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本編





 高校三年生の夏、僕に一人の恋人ができた。

「好きです、私と付き合ってください!」

「えっ、あっ、いや……その」

 本当に、まさか、と口にしたくなった。生まれてこの方、恋人というか、女子というかなんというか……そういうのに全く縁が無くて、大学に入ったらなんとかなるんじゃないかと、深く考えることを拒否していた。

「勘違いとか」

 勘違いじゃないかと思った。お世辞にようやく普通といえる顔の僕が、一見しなくても優そうでかわいい女の子に告白されるなんて常識的には考えられなかったからだ。奇跡、なんらかのマジックでも無い限りあり得ないと思う。

「ち、違います! 私、ずっと前から、先輩のことを見ていて」

 僕は一体、どんな奇跡を気付かず内に成し遂げていたんだろう。こんなにも、目の前の女の子を必死な顔にさせるなんて。

「先輩、今年で卒業だから……最後のチャンスだって、自分に言い聞かせて、勇気を振り絞って」

 そのまま口をつぐんで俯く姿はとても可愛らしかった。その瞬間、全ての考えが脳から消し飛び、この子と付き合いたいと心から思えた。

「……?」

 すぐにでも返事をしようと考えた時だった。第六感なのだろうか、違和感を感じた。騙されているとか、はめられているとか、そういんじゃない。既視感、これだ。僕はこの光景を一度見て、今の心の高鳴りも体感している……?

 バカらしい。いくら心配性でネガティブな性格だと自覚していても、自分の馬鹿馬鹿しさに呆れた。

「喜んで」

「へっ?」

「付き合おう、僕で良かったら、喜んで」

「あっ……ありがとうございます!」

 この日を僕は忘れない。陽射しが強く、夏真っ盛りでシャツが汗で貼りつきそうな熱帯日だった。僕らは見つめ合い、ほとんど同時に顔を逸らした。

 外野のセミがうるさいけど、その鳴き声はどこか僕らを祝福しているようだった。











「先輩、どうですか?」

「…………」

「先輩?」

「あっ、あぁ、うん。美味しいよ、すっごく美味しい!」

「あの、無理しなくても大丈夫ですよ? 美味しくなかったら美味しくなかったで、これからまた先輩好みの味付けをできるように修行するだけですからっ」

「いや、ほんとにさ。ちょっと美味しすぎて固っちゃっただけなんだ。こういうのもらったこともなくて……作ってもらえるだけでも感動ものなのに、美味しすぎてさ、いや、ほんとに!」

 僕と彼女、鈴木大地と佐藤絵里が付き合い始めて次の日に、彼女はお弁当を作ってきてくれていた。色とりどりのおかずと、おにぎりを持ってきてくれて、昔ピクニックで母が作ってくれた弁当を思い出した。

「そんなに必死に褒めなくても大丈夫ですよ? 先輩は優しいから本当のことを言わないだけで、やっぱり不満はありますよね」

 図星だった。別に、美味しくないとか不味いわけじゃないけど、どこか物足りなさを感じていたのは本当だ。だけど、それに関して苦言することは、一所懸命作ったからもしれない彼女を傷つけるかもしれないし、不満というほどにも感じていなかった。

