第46話 暴走
――嫌な予感は、当たる。
バハリュート第三王子の身体が、内側から裂けたみたいに膨れ上がった。筋肉でも脂肪でもない。黒い何かが骨の隙間を押し広げ、皮膚を突き破って、形を作っていく。人の肉が“人であること”を拒んで、別の器へ組み替わっていくみたいだった。
「はは……ははははっ!」
笑っているのに、声が二重に響く。人間の喉と、別の何かの喉が同じ言葉を吐き出している。耳の奥がきしむ。音なのに、触感がある。
胸の中心が、嫌に冷える。
あの水晶の髑髏。グリムフォード侯爵の時も、同じだった。あれを“出した瞬間”から、世界がねじれる。空気が濁る。匂いが変わる。時間の流れが、ほんの少しだけ歪む。
(またか)
何度も何度も、勝てなかった記憶が、背骨の奥に刺さる。逃げても追ってきて、躊躇した瞬間に叩き潰される。あの手触り。あの臭い。あの圧。
思い出すだけで喉が渇いて、舌の裏が苦い。
王子の額が割れ、そこから“第三の目”が開く。
ぎょろり、と。
濁った硝子玉みたいな眼球が、こっちを見た。まばたきもしない。感情もない。ただ「見て、選ぶ」。
「……見つけた」
王子の口が言う。いや、王子の口のままの形で、“別のもの”が言う。声の底に、笑いが混じっている。
次の瞬間、床板が鳴った。
いや、床板じゃない。床下の石が、呻いた。
巨体が一歩踏み出すだけで、広間の空気が押し潰される。ランタンの火が揺れ、壁掛けが落ち、机が跳ねた。埃が舞い、油の匂いが立つ。呼吸するだけで胸が重くなる。
私邸の部下たちが固まる。さっきまで王子に媚びていた顔が、一斉に青ざめる。
“殿下”という肩書きに、ようやく現実が追いついたような目。
「で、殿下……!?」
「ひっ……!」
誰かが後ずさり、誰かが剣を抜くが、手が震えて刃先が定まらない。金属が触れ合うかすかな音が、やけに大きく聞こえた。
俺の横で、リアが息を呑む。
「時人様……」
「下がれ」
短く言って、短剣を握り直す。掌の汗で柄が滑りそうになる。握り込み直すと、傷のある肩がじくりと熱く疼いた。痛みのせいで、逆に感覚が研ぎ澄まされる。
背後では、セネガルが、一歩前に出た。声だけは低く、揺れない。こういう場で揺れない声は、それだけで武器になる。
「私兵は下がれ。門を閉めろ。屋敷の外へ出すな」
私兵の一人が反射で口を開く。
「な、何を――」
「聞こえなかったか。下がれ。民間人を先に逃がせ。いまは殿下の“護衛”じゃない。命を守れ」
言い切った瞬間、空気が変わった。
セネガルの言葉には、命令の重さがある。屋敷の中の連中ですら、その圧に一瞬、足が止まった。
でも――
間に合わない。
巨人――王子だったものが、笑った。喉の奥で何かが擦れる音がして、ぞっとする。
「逃がすな。逃げるな。全部、俺のものだろう?」
大剣が抜かれる音がした。
いや、違う。背中に背負っていた大剣を抜いたのは王子じゃない。鎧の男だ。さっきまで“番犬”みたいに控えていた奴が、主を守るために動いたのか。忠誠なのか、恐怖なのか、分からない。
その瞬間。
巨人が腕を振った。
――ただ、それだけ。
鎧の男が、壁に叩きつけられた。鉄が潰れる鈍い音。骨の音。床を滑る血の線。
人が壊れる音は、慣れたくないのに、耳が覚えてしまう。
「……っ」
リアが息を呑んだ。俺は目を逸らさない。
(こいつ……味方も敵も関係ねぇ)
セネガルが即座に叫ぶ。
「退避! 全員、退避だ!」
屋敷の連中が我に返って散る。逃げる。押し合う。転ぶ。悲鳴が一つ上がりかけるが、巨人の視線がそっちへ向いた瞬間、声が喉で潰れたみたいに止まった。
第三の目が、ぎらりと光る。
空気が――押される。
見えない衝撃が広間を走り、壁のランタンが一斉に割れた。火花が散る。煤が舞う。視界が黒くなる。熱と臭いが一緒に押し寄せ、咳が出そうになる。
(くそっ)
俺は身体を低くして、前へ出る。
ぶつけるしかない。こいつを屋敷の外へ出したら――
いや。
出た方がいい。
矛盾している。でも、分かってしまう。
王族の揉み消しは、屋敷の中で完結させるのが一番楽だ。死体も証言も、全部消せる。誰も見なかったことにできる。
だが外に出て、通りで、灯りの下で――目撃者が増えれば、話は変わる。
(……だからって、民に被害出したら終わりだろ)
俺は歯を食いしばる。舌が切れそうなほど強く。
巨人が一歩踏み出す。
