第48話 魔に触れた代償
巨人の息づかいが、広間を揺らしていた。
吐くたびに熱い湿気が押し寄せ、吸うたびに冷えた空気が引き抜かれる。呼吸そのものが、風圧になって壁を撫でていく。
三つ目の眼が、こちらを“見ている”だけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。理屈じゃない。生き物としての拒絶反応だ。
視線が刺さる、というより――皮膚の下を撫で回される感覚に近い。背中の産毛が総立ちになり、心臓が一拍早く鳴る。
それでも――退けない。
リアが隣にいる。俺の呼吸を数えるみたいに、静かに歩幅を合わせている。足元には薄い氷が伸び、巨人の動きを少しずつ鈍らせていた。
氷は派手に光らない。ただ白く、静かに広がる。その静けさが逆に怖い。リアの集中が途切れた瞬間、全部が崩れると分かるからだ。
「来るぞ」
言った直後、巨人の腕が跳ねた。
横薙ぎ。風圧だけで頬が裂けそうになる。避ける。間合いの外へ――と思った瞬間、巨人のもう片腕が逆方向から叩き落ちてきた。
挟み撃ちだ。
片方を避けた“先”に、もう片方が待っている。身体の逃げる癖を読まれているみたいで、ぞっとする。
(くそ……!)
一歩、遅い。
リアの反応が間に合うかどうか、その“間”を測っている余裕がない。俺は反射で踏み込んだ。刃を入れるためじゃない。リアの位置をずらすために、肩で押す。
氷の上を滑る足が一瞬もつれて、踏ん張りが効かない。焦りが喉を締める。
次の瞬間、巨人の指先が俺の脇腹を掠めた。
布が裂け、熱が走る。骨まではいってない。だが体が持っていかれる。
皮膚が持っていかれた感覚が遅れて追いつき、汗が一気に噴く。息が、短くなる。
「時人様――!」
リアの声が背中で跳ねた。
(今の一撃、もう一回は――)
巨人が追撃の体勢に入る。三つ目がぎょろりと動いた。次に落ちてくるのは、避けられる。俺だけなら。
身体はまだ動く。距離も取れる。判断も間に合う。
でも、その軌道の先――リアがいる。
判断が一拍遅れたら、終わる。
その“一拍”を埋める術は一つしかない。
俺は奥歯を噛み潰す。
〈時戻し〉四秒。
世界が跳ね、空気が巻き戻った。
耳の奥で、ぐにゃり、と現実が歪む感覚。景色が一瞬だけ二重になって、心臓の音が遠のく。
◆
戻った瞬間、頭の中に“笑い声”が混じった。
女の声。
冷たくて、甘い。
(……あの時の声だ)
背筋がぞわりと粟立つ。あの一日戻しの時、限界の淵で聞いた声。ここから先を覗いたら、何かを失う気がした。
その“何か”が何なのか分からないのに、喪失の匂いだけがはっきりする。喉の奥が苦い。
そして――次に〈時戻し〉を使ったら、もう戻れない気がした。
直感じゃない。身体がそう言っている。魂のどこかが、もう一段削れたら崩れる、と。
次の瞬間。
右腕の奥が、焼けた。
腕輪の刻印が、皮膚の下で脈打つ。黒い線が増えたわけじゃない。ただ、刻印そのものが熱を持ち、奥から神経を焼く。
熱は点じゃない。輪だ。輪が締まるたび、骨の中を擦られる。骨髄に火箸を突っ込まれたみたいに、じわじわと内側が焦げる。
痛みが、刻印のある場所から骨の芯へ広がっていく。
神経が剥き出しになったみたいな痛みが走った。
(……っ、く……)
息が詰まる。視界の端が白くなる。
短剣の柄が滑りそうで、指に力を入れた瞬間、痛みが跳ね返る。握ることすら罰みたいだ。
◆
戻った分の“余裕”は、四秒しかない。
巨人が腕を落とす前。リアがまだ押される前。
今は迷う時間がない。迷った瞬間、四秒は消える。
俺はリアの肩を掴み、今度は倒すように後ろへ引いた。
「伏せろ!」
リアが身を低くする。巨人の腕が、頭上を薙いだ。風圧が髪を引きちぎる。
頬の皮膚がひりつき、肺が押し潰される。だが――当たっていない。
(間に合った)
同時に、リアの氷が床を走る。線じゃない。面。足元から、巨人の脚へ絡みつく。
氷が広がる音は、ぱきぱき、じゃない。ずるり、と濡れた布が張りつくような音だ。
「……触らせない」
リアの声が変わっていた。泣いていない。震えていない。静かで、冷たい。
温度のない声。けれど、それが今は頼もしい。
巨人が踏ん張る。氷が砕ける。砕けるより早く、また凍る。
割れては埋まり、埋まっては固まる。リアの制御が“追いついている”のが分かる。
リアは一歩も退かず、巨人を見上げている。
「……時人様を、壊さないで」
床から、壁から、天井へ。
第三の目の前を塞ぐように、分厚い氷の板が生まれる。盾だ。視線を遮る壁。
氷は透明じゃない。乳白色で、内側に細かなひびが走っている。圧を受け止めている証拠。
氷越しに、第三の目がぎらりと光る。
氷が軋む。ひびが入る。
それでも、リアが上書きする。厚くする。何層も重ねる。
重ねるたび、空気がさらに冷え、俺の息が白くなる。
俺は一歩踏み込む。
右腕が焼ける。刻印が脈打つたび、神経が剥き出しになるみたいに痛い。
痛みが邪魔だ。邪魔なのに、ここで止める訳にはいかない。
(……うるさい)
笑い声の余韻が、耳の奥に残っている気がする。
でも、言葉は掴めない。思い出せない。掴んだ瞬間に、何かを持っていかれそうで、無意識に拒んでいる。