「でも! きっとその内、先輩をガツンと唸らせるような先輩好みの料理を作れるようになりますからっ。だから、私には遠慮しないで、不満を言ってください!」

 勢いよく両手を握りしめたせいか、サイドで一つに結んでいる髪が揺れていた。

「……」

 彼女と付き合い始めて1日目。僕は彼女のことをほとんど知らなかったけど、僕と正反対のタイプだということが判明した。

 真っすぐな目で見つめてくる。その力強さに一歩引いてしまいたくなるけど、ここで引くことはきっと、もっと傷つけることになりそうな気がした。

「えっと……それじゃあ、ちょっと味付けが」

「味付けが?」

「薄かったような気がする……」

「もぅ、なんでそんなに自信なさげに話すんですか! 先輩のことを聞いているんですから、先輩にしかわからない個性なんですよ。ほら、はっきり言ってください!」

「全体的に薄かったんだ! 特に……」

「特に?」

「この炒め物とか!」

 半ばやけくそになりながら、彼女に意見を言うと、納得してくれたのか笑顔で頷いてくれた。頷いた後、ポケットに入れていた可愛らしいメモ帳に書き込んでいった。

「ふむふむ……先輩は濃いめの味付けがいいと」

「んっ?」

「あっ、ちょっと見ないでください! 乙女の秘密なんですからぁ」

「あっ、ごめん」

 メモ帳から目をそらすと、吸い寄せられるように彼女の横顔へと目線が動いた。とても楽しそうにメモ帳に書き込んでいる。素直に可愛いと思った。

「……」

 同時に不安になった。どうしても、彼女が僕に告白するに至った経緯を知りたくなった。だって彼女……僕とはまるで違う。

「あのさ、こういうこと聞くと、ちょっとあれだけど……」

「なんですかぁ?」

「なんで僕のこと、好きになったの?」

 僕の問いに、彼女は目をキョトンとさせ、静かに息を吐いた。そして、意を決したかのようにメモ帳をやさしく抱きしめ答えてくれた。

「最初はちょっと、変わった人だと思っていたんです。部活の帰りに美術室の前を通ると、いつもいつも一人で残っていて。何を書いているんだろうかなぁ、って気になった見てみたら、紙は何も書かれていないで白紙で……変わった人だなぁ、って」

「うん…………えっ、それが理由?」

「そんなわけないじゃないですかぁ、私がそれだけで惚れるような人間だったら、先輩これから苦労することになると思いますよ?」

 確かにそうだなぁ、という意味を込めて頷き、彼女の言葉を待った。

「……あの日は、今日みたいな日と違って、雨が降っていた日なんです」

 相槌を打つと、彼女はそのまま続きを話してくれた。

「ちょうど一年前ぐらいです。部活を終え、雨が降っていたので傘をさして歩いていました。下り坂を歩き、すぐそこの公園沿いを歩いていました。そこで、先輩と、ダンボールに入れられた一匹の子犬を見つけました」

 僕には身に覚えがあった。彼女が話す内容が進むにつれ、脳裏にあの日の出来事が蘇っていった。





「う~ん」

 あの日は、雨だった。僕は、天気予報をしっかりと見ていたので傘をちゃんと持っていた。

「そんな目で見るなよ……」

 その日、僕はいつもよりも帰宅する時刻が早かった。だからなのかもしれない。

「そんな目で見られたって、僕にはどうにもできないんだ」

 一匹の子犬と出会った。

 誰かが捨てたんだろう。そいつは、質素なダンボールの中で寂しげに僕を見ていた。可愛いのが好きなわけではないけど、あんな目で見られたら誰だってその場に留まってしまいそうになるだろう。

「家はペット禁止だし……父さんは、アレルギー持ちだし。言い訳するわけじゃないけど、駄目なものは駄目なんだ」

 理由を言い訳がましく子犬に伝えるが、人語を理解できるはずもなく、子犬は元気よく一回吠えた。

「はぁ……まったく」

 伝わるはずが無い。だったら僕がここにいてもそもそもが時間の無駄だし、こいつにとっても良くないようが気がする。

 僕は心を鬼にして、その場から離れることにした。

「第一に、僕にどうにかできるような問題じゃないし、僕が気にするようなことじゃないだろ?」

 歩き出したものの、僕の頭には先ほどの子犬が残っていて離れない。

「僕のせいじゃないし、捨てた飼い主が悪いに決まってる」

 頭の中がモヤモヤとして、胃が消化不良を訴えているような気がする。ようするに僕は、後悔しているのかもしれない。

 だけど、後悔したところでどうにかなるわけじゃないことは知っていた。あの場に戻るにせよ、何か具体的な作戦が必要に思える。

 善という気持ちだけでは、あの子犬にとってもかわいそうだ。僕には、あの犬を飼うことはできないし、僕にできることといえば……あっ。

「飼い主が見つかるまでなら、たまにあそこの様子を見に行ってやることぐらいなら……できる」

 決して僕は、そこまで褒められるようなことをした覚えは無かった。僕がしたことといえば、子犬に傘を貸してあげ、一日に三回ほど様子を見に行って、餌を与えてただけだ。

 たった、四日間。子犬がその場所からいなくなったのは四日後だった。僕は安堵すると同時に、自分勝手も甚だしいことに、少しだけ切なくなっていた。






――大地さん、何でここにいるんですか?






