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味のないガム-5

「それで仕事はどうなった。」

今度は裏口から店に戻った権兵衛に新之助が声を掛ける。それに対して無言で首を振れば、権兵衛の手から酒瓶を奪い、階段を昇り朝に集まった部屋へと向かう。

「返せよ。俺んだぞ。」

「ったく。色々調べてやったのにそれが骨を折ってくれた人への態度か。」

「どうせあんたのことだから言われなくても調べてんだろ。」

新之助は棚から空のグラスを手に取り酒を注ぐ。

「飲んで帰ると奥さんに怒られるんじゃなかったか。」

「一杯ぐらいバレねえよ。それに調べるのだって大変なんだぞ。――キーボードで文字を打たなきゃいけねえしな…とにかくあれだ!色々大変なんだよ!機械音痴の権兵衛君にはわからんだろうがね!」

苦労を必死に思い出そうとするが、身に覚えのない苦労を思い出すことは出来ず勢いと酒で誤魔化す。権兵衛は酒瓶を奪い返し、もうやらんと言わんばかりに瓶に口を付けて飲む。

「そんで相手は面倒な場所に居るのか。」

「やらねえ相手のこと知ってもしょうがねえだろ。」

「酒の肴だよ。おっさんと無言で飲んで何が楽しいんだ。」

「おっさんを馬鹿にするなよ。だが男とサシで飲んでも楽しくねえのは道理だ。仕方ねえから教えてやるよ。」

理を認め、被害者の情報と入院先に関しての資料を取りだし机に広げる。

「バカ…被害者のバカは山水胡亥(こがい)、28歳。深夜のコンビニバイトだな。状態は足と腕を骨折、ってなってるが多分嘘だ。」

表情には出さないが被害者をしきりにバカと呼ぶ程度には、新之助もこの事件に憤慨していた。ミュータントに肩入れするくらいには新之助も楽園に馴染んでいる証拠だった。

「嘘…?ちゃんと病院で診断されたんだろ。」

「入院先が曲者なんだよ。院長が相当のミュータントフォビアって話だ。犯人の罪を重くするために被害者の病状を過剰に申告してる可能性がある。」

「可能性の話だろ。そんぐらい見たらわかるもんじゃねえのか。」

「アルバイトで食いつなぐ人間が骨折程度で意識もあるのにわざわざ個室に入院すると思うか?恐らく他の病人と接触させないためだろう。その中には口止め料も入ってんだろうがな。提出するレントゲン写真だって捏造くらいできんだよ。被害者が死ねば司法解剖が出来るからもっと突っ込んだ話も出来るが…。ただミュータント1人助けるためにリスクを冒すバカな真似する奴は、いないよな?」

釘をさすように、そう語り掛ける。権兵衛もそれを理解していないわけじゃない。そうりゃそうだと返して酒を煽る。

「まあそういうわけでこの話は終わりだ。楽しくもねえ話だが依頼人が居ないんじゃ仕方がねえ。」

今の話をもう少し早く知っていれば、権兵衛は鹿助の父親にその話をしていたかもしれない。だがもう遅すぎたのだ。

「それじゃ俺は帰るぞ。」

相手のやり口は外道そのものだが自分は正義の味方ではない。それを知っている2人はこれ以上できることもない。ただ気分が悪くなるだけの話を終え、資料を手早く鞄の中にしまえば新之助は部屋を出て行く。

1人残された権兵衛は鹿助のこれからを想像する。法律については詳しくはないが怪我の重さと罪の重さがイコールである事は知っている。刑務所には入るのだろうか。その間待つ両親はどんな気持ちだろうか。

何とかしてやりたいとは思うが、してやれることのない歯がゆさに酒を煽るしかない。一人で居てもネガティブな想像ばかりが生み出され、苛立ちが募る。椅子に体重をかけて傾けて、戻る反動で立ち上がり部屋を出ていく。

