たった一言で"全て"が終わった
【第一章『沈黙が始まった日』】
動画を送ったのは、ただの“共有”のつもりだった。
あのゲームの、奇跡みたいな瞬間。自分でもちょっと笑ったくらいで、
「見てほしい」「ちょっとだけでも反応が欲しい」そんな軽い気持ちだった。
でも──返ってきたのは「?」一文字。
それも、グループLINEで、皆が見ている中で。
“え、それって、つまんないって意味?”
心臓がズキッとした。
画面の中の文字が、刺すように胸に突き刺さってくる。
他のメンバーは気を使ったのか、リアクションをくれたけど、
彼だけが――その一文字だけで、全部を壊した気がした。
既読スルーして、通知を切った。
グループも開きたくなかった。
せっかくの楽しい場所が、急に冷たい空気に染まったみたいで。
彼から個別に来たメッセージも、読む気になれなかった。
「ごめん、悪気はなかった」
そんな言葉、あとから言われてももう遅い。
そして数時間後、彼からまたメッセージが来た。
──「じゃあ、1週間、連絡やめよう。お互い冷静になったほうがいいと思う。」
……勝手に決めるんだ。
そっちが悪いくせに、冷却期間?
怒りと、悲しみと、なにより“理解されなかった”痛みが、胸に溜まっていった。
スマホを伏せたまま、ベッドに潜り込む。
夜の静けさが、耳の奥まで響いてくる。
彼の“?”が、ぐるぐると頭の中で繰り返された。
──四日目。
今日もLINEは静かだった。
グループの通知はミュートにしたまま。個別のトーク画面は、開いていない。
でも、開いていないのは“開けない”からだった。
怒っていた。
三日間、ずっと「なんなのあいつ」「傷ついたことも分からないの?」って、
彼の名前を見るだけで、喉の奥がざわついた。
でも四日目の朝、目が覚めて真っ先に思ったのは――
「ゲーム、今日も一緒にできないんだっけ」
無意識だった。
スマホに手を伸ばして、いつものアプリを開いてから、ふと止まる。
一緒に笑ったあの時間が、ここにしかなかったことを思い出してしまった。
彼のこと、好きだったんだろうか。
それとも、ただ“隣にいるのが当たり前”だったから、気づかなかったのかな。
怒っていたのに。
「もう知らない」って何度も思ったのに。
胸の奥では、毎日ほんの少しずつ、ぽっかりと穴が広がっていく感じがしていた。
──五日目。
ふと、スマホのバッテリーを見たら30%。
普段なら気にもしない残量なのに、なぜか焦った。
もし彼が今、連絡してきたらどうしよう。
バッテリー切れてたら、気づけないじゃん……。
そんなこと思う自分が、ちょっとだけイヤだった。
なのに、思ってしまうくらいには、待っていたんだと気づいた。
──六日目。
ノートに落書きをしていたら、彼との通話で描いた変なキャラが出てきた。
思い出して、つい笑ってしまって、すぐに悲しくなった。
彼の声、もう一週間も聞いてない。
──七日目。
窓の外に落ちていた夕焼けが、やけに綺麗だった。
こんな色の空を、スクショして彼に送っていた日があった。
どうでもいい景色を共有したくなるような、そんな関係だったのに。
スマホを手に取る。
彼とのトーク画面は、未読のまま時間だけを重ねている。
既読をつければ、終わりが始まってしまいそうで、怖かった。
それでも、彼の「ごめん」という言葉を、今ならきっと、ちゃんと読めると思った。
八日目。
昨日よりちょっと早く目が覚めた。
スマホに通知はなかったけど、それでも気持ちは少し軽くて。
「もうそろそろ、何か動きがあるかも」
そう思っていた。
彼は冷静になる時間が必要だっただけ。自分も感情的になりすぎてたし、
あと少しで元通りになれるって、信じていた。
そんな時、友達Aから個別のメッセージが届いた。
「ねぇ、言っていいかわかんないけど……げらりん(少年)、冷却期間、あと1週間半延ばすって言ってた」
画面の文字を見た瞬間、何かが止まった。
1週間半……延長?