「えっ?」

 思い出に浸っていた僕は、彼女の言葉で現実へと引き寄せられた。それだけではなく、彼女の声色が急に変化したことにも驚き、顔を上げた。

「えっ、じゃありませんよ。ちゃんと話を聞いていましたか? 恥ずかしい気持ちを抑えながら、必死に話していたんですよ?」

「あっ、ごめん……ちゃんと、話は聞いていたよ。それよりも、僕の名前を呼ばなかった?」

「呼びましたよ。先輩がどこかへトリップしていたみたいですので、先輩、せんぱ~い、って」

「…………」

 おかしい話だ。僕は確かに、大地さん、と彼女の声で呼ばれたのを聞こえた。

「ふぅ」

 深く考える必要なんてない、か。幻聴、妄想、僕の聞き間違い。あらゆる可能性があるし、きっと気のせいだろう。

 自己完結し、指に落としていた視線を彼女へと向ける。見るからに不機嫌になっていた。

「ご、ごめん! ちょっと懐かしい話だったからさ、つい……思い出に浸っていたっていうかなんというか…………ごめんなさい」

「もぅ、いいですよぉ……とにかく、私が先輩に惚れたのは、あのことがきっかけで、それからも先輩を見ていて優しい人だってわかったからなんです。わかりましたか?」

「わかりました……」

 今度は彼女が一つ深いため息をついた。

 こんなはずじゃなかったと思った。彼女のことを知って、少しでも近付くチャンスだったのにな。

 後悔しながら手持無沙汰になっていると、彼女が鞄から錠剤を取り出すのが見えた。すかさずに聞いてみる。

「えっと、それは何……かな?」

「これはですねぇ……あっ。せっかくですから、これが何か当ててみてください。当てたら……さっきのことを不問にしてもいいですよ?」

 意地悪そうな笑みを浮かべている。

 弁解のチャンス、ということか。ここは、是が非でも当てたい。せっかく彼女ができたというのに、一日で破局なんてさすがに嫌だ。

「…………」

 錠剤、何らかの薬で水を使って飲むもの。それは、彼女が手にしているミネラルウォーターで判断できる。

 だけど、そこから得られる情報はそんな当たり前のことだけ。そもそも、この問題は難しいような気がする。裸の錠剤を出されて、これはなんだ、と聞かれてもわからないのが普通だろう……んっ。

 わからない、そんな理不尽な問題を出すだろうか。

「えっと、ヒントとかは?」

「ノーヒントですっ」

 ということは、ノーヒントでもわかる問題。

 彼女は、至って健康そうに見える。全てを考慮して考えていくと、実は簡単に思いついていった。

「サプリメント……?」

 ちらっと彼女の方を見た。目を閉じていたので、違ったのかと落胆していると、急に彼女は目を開けた。正直、結構驚いた。

「正解です!」

「そ、そう……良かった」

「先輩も飲みますか? 結構周りでも飲んでいる子がいて、勧められたんですよ。コラーゲンとかはいってて、お肌がつるつるになるらしいんです!」

「へ、へぇ」

 薬は結局もらわなかった。薬なんかよりも、彼女がさっきの僕のしたことをお咎めなしにしてくれたことと、機嫌をすっかり直してくれたことが最高に嬉しかった。











 彼女、絵里と恋人になって一カ月が経ち、僕はようやく遠慮が無くなっていっていた。最初は、彼女の名前を呼び捨てで呼ぶなんて、恥ずかしくて、大げさにいえば死ぬ思いで呼んでいたけど、やっと慣れてきた。

 彼女の方はというと、明るくて人にとっつきやすい性格をしていたので、もう二日目には僕の手を握ってくるほどだった。

 僕は情けないことにも彼女にリードされながらも、楽しい日々を送っていた。

「せんぱ~いっ! こっちこっち!」

「次はあそこに行きましょう! いや、でもあっちも……いや、やっぱりあそこで!」

「先輩、先輩。これ、どう思います?」

 この日は、僕と絵里が通う高校の文化祭だった。僕は美術部の仕事と、絵里はクラスでの割り当てられた仕事。お互いにやることはあったけど、なんとか休憩時間を合わせ、二人で文化祭を楽しんでいた。

 正直、初めてだった。学校の行事でこんなに楽しむことが出来たのは。今までは、男友達と一緒にいたり、一人でぼーっとしたりしていた。その時、僕の景色は曇っていた気がする。

 だけど、絵里と二人でいると、周りの世界がきらきらと輝いているような気がする。何をしていても楽しくて、くだらないと思っていた行事さえ楽しくて仕方ない。考えると僕は、もしかしたら恋人というのにかなりの憧れを抱いていたのかもしれない。