「権兵衛さん、香浦さんが呼んでますよ。」

「香浦が…何の用だ?」

廊下に出た権兵衛に小春が声を掛ける。その言葉を聞いて頭を捻り、朝の会話を思い出す。

「そう言えば奢ってもらう約束があったな…。いまはそんな気分じゃ…まあいいか。これ預かっといてくれ。あと帰りに珈琲も頼むわ。空いた瓶にでも入れといてくれ。」

小春に持っていた酒瓶を手渡し、追加で注文をする。誰かと居ればこの気持ちも晴れるだろう。楽観的にそう考え、権兵衛は表口から店に入り直す。

「おう!遅かったじゃねえか!早くこっちにこいよ!」

ようやく表れた権兵衛を香よく響く声で呼びつける。

「なんだよ。嫁さんも居るじゃねえか。」

席には香浦と、女性のミュータントが座っており、権兵衛はバツの悪そうな顔をする。

「お前が遅いから呼んだんだよ。それに約束はちゃんと守んねえとな。」

「そいうときは断ればいいんだよ。俺はどこにも行かねえんだ。次の機会にでも奢ってくれればそれでいいんだよ。」

「俺もこいつも気にしないって。それに飲むなら大人数の方が楽しいだろ!」

香浦はそう言って空のグラスに酒を注ぎ、権兵衛に手渡す。それを一気に飲み干せば空のグラスを逆さにする。

「相変わらずいい飲みっぷりだな!だが奢るのはここまでだぞ。あとは自分で頼めよ。」

「おいおい香浦。酒のマナーを知らねえのか?遅れてきたら駆けつけ三杯。つまり一気に三杯飲ませるのがマナーなんだぜ。おい小春!酒あと二杯追加だ!」

1杯だけの約束を、強引に2杯追加すれば、届いた酒も同様に空にする。香浦も周囲の人間もそれを見て盛り上がり、続々と酒の注文が飛び交う。

権兵衛は盛り上がった空気を壊さないように、分も追加で注文するが、自分が頼んだ以上の金を隙を見て香浦の奥さんに手渡す。

「あいつは飲みすぎると俺の分まで出しそうだからな。早めに渡しておくよ。」

その言葉を聞いて夫人は頭を下げるが、気にするなという手振りを返し2人はどんどん酒を注文する。


「明日も仕事あるんだろ。この辺で終わろうぜ。」

「おう、そうだな。ちょっと飲みすぎちまった。」

香浦が酒臭い吐息で返せばようやく酒宴が終わる。

珈琲の入った瓶に飲みかけの酒瓶。そこに店員の目を盗み追加した酒瓶。合わせて3本に増えた酒瓶を持って、権兵衛は一人宿直の家へと向かって歩く。

昼とは全く違う、不気味なほど暗く静まり返った路地。星の見えない空から降り注ぐのは半分になった月明りだけだった。そんな弱々しい光は建物に防がれほとんどが影となっている。

そんな路地を歩けば、吐き捨てられたガムを踏みつけ苦い表情を浮かべ役立たずの月を睨みつける。睨みつけられた月は、自身がこの場所では役立たずであることを一切理解せず盲目的にただ光を発する。