目の奥が熱くなった。
喉の奥で言葉がつかえて、呼吸が浅くなる。
「どうして……?」
頭の中で、言い訳を探してしまう。
“まだ怒ってるのかも”
“まだ気まずいだけかも”
でもそれは違う。だって、“待ってくれてる”って信じていたから。
涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえて、
布団に潜り込んだ。
「……やっぱり、私だけだったんだね。仲直りしたかったの。」
あんなに怖がって、悩んで、でも一歩進もうとしていたのに。
彼は、その先を“また伸ばした”。
たったそれだけのことなのに、
自分の存在が、すごく軽くされたように感じた。
“どうせその程度の関係だったんだ”
“私が一人で気にしすぎてただけ”
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると回って離れなかった。
少女は、スマホの電源を落とした。
画面を通じて届く、誰の言葉も、今日はもう見たくなかった。
延長された、冷却期間の一日目。
少女は、朝からため息ばかりついていた。
スマホを開くと、昨日のやり取りが思い出されてまた気持ちが沈む。
「一週間半……長すぎ……」
ベッドの上に寝転びながら、ぽつりと呟いた。
でも、それ以上は何も言わなかった。言ったところで、何も変わらないから。
ほんの少し、友達Aに愚痴った。
「まさか延長されるとは思わなかったわ〜」なんて、冗談めかして。
でもAは、何も多くは言わずにただ「うん」って相槌をくれた。
それでよかった。
誰かにぶつけたい気持ちはあったけど、本当に聞いてほしい相手は、いないのだから。
午後。
気を紛らわせるように、Aとゲームをした。
いつもより集中できなかった。何をしていても、心のどこかが空いていた。
「楽しかったね」と送られてきたメッセージに、
少女はちょっとだけ微笑んで、「うん」と返した。
でもその笑顔も、ふっと消える。
ゲームが終わればまた、静かな部屋に戻ってくる。
そこにはやっぱり、返ってこないメッセージの空白が、ぽっかりと残っていた。
“あの子、今なにしてるんだろう”
タイムラインを見る勇気もなくて、SNSは開かなかった。
彼が何かを楽しんでいたとしても、きっと見たくなかったから。
でも――それでも。
少女は、スマホの通知が鳴るたびに、心のどこかで期待してしまっていた。
「あと10日くらいか……」
指折り数える癖が、また始まった。
だけど、今日はまだ、延長された“1日目”。
【第2章:裏切られた思い】
延長後、2日目の夜。
少女は、いつもより少し遅れてゲームを開いた。
特別な理由があったわけじゃない。ただ、なんとなく気分が乗らなかったのだ。
普段ならもう始めている時間帯。
「Aももう入ってるかな」
そう思いながら、癖でオンライン状態を確認する。
──そして、目が止まった。
少年とAが、二人で一緒にプレイ中だった。
心臓が、変な音を立てた気がした。
一瞬、何かの間違いかと思って、もう一度見直した。
けれど間違いじゃない。はっきりと表示されている。
Aと、彼。二人きり。
数日前まで、そこには自分もいた。
三人で笑っていた。
自分が送った動画に「?」と返した、あの彼がそこにいる。
少女は思わず、スマホを置いてしまった。
胸の奥がチクリと痛んだ。
「……そっか」
喉の奥がつまって、声にならない吐息が漏れる。
あれほど静かに「待つ」と決めたのに。
あんなに寂しい夜を耐えたのに。
延長された冷却期間は、少女にとって“試練”だったけれど──
彼にとっては、そうでもなかったのかもしれない。
「Aとは遊んでるんだ……」
そう呟いた自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
嫉妬?裏切られた?そんな大げさな気持ちじゃない。
ただただ、寂しかった。
ひとりだけ取り残されたような、あの感覚が、また胸を締めつけてきた。
でも──涙は流れなかった。
流すほどの怒りも、悲しみも、まだ整理できていなかったから。
少女は静かにゲームを閉じて、画面を伏せるようにスマホを裏返した。
そして、毛布をかぶって、目を閉じた。
心の中で「大丈夫」と何度も唱えながら。
でも、本当は大丈夫なんかじゃなかった。
少女は、しばらく画面を見つめたまま固まっていた。
少年とAがプレイしているその表示が、まるで心の奥をぐりぐりとえぐってくるようだった。
「……まあ、遊ぶなとは言ってないし」
自分にそう言い聞かせて、ゲームを起動する。
何もなかったフリをして。
“偶然”を装って。
いつものログイン音。いつもの画面。
ただ、心だけは、どうしようもなくざわついていた。
そして──
「……え?」
ログインしてすぐに、少年の名前がオンラインリストから消えた。
一瞬、回線が切れたのかと思った。
でも、Aはそのまま残っている。
表示は“プレイ中”。
──少年は、少女がログインした途端にゲームをやめた。
その事実が、理解できた瞬間。
少女の中で、何かがパチンと弾けた。
「……ふざけないでよ」