「先輩っ、今日は楽しかったですね」

「うん、とても楽しかった」

 楽しかった文化祭も終盤に差し掛かり、キャンプファイヤーを行っていた。校庭の中央で火が灯されている。思えば、僕はキャンプファイヤーには初めて参加する。いつもこの時間の前には家へと帰宅していたからだった。

「先輩、あの……」

「んっ?」

 一つ胸が高鳴った。彼女の火に照らされる顔が、いつになく真剣だったからだ。

「一つだけ、約束してください」

 こんな顔もできるんだな、と思った。彼女の魅力をまた一つ知ることができて、得した気分だった。

「出来るだけ、思ったこと、感じたことを……私には、伝えてほしいんです」

「思ったこと、感じたことを?」

「はい」

 思ったこと、感じたことを僕は伝えていなかっただろうか。僕は一カ月を振り返る。そこで、ほとんど伝えていないことに気付いた。大切なことをいつも僕は、胸の内に秘めている。

「先輩がシャイだってことはわかっていましたけど……やっぱり、私がこんな大っぴらな性格ですから。先輩の思ったことや感じたことを共有したい。楽しいことも悲しいことも、悩みだって。何よりも……先輩のことをもっと知りたいんです」

「……ごめん」

「あと、あまり謝らないでください。謝ることってそんな気安いものじゃないと思うんです。ここぞというときに謝ることで、深みが増すと思いますしねっ」

「うん、わかった。これからは、自分の考えてることを伝られるようにするから。頑張るよ」

 彼女は笑顔で頷いてくれた。もう一つ、僕の胸が高鳴る。

 あぁ、きっと僕は、彼女のことが……

「好きだ」

 最初は、多分違かった。可愛いということと、僕に告白してくれただけということで、彼女を受け入れていた。

 言ってしまえば、誰でも良かったのかもしれない。でも今は、彼女で良かった……いや違う。絵里が良い。

 可愛くて、僕と違って前向きで、とても明るくて……そんあ魅力に溢れた彼女が、好きだ。それこそ、絵里以外の全てがどうでもいいほどに。

「へっ!? せ、先輩。急に何言っちゃってるんですか!」

「えっ、だって、さっき……」

「時と場合によります! 先輩はそんなことも判断できないんですか……もぅ」

 唇を尖らせ、そっぽを向いてしまった。燃え盛る火が照らしているせいかはわからないけど、絵里の横顔がどことなく紅潮している気がした。

「あの、先輩……?」

「何?」

「私も、その……好き、です」

「…………うん」

 すごく恥ずかしい。やっぱり、こういうのには慣れることは一生できないんだろうと思った。

 絵里もそうなのだろうか。伏し目がちに僕をちらちらと見ている。

 甘い雰囲気。恋人同士の、二人だけの空間。

 いくなら今いくべきなのだろうか。今までは、彼女にリードされっぱなしだったし、次のステップぐらいは、僕がリードすると秘かに心に決めていた。

 おそらく、このチャンスを逃したら僕は一生情けないままで終りそうな気がする。踏み出すなら、今だ。

「絵里、その」

 目があった。僕は、彼女の瞳に吸い込まれるように徐々に顔を近づけていった。

「は、はい……先輩」

 僕がやろうとしていることを察してくれたのか、目を閉じて受け入れてくれるようだ。どんどん近付いていく。それに応じてどんどん動機も激しくなっていく。

 唇と唇がもう少しで近付く。僕も、目を閉じた。






――大地さん、いつまでここにいるつもりですか?