巨人が腕を振る。氷の盾を叩き割ろうとする。
リアの氷が床から絡み、巨人の足首、膝、腰まで縛る。
それでも動く。動くが――遅い。
遅い、という事実が、今は唯一の勝ち筋だ。
(今しかない)
「少しだけ、開けろ!」
リアが頷いた。
視線を通さない厚みは保ったまま、刃が通る“隙間”だけを作る。狙い撃ちの穴。
氷の盾に、細い裂け目が生まれる。そこだけ、空気がすっと抜ける。
俺は跳ぶ。
第三の目の位置へ。
短剣を逆手に持ち替え、眼窩へ押し込む。
硬い。石に刃を立てるみたいに弾かれそうになる。
刃先がきしむ。腕が震える。刻印の熱が、腕の内側で跳ねる。
だが、押し込む。体重を乗せる。ねじ込む。
右腕が焼ける。刻印が熱を吐き、痛みが腕全体へ広がっていく。手のひらが痺れて、指が開きそうになる。
視界の端が暗い。息が浅い。
(これが最後のチャンスだ)
歯を食いしばる。
刃が、何かに触れた。
硬い芯。核みたいな感触。
それは“生き物”の柔らかさじゃない。異物だ。壊すべきものだと直感が叫ぶ。
そこを――割る。
刃を“引き裂く”ように動かす。えぐる。砕く。
手首が軋む。腕が悲鳴を上げる。刻印の熱が爆ぜる。
巨人の身体が、大きく揺れた。
第三の目にひびが走る。
黒い液体のようなものが滲み、氷に染みる。
氷の白が黒く汚れていくのが、やけに生々しい。
リアの氷が、一気に締まった。
床から天井まで白い檻が伸び、巨人の全身を固定する。
締め上げる圧が伝わる。巨体が、嫌な音を立てて軋む。
巨人が膝を落とす。
重い音が坑道に響き、砂が落ちる。
壁が震え、ランタンの火が揺れ、遠くで誰かが息を呑む気配がした。
◆
崩れる。
巨体が膝をつき、前へ倒れかけ――そこで、何かが剥がれ落ちるみたいに形が変わった。
黒い膜が剥がれ、硬化した皮膚が裂ける。元の輪郭が、無理やり“戻される”。
毛皮のような黒が砕け、鉄みたいな皮膚が裂ける。
そこに残ったのは、人間だった。
バハリュート第三王子。
ただし“普通”じゃない。
片腕だけが異様に肥大している。灰色。岩肌みたいにざらつき、黒く焦げた筋が走る。指先は爪のように尖り、関節が不自然に逆反りしていた。
まるで、魔の名残が“そこだけ”にしがみついているみたいに、脈打つように痙攣している。
――魔になった痕跡。
王子は息をしている。
歯を食いしばり、喉の奥で、情けない音を漏らした。
「……ぁ……」
言葉にならない。
威厳も、憎しみも、もう形を保てない。残っているのは苦痛だけだ。
俺は一歩近づきかけて、右腕の疼きで息が詰まった。
刻印が熱い。痛い。焼ける。
今、無理をしたら――本当に何かが壊れる。そんな確信だけが残る。
(……もう、無理はできない)
◆
そのとき、背後で足音が増えた。
整った足運び。騎士団。
先頭で歩み出たのは、セネガルだった。
鎧の擦れる音ひとつが、この場の空気を“公”に変える。
俺たちだけの地獄だった場所に、秩序の足音が踏み込んでくる。
王子は床に膝をついたまま、焦点の合わない目でこちらを見上げる。灰色に変じた腕だけが、不自然に痙攣していた。
セネガルは冷ややかに告げる。
「バハリュート第三王子。――殿下を、王都治安維持の名において拘束させて頂きます」
王子の唇が震える。
「……ば……」
続かない。
息が抜けるだけで、言葉の形にならない。
セネガルの声が、広間に響いた。
「禁制魔導具の行使。王都内での魔の顕現。
誘拐および違法私兵の運用。
さらに王族としての重大な背信行為――王都の治安と民の命を危険に晒した罪。
以上の罪状により、身柄を拘束いたします」
王子は否定しようとして、咳き込んだ。血が混じる。
「……ちが……」
力がない。
騎士が左右から入り、腕を押さえ、拘束具を嵌める。灰色に肥大した腕にも、特製の枷が打ち込まれる。
歯車みたいな金具が噛み合い、逃げ道を潰す音がする。
金属音。
王子は立てない。引きずられるように連れて行かれる。
去り際、かすれた声が漏れた。
「……たす……け……」
それきりだった。
扉の向こうへ消える背中は、王族のそれじゃない。
ただの、壊れた人間の背中だ。
扉が閉まる。
静寂。
◆
俺は短剣を下ろした。右腕の奥がまだ熱く疼く。
汗が冷え、背中が寒い。息を吸うたび、肺が痛い。
――終わった。
これで、リアが狙われることもない。もう、あの夜は来ない。
そう思えるだけで、胸の奥が少しだけ緩んだ。
そう思った瞬間、全身の力が抜けた。
「……っ……」
膝が折れる。床が近い。
倒れ込むのを止められない。
痛みが遅れて押し寄せる。吐き気も、眩暈も。張り詰めていたものが、一気に崩れる。
身体の支柱が抜けたみたいに、関節が全部ほどける。
視界の端で、リアが駆け寄る。
「時人様――!」
その声に、安心だけが滲んでいた。
(……良かった)
俺は床に手をついたまま、息を吐く。
もう立てない。立たなくていい。
――全部、うまくいった。
そう確信したところで、意識がゆっくり沈んでいった。
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