小さく呟いたその声には、怒りと、哀しみと、悔しさが滲んでいた。
たった今まで胸の奥に押し込めていた寂しさが、一気に形を変えて溢れ出す。
「私、あんたが戻ってくるの、ずっと待ってたんだよ?」
「毎日、我慢して……言いたいことも飲み込んで……!」
声に出すたび、涙がこぼれそうになる。
でも泣いてなるものか。
だって、あの人は──逃げたのだ。
自分の顔を見たくなかったのか。
気まずかったのか。
都合が悪かったのか。
理由なんて、もうどうでもよかった。
ただひとつ、確かに分かったことがある。
──「私は、“邪魔者”なんだ」
その事実が、怒りとなって少女の心を熱くした。
スマホをぎゅっと握りしめたまま、少女は目を閉じた。
その夜、ゲームをすることはなかった。
でも、心の中ではずっと言葉が渦巻いていた。
「もう、あんたのこと、許せないかもしれない……」
スマホの画面を開くと、すぐに友人Aの名前が目に入った。
少女は震える指でメッセージアプリを起動し、新しいチャットを開いた。
⸻
少女
「ねえ、さっき気づいたんだけど……」
(送信)
すぐに既読がつく。
⸻
友人A
「うん?何かあった?」
(送信)
⸻
少女は息を深く吸って、次の言葉を打つ。
⸻
少女
「げらりん(少年)、私がログインしたらすぐやめてたよね……?」
「なんでそんなことするの?冷却期間中だって分かってるのに」
(送信)
⸻
数秒の沈黙。
その間、少女の心臓はバクバクと鳴り響いた。
⸻
友人A
「……正直、俺も驚いた。あいつ、いつもと違って明らかに避けてるみたいだった」
「あと、一週間半って延長してほしいって言ってた」
(送信)
⸻
少女は画面を見つめたまま、指が震えた。
⸻
少女
「そうなんだ……」
「辛いよ、正直」
「でも待つしかないんだよね」
(送信)
⸻
友人A
「無理しすぎるなよ。たまには愚痴っていいからな」
(送信)
⸻
少女は涙をこらえながら、スマホを握りしめた。
⸻
少女
「ありがとう……少しだけ話せてよかった」
(送信)
夜。部屋の中は静まり返り、ディスプレイに映るチャット画面だけが淡く光っていた。
友達Aは少女とのやりとりを思い返し、深いため息を吐いた。
「正直、俺も驚いた。あいつ、いつもと違って明らかに避けてるみたいだった」
自分がそう送った時、少女の返事は思った以上に淡々としていた。
だが、そこに込められていた”我慢”の重さには気づいていた。
「……このままじゃ、二人とも潰れるな」
Aはデスクに肘をつき、スマホを手に取る。
次に開いたのは、少女の親友・リリスのチャットだった。
いつもはあまり話さない間柄だったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
⸻
A → リリス
「突然ごめん。今、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……時間大丈夫?」
(送信)
数分後。意外にもすぐに返信が来た。
⸻
リリス → A
「珍しいね。どうしたの?」
(送信)
⸻
Aは深呼吸をしてから、真っ直ぐに思いを綴る。
⸻
A → リリス
「マグ(少女)とげらりん(少年)のこと。
正直、なんでここまでこじれてるのか、俺はちゃんと分かってない。
だけど、お前なら知ってると思って……。
話せる範囲でいいから、何か教えてくれないか?」
(送信)
⸻
既読がついたまま、数分の沈黙。
Aの胸に、不安がじわりと広がる。
だが、返ってきたメッセージは思いのほか真剣だった。
⸻
リリス → A
「……そうだね。
マグは、私に全部話してるよ。
でも、それを勝手に話していいのか、少しだけ迷う。
ただ、あなたが”本気で二人を助けたい”と思ってるなら、話す。
その覚悟、ある?」
(送信)
⸻
Aは迷いなく返信を打つ。
⸻
A → リリス
「ある。俺は中途半端に見てるつもりはない。
二人が戻れるなら、どんな方法でも探すよ。」
(送信)
⸻
数秒後。リリスから、長文のメッセージが届き始めた。
そこには、少女の胸の内、動画を送った日の詳細、そしてあの「?」というメッセージに少女がどれほど傷ついたかが――
リアルに、そして痛々しく綴られていた。
Aはそれを、黙って見つめ続けた。
リリスはスマホを見つめながら、ほんの少しだけため息をついた。
Aの真剣な言葉に、嘘は感じなかった。
けれど、それでも――彼女は信用しすぎることが怖かった。
だからこそ、口を開く前に一つ、条件を付けた。
⸻
リリス → A
「じゃあ、こっちからも一つだけお願いしてもいい?」
(送信)
A → リリス
「……内容によるけど、言ってみて?」
(送信)
リリスは迷いなく、真意を伝えた。
⸻
リリス → A
「げらりん(少年)との個人チャットで、もし――“マグ(少女)について話してる部分”があるなら、そこだけでいい。
スクショとかじゃなくてもいい。どんなふうに話してたか、内容を見せてほしいの。
あの子……すごく不安がってる。
“私のこと、あの人は今どう思ってるの?”って、ずっと心の中で叫んでる。