「!?」

 またあの声が聞こえた。痺れるような寒気で、現実へと戻された気がする。

 目の前の彼女を見るが、目をつぶったままだ。辺りを見渡してみるが、誰も近くには人が見渡らない。

 再び、絵里へと視線を戻す。変わった様子は見られないので、またキョロキョロと視線を彷徨わせていた。

 あの声だ。あの時、思い出に浸っていた時に聞こえた絵里の発したと思われる声。でも今回も彼女では無さそうだし……せっかく、いい雰囲気で。

「あっ」

 三度彼女の方へ目を向けると、茹でタコのように顔を赤くしていた。ほっぺもかなり膨らませている。

 そりゃあそうだ。思わせぶりなっことをしておいて、放置していたんだから。僕はすぐさま謝ろうと試みた。

「先輩!」

「は、はい!」

 咄嗟に返事をしたその時だった。絵里は僕の体を倒すように飛び込んできた。

「先輩が悪いんですからね……いつまでも待たせるから」

 地面に倒された僕の唇に、やわらかな感触があった。

「あの、ごめん……」

「謝らないでください!」

「……うん」

 絵里が望んていることを察した僕は、今度は自分から彼女の唇に自分の唇を重ねた。僕は、彼女のことを一生リードすることはできなさそうだと感じていた。











 ファーストキスを交わしたあの日が境だった。

 一緒に初詣に行ったり、スキー、花見、海。恋人らしく、遊園地や水族館、映画を見に行ったり、考え付くことをしたと思う。

 マンネリ化するんじゃないかと心配だったけどそんなことは無く、一緒にいるだけで楽しい気持ちになれ、どんな些細なことでもお互いに共有することができた。

 一つ年は離れていたけど、無事同じ大学にだって入ることもできて、同じ時間をより多く過ごせた。

「大地さ~ん、こっちこっち!」

「あっ、うん。お待たせ」

「大丈夫、そんなに待ってませんから」

 付き合い始めて6年が過ぎていた。

 もう6年か、と言いたくもなるけど、僕にとってはまだ6年だった。今だ彼女と過ごす時間は新鮮で、世界を輝かせていた。

「仕事、どうですか? 慣れました?」

 まだ絵里は、僕に対して中途半端に敬語を使っていた。彼女曰く、ある種のけじめらしい。僕としては、別に敬語を使われていても距離を感じることは無かったので、絵里の思う通りにさせようと思っていた。

「うん。絵里には言ってたけど、最初は大変だったけどね……やっぱり、好きなことを仕事に出来て良かった」

「それは良かったですねっ」

「絵里のおかげだよ」

 僕はひと足早く就職していた。就職先は、恥ずかしながら絵里のコネで、知り合いの美術館で雇ってもらえることになった。まさか絵里の叔父が美術館の館長をやっているとは知らなくて、狭き門と聞いていた職につけたのは幸いだった。

 こうして思えば、絵里が学芸員の資格を強引に取らせたのもそのためだったのだと思う。

「あぁ~、私も来年から仕事かぁ。嬉しいような、嬉しくないようなぁ」

「なんで? 絵里は働くの楽しみにしてたよね?」

「もぅ、大地さんと過ごせる時間が少なくなっちゃうからに決まってるじゃないですか」

 僕達は、6年付き合い続けているけど、どちらかといえば健全的な付き合いをしていた。お互いに実家を離れて一人暮らしをしていて、同棲という段階にも入っていなかった。

 それには理由がある。どうせなら同棲しようと絵里に話したら、彼女はこういった。

『大学生の間は、お互いに一人暮らしにしましょう! やっぱり、お互いがお互いを助け合う関係であるためには、あまりに依存しすぎてしまうと生活に支障が出てしまうかもしれません。なので、お互いにスキルを磨いて、お互い成長しあう関係でいることが大切だと思います、えっへんっ!』と、僕に提案してきた。

 一時の一緒にいたい、というだけの気持ちを優先しない彼女の意見には感心した。やっぱり彼女は、僕にもったいない女性であることを認識したと同時に、大学生活で自身を改め、彼女に見合う男になることを決意した。

 そういう男になれたかはわからないけど、結果的に見て、一人暮らしをしたことは正解だったと思う。

「その話なんだけどさ……」

 あと少しで彼女は大学を卒業する。

 僕は今日、彼女に同棲と……婚約を申し込むつもりだった。あまり高いとはいえないけど、給料を貯めて買った指輪もある。

「――明日って、何の日かわかりますか?」

「えっ、あ、明日?」

「はいっ」

 出鼻を挫かれた気分だった。これでも、結構勇気を振り絞っていた。モヤモヤした気持ちで絵里の表情を見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 もしかしたら、絵里はわかっているのかもしれない。となれば、明日にしろ、ってことなのかな。

