姉の家族のこと
姉は高二の夏に大学生と交際を始め、秋に家出して同棲を始めた。子供を抱いて戻ろうとしたのは三年後だった。親は許さず、それきり二度と姉は帰ってこなかった。
結婚したという手紙はさらに三年後に来た。相手は子供の父親ではなく、大学を出たばかりの同い年らしかった。
事後報告はまたも親を怒らせた。一度追い返されているから連絡を取りづらかったのだろうとも思ったが、執り成すほどわたしは姉を知らなかった。義兄も知らなかった。姉の最初に選んだ相手が、姉の妊娠を知って間もなく姿を消したことは知っていた。次に選んだ相手にも、正直期待は抱けなかった。
二人目が生まれるという手紙は事前に届いた。幸せらしいと盗み見て思った。義兄と姪が仲良くやっているようなのは何よりで、これを機に親と姉が和解することを願った。ありえた。十年の歳月を越えて、姉は戻ってくるかもしれなかった。
高二の夏に義兄から電話があった。日に日にわたしに厳しくなっていた親は、聞き慣れない男性の声に、鳥肌の立つほど無愛想に応対した。義兄は姉と甥の死を伝えて、その無愛想を破壊した。
葬儀を済ませると、両親は姪を引き取りたいと言った。長く絶縁状態にあったものの、姉がもう一度頭を下げれば許してやるつもりでいたらしい。そのまま死別してしまったことを悔いて、せめて忘れ形見の姪を幸せにしてやりたいと告げた。
義兄は自分が育てたいと言った。
剣呑な雰囲気になってきたので、わたしは姪を連れて散歩に出た。玄関扉を閉める前に言い争いが始まり、言葉が幾つか漏れ聞こえた。
「ほんとうは、しらない人といっしょに行っちゃいけないんだよ」
手を繋いで歩きながら姪は口を利いた。七歳とは思いの外に舌足らずだった。
わたしは自分を指さして、知らない人? と首を傾げた。姪はこくんと頷いた。
「でも、おとうさんのしってる人だから、とくべつにいいの」
誰かに叱られるかもしれないとでも思うのか、幼女は懸命に弁解していた。義兄がわたしを知っているとは、実際には言いがたかったが。
おとうさん、という一語が耳に留まった。問い返すのは野暮だと思った。
「お父さん、好き?」
「すき」
代わりに問えば答えは早かった。
「こうちゃん!」
三度目に角を曲がったところで、行く手から幼い声が呼びかけた。母親に連れられた女の子だった。姪が駆け寄ろうとするのを察してわたしは手を放し、後ろからゆっくり歩いていった。
ぺこんと母親に頭を下げてから、姪は女の子と喋り始めた。母親の方は軽く目を瞠っていた。
「こうちゃんのお母さんの……妹さん?」
「はい」
姉とわたしの顔は似ているが、年齢は十も離れている。似ているから姉妹だろうか、離れているから違うだろうかと、迷ったのであろう事は想像に難くなかった。
友達かと訊くと、姉一家が引っ越してきてからの付き合いで、現在は同級生だということだった。覚えていないが、葬儀で見かけているかもしれない。
姪の幼馴染みの母親は、姉を悼み、姪を案じ、義兄や両親やわたしを気遣った。
「さぞ心残りだったでしょう」
幼い姪を遺して逝ったことに触れたので、
「義兄がいますから」
対面して幾らも経たない義兄を、信頼しているかのようにわたしは応じた。
「しっかりしたお父さんで、せめてもね」
お父さんという語がここでも出てきた。
友達と喋っていた姪が、ちょうどその辺りで泣き出した。姉の話題になってしまったらしい。わたしが途方に暮れている間に、同じ七歳の子を持つ母親が、上手に慰めて泣きやませた。