私はその子の親友だから、ちゃんと知っておきたいの。
Aくんが信用できるって思ったからこそ、お願いしてる。」
(送信)
⸻
Aの指先が一瞬止まる。
チャット履歴――あの冷却期間中に、少年と交わした数少ないやりとり。
たしかに、少女に関する話題はあった。
ただ、それは少年の弱さがにじむような、迷いと逃げが混じった会話だった。
Aは目を閉じて、決意する。
⸻
A → リリス
「分かった。
正直、あいつは今めっちゃ不器用で、素直になれてない。
でも、これを見れば、少しはあいつの“本音”が伝わると思う。
……ちょっと待って。まとめるから。」
(送信)
⸻
Aはスマホのチャット履歴を遡り、該当部分を探し始めた。
そこにはたしかに――
「なんであんな風になったんだろ……」
「返し方、間違えたって今さら思ってる」
「“?”って送ったの、ただ意味が分かんなくて……でも、あいつ泣いてたってAが言ってたじゃん」
「俺、戻りたいよ。けど、戻ったときに嫌われてたらって思うと怖い」
そんな、少年の弱さと後悔が刻まれていた。
Aは、それを丁寧に書き起こし、リリスに送信した。
⸻
A → リリス
「これが、全部。
……あいつなりに、後悔してる。
でも、どうしていいか分かんなくなってる。
――それだけは、信じてやってくれないか?」
(送信)
⸻
リリスは、その言葉を見て、ゆっくりとスマホを伏せた。
小さく、でも確かに口元に浮かんだ苦笑は、
――安堵と、やるせなさの入り混じったものだった。
放課後。
窓から差し込む夕陽が、教室の床を静かに照らしていた。
その光の中で、リリスは少女の隣に座っていた。
少女は俯いたまま、無言。
スマホを握る手が、時折ぎゅっと力を込める。
その瞳には、言葉にならない想いが渦巻いていた。
リリスは、優しく口を開いた。
⸻
「ねえ、疲れたでしょ。色々……抱えすぎたよね」
少女は答えない。
ただ、かすかに唇が震えたのが分かった。
リリスは、その手をそっと取る。
「無理に笑わなくていいよ。悔しいとか、寂しいとか、怒ってるとか、そういう気持ち――全部、本物なんだもん。ちゃんと感じていいの」
少女の目に、涙が滲んでいく。
「ねえ、あなたのことを、大事に思ってる人はちゃんといるからね。
全部が壊れたわけじゃない。
あなたが、今こうして頑張ってることも、ちゃんと誰かの中に届いてるよ」
少女の肩が、小さく震えた。
リリスは何も言わず、ただ黙ってその頭を撫でる。
⸻
「私は味方だよ。いつだって、あんたの“最強の親友”なんだからさ」
その言葉に、少女は小さく嗚咽を漏らした。
泣き声は、とても小さくて、でも確かに届いていた。
リリスは少女を抱き寄せるように、そっと背中をさすった。
⸻
少女の心は、まだ完全には晴れない。
だけど――
この日、少女は初めて、
“少しだけ、前を向いてもいいかも”と感じたのだった。
【第3章『抑えきれない感情』―少年視点】
延長を決めたのは、自分だ。
一週間じゃ気持ちの整理がつかなかった。
怒りと戸惑いが入り混じって、どうすればいいか分からなかったから。
「……もう、ちょっとだけ」
そう思って、Aにだけ伝えた。
“もう一週間半、待ってて”と。
それなのに。
⸻
二日目の夜。
少年は、Aとふたり、ゲームのロビーにいた。
会話も弾まないまま、無言でプレイしていたとき――
フレンドリストに、彼女の名前が表示された。
オンラインになった。
その瞬間、指が止まった。
画面の向こうに、彼女がいる。
自分の名前を、きっと見てる。
そして――きっと何かを、思った。
怖かった。
何を思われるか、じゃない。
自分が、どうしたいのか、分からなくなるのが。
心の奥にしまったはずの想いが、膨れ上がる。
(まだ、怒ってるのか?
違う……会いたいのか? 話したいのか? わからない……)
震える手で、少年はゲームを切った。
ログアウトボタンを押した瞬間、心臓が強く跳ねた。
逃げたんだ。
目を合わせることすら、怖くなって。
⸻
その夜、彼はずっと眠れなかった。
ベッドの中で、何度もスマホを見た。
彼女からのメッセージは、当然ながら届かない。
でも、思ってしまう。
(――見られたかな。ログインしてたの、気づいたかな)
「……あー、もう……っ」
声にならない叫びが、部屋に溶けた。
⸻
次の日、少年は決意する。
Aにもう一度、話しかけようと。
彼女と“仲直りしたい”という気持ちに、ついに気づいたから。
だけどそのときはまだ――
彼が「自分の想いを整理できた」と言うには、もう少し時間が必要だった。
【第4章『言葉の刃』―和解通話】
Aが用意した通話ルームに、3人が順に入室する。
少女が最後に参加すると、静かな空気に緊張が走った。
「……始めようか」
Aの声が、小さく響く。
沈黙。
誰もが、誰かが先に話すのを待っていた。
でも、少女の口が最初に開いた。
「ねえ、何がしたいの?」
刺すような言葉だった。
優しさも、気遣いも、すべて削ぎ落とした声。
少年が顔をしかめる。
「……何がって、仲直りのための通話だろ?」
