私は今日、髪を切った。
今日私は、髪を切った。五年間思い焦がれたあの人にフラれ、あの人がいるからこそ今まで生きてこれた私は、生きる意味を失った。だからこれからは、夢のために生きて行く。
「どうしよっかな」
満面の笑みを浮かべたショートヘアの私が、iPhoneの画面に映っている。決定ボタンを押して、一言“間もなく夏ということで、暑いからバッサリ切っちゃった”と付け加え送信ボタンを押す。最近流行っている、SMSの一言機能だ。
iPhoneを鞄にしまって、思い切りのびをする。そのまま私は倒れこんだ。街の中心をゆったりと流れる川の堤防。芝の上に寝転がった。明日からは、待ちに待った夏休みだ。高校生活最後の夏休み。みんなが勉強に追われる中、私はのんきに空を見上げる。
大学に行く気はなかった。夢のために私はこの街を出て、遠くのもっと大きくて人のたくさんいる街に行く。専門学校に入学して、寮に入る。両親ともしばらくお別れだ。母は私が専門学校に入ることをなかなか許してくれなかったが、日頃からよく話のあった父が私の見方になってくれ、なんとか行くことを許可された。それに、もしダメだと思ったら、いつでも戻ってきていいとまで言ってくれた。自営業で、のんびりと小さな雑貨屋を営んでいる両親は、後を継げとも言わず、ただ道がなくなったらここに帰って来いと言うのだ。最初から最後まで、凄く優しくて暖かい両親だった。
「あぁ、でもやっぱり、悔しいな」
分かってたんだ、初めから。フラれると、知っていた。だから、この街での最後の思い出にと、五年間何も言わずただ友達として接していた彼に、告白した。案の定フラれて、ずっと伸ばしてきた、彼の好きだと言った長い髪を切り、今私はここにいる。
明日からの夏休み、勉強するでもない私は一体、何をすればいいのだろう。
頬を伝いそうになる涙を、私は腕で隠した。まるで太陽の光が眩しくて目隠しするかのように。
「なあゆうりん、遊びに行かないか?」
頭上で声がした。そっと目を開き、腕から覗くその顔を見る。
「その呼び方、好い加減やめなさいよ」
私は口元をほころばせる。
「いいじゃんかよ。俺が命名したんだ、好きに呼ばせろ」
その人は、真っ白な歯を見せて楽しげな笑みを浮かべた。
「そんなことより、お前明日から暇だろ? ちょっと付き合えよ」
「付き合うって、どこ行くの?」
「そこまでは考えてなかったな」
「全く、大地は相変わらずね」
彼の名は大地。その暖かな笑みに最もふさわしい名だと私は思っている。
「なぁ夕凛、お前はどこに行きたい?」
夕凛、これが私の名前。少し変わっていて、ゆからうにかけて下がるのではなく、そねまま抑揚をつけずに最後まで、ゆうりと言う。
「そうね……たまには少し遠くに、出かけてみるのもいいかも」
特に深い考えがあったわけでもない。ただなんとなくそう呟いただけだったが、大地は何かいい案を思いついたらしく、目を輝かせて一気にまくしたてる。
「そうだよ、もう高校生も終わりの夏なんだ、だったら思い切ったことしようぜ!」
「思い切ったこと?」
「そうだ、旅行に行こう!」
「それ、いいかも」
……えっ、と頭の中にハテナマークが踊り出す前に、私はそう言っていた。
「だろ! 流石に考えなしに行くのはきついから……そうだ、俺の実家こないか?」
大地の実家。山奥の田舎町で、自然たっぷりの良いところ。そんなことを考え出したら、もう行く以外の手は考えられない。
「うん、行こう! そしてたくさん遊ぼう」
「あぁ、最後の思い出くらい、盛大にしようぜ!」
大地も私同様、大学には行かないたちなので気楽に遊べる。私に訪れるはずだった空虚な夏休みは、大地によって楽しみなものへと変わっていったのだ。
「じゃあ明日、夕凛を迎えにいくよ。時間は……そうだな、十時前後。行く場所が実家だからそんな費用もいらねぇし、一週間くらいパーッと遊ぼうぜ」
「うん、待ってる」
それから大地はバイトがあるからと言って悠然と走り去った。私はこのことを両親に伝えるため、真っ直ぐ家へと帰る。からだが軽いと感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
翌日、私は朝六時には目が覚めてしまった。まだまだ時間に余裕はあるのに、どうやら楽しみすぎて待ちきれないようだ。
両親は大地の実家に暫く遊びにいくと伝えたら笑顔で了承してくれた。粗相のないようにとだけ言われ、後は思い切り楽しめと。あいもかわらずいい両親だ。
昨日家に帰ってすぐ用意した荷物を見つめながら、私は無意識に足をフラフラさせていた。
そして約束の時間がやってくる。玄関のチャイムが鳴らされ、母が出る。そして一階から私の名を呼んだ。
「夕凛ちゃん、大地君がいらっしゃったわよ」
「はーい、今行きます」
私は荷物をひょいと持ち上げ、足取り軽く階段を駆け下り玄関へ向かう。途中で店に出てる父に小声でいってきますと声をかけ、ペットのラブラドールレトリバーにハグをする。
「お待たせ。じゃあいってきます」
お気に入りのスニーカーを履いて、大地と母に声をかける。
「はい、いってらっしゃい。大地君、夕凛をよろしくね」
「はい、もちろんです。では、いってきます」
外まで出てきて見送りをしてくれる母の視線を背に、私達はその歩を進めた。
目的地までは電車とバスを乗り継いで行く。約二時間ほどで着く予定だ。