そんな存在に苛立ちを感じ、唾でも吐きかけてやろうか、それとも手にした酒瓶で殴ってやろうかという思いを込めて脅すように再び睨みつけるが返事は当然ない。

お互い何も出来ない無意味な睨み合いを続けていると、いつの間にか宿直の家へ到着する。

「お前は孤独だが、俺にはコレが居るんだよ。」

小指を立て勝ち誇ったように月にそう告げれば、権兵衛は宿直の家へと入っていく。

もし月がしゃべれるのなら、女の家に逃げた権兵衛を笑うのだろうか。どちらが無力かを決める決戦はこうして終わったのだった。


朝、宿直の家の扉が叩かれる。その音で先に目を覚ました権兵衛だった。

時間を確認しようと周囲を見回すが時計は見つからない。生活感のなさに呆れながら、噛まれた首筋を掻き隣で寝ている宿直の体を揺らす。

「客だぞ。起きろ。」

かなり乱暴に体を揺らしても宿直は起きず、扉を叩く音は大きくなる。その音が頭に響き、仕方なく立ち上がり散らばった空き瓶を机の上に置き直して立ち上がる。

「いま起こすから中で待ってろ。」

部屋から上半身だけを出し、権兵衛が声を掛ける。栄落で働く少年が鍵のかかっていない扉を開け中へと入る。

「権兵衛さんに伝言です。店長が呼んでるので急いで来てください。」

昨日勝手に持っていった酒の件がもうバレたのか。机に置かれた酒瓶を見て、権兵衛は髪をかき上げ頭を抑える。今日逃げてもいつかは絶対に顔を合わせる仲だ。

権兵衛は仕方なく趙の呼び出しに従うため服を着て、寝ている宿直に声を掛ける。だが寝ぼけた返事しか返ってこず、目覚めぬ家主を残して家から出る。

まだ日が昇りきっておらず、外に出ている住民は少なかった。人通りの少ない路地で下を向き小銭でも落ちてないかと探りながら店へと向かう。

朝から小春の小言は聞きたくない。会うなら趙だけの方が都合が良いので裏口へと回る。

一歩入って店に来たことにしようか、そのうちデカい仕事が入った時にでも話題に出せばいい。

ずる賢くそう考え扉を開ければ、スキンヘッドに反射した光が権兵衛の目を照らす。

「もうちょっとかかかると思いましたが早かったですね。」

このタイミングで趙に出会うのは予想外だった権兵衛だがそれは相手も同じようだ。この状況では帰るわけにもいかなくなり、趙の後に着いて行くことしか出来なくなった。

階段を上がり、裁判にでもかけられるような心境で部屋に入れば新之助も既に来ており、机の上には昨日酒の席で権兵衛に見せた書類が並んでいた。

「おう、おはようさん。」

「あぁ…なんだ。今日も仕事か。なんだよ、それならそうと早く言えよ。」

趙からの小言を想像していた権兵衛は安堵の表情を浮かべ、態度をデカくし椅子にドカッと座る。

「それで今度はどこのどいつだ。春先だからこういう事件が増えるのかね。」

「今日は俺じゃねえよ。持ち込んだのは趙だ。」

その言葉を聞けば、権兵衛の顔が一気に強張る。

「おい。まさか親父さんに仕事持ち掛けたのか?」

「帰りの車でしましたよ。お互い利がありますからね。」

「あんた悪魔だな。いや、俺が言えた立場じゃねえんだけどよ。」

金に困っている状況ではあった。本来なら自分の代わりに言ってくれた趙に礼を言うべきなのだ。だがそれが正解なのか、答えの出せない権兵衛は複雑な心境で頭を掻く。

「それで、いくらで引き受けたんだ。」

「レンガが一つ。入院中の小悪党です。これくらいが妥当かと。」

目の前に置かれた100万の札束を見れば、心は一気に感謝にぐらつく。金の誘惑には勝てず大きく深呼吸をして心を落ち着かせれば、聞いたことのある内容が書かれた資料に目を向ける。

「これ昨日見た奴と一緒だよな…。あんたこうなるって知ってたな。」

そこでようやく違和感に気付く。普段なら使わなくなった資料を燃やすはずだ。なのに新之助が燃やさず持ち帰っていたことに今さら気付く。

「昨日のお前さんは相当頭に血が上ってたからな。面白そうだから黙ってた。」

あまり見ない権兵衛の態度を茶化すように、新之助は子供のようないたずらっぽい笑顔を浮かべる。

「あんた本当は狸のミュータントだろ。おっと狐のミュータントも居たな。いや悪魔の使いは山羊だったか?だけど見た目はタコなんだよなぁ。この部屋に居る人間は俺だけだったか。」