踏み出しただけで床が割れ、砕けた石が跳ねる。その破片が頬を掠めた。熱い痛み。薄く血がにじむ。
リアが、俺の背後で魔力を走らせる気配がした。冷たい空気が、皮膚に触れる。
「時人様、氷――」
「まだだ」
止める。今はまだ、全部凍らせるには距離がある。突っ込まれたら巻き込む。リアの氷は強い。だからこそ、位置を間違えたら味方を殺す。
巨人の腕が上がる。
来る。
横薙ぎ。
当たれば終わる。
(間に合え)
俺は床を蹴り、柱の影へ滑り込む。
だが――柱が、消えた。
巨人の腕が触れただけで、柱が砕け飛んだ。粉塵が舞う。視界が白くなる。
石の欠片が雨みたいに降り、肩口に当たって弾ける。
「……っ!」
咄嗟に跳んだ。肩が熱い。破片が食い込んだだけだ。まだ動ける。
頭の奥が、ずきりと痛む。
いつもの頭痛。いつもの眩暈。
それが“いつもの”になっていることが、いちばん怖い。
(ここで倒れたら終わりだ)
巨人が、俺を見ている。
第三の目が、俺の動きに合わせて追ってくる。逃げ道を塞ぐように、最短を選ぶように。
「お前が、邪魔だ」
声が低い。楽しそうだ。
殺す理由を探しているんじゃない。殺すために遊んでいる。
俺は短剣を構え、距離を詰める。
――無理。
分かっている。短剣で巨体は止まらない。だが、視線を逸らすだけでもいい。リアとセネガルが動く時間が必要だ。たった一拍でも、命が繋がる。
踏み込んだ瞬間。
巨人の手が落ちてきた。
上から。
叩き潰す軌道。
俺は跳ぶ。
避けた、はずだった。
床が爆ぜた。衝撃が足を攫う。身体が浮く。着地が乱れる。
足裏が滑り、膝が床を擦った。
(くそ――)
その隙に、巨人の足が動いた。
一歩。
二歩。
出口へ向かう。
屋敷の扉だ。外へ出る気だ。
「リア!」
叫ぶ。
リアが頷いた。
氷が走る。床の上に薄い白が広がり、巨人の足元へ絡みつく。
一瞬だけ、足が止まった。
でも、止まったのは一瞬だ。
巨人は笑って、力任せに踏み割った。
ぱきん、ではない。
ばきぃん、と氷ごと床が砕け、破片が飛び散った。氷片が頬に当たって溶ける冷たさが、一瞬だけ痛みを麻痺させた。
「ぬるい」
吐き捨てる。
リアの顔が強張る。魔力をさらに流そうとするが、俺は首を振る。
(いま全力を使わせるな。まだ後がある)
セネガルの声が響く。
「門を開けるな! 通りを封鎖しろ! 火を消せ、灯りを持て! 見えるようにしろ!」
矛盾した命令だ。
だが、意図は分かる。
見せる。隠せないようにする。
同時に、被害を最小にするための封鎖。
私兵たちが混乱しながらも動き始める。誰かが扉へ走り、誰かが庭へ飛び出し、誰かが叫ぶ。
「騎士団! 騎士団を呼べ!」
「殿下が――殿下が――!」
言葉が続かない。現実を認めたくない顔。
“殿下”という言葉だけが、何度も口から漏れる。
巨人が扉に手を掛ける。
――扉が、壁ごと吹き飛んだ。
外気が流れ込む。冷たい空。庭の灯り。敷地の外の街灯。
それだけで、空気が少しだけ軽くなる。だが同時に、怖さも増す。ここから先は“外”だ。
そして、遠くから聞こえる――人の声。
通りのざわめき。
(……見られる)
俺は息を吐く。
ここから先は、逃がさない。
巨人が庭へ出る。
その巨体が灯りの下に晒された瞬間、外の見張りの兵が悲鳴を上げた。
「な、なんだあれ……!」
「怪物だ!」
逃げる足音が重なる。門の外でも、悲鳴が増える。通りにいた人間が、こちらへ振り向く。
何も知らない顔が、次の瞬間には恐怖で歪む。
第三の目が、ぎらりと光った。
空気が震え、庭の砂利が跳ねた。
人が尻餅をつく音。
泣き声。
そして、巨人が一歩、門の方へ踏み出す。
セネガルが叫ぶ。
「封鎖線を張れ! 下がれ! 下がるな、散れ! 固まるな!」
(いい指揮だ)
俺は心の中で呟いて、短剣を握り直す。
リアが、俺のすぐ横に並んだ。呼吸が揃う。冷たい気配が肌に沿い、俺の熱を支えるみたいだった。
「時人様」
「ああ」
それだけでいい。
巨人が門を破壊し、街路へ踏み出した。
王族の私邸の外。
王都の灯りの下。
誰もが見ている場所へ。
――もう、誤魔化せない。
俺は一歩、前へ出る。
この化け物を、ここで止める。
逃げ場のない場所で、終わらせる。
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