 素早く僕は手帳のカレンダーを見た。平成5年、12月23日だった。

「明日は……」

 明日は、何だっけ。12月24日。確か、確か……確か。記憶が抜け落ちている感覚がする。そういえば、去年僕はク…………に何を。

 あっ、そうか、思い出した。

「クリ――――」






――大地さん。






「…………クリスマス、イブ」

 その単語を口にした途端、おぞましい恐怖と、寒気に襲われた。

 また、あの声も聞こえた。すっかり忘れていたけど、これで三度目。今までで一番大きく呼びかけていた気がする。それに、確信した。あの声が、どこから聞こえているか。

 あの声は、僕の脳の奥の奥の奥の……一番深い、根元から伝わってきている。警鐘が振動し、鳴っている。

「大地さん……大地さん、大地さんっ!」

「あっ……絵里、どうした?」

「どうしたじゃないですよ。大地さん、急に止まちゃって大丈夫ですか? 明日は、私達にとって大切な日なんですよ?」

「大切な……日」

「そう、去年、約束……したじゃないですか」

 大切な日、約束。

 思い出そうにも、ノイズがひどくて何も見えない気がする。おかしい、自分の記憶なのに、靄がかかっているなんて。

 僕は去年の明日、何を、約束したんだ。

「来年のクリスマスイブに、大切な話をするって」

「!?」

 彼女の言葉が、僕の頭の中にあった霧をはらしていった。

 気がつくと僕は、去年のクリスマスイブの出来事を思い返していた。





「そろそろさ、あの……一緒に暮らしてみない?」

「えっ?」

 去年のクリスマスイブ、僕達は例年と同じように恋人らしく街を歩き、僕の部屋で二人だけのクリスマスパーティーをしていた。12月25日は、絵里は家族でクリスマスの催し事を毎年するらしい。無事大学を卒業し、仕事を始めたら参加させてもらおうと秘かに考えていた。

「だからさ、僕ももう卒業して、絵里のおかげで希望の職につくこともできたしさ。そろそろ、一緒に暮らそう」

「ん~……そんなキリッとした顔されると困るなぁ」

 もちろん僕はこの時既に、彼女と結婚したいと考えていた。それに彼女もそう思ってくれているのだと確信していた。

「でも駄目です!」

「……えっ」

「一度決めたことを取り消すなんて、この鈴木絵里の名に誓ってそんなことはさせません……でも」

「でも?」

「ちょうど、来年のクリスマスイブになったら、考えは変わってると思います。一緒に暮らすことだけじゃなく、その先のことも……」

「そっか」

「はい」

「じゃ……来年のイブに、そのことも含めて、大切な話をするよ」

「……はい」

 見慣れたはずの彼女の顔が、いつになく嬉しそうだったのが印象的で、僕も嬉しくてしょうがなかったことを覚えている。

 僕達の関係は来年、変わる。

 そのことを僕は、大切に大切に……心の中に閉まっていた。





 あぁ、そうだった。僕は絵里と、大切なことを約束していたはずだった。それなのになぜ、そのことがまるっきり記憶の中から抜け落ちていたのだろう。

 そうじゃない。冷静に考えると、僕が忘れていたのはそうじゃない。

「ッ……頭が、痛い」

 12月24日、12月25日。

 この二つの日だけが、僕の記憶の中からすっぽり消えていた。きれいさっぱり。どうして、どうして……僕の記憶は、そうなってしまっている?

「くっ……なんだ、この……」

 脳が、僕に対して深く考えていることを拒絶しているように思える。考えるな、考えるなと、僕に痛さを与えているような気がする。

「大地さん、この薬を飲めば楽になりますよ」

 あまりの痛みに気が狂いそうになり悶絶していると、目の前に2粒の錠剤が差し出されていた。その薬に見覚えがあった。確か、絵里がずっと飲んでいるサプリメントだ。

「うん……」

 差し出された錠剤を受け取った。痛みに耐えきれず、考えられないこともあった。僕はいわれるがまま薬を飲んだ。

「あっ」

 すーっと痛みが消えていく。それと同時に、記憶が抜け落ちていることに対しての違和感も綺麗に消えた。

「絵里、それじゃあ……明日、大切な話があるから」

「はい、わかりました」

 その日、明日の約束を取り付け絵里と別れた。別れ際に、彼女からさっきの薬を瓶ごと寄こされた。

「頭が痛くなったり、気分が悪くなったら飲んでくださいね。その薬は、大地さんを正常な形へと戻す良薬ですから。飲めば飲んだ分だけ効果もありますので、用量を気にしなくて大丈夫ですよ」

「ありがとう」

 家へ帰宅すると、先ほどの痛みが再発した。僕は深く考えることはなく、2粒の薬を飲んだ。しかし、痛みが収まらなかったのでもう2粒飲んだ。すると、すごく安心した気分になれた。