「ふぅん。じゃあさ――なんで避けたの? なんで“?”って返したの? なんで、冷却期間中に私の前からログアウトしたの? なんでAとだけ遊んでたの? 全部答えてよ、今ここで」
怒り。寂しさ。哀しみ。
一週間半、少女が抑え込んできた感情が爆発する。
少年は一瞬、言葉を失い、
そして反射的に言い返した。
「……お前だって、グルラに動画投げて、“これ見ろ”みたいな態度だっただろ。意味わかんなかったんだよ! “?”って返したのは、聞きたかったからだよ。お前が何考えてるのか!」
「は!? だからって冷却期間中、Aとだけ遊ぶのおかしくない!? 私がオンラインになった瞬間逃げたくせに、今更“意味が分からなかった”!? ふざけないでよ!」
Aが慌てて割って入ろうとするが、ふたりの声は止まらない。
「……俺だってわかんなかったんだよ! お前の怒り方も、距離感も、なにもかも……! 話せば全部責められるって思ったから、延ばしたんだよ!」
「責めたくもなるわよ!! 私の気持ち、誰も分かってくれなかった!! なんでこんな苦しい思いして、待って、耐えて、それでも“お前が悪い”みたいに言われなきゃいけないの!?」
Aの声が、ようやく通話に割って入る。
「やめろよ、もう!! 二人とも、もうやめようって言っただろ!? 今日は和解のための――」
だがもう、言葉は届かない。
通話には、ただただぶつかり合う声だけが響いていた。
通話内に、再び重たい沈黙が落ちた。
Aの言葉は無視されたまま、しばらく誰も声を発さない。
けれど、その静寂を破ったのは――少女の、かすれた声だった。
「……あのときね。ゲームの動画、送ったとき。
一緒に笑いたかっただけなんだよ、私は……」
ぽつり、と落ちたその一言は、悲しげで、空虚で。
感情が剥き出しだった先ほどまでとは違い、まるで疲れ果てたようだった。
「“?”って返されて……意味がわからないのは、私もだった。
だから聞いたじゃん、“なんで?”って。
でもその返事もなかったよね。何も言ってくれなかったよね……」
少年の呼吸が浅くなる。
「……俺だって、返したかったよ。でも……なんか怖かったんだよ」
「怖い?」
「うん……お前が、怒ってるんじゃないかって。俺のこと、嫌いになったんじゃないかって。
そう思ったら、何話してもダメな気がして……距離、置いた方がいいと思ったんだ……」
「……じゃあ、なんで逃げたの?」
「逃げてなんか……!」
少年の語気が強まる。
「逃げてなんか、ねぇよ……。俺だって、悩んでた。後悔してたよ……毎日、Aには“どうすればいい?”って何度も聞いてた。
でも、あの時のお前の“怒ってる”空気が……怖かったんだよ……」
少女の目に、じわっと涙が浮かんでくる。
でもそれは、誰にも見えない。
「……私の方こそ怖かったよ……」
そう呟いた少女の声は、震えていた。
「ずっと仲良くできると思ってたのに……こんなことで崩れるんだって思ったら、怖かった。
何が怖いって……もう一緒に笑えなくなるのが、いちばん怖かったんだよ……!」
通話の向こうで、少年も息を詰める。
少女は続けた。
「私はね、“ごめんね”って、言ってほしかっただけだったのかもしれない。
“悪気はなかったよ”って。そんな一言で、救われたのかもしれないのに……!」
「俺だって……謝りたかったよ……!」
少年の声が震えた。
「でも、お前が謝ってくれなかったから……!」
「なにそれ!! どうして私からだけ謝らなきゃいけないの!? “?”って言ったの、そっちじゃん!」
Aが再び叫ぶ。
「もうやめろってば!!! 二人とも、どこまで傷つけ合えば気が済むの!? ちゃんと……ちゃんと、話したかっただけなのに!!」
言葉が、感情が、ぶつかり、崩れ、悲鳴のように響いていく。
【第5章『どうでもよくなったんだ』】
「もういい……」
少女は、そう小さく呟くと、画面の右上に表示された“通話終了”の赤いボタンに、指を滑らせた。
ピッ。
その小さな電子音が、すべての会話の終わりを告げた。
彼女の部屋に戻った静寂は、想像以上に重く、冷たかった。
画面には、もう何も表示されていない。
ただ、通話が終わったという現実だけが無慈悲に残された。
彼女は携帯を伏せ、深く呼吸した。
荒れた呼吸を、どうにか整えるように。
(もう……いいよね)
そう心の中で呟く。
怒りや悲しみ、悔しさ、寂しさ。
その全部が、言葉という形を持たなくなって、ぐちゃぐちゃに溶けていた。
「……ほんと、バカみたいだよね」
つぶやいて、ソファにうずくまった。
小さな体は震えていた。泣いているのか、寒いのか、自分でも分からない。
ゲームのアイコンを開こうとして、指を止める。
──そこに、もう“少年”の名前はなかった。
フレンド欄から、すでに消えていたのだ。
彼女が通話を切る直前、少年も同じように手を動かしていたのかもしれない。
(ああ、もう……これで……終わりだ)
少しずつ、視界が滲む。
涙なのか、諦めなのか。分からない。
だけど、確かに今、心のどこかで“どうでもよくなった”と思っていた。
何もかも、期待することも、信じることも、疲れた。
「……バイバイ」