「本当に良かったのか、あの場所で」
大地が今更ながら尋ねてくる。私は笑顔で首を縦に振る。
「当たり前でしょ。ずっと、行きたかった場所なんだもの」
ずっと、行きたかった。帰りたかった、私の故郷。そう、あの場所で私は育ち、大地と出会ったのだ。
「両親とも店が忙しくて、私がこっちにきてから一度も帰れてなかったの。我が儘言えないし、それにすごく優しくしてくれて……帰りたいとか言ったら、心配かけちゃうから」
だから大地が誘ってくれて嬉しかった、とまでは言えなかった。けど、今はすごく大地に感謝している。
「そっか、なら良かったよ。俺の親もお前に会えるの楽しみにしてた」
バスにゆられながら、暫くの間他愛もない会話を楽しむ私達。乗客は他に、誰もいない。その静かな空間で私は何時の間にか、大地に凭れ眠っていたらしい。軽く肩をゆすられ目を覚ますと、窓の外には見慣れた景色が広がっていた。
「次で降りるぞ」
きっと重かっただろうに。大地は何も言わず私の体を支えていてくれた。私も安心してその身を委ねた。大地は優しくて、私にとっていつまでもいい友達だった。そう、いつまでも……。胸の奥に何かが引っかかったが、私はそれを無視した。今それを気にしてしまうと、きっと私は後悔するから。
『間もなく、終点、終点です。お降りの際は、足元の段差に気をつけ、お忘れ物のございませんよう、ご確認ください』
無機質な機会音と、平坦なアナウンスの声が車内に響き渡る。私達は顔を見合わせ、ゆっくりとその腰を持ち上げた。
バス停から歩いて数分。そこに彼の実家があるのだ。
「旅行鞄、貸せよ。持って行ってやる」
「え、いいよ。そんな重くないし」
「いいから、友達サービスってやつだよ」
大地はバスから降りると、私が抱えていた鞄を横から軽々奪い取った。さっきまで私が凭れていたのだからただでさえ疲れているのに。悪いと思いながらもその言葉に甘えることにした。こういう時意地でも譲らないのが大地という人間である。手持ち無沙汰となった私は、仕方なしに貴重品や必需品のみが入った小さな肩掛け鞄を手でいじった。
「全く、大地は女の子に甘いんだから」
「何言ってんだ。こんなことしてやるのは夕凛だけだよ」
平然となんのためらいもなく言ってのける大地に思わず苦笑。いつまでもそこにいるわけに行かないので、ゆっくりと家へと続く道へと足を踏み出した。
歩きながらもいろいろな会話をした。内容はいたって単純で、晴れて良かっただとか、空気が綺麗だとか、今日は何をしようかとか、そんな話。でも私は楽しかった。大地の紡ぐ言葉の一言一句が心地よかった。
あっという間に家が見えてくる。
「いらっしゃい。待ってたわよ」
大地のお母さんが玄関前出てを降って待っている。私は軽く走って彼女の元へ行く。大地は大荷物なので流石にそんな余裕はないらしく、普通に歩いて少しずつこちらに近づいてくる。
「おばさん、お久しぶりです」
「あらまぁ、夕凛ちゃんもこんな大きくなって……。何年ぶりかしらねぇ」
「五年です。私がここを出たのがちょうど中学生初の夏でしたから」
「そうだったわね。大地も、そっちでうまくやってるみたいで安心したわ」
心底嬉しそうな笑みを見せておばさんは微笑んだ。大地のあの暖かな笑顔はおばさん譲りかもしれない。
「髪が短いのはあの頃と変わらないわね」
「実は、昨日切ったばかりなんです。それまでは結構伸ばしてたんですよ」
私は髪を手の甲で掻き上げながら少しおどけて言ってみせた。
「あらあら、髪の長い夕凛ちゃん見てみたかったのに、残念だわ。でも、夕凛ちゃんが可愛らしいのは何も変わらないわ」
「またまた、褒め上手なんだから。良かったら写真で髪を切る前の私、見てみますか?」
と、そんな軽い話をしている間に大地も辿り着いた。
「ただいま、母さん。こんなところで立ち話もなんだし、家入ろうぜ」
「そうね、二人とも疲れているでしょうに。昼食はもう用意できているわ。どうぞ、いらっしゃいませ、そしてお帰りなさい」
玄関の扉を開いて私達を招き入れてくれる。そのまま大地は何の迷いもなく広間まで行き、二つの大きな荷物をその隅に置いた。
「ありがとう、すごく助かったよ」
「どういたしまして。荷物は飯食い終わったらそれぞれ部屋に持っていけばいいし。そうそう、夕凛の部屋は、空き部屋があるからそこでいいか?」
「あ、あの大地の部屋の向かいの?」
私は幼い頃よく遊びにきた、あの時の様子を思い浮かべる。
「そうそう、よく覚えてたな。昨日母さんに連絡しといたから、多分布団とかはもう用意してあると思う」
「何から何まで、本当にありがとう。何だか申し」
「申し訳ないとかいうなよ。こっちは好きでやってんだからな。それに誘ったのは俺だし……礼を言うのも、まだ早いぜ」
いたずらな笑みを浮かべ、大地は私の手を引き駆け足でて洗い場へ向かう。
「俺もう腹ペコ。早く飯食っちまおうぜ!」
そういえば私も、さっきから空腹感を覚えていたな。
「うん! 久し振りだなぁ、大地のお母さんの手料理。楽しみ」
大地に手を引かれながら、私は満面の笑みを浮かべるのだった。
「んーー、美味しい!」
「だろ? その辺のスーパーで買うより遥かに美味いぜ。甘さが全く違う」
昼食後、二人は縁側に並んで採れたてのスイカにかぶりついた。大地のお父さんが丹精込めて作った最高の一品だ。二人の顔は満面の笑みに包み込まれた。間もなく、お皿の上は艶のある黒い種と綺麗に実が食べられたスイカの皮だけになった。