「ですって新さん。もうちょっと運動した方がいいかもしれないですよ。」

「らしいな趙さん。あんたも毛を増やしたほうがいいぞ。」

揶揄われたことを不服に思い2人の見た目に言及し言い返す。権兵衛の口撃をあっさりと聞き流し、新之助は病院とその付近の地図を取り出す。

「これから殺されるとも知らない可哀そうなバカが居るのはここ、二階の個室だ。防犯カメラの設置もあるから当然侵入するなら窓からになる。」

「もうすでにめんどくさえな。窓があるなら趙が狙撃でもしてくれよ。」

「こんな小悪党に銃なんか出してみろ。余計めんどくさくなるだけだ。窓はあるんだ、お前が侵入してやるんだよ。」

病院周辺の地図を取り出しペンで書かれたルートを指でなぞる。指は途中まで道路を指していたが、急に脇に逸れれば、病院を囲む林に入りターゲットが居る病院まで一直線に突き進む。

「運がいいことに入り口には守衛も居ない。ここを通れば外の防犯カメラにも引っかからない。ほら簡単だ。狭いが足場もある、猿じゃなくても出来るだろ。」

権兵衛に見立てられた指が最後に病室にバツを描き、シミュレーションが終わる。机上の空論を聞き終えた権兵衛は呆れて肩を落とすしかない。

「取り分は俺が一番多いんだよな。」

「いつも通り俺と趙が三、お前が四でいいよ。三人だと等分出来ないから困るんだよな。早く新人を引き込みてえな。」

「趙が持ち込んだ仕事だし、儲けもないボランティアみたいな店もやってるし、それ以外にも色々やってくれてる。だから趙が三は問題ねえ。だがあんたが三ってのはどうなんだ。情報は大事だが、今回はちょっと多いんじゃないのか?」

黙っていたことに対してか、雑な指示を出されたことに対してか、嫌味の一つも言いたくなった権兵衛は恨みの籠った文句を言う。

情報の重要性も知っているし一蓮托生の関係だから、本心では一切の文句はない。それでも目の前の狸にやり返さないと気が済まない。

「俺も今回はちょっともらいすぎかなって思ったんだがなぁ。趙から高い買い物をしちまったから実質ただ働きなんだぜ。」

「でもいい買い物でしたよね。」

「そうだなぁ。やっぱり身内でも弱みを握るってのは大事だからなぁ。」

二人がニヤニヤと視線を合わせて会話をして、新之助はスマホを操作し始める。

「いやぁ、いい話じゃないか。俺は感動しちゃったよ。」

鹿助の父親との会話がスマホから流れだす。権兵衛は焦ったように立ち上がりスマホに手を伸ばす。その行動を読んでいた新之助はヒョイと躱して音声を止める。

「高い買い物だったがそれに見合う商品だ。」

「偶然、置いていたボイスレコーダーに声が入ってしまいましてね。私も売るのは心苦しかったんですよ。ですが一番高い酒が、な、ぜ、か。店から消えてましてね。その補填にどうしてもお金が必要だったんですよ。」