誰にも届かない、小さなさよならが、部屋にだけ残された。
──ピッ。
唐突な電子音が鳴った。
それが、通話の終わりを告げた瞬間だった。
「……あ?」
少年は、スマホを見つめたまま動けなかった。
聞き間違いかとも思った。ネットが切れたのか、バグか。
だけど何度見直しても、表示は「通話が終了しました」。
少女が、通話を切ったのだった。
「……マジで、終わらせたのかよ……」
誰に言うでもなく、独り言のようにこぼした。
言葉には呆れや怒りが混じっていたが、それ以上に――寂しさがあった。
思い出すのは、あの最初の「?」のメッセージ。
きっかけは、あれだけだった。
自分はただ、意味がわからなかっただけで、悪気はなかった。
でも、少女はそれを「否定された」と受け取ったらしい。
(どうして……)
「なんで、こうなったんだよ」
通話中、言い返そうと何度も思った。
でも、そのたびに少女の怒りが爆発し、何を言っても逆効果になる気がして言葉を飲み込んだ。
「何が“どうでもよくなったんだ”だよ……」
彼女が最後に放った言葉を思い出すたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(あの時、もう少しちゃんと……)
(ちゃんと話せていれば)
自分だって、最初はただ距離を置きたかっただけだった。
でも気づけば“避けてる”ようになって、
その距離が、少女をもっと遠ざけていった。
指が勝手にフレンド欄を開く。
そこに、少女の名前はもうなかった。
(……言い合いに夢中になっていた時に勢いで消したんだったな...、)
心臓が一度、大きく脈打つ。
胸の奥が、痛いほどに冷たくなる。
こんな結末を望んだわけじゃない。
ただ、少し落ち着く時間が欲しかっただけなのに。
だけど、それすら――伝えられなかった。
「……クソ……」
画面を伏せて、少年は顔を手で覆った。
悔しさと、虚しさと、どうしようもない後悔が、ぐちゃぐちゃに混ざって胸を締め付ける。
けれど、どれだけ後悔しても。
もう、彼女には届かない。
「……バカだな、俺も」
小さく、誰にも聞こえないように呟いた。
玄関のドアが勢いよく開いた。
冷たい風と共に、雨の音が一気に身体を包み込む。
少女は、何も持たず、何も考えず、ただ裸足のまま外へ飛び出した。
「はぁっ、はぁっ……」
息は荒く、胸が苦しい。
けれど、それが怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからなかった。
空から降る雨は容赦なく、彼女の髪を濡らし、服を貼りつけた。
けれど、それすら気にならない。
むしろ、冷たさがちょうどよかった。
(どうして、あんな言い方しかできなかったんだろう)
(どうして、わかってくれなかったんだろう)
(……なんで、私ばっかり)
足音が水たまりを叩き、どしゃぶりの中に消えていく。
どこへ向かうでもない。ただ、立ち止まっていたくなかった。
泣いているのか、濡れているのか、自分でもわからない。
でも胸の奥が痛くて、苦しくて、叫びたいほどだった。
けれど叫べなかった。
何を叫んだところで、もう彼には届かない気がしたから。
「……」
立ち止まり、空を見上げる。
雨が顔に降り注ぐ。
その下で、少女は小さく笑った。
「なんで、こんなに……馬鹿なんだろ、私」
声に出してみると、心の奥でなにかがふっと崩れた。
足が震えて、力が抜けて、その場にしゃがみ込む。
アスファルトは冷たくて、世界がやけに静かだった。
雨音だけがずっと、ずっと鳴っていた。
彼女の涙の代わりに、降り続けていた。
【第十四章『境界線』】
ビルの非常階段を、少女は一歩一歩登っていく。
雨は止んでいた。だが、風は冷たく、空にはまだ灰色の雲が残っている。
(ここまで来たんだ。誰にも見つからずに……)
足元は濡れたまま、シャツも冷たく肌に張りついている。
でも、もうそんなことはどうでもよかった。
カチリ、と屋上の鍵を外す音。
誰もいないはずの夜の屋上には、雨で濡れたコンクリートと、いつもと違う静寂があった。
少女はゆっくりと柵に近づく。
足元のフェンスは錆びていて、ところどころ壊れかけている。
彼女はそこに手をかけ、体を持ち上げ、柵の向こう側に足をかけた。
目の前には、煌めく街の光。
だけど、その輝きは彼女にとって、ただの虚ろな明かりだった。
(ここから落ちたら、痛みなんて感じる間もないのかな)
(誰か、泣いてくれるのかな。怒ってくれるのかな。
それとも、やっぱり……「ああ、やっぱりか」って思うのかな)
柵の上に両足を乗せ、腕を広げる。
少し風が吹いて、バランスを崩しかける。
でも彼女は踏みとどまった。
心臓が跳ねた。
恐怖、ではない。
それは、確かに“生”の感覚だった。
「……無理だよ」
小さな声が、夜の風にかき消された。
「……やっぱり、私、そんな勇気ないよ……」
足を引いて、柵の内側へ戻る。
地面に腰を下ろして、膝を抱える。
「……誰か、見つけてよ……」
夜の街は、相変わらず無関心なまま、光を灯していた。
雨に打たれながらも、彼女は結局、あの屋上から飛び降りることはできなかった。