「さて、そろそろ遊びにいきますか! 夕凛、どこ行きたい?」
「私は……大地の行きたいとこに、行ってみたいかな」
「うーん、そうだなぁ。とは言っても、この辺りはもう子どもの時に散々見て回ったしな」
腕を組んで考え出した大地に私は一つ提案する。
「だったら、そこをもう一度見て回ろうよ。新しい発見や、変わってることがあるかもよ?」
なんとなくの提案だった。けど、大地はすごく気に入ったらしく何度も頷いた。
「それいいな! そうしよう」
それから私たちは、目の前に広がる山を登った。もともと動きやすい格好をしていたので安心だ。もちろん、難所はいくつもあって、危険なところは昔同様大地が手助けしてくれた。それにしても、運動部に入っていて良かったと私は心から思う。子どもの頃はもう少し楽にいけてたのに、今はだいぶ体力が削られた。体が大きくなったせいもあるかもしれないし、三年生はもう部活を引退しているので、最近しっかり運動していなかったせいもあるかもしれない。その点大地は全く堪えていない様子だ。
その日は山で散々遊んで、夕暮れに家へ戻った。
夜、私は空き部屋に持ってきた荷物を並べた。恥ずかしながら、昔両親に買ってもらったくまのぬいぐるみを、敷かれた布団の上に乗せる。その部屋には小さな机と椅子のセットがあって、私は机の上に課題を置いた。流石に泊まっている間全く課題に手を付けないわけにはいかない。いくら大学受験をしないと言っても、課題の量が変化するわけではない。夏休み終盤には願書を出さなければいけないし、課題はさっさと終わらせるに限る。丁寧に問題冊子を並べ、その中で一番目に付いた数学の問題を開こうとすると、部屋のドアがノックされた。
「夕凛、星が綺麗なんだ。外に出て一緒に見ないか?」
大地だ。私は課題はひとまず置いといて、促されるまま大地と小高い丘の上に行った。
「あの街で見る星もいいけど、ここのがやっぱ綺麗だな」
「そうだね、このシンとした雰囲気も私大好き」
「あの頃も、こうして二人でよく星をみたよな」
「うん……」
あの頃と言うのは、もちろん子どもの頃。私がまだここに住んでいた時のことだろう。思いして不意に泣きそうになり、誤魔化すように伸びをしてその場に寝転がる。
「あの頃は本当に毎日が楽しかったな」
どちらともなく呟いて空を仰いだ。いつからこんなに、なってしまったんだろう。
次の日も思い出巡りは続いた。川に行き水の掛け合いをしては魚を見つけて捕まえようとしびしょ濡れになったり、田畑に行っては人々と触れ合いお手伝いをし野菜をもらった。自ら捕まえた魚を食べ、貰ったトマトにかぶりつく。そんなこんなで一日が過ぎる。
次の日も、また次の日も、同じようにして時を過ごし、思い出巡りは続いたのだった。
そして五日目。それは起こった。
その日はすごい雨で、このんで外に出ようとするものは誰もいなかった。大地の両親は大切な用事だとかで早朝から出かけており、家には私と大地の二人だけだった。どうしようもなくただ暇を持て余すだけだったので、二人並んで課題をやった。勉強があまり得意ではない大地の手助けをしながら地道に進めていくと、何時の間にか数学と理科の冊子は終わり、国語も残すは古典分野だけとなっていた。英語に関しては、まださきがありそうだった。
午前はずっと勉強につかった。いつも夏休み終盤に課題が終わらないと嘆いている大地ですら、集中してやれたおかげか数学は終わらせることができた。
昼食は私が適当に作って食べた。午後からはなにをしようか、と思っていると、大地は部屋からトランプやら花札やら将棋やらたくさんの遊び道具を持ってきたので、当分暇になることはなさそうだった。
散々遊んだ私たちは疲れて少し昼寝をした。というより、二人とも何時の間にか寝てしまったのだ。
眠り込んで数時間。突然、あたり一面が眩しい光に包まれた。一瞬にして光は収まり、闇が訪れる。
「な、に……?」
私は急なことに驚き目を覚ました。相も変わらず雨は降り続いている。つけていたはずの扇風機が消えていることに気づき、また部屋中が闇に包まれていることにも気づく。昼間でも雨で太陽の光が届かなかったから、電気をつけていたはずだ。なぜ消えているのだろう。首を傾げようとした瞬間だった。
「いやっ」
激しい炸裂音が私の耳に入り響く。そして先ほどよりも激しい光が目を刺激し消えていく。どちらもほとんど同時に訪れる。流石のことに、大地も目を覚まし体を起こした。
「どうした……悲鳴が聞えたような」
「あ、いや、その。雷の音に驚いちゃって」
「雷……そうか、だから部屋が暗いのか。ブレイカー落ちたかな、ちょっと確認して」
立ち上がって壁伝いに何処かへ行こうとする大地を、かろうじて見える白い服の裾を私は無意識に掴んだ。
「ダメ、一人に」
言いかけて口を噤み、何でもないと慌てて手を振った。
「ごめん、こんなに激しい雷久し振りで、ちょっとびっくりしただけ。気にしないで、ごめんね」
大地は佇んでいる。表情までは暗くて見えないが、その姿はまるで、戦いに挑む騎士のようでも、思い詰める若者のようにも、必死に我慢する子どものようにも見えた。
私はどうしたらいいのかわからなくて、再び口を開こうとした。しかし出来なかった。言葉が出なかった。言うことが決まっていなかったからではない、考えていた言葉が物理的に出せなかったのだ。
