味のないガム-3
体を擦り体温を上げながら、権兵衛は入り組んだ路地を歩く。
玄関の掃除をする者、他人の噂話で盛り上がる者、同族のミュータント向けの屋台を準備する者。
まばらだが活気が少しずつわいてくる。陽の当たらない路地を進み行きかう人々に挨拶をしながら、目線は空き家となった家の玄関に向けられる。
空き家の扉には紙が挟まっており、それが無くなれば誰かが入ったという合図だ。何軒か目星を付けていた空き家の中から数件、紙の無い家を見つけるが、すぐに乗り込む事はしない。
知らぬ素振りで家の前を通り過ぎていき、数軒ほど進みそこで玄関を乱雑に叩く。最低限のマナーを果たしたと言わんばかりに、家主の返答も聞かずにずかずかと家に入り込む。
「おーい、宿直~、生きてるか。」
「死んでるから助けて~。」
部屋の奥から女が声を振り絞り返事をする。権兵衛はその声を聞いただけで、最悪のタイミングで訪ねた事を知るが、放っておくわけにもいかない。台所に向かいコップに水を汲み声のした居間へと向かう。
春が来たとういのにまだ片付けられていない炬燵から、四本の腕を出して突っ伏す蜘蛛のミュータントが、右半身にある2本の腕をあげて居場所を知らせる。
「お前はよくない酔い方するから1人酒はやめろって言ったろ。」
「酒じゃなくてコ~ヒ~。」
「わかったわかった。水持って来てやったから…早く起きろよ。」
コップをタンスの上に置き、宿直の介護を始める。体を回転させてひっくり返し4本ある腕を全て抱えるように、腕をねじ込み無理矢理に体を起こす。
起こされた宿直はそのまま炬燵に突っ伏し、目の前にコップを置けば口から小さな触角を出してそこから水を吸い上げていく。
「ありがとね~。安く酔えるし、昼間っから飲んでても怒られないし、ごんべ~がお世話してくれるし、ミュータントさいこ~。」
「まだ酔ってんのか?ほれ、早く起きろって。仕事頼みたいんだからよ。」
「仕事なんてサボればいいじゃ~ん。最近ご無沙汰だったしちょっと遊ぼうよ~。それとも人間じゃないからイヤ?」
4本の腕を器用に動かし、1本はシャツの胸元を開き、もう1本は首に回し、残った2本は胴へと回して権兵衛の体を自分の近くに引き寄せて、耳元で煽情的に囁く。
「その牙を俺に突き立てなきゃいくらでも相手してやるよ。」
「フフッ。期待してもいい…。」
首元に牙の先端を当てられても、一切動じずそう告げ宿直の前に顔を近づける。急に近づけられて照れたのだろうか、全ての目が権兵衛から反れ違う方向を向く。だがそれも一瞬だ、目は一斉に権兵衛に向けられ牙をしまい口が徐々に近づく。
「今は仕事が先だ。ほら、早く人別帳出せ。」
「うぅ~、いけず~。女泣かせ~、節操無し~。」
期待していた女の額を軽く叩き、目を覚まさせる。権兵衛を非難する言葉はどれも正当な評価で否定できない。
そんな宿直の耳元で「続きは夜にな。」と囁けば、芯に目覚めた宿直が、壁際に張り巡らされた蜘蛛糸を1本選んで引っ張る。すると天井がパカっと開き、街の地図と住んでる人物が書かれた地図が落ちてくる。
権兵衛は地図をキャッチし目を通す。目星を付けたいくつかの家は空き家ではなくなっていた。それでも3軒は空き家のままになっており宿直に尋ねる。
「ここ。さっき見たら紙がなかったが最近だれか引っ越してきたのか。」
「う~ん。誰かが引っ越すって話も来てないしまだ空き家のはずだけどな~。」
「それじゃ見に行かねえとな。ほら行くぞ。」
日が昇り街に人が出てくるタイミングで移動する可能性は低い。それでも相手の精神状態を考えれば行動を完璧には読めない。
急いで確認に行こうとするが宿直は中々立ち上がろうとせず、むしろ恥ずかしそうに炬燵にもぐってしまう。
「今…履いてないから部屋から先行ってて。」
「あー…、わかった。それじゃ外で待ってる。」