権兵衛が文句を言うより早く、趙は反論を完全に封じて口角を上げる。

「売り上げは全部教会に寄付をします。酒を勝手に持っていくのはもうやめて下さいね。」

「ぐう。」

余裕のない権兵衛はぐうの音を出して降伏を宣言する。

「おふざけはここまでにしようぜ。それでさっきの作戦で問題はないのか。」

新之助が地図にボールペンを突き刺し弛んだ空気を一変させ、纏めた資料を権兵衛に投げ渡す。

受け取った資料から特に重要な航空地図や病院の外観、防犯カメラの位置を頭に叩き込み、先ほどなぞられた道のりを見返し、頭の中に叩き込む。

「作戦事態は問題ない。だけどこんなに早くやっちまったらあいつが怪我をさせたのが原因って事にならないのか。」

「こいつはかなりのヘビースモーカーだってよ。心筋梗塞ならなんの問題もないだろ。」

「わかった。夜、また来るからいつもの一式準備しといてくれ。今のうちに昨日の酒抜いてくる。」

新之助がまだ生きている相手の死因を予言する。その予言に誰も反論はしない。まるでそれが確定事項のように話が進む。

唯一の懸念事項が無くなった権兵衛は、どう動くかを頭に叩き込み一足先に部屋を出る。返された資料を受け取った新之助は資料の角に火を着ける。角から徐々に火が広がり炎となれば、ポケットから取り出した煙草に火を着けて残りは灰皿に捨てられる。紙は濁った灰色に変色し、全ての痕跡は三十秒も経たず消え去っていった。


楽園の中央。マンションの屋上でデッキチェアに寝転がり時間を潰した権兵衛の目が開く。月の位置を見て時間を予想しもういいだろうと立ち上がる。屋上から出て鍵を閉め、階段を足音が響かないよう静かに下りる。目の前に現れたエレベーターのボタンを押して、一番下の階に向かう。誰も乗り込まないエレベーターが下に落ちていく度に、権兵衛の表情が冷たく、そして鋭くなっていく。

マンションを出て入り組んだ路地裏を歩く。今回行くのは最短の道ではない。人の居ない、真っ暗な路地だけを選んで進む。長く住んだ住民でも迷いそうなルートだが、何度も使った道だ。今の権兵衛には何の問題にもならない。

栄落の裏口に回り、ゴミ箱を開ければその中に置いてある鞄を手に取る。中には変装用の真っ黒なスウェットとトレーナーに仕事で使ういくつかの道具が入っていた。その場で服を着替え、帽子を深くかぶり、最後にポケットから取り出した腕時計を左手に装着する。

変装を終え鞄を手にして近くの地下鉄の駅へと向かって歩く。駅の看板の光は今にも消えそうなほど弱々しく、点いたり光ったりを繰り返す。それすら今の権兵衛にはまぶしく、目を細めながらホームへ向かい電車に乗り込む。

普段ならだれも使わない駅の利用者をみて、車両の乗客が物珍しそうに見てくるが、権兵衛の剣吞な雰囲気を察したのか直ぐに視線を逸らす。平日の深夜ということもあり、ただでさえ少ない乗客が徐々に減っていき最後に残ったのは寝ている酔っ払いと権兵衛だけだった。

酔っぱらいを電車に残して電車を降りれば、頭に叩き込んだ道を歩く。深夜の都内だというのに足音は一切ない。権兵衛の足音さえも聞こえない。たまに通り過ぎる車のエンジン音だけが闇夜に響き、権兵衛を一瞬だけ照らし通り過ぎるだけだ。

わざと一つ離れた駅で降り、長い道のりを歩んだ権兵衛の前にようやく目的の林が見える。林の手前にある木の隣に立ち、歩みを進めれば頭の中で歩数を数える。丁度四十歩、約30mほど進んだ所で歩みを止める。

耳に全神経を集中させ無音を聞けば、念のため周囲の様子を見回し林の中に姿を消す。足元の枝葉を踏むさえ躊躇しながら林の中を突き進み、写真と一致する病院の外観が見えれば再び周囲を確認し静かに出て行く。

外壁に近づきコンクリートが少し出っ張った部分を見つめ、小さく息を吐く。背伸びをしても届かないことを確認すれば、足場のない壁につま先をかけ、音を極力出さないように蹴り上げ、出っ張ったコンクリートに指をかける。

指先に力を込め、上半身を出っ張りより上に持ち上げ右足を狭い出っ張りに乗せれば、足場でと言えないような小さな場所で、小さくない体を器用に起こして立ち上がる。権兵衛にとって最も困難なタスクはここまでだった。