結果何が言いたかったのかというと、つまりだな。
「ゆうりんはどれだけ俺に我慢させる気だ」
抱きしめられていた。大地の大きな体に私はすっぽりと収まり、かろうじて息ができるくらいの余裕しかなかった。
「こんなことして、また余分に期待させて、それでやっぱなしとか……いい加減狂うぞ」
口が開けない私はどうにか顔を出すと彼の名を呼んだ。
「大地」
そのかすれた声に反応してか、体を締め付ける力が少し弱まる。
「狂っても……いいよ」
精一杯の勇気でそう言ったのだが、大地は苦笑いをするだけだった。
「それは、やっぱり期待だけさせるってことなのか。酷いなぁゆうりん」
「ちがっ、そういう意味じゃ」
「分かってるよ」
大地は片方の手を私の頭まで持っていくと、自分の唇に私のそれを近づけた。
「本当に、いいのか」
あと数センチのところでそう尋ねられる。私は自ら近づいてキスをした。別に初めてというわけではない。ずっと昔にもう初めては捧げている。この、彼に。
でも、ここからは未知の領域だった。話は彼氏のいる友達から聞いたことがあった。けれどそういったことに興味のない私は真剣に聞いたことがなかった。後はもう、されるがままだ。
「もう、俺は抑えらんねーぞ。嫌なら今ここでそう言って俺をつき飛ばせ」
全く馬鹿なんだろうか。抑えられないとか言いながら、今ここで最後の確認をしてくるだなんて。私が一言嫌だと言ってしまったら
、本当にこの真面目な少年は何もしてこないだろう。そして、これが最後。本当に、もう二度と何もしてこない。傷ついて、もしかしたら二度と私の前に姿を表さないかもしれない。
そんなの私が許すわけない。
「馬鹿じゃないの? 大地の馬鹿」
これで充分だ。
「悪かったよ」
今度は大地からキスをしてくる。軽く触れて、それから食いつくように激しく。私が息をする余裕さえ失うくらい何度も何度も。無意識に、息が漏れる。
「っあ……」
大地は唇を横にずらすと私の耳に軽く息を吹きかけた。今まで味わったことのない感覚に肩が軽く跳ねる。大地はそれからゆっくりと耳を確認するかのように唇で触れて、そして甘噛みする。私は彼の逞しい体にただしがみついていた。
大地は抵抗もなにもしない私を大事に弄んだ。私を不快にさせないよう神経を使い、丁寧に優しく繊細な動きで快楽の海に溺れさせる。私はなにがしてあげられるわけでもなく、ただただ新しい感覚に体を委ね、沈んで行くのみだった。
どれくらい経っただろう。ふと大地は動きを止めた。
「どうか、した?」
荒い息をゆっくりと落ち着けながらそう尋ねる。平静を取り戻しかけて、まだ外が大雨な事に気づいた。日も沈み、ただでさえ暗かったそこは更に闇色を濃くしていた。そんな中、一つだけ輝くものが目立った。大地が手を延ばせばギリギリ届く位置にある。彼は私を片腕で抱いたままそれを手に取る。近くで見てはじめてそれが何か理解した。携帯だ。
「母さんからメールきてるや。雨で土砂崩れが起きて道が使えないから今日は帰れそうにないらしい。適当に冷蔵庫の中にあるもの食べていいってさ」
大地は確認するように私の目をみたので一回小さく頷いた。
「分かった。私は夕食の準備する」
「俺は風呂の用意してくるわ」
互いに互いを開放して軽く口付けしばし別れる。私は台所に、大地は浴室に向かった。ずっと家にいたのでそんなにお腹も空いていないだろうと考えながら冷蔵庫を覗くと、野菜室に追いしそうなトマトやキノコなどたくさんの野菜があり、隣にある棚にはパスタの麺があったので、トマトソースパスタを作ることにした。二人分なのでそこまで時間はかからない。お風呂の用意ができた大地が手伝ってくれ、簡単な夕食は三十分程度で完成した。
見た目もいい感じで出来上がったパスタを大地は美味いうまいと言って食べてくれ、私はその笑顔だけでお腹いっぱいになってしまうほどだった。
それから私が食器を洗っている間に大地は入浴を済ませ、部屋にいるからと一言声をかけ行ってしまう。私も食器を乾燥機にかけるとさっさとお風呂に入ってしまい、軽く髪を乾かして彼の部屋に向かった。
彼の部屋の前、丈夫そうな木のドアを二回叩く。
「私です。入っていい?」
「どうぞ」
髪を一つにまとめ、寝衣として持ってきた薄いワンピース姿の私は、いきなりの外気の低下に少し肌寒さを感じながら大地の部屋に足を一歩踏み入れた。
「こっちおいで」
そう言って彼は自信が座っているベッドの隣の空間を示した。緊張からかはやり出す鼓動を感じ少し苦しさまで覚えながら彼の隣にゆっくり腰掛ける。
大地は部屋の天井、いや、もっと遥か遠くを見つめながら口を開いた。
「ごめんな」
ハッとした。いきなりのこの謝罪に何を言われたか理解できなかったからではない。分かってしまったからこそハッとしたのだ。
「夕凛が一番そばにいて欲しい時、いてあげられなくて」
「いいの、あれは仕方のなかったことだし。そばにいて欲しいと思ってしまったのはただの私の我儘なんだから」
そう、あの日、私の両親が亡くなった日、私は彼を困らせ、傷つけた。
あれは丁度四年前の夏。まだ私がここに住んでいた頃。
来年は受験で遊べないからと両親が気を利かせ、兼ねてから会いたがっていた母の姉、私の叔母に当たる人とその旦那さんが住む街に旅行したのだ。その叔母と旦那さんが、今の私の両親であるということは言うまでもないだろう。つまり、今私の住む街に私達家族は旅行していた。