何度も裸を見せあった中だが宿直は下半身を見せる事を異常に嫌う。特に陽の出ている時間はその傾向が強い。権兵衛はそれを理解し素直に部屋から出て彼女が着替えるのを待つ。
「おっ、待たせ~。」
「まだ外は寒いぞ。上着ぐらい着て来い。」
「権兵衛も着てないじゃん。でも寒いのは嫌だから~…。」
スカートをめくり尻から蜘蛛糸を出せば、壁に掛けてあるコートに蜘蛛糸をひっ付ければ移動せずに手元に持ってくる。コートを着込み四本の足を靴の中に入れれば外に出る。
「本当に寒いじゃん。もう帰っていい。」
外に出た瞬間、あまりの寒さに弱音が零れるが、権兵衛は帰らないよう宿直のコートを引っ張って歩みを進める。寒い寒いと呟く宿直を強引にエスコートして一軒目の家に辿り着く。
家の中に居るかもしれない誰かに聞こえぬよう小声で「頼んだ」と呟き、権兵衛は数歩先まで進んで別の家の壁にもたれ掛かる。宿直は扉に紙がないのを確認し、家の軒先にある蜘蛛の巣を見て、形が崩れていないことを確認し、そこから家の中に伸びる一本の蜘蛛糸を小さく揺らす。
「ここじゃないね…。うん、紙が取れただけ。」
宿直は扉を開ければ、玄関に落ちた一枚の紙を拾う。紙の少し先には細い蜘蛛糸が何本か張られていた。蜘蛛糸は外にある蜘蛛の巣へと繋がっている。誰かが入れば蜘蛛の糸が切れ、家に入らなくても侵入者がわかる仕組みになっていた。
問題がないことを確認すれば、次の家に向かう。先程と同じ様に権兵衛は少し先に進み、宿直が音を立てないよう、家の隣にある蜘蛛の巣に触れる。その瞬間、宿直は糸が切れていることを確認し、声も上げずに家から離れる。権兵衛の隣に立ち。手を権兵衛の脇腹に伸ばして突く。
「助かった。あとは任せてくれ。玄関のカギ閉めるなよ。夜にまた会おうぜ。」
この家が当たりであることを理解した権兵衛は、宿直にお礼を言って頭を撫でる。その言葉で満足した宿直は来た道を戻っていく。宿直の背中が見えなくなれば、先ずは家の周りを念入りに観察する。家の周囲を静かに歩き玄関以外の逃げ道を確認する。
裏は隣の建物との隙間が狭く、西側には小さな窓しかない。唯一出入り口として使えそうな、東側にある1階の窓に近付き家の中を覗くが人影はない。居るなら2階東側。そう目星を付けた権兵衛は一気に玄関を開ける。突然の音に驚き二階からバタバタと大きな音が響けば、権兵衛は当たりを引いたことを確信し、全速で目的の部屋を目指して階段を駆け上がる。
音がする部屋の襖を開ければ、目的の人物が窓を開けようと錆びた鍵を必死に動かしていた。
「落ち着け、落ち着けよ。警察でもねえし、取って食ったりもしねえ。ほら…丸腰だ武器も無えよ。なっ、先ずは落ち着いて話をしようぜ。」
窓を蹴破って逃げたりせず、焦って逃げなければいけない状況でも一定の理性が働いている。まだ話し合いが出来るはずだ。そう信じ両手を広げ掌を相手に向け、何とか話し合いに持ち込もうとする。だが万が一突っ込んで来たら左右どちらにでも逃げれるよう足は広げ、靴を履いたまま相手と対峙する。相手は荒い呼吸でまだ目が血走っている。その目が権兵衛に警戒を解かせない最大の要因であった。
「じゃ…じゃあぁっ!」何しに来たんだよっ!」
相手は壁に背をピタリと付け窓から離れ、権兵衛と距離を置く。この狭い部屋では広い視野角も役には立たない。目の前に居る男が出す音以外に、別な音はないか。聴覚に全神経を集中させ耳を常に小さく動かし続ける。権兵衛はゆっくりと動く相手から目を離さず、ただ足先だけを相手に合わせて動かす。立ち位置は変えず、唯一の出入口となった場所を陣取る構えを変えない。
「引っ越しの挨拶…って言ったら信じてくれるか。」
「悪いが信じない。生まれてから一度も、他人の言葉を信じた事はないんでな。」
相手はすり足で部屋の角まで移動してそこで止まる。権兵衛が一歩だけ、近付こうと体を前に出せば、相手は体をビクつかせ荒い呼吸で体が上下する。
