第二十二話 顛末、そして未来へ
関ヶ原で俺たち、西軍が大勝利を収めたことで、地方にも大きな波及があった。
まず、真田家に足止めされて本戦に間に合わなかった家康の息子、秀忠の軍勢は慌てて引き返し、ほうぼうの体で江戸城へ戻った。籠城戦の構えである。
だが、家康を失った徳川家に力はなかった。東北を抑えた上杉、佐竹、岩城の連合軍が江戸城を包囲。抗戦は無駄だと悟った秀忠は江戸城を開城した。
九州の西軍諸将の城を次々と落としていた黒田如水も、関ヶ原での東軍大敗と一日での決着を知り、諦めて自城に撤退した。
地方でそのような動きがあったなか、俺は関ヶ原に参戦した西軍諸将と共に大坂城へ向かった。
大坂城に到着してすぐ、西軍諸将一同で秀頼とその保護者の淀殿に挨拶を済ませた。まだ子供の秀頼も「ご苦労であったな」との言葉を掛けてくれたが、一番喜んでいたのは淀殿だった。「石田殿、逆賊徳川家康の討伐ご苦労であった。これで豊臣のお家は安泰じゃ」とのこと。
その後、俺は実質、豊臣家当主とも言える淀殿の意向を伺いながら、総大将だった毛利輝元や主力として活躍した宇喜多秀家らと相談しつつに諸大名の改易、減封、加増を行い始めた。
当然のことながら徳川家は改易のうえ、秀忠は切腹となった。だが、秀吉に可愛がられていた結城秀康は本領を安堵することにした。
東軍に加担した伊達家も宇和島十万石に減封、旧伊達領はそっくりそのまま上杉家に譲られた。
関ヶ原で大活躍した宇喜多さんは関東に転封の上、百万石に加増されることになった。秀家の領土だった岡山は毛利家に加増されることになった。
秀忠軍を足止めした真田家には甲斐・信濃の二国を加増した。
小早川秀秋には秀頼の後見役として関白に就任してもらい、おまけで播磨も加増した。
その他、東軍に加担した福島、加藤、細川、浅野、池田といった諸将も改易となり、八丈島行きになった。切腹も考えられたのだが、淀殿の強い意向で島流しとなった。豊臣恩顧の武将たちを殺すのは忍びないというわけである。いずれ、恩赦での小大名への復帰程度ならあるかもしれない。
前田家も同じく改易の上、島流しとなるところではあったが、家康に人質をとられていたという事情に加え、先代当主の利家に免じて八十万石から二十万石への減封処分となった。減封されたぶんの旧前田領は西軍に味方した北陸の小大名に分配された。
岐阜城で東軍に抵抗してもらった織田秀信さんには美濃、尾張の二国を与えた。岐阜城落城後、高野山に送られ、強制的に出家させられそうになっていたそうだが、西軍勝利のおかげで舞い戻ることができたのである。加増のおまけつきで。
島津、長宗我部両家にも近隣の一、二か国を加増した。
徳川と前田の抜けた五大老のポストには、関ヶ原本戦の後、江戸城包囲に参加した佐竹義宣さんと大活躍だった島津義弘さんの二人が就任することなった。
同じく五奉行の中でも、東軍に加担して改易された浅野長政が抜け、代わりに伊予一国の主となった安国寺恵瓊さんが就任することとなった。
日和見をした大名は無理に改易にはせず、豊臣家への忠誠を誓った誓紙の提出と人質の差出で不問にした。敵を多く作るのは得策ではない。
大谷吉継にも加増の提案があったが、彼は固辞した。病気が進行していているから、と。
俺も、宇喜多家と分け合う形で関東の旧徳川領を加増されることになった。淀殿は百万石でも与えようと言ってくれていたが、結局、四十万石になった。さすがに十九万石からそこまで大量に加増してもらうのは申し訳ない。
以上の処理を行い一応、関ヶ原の戦いの処分も終わった。戦いは終わったものの、今度は五奉行に復帰して、政務を行わなければならないし、四十万石になった領地の統治もしなければならない。私生活の面でもいろいろとまだやるべきことがある。
ここまで支えてくれた家臣のみんなへは、言葉で言い表せないほどの感謝で心が満ち溢れている。本当に助かった。
そして……俺は結局、現代へとは戻れないんだろうか? もしそうなら、俺はこの世界での未来へと歩み始めなければならないだろう。政務を諸大名のみなさんに任せて、引退するのもいいかもしれないが……今の俺ができることはただ一つ、前を向くだけだ。
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