あの日はとてもいい天気だったと記憶している。けど、いきなりあたりが暗くなり出して、気づいたら雨が降っていた。小雨かと油断した途端一気にきた。
その日、叔父と叔母は夏休み中で店が忙しく、両親は夕食の買い出しに行っていたので一人暇を持て余していた私は、公園で近所の子ども達と遊んでいた。小さい子が好きな私は面倒を見るのが億劫ではなかったし、近くにいた母親達も私を雑貨屋の姪御さんと認識していたので安心して世間話に勤しむことができたようだった。
しかしその突然の雨に母親は慌てて子どもを連れ家に帰っていった。天気予報で雨が降るなんて一言も言っていなかったので、誰も傘なんて持っていなかったし、当たり前だろう。私は最後まで残って、寂しそうな残念そうな顔をする子ども達に笑顔でまたねと手を振り続けた。そうしている間に雨は激しさを増し、当然のように傘を持っていない私は完全に帰るタイミングを逃したようで、さっきまで母親達が会話を楽しんでいた屋根のあるベンチの元でしばし雨宿りをすることとなった。
すぐやむだろうと思っていた雨は私を嘲笑うかのように激しく降り続き、ついには雷までなり出した。私はその時、何か嫌な予感がしていた。私の大切な誰かに、何か大変なことが起こっているのではないのかという形の無い不安と恐怖が私を襲った。地面に当たって跳ね返る雨のせいで足はじっとりと濡れていた。
屋根を支える四本の柱の一つに寄りかかりただじっと雨止みを待っていると、誰かやってきた。数メートル先はもう何も見えないような大雨の中、傘もささずに誰かが駆けてくる。やがてその人はこの屋根のしたに辿り着いた。
「うわー、ひどい雨だな全く」
ぶつぶつと文句を言っているその人はどうやら男性のようで、何処かのクラブジャージを着ていた。
「あの、タオル使いますか?」
私は持ってきていたフェイスタオルをその人に差し出す。
「えっ……あ、ありがとうございます!」
声を掛けるまで私がいたことには気づいていなかったようで、一瞬ぽかんとした表情をしたのちタオルを受け取った。
「すみません、まさかこんなとこに人がいるなんて思わなくて。あ、俺は桂馬って言います」
田舎町特有、見知らぬ人にでも分け隔てなく絶する心。それはこの街も故郷も変わりないらしい。私も笑顔で答えた。
「私は夕凛。夕方に凛とすると書いて夕凛。今この街に旅行にきているんです」
「へー、夕凛さんか、よろしくお願いします」
「夕凛さんだなんて、夕凛でいいですよ。見たところ年も近いようだし敬語じゃなくても」
「じゃあ俺のこともタメで呼び捨てな」
「うん! よろしく、けいま」
彼と話したことによって、私の黒く渦巻く嫌な感情はだんだんと収まっていった。彼は学校のことやこの街のことをたくさん話してくれ、そのどれもが面白く、自然と笑顔になることができた。なんだか不思議な人だった。
けれど、そをなひと時の安らぎは、一本の電話によって遮られた。
「はいもしもし、おばさん? そんな慌ててどうかしたの? 」
私は桂馬に軽く目配せして少し距離をとった。
「うん、うん……え、お母さんとお父さんが? それで、うん、分かった、気をつけて」
電話を切った瞬間倒れそうになる。桂馬は慌てて私を支えてくれ、おかげでなんとか自身を保っていられることができた。
激しいめまいがする。頭が痛い。
「父と、母が、事故にあったって」
心配そうな顔で私を見守る彼に私はやっとの思いでそう告げた。彼の顔からさっと血の気が引いた。しかし、私はきっともっと真っ青な顔をしていたに違いない。
「大丈夫、信じるんだ。夕凛が信じてやらないで誰が信じてあげられる」
なんとかベンチに私を座らせると、自分も隣に座り、肩を抱いて力強い声で私を励ます。
「大丈夫だ、信じろ。俺がそばにいてやるからな」
いつも、私の隣にいて私を支えてくれるのは大地の役目だった。私は桂馬を大地の代わりにして、全てを預けた。今までで一番いて欲しい時にいてくれた彼に惚れた。大地の代わりの彼に。
もちろん、また会えるなんて思ってもいなかったが、結果両親は死んで、私は叔父と叔母の家で暮らすこととなり、中学もこの街のものに転校することとなった。そこで私たちは再び会うことになるのだ。
両親がなくなったと伝えられた電話は、力なく震えていた私には出ることができず、桂馬が代わりに出てくれ、その表情で私に事実を教えてくれた。叫ぶでなく喚くでない私をただ桂馬は抱きしめてくれた。会ったばかりの私の気持ちを正確に察知し、心から大切にしてくれた。
まだ雨は降り続ける。叔父が公園まで迎えに来てくれるまで、彼は泣き止まない私の背を摩ってくれた。何も言わずただ気持ちを推し量って支えてくれた。叔父が来てくれた後のことは、ほとんど放心しており覚えていない。ただ両親の安らかな死に顔だけは鮮明に記憶している。
後で携帯を確認すると、事情を知った大地からのメールや電話がたくさん溜まっていた。私はそのどれもを確認しないまま削除して、ただ一言私は大丈夫とだけメールした。
故郷に戻るのは葬儀やら引越しの準備やら編入手続きやらでだいぶ遅れ、夏休みももう終盤というところでやっと大地に会うことができた。
「本当にごめんね。私の弱さが、大地を傷つけた」