親子と別れてから、近所の小さな公園に行った。姉と来ていたことを思い出したか、姪はまたくすんくすんと泣いて、わたしは苦心してなだめすかした。その後も姉の話になりかけてはひやひやし、姪が泣きそうになっては慌てた。義兄と両親との話し合いは続いているかもしれなかったが、予定よりも早く戻ることにした。
嵐はありがたくも去っていた。その頃には姪も元気になっていて、ただいまと声を張り上げた。部屋の扉を開いた途端に、三対の視線が刺さってうんざりする。いつ泣くかわからない姪の相手を続けた方がマシだっただろうか。
「お土産あるんだよね、こうちゃん」
努めて明るく見下ろせば、うん、と答えて姪は義兄の許へ駆けた。
「おとうさんにあげる」
突き出したのは半透明の、黄緑のBB弾である。公園で拾った。半透明は子供心に痛く魅力的に映ったらしい。おみやげにする、と最初から言っていた。
ぎこちなさを残しつつも微笑んで義兄が受け取ると、姪は二つ目を差し出した。
「これはおかあさんの」
三人とも一瞬固まった。
姪を目の前にしている義兄が、一番早くに立ち直った。
「じゃあ……お母さんの分も、お父さんが預かっておく、ね」
「うん」
姪は頷いて、今度は父に向かった。
「おじいちゃんには、二こあげる」
父は虚を衝かれたようだった。そう仕向けたわたし自身は、あざといかと懸念していたのだが。
「おばあちゃんにも」
半透明の黄緑は数少ない。だから父に渡したのは黄色が二個で、母に渡したのは白が二個だった。二人ともその意味に気づかなかったか、深読みしようとしなかったかで、特に複雑な顔もしなかった。
「あたしは三個貰った」
わたしは得意げに言った。半透明の黄緑と、黄色と白とが一つずつだ。正確に言えば黄緑は自分でみつけて、あたしが取ってもいい? と姪にお伺いを立てた。黄色と白は姪の方からくれた。合わせただけで別に欲しかったわけでもないけれど、おかげで上手くオチがついた。
子供二人が戻ってきたのを潮に、大人三人は堂々巡りになっていたらしい話し合いを打ち切った。姪を義兄の許に置いたまま、両親とわたしは姉の家を辞した。
義兄に味方することにわたしは決めていた。というよりも姪を我が家に迎え入れることを避けたくなっていた。母親を亡くしたばかりの幼女を、慣れ親しんだ継父と家から引き離し、足を踏み入れたこともない家へ連れてきて、つい最近初めて対面した祖父母が育てようというのだ。相当に面倒で厄介に違いない。近所の公園に行って帰った、長くもない散歩でほとほと懲りた。
「女の子を男手一つで育てるなんて、実の父親でも難しいのに」
そんな風に呟いたところを見ると、親に譲る気はないらしい。義兄にも譲る気はないだろう。面倒はどのみち続きそうだった。
正確な文面は忘れた。前後の文脈は聞こえなかった。それでも忘れられない言葉が二つある。妻と息子を亡くした自分から、娘までも取り上げるのかという意味のものが一つ。妻を死なせたのは妊娠させた自分だという意味のものが一つ。
姉は難産で命を落とし、肝腎の甥も生まれられなかった。義兄には自らを憐れみ、嘆き悲しむ権利があったろう。そして同時に自らを責めてもいた。義兄が妊娠させなければ、姉がこうして死ぬことはなかったし、甥はどのみち生まれていない。
では、姉の死の原因を作ったと義兄を責めて、姪を取り上げる権利がわたしたちにあっただろうか。わたしには認められなかった。姉の死を悲しむ立場にあるかすら、怪しいような気になることさえあった。
姉を返せとわたしが言うのはおかしな話で、わたしに姉がいたのは七歳までだ。親が言うのもおかしな話で、七年前に突き放した時点で失い合ったようなものだった。姪の父親にならば言ってもよいかもしれないが、義兄に言うのはおかしな話なのである。
「ちゃんと話してなかったと思って」