だがそれだけだ。掌を部屋の壁にびったりと張り付け、近づかないでくれと懇願するような怯えた表情を浮かべるだけでまだ行動には移さない。
「これじゃまるで俺がいじめてるみたいじゃないか。」
立ち方も表情も、喧嘩の経験もございません。そう宣言しているような動きを見せれば、権兵衛は自分の行動を反省するようにそう呟いて頭を掻く。相手と目を合わせたままどうすればいいか考えこみ、覚悟を決めればその場にあぐらをかいて座り込む。
「最初に言ったろ。話をしようって。」
構えを解いて靴を脱げば、ボロボロの畳の上に座る。近付かない、襲わない、だが出て行かない。その意思を全て見せる。それでも相手の警戒は解けないが、少しだけ膝の形が変わり足の力を抜いてくれる。
「俺は権兵衛。名無しの権兵衛って言うんだ。歳は…今年で…35…いや、6だったか。」
「完全に偽名じゃないか。そんなふざけた自己紹介は聞いたことない。」
自己紹介をしたのは新之助から聞いた相手を名前を忘れたからだが、名前を名乗ったことで余計に相手を警戒させてしまう。
「ははっ。なんも言えねえや。まあいいじゃねえかそういうのは。おい、とか人間、なんて呼び合うよりもずっと人らしいぜ。」
だが会話が出来ることは前進だ。相手の戦闘の経験など、ミュータントと人間の身体能力の差からすれば些細すぎる問題なのだ。鹿でも虎でも関係はない。相手が全力で突っ込んでくるだけで権兵衛の体は一瞬で砕けてしまう。今は肉体的な距離よりも精神的な距離を縮める方がよっぽど楽だし危険はない。
「中山鹿助…。24歳で…24歳だ。」
「いい名前じゃねえか。それに若い。名無しの権兵衛なんて名乗るおっさんよりは万倍マシだ。」
自分の名前さえ皮肉って笑って見せる。目の前の青年が見せる善の部分を感じ取り、絶対に戦いたくないと心が叫ぶ。権兵衛はそのために必死に交渉を続ける。
「それでここには何しに来たんだ。そんな良いべべ着てまさか仕事、ってわけじゃねえんだろ。酔っぱらって入っちまったなら気にすんな。よくある話だからよ。」
相手を知っているということは、それだけで情報的にも状況的にも、対等ではなくなる。現状必要なのは対等な立場での会話なのだ。権兵衛はそれを理解しているからこそ何も知らない振りをして相手から話しをさせる状況を作ることに専念する。
「そういうのじゃない…。邪魔なら出て行くよ。」
「大丈夫だから気にすんな。ここは空き家だから誰が住んでも問題ねえよ。だけど誰が住むのかわかんねえってのは困るだろ。急に他所の国の工作員が住むとなって見ろ。お上に目を付けられてこんなとこ直ぐに更地になっちまう。だから最低限どんな奴が住むのかは知っておかなきゃいけないんだ。」
「それは…そうだろうな。」
「わかってくれればいいんだ。それでスーツを着てるってことは鹿助は外で働いてるのか。」
「働いてる…多分…まだ…大丈夫…。」
その質問に鹿助の言葉は徐々に弱まりそして黙り込む。沈黙が続いても、権兵衛は急かすことはしない。逆に足を伸ばしてリラックスした座り方に変える。お前がしゃべるまで待つよ。そう意思表示をして相手がしゃべりやすい環境を作る。
「例えば…例えばだが…逃げてきた。そう言ったら…匿ってくれたり…するのか。」
それは助けてくれという叫びだ。懇願に近いやっと見せた鹿助の本心。突き放すか、手を掴むか、権兵衛の答えはもう決まっている。
「内容によるけどな。さっきも言ったが警察から逃げてるとかは無理だぞ。お上に目は付けられたくないんだ。それ以外で事情があって逃げてるってことならいくらでも匿ってやるよ。」
だが今はまだその時ではない。唯一逃がせない理由だけを語り相手の出方を見る。
「そっ…そうなんだよ!ミュータント差別主義者に追っかけ回されて大変だったんだ!いくら無視しても付いてくるもんだからここまで逃げて来たんだ。」