ずっと信頼していた大地に、桂馬とのことを笑顔で話した。当時はこんなことがあったと報告しただけのつもりだったが、だいぶ嫌味なことを言っていたのかもしれない。大地がそばにいなかったから、大地なんてもう用無しだ、そう彼には聞こえていたのかもしれない。未だに大地のあの傷ついた笑顔を忘れることはできなかった。
「俺こそ、そばにいてやれなくてごめん。ずっとずっと一緒にいたかった、でも、一番大事なときいてやれなかった」
違うんだよ大地、私が代わりを求めたのがいけないんだよ。大地は悪くない。
言いたいことはたくさんあるのに喉が詰まってうまく言葉が出てこなかった。
「ごめん大地、ごめんなさい。私が……私が!」
流れ出す涙を抑えようと唇を噛みしめる。
「バカ言え、謝ることなんて何もないさ」
私は大地の肩に額を乗せて思い切り泣いた。桂馬に抱かれている時には出来なかったことを、ずっと大地の胸の中でやりたくて我慢してきたことを、今全て吐き出す。
本当はね、雨の中一人でいた時、大地にそばにいて欲しかったんだ。そばにいて手を握って大丈夫俺がついてるって言って欲しかったんだ。お母さんやお父さんが死んだって知った時、声をあげて泣きたかったんだ。何で死んだの、何で私を一人にするのって訴えながら、叫びながら泣きたかったの。バカって何度も言いたかったの。それから大地に優しく包み込んでもらって、一人にしないって言って欲しかったの。両親の死に顔みる時も手を繋いでいて欲しかったの。一緒に笑顔でお別れを告げたかったの。その後もずっとずっと一緒にいたかったの。
実はね、放心していたっていうのは嘘で、周りの人に迷惑かけちゃいけないって思って自分をセーブしていたんだ。両親が死んだ今、本当に何もかも受け止めてくれるのは大地だけだって、分かってたから。だから誰にも本当の私は見せたくなかったんだ。
ごめんね、素直になれなくて。そばにいてくれなかったこと変に僻んで、悪くもないのに責め立てて、それでずっと信じてたのに裏切るようなことして、自分にも嘘ついて、桂馬まで困らせて気を使わせて……。
本当に、私は弱い。大地がいなくなると途端脆くなる。私は大地に寄りかかってばかりで、自分の力では立つことすらできなくて。
「夕凛にずっと言いたかったこと、あるんだ」
なに? と言いたかったのにうまく声が出せなくて、仕方なく顔を上げ大地の目を見ることで“なに”と伝える。
「よしよし、無理しなくていいから」
そう言って大地は私の頭を撫でる。再び私は彼の肩に頭を寄りかからせた。
「無理するな、夕凛は何も言わなくていい」
それから一呼吸おいて彼はこう言った。
「俺は夕凛のことが好きだ。この際だから全部言っちゃうけど、俺から離れて行くなんて絶対に許さない。お前はずっと俺のものでいろ。俺のそばにいろ。離れて行くなら一生追いかける。誰にも譲らない。お前は俺だけ見ていればいい。絶対にお前を支えてやるから、どんなに不安定でも支えてやるから……。あいつなんかに絶対譲らない」
力強くそこまで言った後、さっきまでの勢いはなんだったのかと思うほど力なく付け加える。
「ごめんな、勝手な奴で。でも、お前を独り占めしたいんだよ。俺だけの夕凛にしたいんだよ。これが俺の本音なんだ」
多分大地は、今までいろいろなことを我慢してきたと思う。それはこの言葉から痛いほど伝わってきた。なら今私がやるべきことは一つ、彼をもう我慢させないこと。私にとっても彼は、唯一無二の大切な存在なんだ。
「いいよ、好きにして。もう私はあなたのもの。心も体も、あなた次第。好き、大地が好き」
掠れ声で囁き、大地のほおを両手で挟んで口付ける。
「分かった。大切にするよ」
大地は私の肩に触れた。私の短い髪が揺れる。それから確かめるように体のいろいろなところに触れた。
「変わらない、何も変わらない。たとえどんなに見た目が変わっていこうと、夕凛は夕凛だ」
私の髪がベットに広がる。大地は愛おしそうにその髪を梳きながら、そっと体を重ねた。
その夜、二つの人影はずっと寄り添いその影を重ねあったという。
翌日、私は大地のベッドで目を覚ました。少し腰が痛い、けど耐えられないというわけでもなかった。まだ隣で大地は眠っている様子だ。可愛くて少し遊んでやることにした。
「大地ー、おきてー」
頬を人差し指でつついてやるがやはり起きる様子はない。
「いつまでねてるのさ。そんな可愛い寝顔で何時いつまでも隣にいられると困ちゃうな。襲っちゃうよー、なんて」
「へー、襲ってくれるんだ?」
大地はそう言って片目を開き口元を緩ませた。
「な、起きてたの? いつから」
「ゆうりんが起きた時から」
「うそ! 最初からじゃない……。もー恥ずかしい」
私はゆうりんと呼ばれたことにも気づかず布団に潜りこんで顔を覆った。
「恥かしがらなくてもいいだろ、可愛かったぜーゆうりん」
全く悪びれる様子もなく平然としている大地を布団の中から上目遣いで睨んでやる。と、思い切り抱きしめられた。
「怖くなんかないぜ、むしろ可愛くて抱きしめたくなる」
「現場すでに抱きしめてるじゃない」
「夕凛は俺に抱きしめられるの嫌?」
別に嫌というわけではないが、そう言うときっと調子に乗るので私はうぅと小さく唸り声をあげた。
「ごめんごめん、夕凛があまりにも可愛いからつい。まぁ嫌って言われても離す気なんてなかったんだけどな」
「もー、からかわないでよ」
ぷくうと頬を膨らませると、大地は私の頭を撫でながらまたごめんごめんと言った。
「でも、からかってるつもりはないんだ。夕凛に関することはいつでも本気だよ」