訪ねてよいかと電話で問うたのは決着のついた後だ。姪は義兄が育てることになり、親と亡き姉の一家とは再び絶縁状態に陥っていた。
「──姉妹にしても、よく似てるね」
出迎えた義兄は感嘆したように息を吐いた。わたしは肩を竦めた。
「大学生と付き合い始めるんじゃないかって、親が神経質になってます」
姪はあのときの友達の家に遊びに行ったということだった。義兄とゆっくり話したかったのだからちょうどよかった。子供がいると、少し落ち着かない。
駅前の喫茶店に腰を落ち着けた。
「引き取りたいって言われるとは、正直思ってなかったよ。付き合いがなかったし──自分の娘みたいな気分でいたから」
「養子縁組してたって聞きました」
結婚は飽くまで夫婦間のものだ。姉と結婚しただけでは、義兄は姪の父にならない。姉の夫と姉の娘でしかないはずだった。だから姪は自分たちが引き取れると、親は踏んでいたらしい。
ところが実は義兄と姪とは、れっきとした養父と養女だったのである。そうと知ったときの親の顔を、義兄に見せてやりたいものだ。
「理由、訊いてもいいですか」
「生まれてくる子と差をつけたくなかったからだよ」
義兄は躊躇も気負いもなく答えた。姪の身分を生まれてくる子と同等のものにしておこうと、妊娠が発覚したときに考えたという。
甥は結局生まれてくるどころか、姉を死なせて義兄と姪の縁を危うく絶ちかけた。けれども養子縁組のきっかけも甥だったのだ。妙な巡り合わせだと思った。
冷たいことを言えば、いざ実子の甥が生まれてみれば、継子の姪と分け隔てなくは扱えなかったかもしれない。義兄と姪の関係だけを見れば、一番いい結果に収まったとさえ取りうる。わたしは冷ややかに考えた。
「──ありがとうございます」
誤解されそうな言葉を敢えて選んだ。あなたが望んで手許に置いてくれたおかげで、わたしは家に面倒な子供を迎えなくて済みました、と口に出すほど無神経ではない。
「女の子を男手一つで育てるのは、実の父親でも難しいなんて親は言ってましたけど。二親きちんと揃ってたって、姉もわたしもこうですからね」
「君も?」
「親に黙って来てますよ、今日」
「……まあ、そうだろうね」
姉については疑問も呈さなかった。男が理由で高二で家出しているのだから、訊き返されても白々しい。
「お義兄さんになら、任せていいと思います」
任せてもわたしは悪人にならないだろう。姪を見捨てて義兄に押しつけたことにはならないだろう。これで一番よかったのだ。
それから姉の話を聞いた。どういう人だったか聞かせてほしいと言えば、義兄は快く話してくれた。なかなかに話し上手で、湿っぽくならない楽しい思い出を選んだから、死んだ人を話題にしている気がしなかった。わたしと似たところは顔以外にもあったようで、やはり姉妹だと何度か思った。一方で想像とかけ離れたところもあって、やはり知らないのだとも思った。姉が一層遠くに感じられた。
適当なところで腕時計を見て、そろそろ帰らないと、と告げた。遅くなると親が騒ぎかねない。
姪には会っていかないのかと義兄は尋ね、顔ぐらい見たかったですけど、とわたしは返した。母親の死からまだ立ち直りきっていないであろう幼女とは、正直まだあまり会いたくなかった。
「また来てもいいですか」
「親御さんに黙って?」
からかっているのか、からかうような口調に和らげて咎めているのか、とりあえず前者と取ってちろっと舌を出した。親と揉めてまで関わりたい二人ではない。面倒なことにならないならそれなりに会いたくはある。勝手かもしれないが、自分に対して取り繕ってもいいことはない。
わたしは善人ではない。それを徹底する気もない。
またね、と結局は微笑んだ義兄はとても人がよく見えた。