第十八話 関ヶ原へと進む道
俺たちが伏見城を落としたころ、東軍に属していた細川幽斎が籠っていた田辺城が開城したとの報告があった。そのまま田辺城攻略部隊は大谷吉継の北陸方面軍へと編入させることにすると、俺はいったん、佐和山城に戻ることにした。
そして軍をもう一度、整えなおすと俺は、親族のみなさんに佐和山城の守備を任せると、動員可能な兵数ぎりぎりの6000人の兵を引き連れ、美濃の大垣城へ向かった。大垣城は伊藤盛正なる武将が城主なようだが、西軍に属している。きっと、城を提供してくれるに違いない。俺の記憶でも、なにかそういった事件が起きたという記憶もないし。
8月9日になって、俺たちは大垣城に到着した。さっそく、伊藤さんに掛け合って、城を提供してくれるように頼んだ。なかなか渋られたが、最後は承知してくれた。
15日、福島正則、池田輝政、加藤嘉明といった東軍先鋒部隊が清洲城に入ったとの報告があった。目的が美濃の制圧であることには間違いない。
大垣城の先には、西軍に属する織田秀信が城主の岐阜城がある。だが、この城は、俺の記憶では。東軍の攻撃によって落城してしまったはず。とはいっても、岐阜城はあの織田信長が築いた名城のはずだ。そうやすやすとは落ちないだろう。
だが、22日になって事態は急変した。岐阜城攻略を目指し、進撃してきた東軍先鋒部隊をなんと、織田さんが岐阜城から打って出て、迎え撃ったのだ。奮戦したようだったが、兵力差に押し負け、岐阜城に撤退したようだった。
23日、前日の勢いで、攻め寄せてきた東軍先鋒部隊に織田さんも耐えられず、どうやら降伏してしまったようだった。
だんだんと趨勢が関ヶ原へと近づいているようだった。俺は宇喜多秀家率いる伊勢方面平定軍と大谷吉継率いる北陸方面平定軍を大垣城に呼び寄せることにした。
西軍総大将である毛利輝元にも出陣要請の使者を出した。とはいえ、毛利輝元は史実では結局、関ヶ原へと来なかった。だめもとである。
9月に入り、各城に残した守備隊と大阪城駐屯部隊以外の西軍全てが大垣城に集結した。宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、島津義弘そしてあの小早川秀秋や吉川広家はもちろんのこと、史実では本戦に参加した記憶のない、立花宗茂、毛利元康、毛利秀包、鍋島勝茂、大谷吉継の傘下に入っている小野木重勝らの小大名たちの姿もあった。総大将の出馬は無理だったが、これなら……
どうやら、歴史からいい方向に少しずつ動いたらしい。運命の関ヶ原はもうすぐだ。