最後にそんなセリフを付け加えるからもう私は何も言えなくなる。こうなったら逃げの一手だ。
「あ、そろそろ朝ごはんの用意しなきゃ」
大地の腕からするりと抜け出し、私は服を着て台所へと駆けていった。もとい逃げるのだった。
その日の昼頃、無事大地のお母さんとお父さんは帰宅し、翌日少し予定より早いが、私達は今の暮らしがある街へと帰った。
夏休みは案外短い、けれど私達には、この旅行を経てやらなければならない事が沢山出来た。
ある日、私は毎日受験勉強に勤しむ桂馬を呼び出した。
「ごめんね、忙しい時に呼び出して」
「いや、俺も夕凛に会いたかったから。それで要件は?」
私は桂馬にゆっくりと頭を下げた。
「自分の偽りない気持ちに気づくことができました」
その言葉だけで桂馬には何が言いたいのかわかったらしい。流石、察しがいいのは今も昔も変わりない。
「そっか、気づいちゃったか」
残念そうに呟く桂馬。
「桂馬が教えてくれたんでしょ?」
私は顔をあげて苦笑する。
「まぁ、そうだけど。やっぱ少し残念だなって。完全に気づかれたらもう俺の入る隙なんてないだろうし。それにあいつが与えないだろ?」
「まぁ、特に桂馬は警戒してるみたい」
互いに一番意識しあってるのは大地と桂馬何じゃないかと思うほど理解しあっている二人。全く妬けるなぁ。
「分かったよ、夕凛の口から教えてくれてありがとう。これからの道は全然違うけど、また会ってくれるか?」
「もちろん、また会えるよ」
そう、絶対に会える。学校が始まるからとか、そういうことではなくて、私たちは会えるのだ。
「桂馬、ありがとう。桂馬のおかげで色々考えることができたと思うの」
髪を切ったあの日、私をフったのは紛れもなくこの桂馬だった。フリ文句は"夕凛の中には俺じゃないもう一人の大きな存在がいる。そいつを越えるまで俺はまだ付き合えない"だった。
桂馬は笑顔で片手をあげる。
「それは良かった。じゃあまたな」
「うん、また」
手を振って、互いに背を向け歩き出す。これからの道、彼と混ざり合うことはもう二度とない。私の目の前に広がる一本道のように、まるで反対に私たちは進んで行くのだ。
「まだ俺、夕凛のこと諦めてないから! もし大地に見捨てられるようなことがあればいつでも俺が助けてやる。あいつにも隙さえあればいくらでも割り込んでやるからなって伝えといてくれ!」
その声に振り向くと、遥か彼方で彼が笑っていた。それから片手をあげて颯爽と去って行く。
つい追いかけようとした足を必死に止める。今の私に追いかける資格はない。
全く、自分の言いたいことだけ言って去るなんてずるい。
私は彼の背中が虚空に消えるまでその一点を見つめ、そしてゆっくりと向きを帰ると走り出した。満面の笑みを称えながら、慣れないサンダルで思い切り走る。足が痛くなるのも、こけそうになるのも構わない。走って走って、私はあの人の元へ向かうんだ。
あの言伝を大地に伝える必要はないと分かっていた。本当に言いたいなら、きっと直接いうはずだ。あれはきっと私への言葉。親友である大地を宜しくと頼まれたのだ。だったら、私に大切なことを思い出させてくれた桂馬の願いを叶えなければならない。これは桂馬に託された最後の望みだ。ならば叶えきってみせる。大切な人のために。
「夕凛、ずいぶんと早かったな 」
「うん、くる道すがら急に走りたくなっちゃって」
今私は大地と一緒にあの川辺にいる。
「そのサンダルでか? 全力疾走?」
「う、うん……」
「全く夕凛は昔っからその時の感情だけで無茶をするなぁ。もっと自分の体を大切にしろ」
ごめんなさい、と謝る前に体が中に浮いた。
「ちょ、ちょと」
「罰としてお姫様抱っこで俺の家まで連れてってやる」
「やだ、恥ずかしいよ」
私は足をバタバタとさせなんとか降ろさせようとするが、彼には通用しないらしく更に硬く抱きしめられる。
「降ろさねーよ。たく、これからお前の体はお前だけのものじゃなくなるんだから、俺のものでもあるんだからな! そこをよーく理解して反省すること」
「うぅ……分かりました。今回のことはよーく反省いたします」
「よろしい、じゃあ行くか」
大地はお姫様抱っこをしたまま川辺をゆっくりと歩き出した。
「ちょ、本当にこのまま行くの!?」
「当たり前だろう」
何の迷いもためらいもなく言い放つ大地。その目はまっすぐに前を見つめている。もう何を言っても無駄だなと私は諦め、大人しく抱かれていることにした。
「ねぇ大地。私ね、将来イラストレーターになりたいんだ。だから、その専門学校に行きたいの。知ってた?」
「それは初耳だな。専門にいくってのは聞いてたけど」
「でしょ。まだね、本当のお父さんとお母さんにしか言ってないんだ。他の人には立派なイラストレーターになってから教えるの。だから大地も秘密にしてね」
口元に人差し指を当てて微笑むと大地は大きく頷いた。
「分かった。秘密にするよ」
「ありがとう。それと……大地はそばにいてくれるんだよね?」
「当たり前だろう。夕凛が行きたいとこ、行きたい道にいつまでもついてくつもりだ」
私は内心でホッと胸をなでおろした。
両親を亡くしたあの時、急な引っ越しや転校で周りの人にたいした挨拶もできずお別れすることになった。それなのに大地は私を追ってこの街に来たのだ。中学最後の年を私のことだけを思い、私が推薦をもらった高校に受かるため必死に勉強したという。もちろん親には反対されたと思う。だって、高校生で家を飛び出して一人暮らしなんて普通許すはずがない。けど、彼はその反対をも押し切って私が今を暮らす街に来た。