狭い足場を伝い窓から病室を覗く。薄いカーテン越しに寝ている人間の顔を覗き込み、目的の人物であることを確認すれば終わっても居ないのに、小さく安堵の吐息を吐く。

窓に鍵が掛かっているのは外から見ても一目でわかったが、そんなこと権兵衛には関係がない。右手を窓に近付ければ、確かに今まで存在していたはずの権兵衛の右手、具体的には右手の肘より先が一瞬で消える。存在しない腕を窓に向けるように肩が動けば、いつの間にか指先だけが窓ガラスの向こうに現れる。宙に浮かんだ指が鍵を静かに開ければ、権兵衛は窓ガラスを一切傷つけることなく病室への侵入を果たした。


「人間は種類が増えただけだ。ミュータントは新人類だ。」

そう提唱した研究者が居た。ミュータント研究の第一人者と呼ばれ新たな人類、新たな生物に目を輝かせ、叶うなら私もミュータントになりたいと人々の前で叫ぶほど研究に没頭し、狂人として知られていた研究者はある日、世紀の発見だと言って人々を集めた。

白衣に、ぼさぼさの髪の毛。長い髭は整えられておらず、分厚い眼鏡をかけ人前というのに自身の見た目を一切気にしていない。胸に研究一筋と書いた名札をかけても誰も疑問に持たないような見た目で、カメラの前に現れた研究者の隣には何の変哲もない人間が立っていた。

その男を助手か何かだと思った人々は、彼が今日の主役だと誰もわかっていない。彼こそミュータントと人。彼らを分断する最後の爆弾となる人物だった。

「彼こそ新たな人類、第三の人類だ!君の力を見せてあげなさい!」

研究者は男にカメラの前に立つように指示を出せば男は人々の前に立ちカメラに手を向ける。今から何が始まるのか。人々は固唾を飲んで見守った。

そうして人々から見守られる中、男は何もない指先から小さな火を出す。さあ続きは!その先を期待した人々は、その後を期待し視線は指に釘付けになる。だが先などなかった。ただ指先から火を出し、男がその熱さに耐えきれなくなった瞬間、一瞬で火は消えて男はそそくさと後ろへ下がる。

もっとすごい光景を期待していた人々は、出来の悪いマジックをみせられたことに落胆し、空気が凍り付く。

「これは種も仕掛けもない!彼の体は隅から隅まで我々と何の変わりもないただの人だ!そんな男が!自力で!火を出したのだ!これこそまさに新人類!ネオヒューマンだあああああああああ!」

空気の読めない研究者は狂気じみて叫ぶ。だが誰もその話を信じない。男が遂に狂ったのだ。全員が同じ認識で研究者の発表を嘲笑する。

間近で見ていた観客の1人が男の服を脱ぐように指示を出す。そうして男の体を隈なく調べマジックの種を探す。

だが研究者の言う通りこの火は種も仕掛けもないのだ。本当に男が自力で火を出したことを知れば、その場の人間は研究者を問い詰める。この男以外にこういったことが出来る人間は居るのか、いるならどんな力を持っているのか、見分ける方法はあるのか。

その質問に対して研究者はたった一つ、確定している答えを出す。

「わからない。」

それを聞いた瞬間、一部の人々は男以上に狂気した。能力を持つ者も、能力の中身も、見分ける方法もない。隣人が、友人が、家族が、能力を持っているかもしれない。自分にもそんな力があるかもしれない。期待と不安が人々を混乱させる。

何よりも見分けがつかない、これが最大の恐怖だった。

彼らの犯罪を恐れた一部の国は博士の言うネオヒューマンという呼称をすぐに破棄する。

彼らに与えられた名はレッサーミュータント。もしくはデミヒューマンと呼び、彼らの発見と捕縛を進めるため、顔の見えない相手への懸賞金を設ける国さえあった。

現代の魔女狩りに近いその行為は、噂だけで逮捕される者も出る始末で、世界は予想以上に混乱した。そんな状態が続けば目の前にあるわかりやすい標的も、その対象に入ってしまい、国を挙げての軽はずみな行為が、根強い差別意識に変化していくのだった。