朝になり、薄く霞んだ空の下、彼女は普段通りに制服を身にまとい、学校へ向かった。
教室の扉を開けると、いつもと変わらぬ空気が流れている。
友達の声や黒板のチョークの音が響く中、彼女の心は重く沈んでいた。
授業中、先生が突然彼女を指名した。
「この問題、解いてみてくれ」
彼女はゆっくりとノートに目を落とす。
だが、頭の中はぐるぐるとあの日のこと、少年の顔、通話の最後の言葉でいっぱいだった。
指名された手が震える。
口を開いてみるが、出てくる言葉は曖昧で、まとまりのないものだった。
周囲の視線が一斉に彼女に注がれる。
その重さに、彼女はただ小さく息をついた。
心の中の嵐は、まだ収まる気配がなかった。
先生は眉をひそめて彼女の様子をじっと見つめた。
「ぼーっとするな。話を聞け」と、少し強い口調で注意した。
教室の空気が一瞬ピリッと張り詰める。
彼女は先生の声にハッと我に返り、目を見開いた。
けれども、頭の中のもやもやは簡単には消えず、心はざわついたままだった。
「すみません……」と小さく呟き、必死に次の問題に向き合おうとするが、集中することは難しかった。
放課後、彼女はいつものように静かな校庭の隅に座っていた。
冷たい風が吹き抜け、濡れた制服の袖を揺らす。
スマホを手に取り、何度も少年へのメッセージを打ちかけては、指が止まる。
送る勇気も、何を言えばいいのかも分からなかった。
その時、リリスからのメッセージが届く。
「大丈夫?無理しないでね」
彼女は画面を見つめ、ほんの少しだけ涙がこぼれた。
返事を打つ指が震えながらも、「ありがとう」とだけ打ち込んだ。
彼女は少し躊躇いながらも、スマホの画面を見つめて小さく文字を打つ。
「リリス、今から会ってもいい?」
送信ボタンを押すと、すぐにリリスからの返信が届いた。
「もちろん。すぐに迎えに行くね」
その言葉に彼女は少し安心し、スマホを握りしめたまま、リリスとの再会を待った。
彼女はスマホを胸元で握りしめたまま、小さく息を吐いた。
秋の夕暮れは早く、空は茜色から灰色へとすぐに変わっていく。
肌寒い風が校舎の壁をなぞるように吹き抜け、制服の裾が揺れた。
しばらくして、校門の向こうから見慣れた姿が小さく手を振りながら近づいてくる。
リリスだった。
その姿を見た瞬間、彼女の胸の奥に溜め込まれていた感情がふっと緩む。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって……」
彼女が申し訳なさそうに言うと、リリスは微笑んで首を振った。
「そんなの気にしないでよ。……顔、疲れてるよ?」
リリスはそっと彼女の顔を覗き込み、気遣うように声をかけた。
その言葉に、彼女は何も言えず、目を伏せた。
何を話せばいいのか、どこから話せばいいのか分からなかった。
でも、何も言わずともリリスは隣にいてくれる。
そのことが、今はただ救いだった。
「近くの公園、行こっか。ベンチ、空いてるはずだし」
リリスがそう促すと、彼女は黙って頷いた。
ふたりは並んで歩き出した。
沈みかけた夕陽が、ふたりの背を静かに照らしていた。
公園に着くと、リリスは自販機であたたかい缶ココアを買い、ひとつを彼女に手渡した。
「これ、甘いやつ。疲れてる時は、こういうのが一番」
彼女は小さく「ありがとう」と呟いて缶を受け取った。
手のひらに伝わるぬくもりが、心に少しずつ染み込んでいくようだった。
しばらく沈黙が流れた後、リリスが優しく問いかける。
「……話す気になったらでいいから。私は、いつでも聞くよ?」
その言葉に、彼女はゆっくりと目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……ただ、なんであんな風になっちゃったのか、分からないの」
声は震えていた。だけど、それでも少しずつ――
彼女の心は、言葉になり始めていた。
「分からないの……もう、ほんとに……っ」
彼女はそう言って顔を伏せ、缶ココアをぎゅっと両手で握りしめた。
リリスはそっと隣に座り、ただ黙ってその言葉を待った。
「なんで、“?”なんて送ってきたの……
あのとき、ただ笑ってくれるだけでよかったのに……
そんなに変な動画じゃなかったのに……っ」
震える声。言葉の隙間から、溢れてしまいそうな涙。
「それからずっと、言いたいことが増えていって、
どうしても気持ちが止まらなくなって、
怒って、寂しくて、どうしても連絡がほしくて……」
「……そしたら、延長って……何それ。私の気持ちは?
“今は無理”って言われたまま、私はどうすればよかったの……」
ぽたりと、膝の上に涙が落ちる。
拭おうともしないまま、彼女は絞り出すように言葉を重ねていく。
「遊びたかっただけなのに、話したかっただけなのに……
私、ずっとぐるぐるして、どうしても平気なふりできなくて……
それで、昨日の通話も……全部、私が悪いの……?」
リリスが手をそっと彼女の肩に置くと、
そのぬくもりに触れた瞬間、彼女はもう抑えきれなかった。
「っ……悔しいの! 嫌われたくなかったの!