嬉しくない訳がなかった。彼が同じ学校に入学したと知った時、それは驚いた。だけど、心の何処かできっと来てくれると信じていた。また大地と毎日を過ごせるのかと心踊った。その一瞬は桂馬のこともすっかり忘れてしまうほどだった。
そしてまた、私がこの街を飛び出すと決めると、彼は何の迷いもなく“ついていく”と言ってくれるのだ。いつまでも私の都合と我儘に何も言わず付き合ってくれる。彼の負担は計り知れない。けど、笑って私を支えてくれるのだ。
「大地、どうして私についてくてくれるの? 我儘ばっか、迷惑かけてばっかの私だよ」
夕空に手を伸ばしながら私は尋ねた。
「何を今更。迷惑だなんて思ったこと一回もないよ。それに、我儘言われるくらいが可愛いんだろ。ついていくのは俺がそうしたいからだし、むしろお節介じゃないかと心配した時期もあったんだぜ? それも今更、必要とされてるってわかったんだから何もためらいはいらないんだけどな」
くしゃりと顔をゆがませて満面の笑みを浮かべる大地。
「そっか、そうだったんだ。じゃあ私も何もためらわなくていいんだよね」
「あぁ。だけど、あんま無茶するなよ」
さっきとは一転真剣な表情で言われ、私は困り顔で曖昧に笑って誤魔化した。正直無茶をしない自信はない。そして、その無茶に大地がいつまで付き合ってくれるのか、愛想をつかされないかはまだ心配されるところだ。
「夕凛は素直だな、返事くらいしてくれたら俺も少しは安心できるのに」
大地も困り顔に変わる。
「ごめんなさい。でも」
「分かってるよ。止める気なんてないさ、一生お前についていくって俺は昔から決めてんだ。だから夕凛は思いっきりやりたいことをしろ」
「嫌にならない?」
大地は少し怒った顔をすると私の額に自分のそれをぶつけた。
「バーカ、何度いえば分かるんだよ。俺は俺の意思でお前についていくし、嫌になんて一生なんねー。いいか、分かったな? もう二度と言わないぞ」
私は額を押さえながら大きく一回頷いた。額にはまだ少し痛みが残る。今の言葉は、それほど真剣で本気なのだ。
「私ね、絶対に有名なイラストレーターになってみんなを驚かせてやるんだ!」
「何だよいきなり」
大地が失笑するので私はほおを膨らませて訴えた。
「いきなりじゃないよ、ずっと考えてたの。有名なイラストレーターになって、大地も、お母さんもお父さんも、私の絵を見てくれた全ての人を笑顔にするの! 子どもっぽい夢だと思うかもしれないけど本気だよ? だから安心して」
そこでやっと私が何を言いたかったのかわかったらしく、大地は少し驚いた顔をしたあと優しい微笑みを私に向けてくれる。私も微笑み返そうとしたが、なぜか泣きそうになってしまい、大地の首に腕を回して抱きついた。
「二人なら何だってできる気がするよ」
ぽつりと呟く彼。私は胸に顔をうずめながら頷いた。
そう、ありきたりな表現だけど、二人なら何だってできてしまうんだ。がむしゃらに進む私を大地は支えてくれ、誤った道に進まないよう先を照らしてくれる。私にとっての大地は、太陽だとか光だとかそんな遠くて曖昧な存在じゃなくて、手だとか足だとか、確かにそこにあって私の生きる糧となる命の真髄のようなものなのだ。
いつもは強がって笑う私だけど、本当は寂しがりやで臆病でいつも何かに怯えてるけど気づかないふりをする卑怯者。
そんな私の全てを知ってるのは今や大地だけ。その大地が私のそばにいる。
何だって出来る。やってやる。
夕日に照らされ、凛とした姿を影として大地に映し出す。
そんな絵をいつか私は書くかもしれない。題名は、『 』。
私は今日、髪を切った。これから今までとは違った新しい日々が始まるのだと、心を整理するために。そして少しだけ過去を振り返るために。あの田舎町に住んでいた頃の、幼い自分を思い出すために。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
最近はどうしても筆が乗らず、中々小説を書くことが出来なかったのですが、私の高校生活初の夏休みが開け、やっとまとまった話が頭の中に構成されたので書いてみました。
短編を一つ書き上げたいというのがここ最近の目標だったので、これで一応達成出来たことになりますが、私はまだ納得しておりません。俗にいう、やっとスタート地点に立ったというわけです。そのスタート地点から前に進ませるのか、後ろに引き戻すのかを決めるのは紛れもない読者様です。読者様の素直な感想が、私を動かす鍵となるでしょう。
とまぁ、いやらしいことを書きながら、最後、少しだけ大事なお話を。
このお話は、読んでいただけば分かるよう確かに未熟です。もはや未完と言ってもいいでしょう。本来なら世の中に出してはいけないもの。ですが、これが私の決意でもあるのです。最近めっきり小説を投稿しなくなった私が、逃げずにもう一度書こうと、どんなに拙い話でもどんなにまとまりのない話でも、私なりのお話をまた書こうという。
結果これじゃダメなんですけどね。
長々と申し訳ございませんでした。最後に私からの心からのお詫びと、ここまで読んでくださったみなさんに最大級のお礼申し上げます。
2012年 9月27日 春風 優華