この状況で得をしたのは被験者が増えた研究者だけだった。新たな被験者が増え彼だけはそんな世界でも狂気し笑う。まるでこの状況すら予想していたかのように。


権兵衛の能力は右手の肘から先の透明化だ。昔は腕が消えるだけで何の役にも立たない力だったが、長い時間能力と向き合うことで、今では一部分だけ物体化することも出来る。

だが壁やガラスの先にある物を掴めるが、掴んだ物を持ってこようにも物体は透明にはならないので盗みは出来ない。長さも肘から先、精々三十から四十センチほどだ。鍵を無くしたときには便利だが、それ以上の使い道は本来はない。


静かに鍵を開け病室に入った権兵衛は、静かに歩いて山水に近づく。骨折しているはずの腕を下にして、足は伸ばしてベッドの上で眠る姿を見て新之助の言葉が真実だったことを確信する。

窓から差し込む月光を遮らないよう立ち位置を変え扉に背を向ける。ナースコールを遠ざけ万が一の事態がないように環境を整えれば、山水の姿勢が変わるのを静かに待つ。山水が寝返りをうって仰向けになった瞬間、胸へ腕を伸ばす。

腕は先ほど同様、一瞬で消えるが、上腕はゆっくりと体の方へ沈んでいく。肩の動きが止まり、権兵衛の掌が体の中で実体化すれば、心臓を直接握りしめる。握りつぶさないよう、繊細な指使いで鼓動を止めれば、山水の苦しそうな呼吸音が静かな病室に響き、空いた手で叫ばれないよう口を塞ぐ。

「おはよう。そしておやすみ。」

権兵衛の挨拶を聞いて目を見開き、いつの間にか隣に立っていた男の顔を見るが、その顔を記憶することは叶わない。完全に意識を失った相手の呼吸が止まるのを待ち続け、掌にこそばゆい感覚がなくなればようやく口から手を離す。

心臓は必死に動こうと努力をするが、指先にかかる力が徐々に弱々しくなっていく。遂に鼓動をやめ体で一番重要な臓器が職務放棄をするが権兵衛は手を離さない。腕時計を見続け、長針が30度動いたのを確認すればようやく手を男の体から抜き取る。

手を離したら次は長針が60度動くのを待ち、息を吹き返さないのを確認すればようやくその場を離れ窓から病室を出て行く。

林を突っ切り、道路に出るが来た道を戻らず、帰りは別の道を歩く。

目的の物を探すため、下を向いて歩道を注意深く見て歩いて行けば一際大きいマンホールを見つける。影にならないようマンホールの手前に立ち、記された番号を確認すれば、鞄の中に入っている二本の棒を取り出す。棒を慣れた手つきでマンホールに引っ掛けて秘密の入り口の扉を開ける。梯子は見えれば、自分の体が入る分だけ蓋を空けその中へと入って行く。梯子に足をかけ落ちないようにしながら、両手でマンホールの蓋を持ち上げてはずらし、持ち上げてはずらしを繰り返しようやくほとんど閉まりかけた時、隙間から見える月が権兵衛の目に入る。

「天網恢恢疎にして…漏らす。」

そう月に語りかけ、マンホールの蓋をずらし完全に閉める。全てを見ていた月は何も語らない。ただ権兵衛が居た場所を、相も変わらず照らし続けるだけだった。


山水が死んでも、楽園は変わらない日々を繰り返す。特にやることのない権兵衛はマンションの屋上で寝転がる。日々変わる雲の形を見て、眠くなれば眠り、夜には女の家に転がり込む。あれ以来、怠惰の極みとも言える日々を過ごしていた。寝転がりながら目を閉じるが、集中的に光を浴びせる太陽の位置が気に食わず、ビーチパラソルの角度を変えようと立ち上がった時、屋上へ続く階段から足音が聞こえ、少年とから青年に変わる年齢の男子が、屋上の扉を開く。