 その晩、僕はぐっすりと眠りについた。







 次の日の朝は、目覚めがすごく良かった。

「う~ん……よく寝たなぁ」

 時計を見ると、既に11時を回っていた。そりゃあそうだ、昨日は夜の11時に寝たんだから、12時間も寝たことになるわけだ。

「いやいや、まさか。大事な日に寝坊するなんてありえないよ」

 現実だとは思えず、もう一度時計を見た。やはり、11時を指している。

「や、やば――――」

 急いで待ち合わせの場所まで向かわなければいけないと思った時だった。自らの体が、二つあるような感覚に襲われた。

 デジャブ。

 妙な既視感だった。

「あの時と同じだ。あの日、絵里に告白された時に感じた妙な感覚」

 違和感がある。それも何か重要なこと。それに、不吉な予感もする。

「でも……」

 嫌な予感がした。直感的に電話の方へ視線を動かしていた。

 今日の大切なデートを中止にするべきだと思った。けど、この時間、もう既に絵里は家を出ているはず。

「どうする、どうする……?」

 ぐるぐると頭を色々な考えが回っていく。いつのまにか、頭の中は不安という気持ちで埋め尽くされてしまっていた。

 いくら考えても考えても、僕にできることは早く絵里に会うということしかなかった。

「頭が、また……」

 ズキズキと頭が痛む。信じられないほどの激痛だった。その痛みに耐えるすべは無く、僕は薬を4粒飲んだ。

 しかし、痛みが引くことは無かった。無意識に、さらに4粒飲んでいた。

「ふぅ……」

 痛みは消えた。僕は急いで待ち合わせの場所へと向かうことにした。






 待ち合わせの場所は、街で一番大きいデパートの前だった。僕が住んでいるマンションからは徒歩で15分。なので、バスを使うよりは走った方が早かった。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 どうしても息が荒くなってしまう。それに、心臓も。ドクドクと震えてうっとおしい。もうすぐ絵里に会えるというのに、心臓が跳ね上がり、僕の行動を自制しようと試みているように思える。

「ふぅ」

 駅にたどり着いた。後は、駅内を抜けて、デパートへと続く大きな交差点を抜けたそこに絵里がいるはずだ。いつものように笑顔で、こっちこっち、と僕を迎え入れてくれるはずだ。

 あと一息で会えると思い、さらにスピードを上げようと思った。だけど、心臓が一際大きく跳ね、スピードを緩めざる負えなかった。

 自分の運動不足を恥じ、明日からランニングでも始めようと考えていた。

「はぁ、はぁ……」

 ようやくたどり着いた。後はこの赤信号を渡ればそこに絵里が……

「あっ」

 僕の姿に気がついたのか、絵里は交差点の先で手を振っていた。遅れたことに対して申し訳ない気持ちになりながら、遠慮がちに手を振り返していた。

 クリスマスイブのせいか、いつもより人が多い気がする。交差点を渡ろうとする人が溢れそうなほどだ。

 信号が青になる。待ちきれない人々も同時に動きだしていた。絵里も、そこで待っていればいいのに僕の方へと向かって歩き出していた。

 僕は、今日という日が、新たな幸せを生み出してくれる大切な日になると、確信していた……その時だった。

 視界の右奥に、一台の大型トラックが急に入ってきた。駐車していた車を巻き込みながらがむしゃらに進行している。

 ほとんど同時に、僕の周りにいた人々がざわめき始めていた。

 トラックがスローモーションのように遅く、むこう側の人だかりへと突っ込む様子が見える。

「…………」

 僕は、呆然としていた。違う意味で。

 僕は……

 僕は、僕は。



――この地獄のような光景を知っている。



 その瞬間、世界は停止した。色が無くなり、白黒の物体がそこらに点在するだけ。

「大地さ~ん!」

 トラックが突っ込んだ先の場所から、笑顔で絵里が駆けてくる。

「もぅ、大地さん。どうしてこんな日に遅刻するんですか!」

 目の前に絵里がいる。

 この世界の中で唯一色がある、許された存在。

 彼女の存在は、この世界では違和感だらけだった。

「絵里、君は……どうして」

 僕は全てを無視すればいいのに……もう、無視することなんかできなかった。

「はい?」

「どうして、生きているんだ」

 その言葉を合図に、今度こそ全ての存在が白と黒に統一された。









 平成5年12月24日。その日、一台の大型トラックがある交差点に赤信号なのにも関わらず突っ込んだ。取り調べによると、運転者は過酷な労働環境のせいで、過度な疲労を抱えていたそうだ。もっとはやくに倒れていればよかったのかもしれない。運転手は、ハンドルを握り、アクセルペダルを踏んだまま失神した。

