もし、その噂が本当なら自分の野望にとって、好都合だと考えたからである。露骨に家康を警戒していた三成が記憶喪失になれば、自分に反旗を翻したりとはなかなか考えなくなるだろう。もちろん家臣のものが三成をたきつけて、挙兵させるということはあるかもしれない。だが、いくら石田家中とはいえ、三成ほどの切れ者はいないはず。直接、対決するよりは楽であることに間違いはない。
「一応、その噂をもっと詳しく調べておくのじゃ」
「はっ! では、失礼いたします」
忍が立ち去り、彼はまた一人になった。ついに自分が天下人になる、そう家康は確信していた。