「兄貴、趙さんが呼んでるよ。」

中性的な顔立ちで、世間一般ではイケメンと呼ばれる部類の顔立ちだ。階段を駆け上がっても息を少しも切らさないのは若さの証明だろう。

「誠か。いいタイミングだったな。あと一分遅かったら行かなかったところだ。」

誠と呼ばれた少年のサラサラの黒髪をわしゃわしゃと撫でて、一緒に階段を下りる。誠は孤児院で一番古株の孤児だ。拾って来たのは権兵衛で、孤児院の中でも特に目をかけている。権兵衛は何で着いてくるのかなど野暮なことは聞かない。孤児院で困った事はないか、飯は食ったのか、などというたわいのない会話をしながら、一緒に一栄一落への道を歩む。店の前に着けばクリップから千円札を一枚取り出し誠に渡す。

「俺は裏から入るから飯でも食って待ってな。」

子供の前でツケなどと、反面教師になるような真似は出来ない。金を持たせて店に入るのを見送って権兵衛は裏口から店へ入る。いつもの部屋へ上がっていけば、昼だというのに珍しく来ていた新之助が食事をしていた。

「珍しいな。平日にあんたが居るなんて。」

「平日じゃねえよ。今日は旗日だ。」

「国民の休日はここじゃ適用されないんだ知らなかったか。」

「適用されないのはお前だけだよ。店の中見てみろ。普段より賑わってるぞ。」

「それで今日は仕事なのか。」

頬杖をついて欠伸をして緊張感は一切ない状態で、呼び出した理由を尋ねる。

「いいや事後報告だ。山水の死因は心筋梗塞、今回の事件とは何の因果関係もないと証明された。病院は診断書を偽造して提出したことに関して問い詰められてる。そう長くは持ちそうにないな。山中鹿助の器物破損と傷害は変わらないが多少は罪は軽くなるだろ。執行猶予で済むと思うぞ。」

それを聞いても喜びはせず、そうかいと返すしかない。最悪を避けただけで、その罪は鹿助の暗い影となることに変わりないからだ。何より父親は金を払って人殺しを頼んだのだ。鹿助以上の罪を背負った親子に明るい未来を想像するのは難しかった。

「鹿助さんのご両親は家を売り払ってアパートで暮らすそうです。その後、息子さんと一緒に田舎に引っ越すと伺ってます。」

いつの間にか部屋に居た趙が、情報を補足する。権兵衛は無表情で、ただ情報としてそのことを頭の片隅に入れる。

「教会への寄付は先にすましてあるので60万は抜いてあります。残りは権兵衛さんの分ですがどうされますか。」

そう言って趙は水と札束の乗ったトレイを権兵衛の前に置く。権兵衛は札を5枚だけ抜き取り、残りを放置して席を立つ。

「もう行くのか。お前も食っていたらどうだ。」

「誠が待ってるんだ。悪いけど下で食うよ。」

権兵衛が部屋を去り、残った新之助は半分ほど残った食事を再開する。

「人の命が100万か。全く酷い話だ。」

「そうですね。私達は酷い人間ですから、酷い話が付き纏う。ただそれだけの話です。」

「そうだな、ただそれだけ、それだけの話か。」

趙は淡々とそう返して部屋を去る。新之助はその答えを聞いて自分に言い聞かせるよう呟く。

心に残るのは罪悪感。それは金を受け取ったことへなのか。友人がまた人を殺してしまったことへなのか。また傷ついた家族が生まれたことへなのか。自問自答するように考える。だが答えの出ない悩みをこの歳になって抱えることが馬鹿らしくなり、罪悪感を食事と共に飲み込んで食事を終える。いつも通り着こなしたスーツに汚れがないか確認すれば、誰も居なくなった部屋の電気を消して部屋を出る。

暗い部屋には何も残らない。罪悪感も、犯罪の証拠も、事件の真相も、全ては闇に消えていくのだ。



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