その言葉を聞いた鹿助の目には揺らぎが見えた。だがこいつを男を騙せば、この場からは逃げきれるかもしれない。そんな思いで必死に作り話を語る。
「あぁ。わかるよ。外の連中はミュータントに厳しいからな。しかもスーツなんて着てれば癪に障るってやつも出るだろうな。本当、生き辛い世の中だよ。」
目の前の男が全てを知っているとも知らず並べる嘘。だが権兵衛は指摘しない。それどころか心から相手に同情しそう答える。
「そうだ…それでも我慢してきたんだ。」
自分の話に共感する人間に始めて出会い、その思いを感じ取った鹿助の感情が爆発する。
「昨日今日だけの話じゃない、って言い方だな。」
「あぁ、そうだよ。運動は、いくら頑張ってもミュータントだからって理由で終わりだ。だから勉強だって頑張った。大学だって入った。知ってるか、ミュータントってだけで大学受験の会場を別にされるんだぜ。カンニング防止だってな。それでもなんとか大学に入って、就職だって出来た。だけどどいつも二言目にはミュータントだからって理由を並べて評価してくれない。俺の努力は全部その一言で終わりだ。俺という人間を誰も評価しない!生まれてから、ずっとだ!」
最初は同情を誘うための言葉だった。だが喋れば内に秘めていた怒りが沸々と湧きあがる。我慢し続けていた、過去から続く流れを堰き止めていた全ての不満が怒りで一気に噴出する。
怒りに任せて腕を床に叩きつければ部屋が揺れて床がへこむ。全力で物を殴った経験のない腕に、激しい痛みと暴力の痕跡が目の前に現れる。自分の抑え込んでいた力に困惑し目を丸くさせてしまう。
権兵衛はそれを見ても怯える様子はなく会話を続ける。
「まだまだ厳しいよな。普通に暮らすのだって楽じゃない。そんな場所で働いてんだ、あんたは立派だよ。」
「あんたに何がわかるんだよ。あんたは人間だ。どこでだって後ろ指を指されずに生きていける。だが俺は違う。どこへ行ったって、何をしたってミュータントだから、そればっかりだ。」
同情ではない、本心からそう語るが相手に響かない。今までの鬱憤を晴らすように床を再び殴る。会話が途切れれば建物の軋む音が残響として残り、その音が余計に鹿助の心を苛立たせ、不安にさせる。
「物を殴ったって拳を痛めるだけだぞ。そんなことよりやってきた相手にやり返したほうがスッキリするだろ。」
「復讐してどうするんだ。ミュータントは力が強いんだぞ、逆らうんじゃねえ。そうやって暴力で黙らせるのは野生の獣だけだ。俺は獣じゃない人間だ。我慢して真面目に生きればいつかみんな分かってくれる。だから俺は、真面目に…。」
最後まで言い切らず、語尾が徐々に弱々しくなり口を紡ぐ。
「まあそうなんだけどよ。お前がいくら頑張ったって他が悪いことするんじゃ意味がないんだよ。お前はまともなところに就職できたかもしれねえが大半はそうじゃねえ。詐欺みたいな給料で働かされてるやつも居る。稼ぐならその力を使って犯罪した方がずっと早い。そう考えるやつも多くなるさ。力も強いし、目も良い。空を飛べるやつも居るんだ。」
「そういうやつらがいるから俺もそうやって見られるんだ。だから…。」
「だから、馬鹿にされてコンビニで大暴れしたのか。」
権兵衛の言葉に鹿助の心が動揺し瞳が揺れる。
「最初から知ってたんだな。」
「まあ…そうなるな。お前も嘘ついてたんだ。お相子ってことにしようぜ。」
鹿助は全てを知っていたのに泳がされたことに、怒りを覚え睨みつける。それとは対照に権兵衛は顔を緩め歯を見せて笑う。だが内心では踏み込むのが早すぎたことを後悔する。
「それで、俺をどうするんだ。」
「どうって言われても…な。お前はどうしたいんだ。」
頬をかいて答えをはぐらかし時間を作る。座り方が悪かった。暴力か、逃走か、どちらにせよ対応出来る状態ではない。逆に相手は立ち上がり、直ぐにでも行動に移せる状態だ。行動の主導権は今、権兵衛の手元には無い。