 不幸は重なるものだ。日付はクリスマスイブ。当然のように街は賑わっていた。死者12名、重軽症者45名。犠牲者の数が惨状を語っている。佐藤絵里。僕の恋人である彼女も、僕の目の前でその事故に巻き込まれ死亡した。

 ほんの一瞬だった。一瞬のうちに、笑顔で手を振っていた彼女は、トラックのタイヤに服を巻き込まれ、ボロボロになっていた。おおよそ、それは、人としての風貌を失っていた。

僕は後悔した。彼女との待ち合わせの時刻に遅れたことを。明日大切なことを伝えるという重圧に悩まされ、睡眠薬に頼って眠りについてしまったことに。

 素直に、眠れないなら眠れないで良かった。目の下に隈を作ってでも、彼女との待ち合わせに遅れるべきじゃなかった。

 どんなに後悔しても、絵里はもう僕の元へ現れることなんて無かった。









「絵里がいない日常なんか、僕には考えられなかった」

 あの日から、僕は立ち直ろうと考えながらも、時が経つ度、彼女との想いでが風化することはなく、少しずつ、少しずつ……おかしくなっていった。

 仕事を続けてはいたものの、酒やたばこに身を任せつづける日が続いた。

「いつだったかなぁ。確か、絵里が死んだ三ヶ月後……」

 僕はどうしても眠りにつけず、忌み嫌い続けていた睡眠薬に手を出した。その日僕は、あの日以来、初めての快眠を得ることが出来た。ぐっすりと、心地良かった……それに、夢も見た。

「夢の中で、絵里に……会えたんだ」

 夢とは思えないほどにリアルだった。彼女がそこにいるだけじゃなく、息遣いさえも感じ取ることが出来た。

 絵里と過ごす時間は、幸せだった。

「絵里に会いたくて、僕はまた薬を飲んだ。だけど、絵里が現れることは無かった。だから、今度は薬を増やしてみた。そうすると、絵里とまた会うことができたんだ……」

 その繰り返しだった。

 僕は絵里と会いたくて、会える時間を少しでも長くしたくて、一度に服用する薬の量を増やしていった。脳がとろけるような感覚がする世界で僕は、ひたすらに幸せだった。

 次第に僕は、現実の世界に対する興味を完全に失い、仕事を止めていた。その後はただただ、睡眠薬を飲んで寝ている日々が続いていた。

「その後の記憶は無い。僕はきっと、睡眠薬を飲みすぎたんだろう。多分現実では、意識を失っているか……それとも」

 白黒になってしまった世界の絵里を見る。

 僕は本当は気付いていた。この世界は僕の頭の中の記憶になぞられて創られた世界だと。その証拠に、この六年間、僕は絵里と過ごした日々以外のことをほとんど覚えていない。というよりは、知らない。

「それに、絵里はサプリメントなんて飲んでないし。それに時々、彼女が彼女であって、自然体の彼女でも無い気がした」

 何回も違和感を感じてはいた。でも僕は、そのことをあえて無視していた。だって、この世界で過ごす時間は幸せで仕方無かったから。

「だけどもう……この世界は」

 この世界で僕が絵里と過ごす時間には限界があった。それが今日、平成5年12月24日。

 僕は、これ以降の彼女を知らない。だから、これ以上の世界も創ることはできなかった。

 絵里に渡されたこの薬は、彼女が僕に告げた様に僕を正常へと戻してしまう薬。深い眠りにつかせ、この世界から解放させてしまう睡眠薬。

「この世界は終わりだ。例え、この先を続けられたとしても、僕はこれ以上絵里にたいする違和感をぬぐいきることができなかったと思う。気付いてしまったら最後、ここは僕にとって楽園ではなく、ただの現実の世界と変わらない地獄になってしまう……」

 なぜかポケットに入っていた睡眠薬のビンを取り出し、中に入っている全ての錠剤を手のひらへと晒した。

 これを飲めば僕は、確実にこの世界からどこかへと旅立つ。

「…………」

 動かなくなってしまった絵里の抜けがらをもう一度だけ見た。さして後悔などなく、僕は薬を躊躇わず飲み込んだ。

「絵里、また……」

 言いきる間もなく、僕の視界はブラックアウトした。







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