「黙れ。お前はそこを動くな。」
姿勢を変えようとする権兵衛を鹿助が言葉で制止させる。本格的にマズい状況に立たされ、言葉で制止させるしかなくなる。頭の中をフル回転させ今の会話から逆転出来る言葉を必死に考える。
「それで、こっから逃げてどこに行くんだ。もうお前がやったってのも、ここに居るのもバレてんだ。逃げたってなんも変わんねえよ。」
じりじりと出口に向かう鹿助の体は止まる。相手の理性は消し飛んではいない。その考えが確信に変わる。分の悪い状況が一転し好転に向かい始める感覚が背中に走る。
「海外に逃げようとしても無駄だぞ。飛行機なんて使えるわけねえ。船で逃げるか?お前にそんな伝手ねえだろ。なら人が来ない山にでも籠るか。それこそ獣と変わんねえぞ。」
「ならどうしろって言うんだ。警察に素直に捕まったらそれこそ終わりだ。」
「そうだ。お前の考える…違うな。お前の両親が考えた理想のミュータントごっこか?そいつはもう終わったんだよ。」
鹿助との会話で感じていたどこか人に言われてやらされた、その感覚を感じていた権兵衛は両親という言葉を使い、冷たい口調でそう告げる。その予想は当たり、鹿助の体から力が抜ける。そのまま生まれたての小鹿のように足がガクガクと震え座り込む。
「家族、居るんだろ。電話してやれよ。迎えに来てもらえ。」
動けなくなったのを見て賭けに勝った権兵衛は小さく、だが深いため息を吐き立ち上がる。鹿助の肩に右腕を回し、心臓の前でブランと下げる。空いた手でポケットにしまっていた携帯を取り出して手渡す。座り込んだ鹿助は携帯を受け取っても、指先が震えて番号が打てない。
「しょうがねえなぁ。ほら番号言ってくれ。」
鹿助から携帯を返してもらい、震える口から小さく漏れる番号を携帯に打ち込む。通話ボタンを押すだけで電話が出来る状況で再び携帯を手渡すが、鹿助は一向にボタンを押そうとしない。
「優しくて立派なご両親なんだ。心配してるぞ、早く安心させてやれ。」
安っぽい言葉だ。権兵衛の胸中にそんな思いが渦巻くが、安易な言葉で背中を押すしかない。その言葉で踏ん切りがついたのかはわからないがようやく通話が始まる。父親と思わしき人物が電話に出れば、知らない番号からの電話に警戒しながら話しかている。鹿助はそれに対して謝罪の言葉を告げる。その声を聞いた途端、父親は鹿助の名を何度も繰り返すが、謝罪以外の返事は返さない。そのやり取りを見ていた権兵衛が少し呆れながら、電話を貸すよう耳元に囁けば、鹿助は素直に携帯を手渡す。簡単な自己紹介から始め、鹿助の無事と待ち合わせ場所として栄落の場所だけを伝えれば、電話口の父親が今度は権兵衛に平謝りをし始める。
先ほどの鹿助と同じ行動をする父親に対し、この親にしてこの子ありだな、と考えながら鹿助にまだ話すことがあるかを聞き、首を横に振るのを見れば権兵衛は電話を切る。
「場所を変えようぜ。ここは俺には寒すぎる。」
背中に流れる冷汗が乾き、権兵衛の体を冷やせば大きくくしゃみをする。暖房もなく、陽の光も入らないコンクリート壁の部屋は権兵衛には寒すぎた。腕の下に肩を入れて、右手の位置だけは変えずに鹿助を立たせようとすれば、鹿助は1人で立ち上がりもう大丈夫だと手で断りを入れる。
「いま終わったって趙に言っといてくれ。すぐそっちに向かうから部屋どっか空けといてくれ。」
携帯に唯一登録してある栄落の番号に電話を掛ければ、偶然出た小春に短くそう告げる。電話口で小春が何か喋っていたが、無視して電話を切る。
「腹減ってるだろ。飯食える場所予約しといてやったからついてきな。」
そう言って権兵衛は先に部屋から出る。素直に後ろをついてくる鹿助の足音を聞いて、もう逃げる心配はないだろ。そう信じて歩き始める。