あんなに大事に思ってたのに……なんで、なんで、こんなことに……っ」
涙がこぼれて止まらない。
顔をぐしゃぐしゃにしながら、声を震わせながら、
彼女は心の奥底に押し込んできた想いを、全部、吐き出した。
リリスは何も言わなかった。
言葉なんて、この場にはいらなかった。
ただそっと、背中を撫でながら、寄り添ってくれていた。
しばらくして、ようやく涙が落ち着いてくると、彼女はかすれた声で呟いた。
「ごめんね……ごめんね、リリス……こんな、私で……」
リリスは静かに首を横に振ると、柔らかい声で言った。
「謝らないで。……私は、あなたの味方だよ。
こんなに苦しかったのに、ここまで頑張ってたんだもん。
泣いていいんだよ。ちゃんと、ちゃんと……」
そして、二人の時間はしばらく、沈黙の中で優しく流れていった。
街の灯りが、少しずつ夜の帳を照らし始めていた。
夜。部屋の中、モニターの光だけがぼんやりと少年の顔を照らしていた。
手元のキーボードには何も打ち込まれていない。画面は、真っ白なチャット欄のまま。
ため息を一つ、深く吐き出した。
「……ああもう、なんで、こんなことになってんだよ」
口に出した声が虚しく部屋に響く。
自分が「?」と返したあのときの少女の反応、それからの険悪な空気、どれもが頭から離れない。
「ただ、わかんなかっただけなんだ。
あの動画、意味が掴めなかっただけで……馬鹿だよな、俺」
頭を抱えるように両手を髪に通し、ゆっくりと椅子に背を預ける。
モニターの横に置かれたスマホが、時折ふっと光る。Aからの通知。
開けばそこには、少女とのことを心配するメッセージが並んでいた。
――「お前、本当にこのままでいいのか?」
――「あいつ、ずっとお前のこと待ってたんだぞ」
少年は目を細めて、通知を見つめたまま動かない。
(わかってる……わかってるよ、A)
延長期間も、自分勝手だったのは自覚している。
でも、怖かった。
向き合うのが、怖かった。
何を言われるか分からない。
どんな顔で戻ればいいのか、何を話せばいいのか。
不器用な言葉しか出てこない自分が、彼女をまた傷つけてしまうんじゃないかと――
「……逃げてたのは、俺のほうかもな」
そう呟いて、少年はスマホを握りしめた。
でも、今はまだ送れない。謝罪の言葉さえ、形にならない。
そしてふと、あの通話の最後を思い出す。
彼女が言葉を詰まらせ、何かを飲み込んだような声で通話を切った瞬間――
(……ごめん、)
心の中だけで呟いても、もう彼女には届かない。
それでも、少年はもう一度スマホを見つめて、そっと閉じた。
目を伏せ、天井を仰ぎ見る。
「俺……どうすれば、よかったんだよ……」
何も答えてくれない夜の静けさだけが、部屋を包み込んでいた。
延長期間に入って3日目。
少女は、まだほんの少しの希望を胸に抱いていた。
もしかしたら、向こうから話しかけてくれるかも。
前みたいに、くだらないことで笑い合えるかも。
――けれど、届いたのはそんな期待を踏みにじるような、たった一言だった。
『もう無理だと思う。縁を切ろう』
その一文を見た瞬間、画面が滲んだ。
手が震えた。
意味がわからなかった。
「……え?」
声にならない声が漏れた。
彼女はスマホを握ったまま、動けなくなった。
あの日、送ってしまったあの動画。
その返事に「?」と返された。
そこから始まった、すれ違いと沈黙。
でも――「縁を切る」って、そこまでのことだったの?
涙がポタポタと床に落ちた。
部屋の明かりはついたまま、彼女は膝を抱えて動けなかった。
しばらくして、スマホが震えた。
画面を見ると、リリスからのメッセージ。
『大丈夫?今日、少しだけ話さない?』
彼女は涙を拭いながら、震える指で返した。
『……うん。今、誰かにいてほしい』
⸻
リリスと通話が繋がる。
彼女は少女の沈黙を、何も責めなかった。
ただ、聞いてくれた。
「……縁、切られたって……。そんなの、ひどいよね?」
「うん、ひどい。でも……あんたが悪かったわけじゃないってことだけは、わかってるよ」
言葉は優しかった。
でも、それ以上に――現実だった。
彼女はその夜、ずっとスマホを見ていた。
もう通知は来ない。もう、何も返ってこない。
でも、たったひとつだけ残ったものがある。
少年との思い出のログたち。
過去の通話履歴、ゲームのスクショ、LINEの履歴。
全部、そこにある。でも、もう“未来”はなかった。
◇ エピローグ:「どうして、こんなことに」
夜が明けても、彼女の目から涙が止まることはなかった。
目の奥が熱い。けれど、もう泣きすぎて痛みすらなかった。
学校を休んだわけではなかった。
教室に入って、席につき、机に向かっていた。
でも、授業なんて、もう耳に入ってこない。
ノートには、何も書かれていなかった。
帰り道、イヤホンをして音楽を流すふりをして、
ただ無音の世界に閉じこもった。
すれ違う人の声も、車の音も、全部が遠くに聞こえた。
どうして。
ねえ、どうしてこんなことになったの?
たったひと言が、そんなに悪かったの?
あんなに一緒に笑っていたのに、どうして。
私が何をしたの? 何を間違えたの?
涙が頬を伝う。
通行人に見られたって構わない。
もう、全部どうでもよかった。
家に着くと、部屋のドアを閉めて、スマホを手に取る。
彼の名前はもう、連絡先から消えていた。
一番上にあった名前。
一番たくさん通知を送った名前。
一番、好きだった名前。
もう、どこにもない。
スマホをベッドに投げると、彼女はうずくまった。
ただただ、泣いた。
何時間も、何度も、声を上げて、泣いた。
そして、やがて――
ただ、静かになった。
泣き疲れて、もう涙も出ない。
心も、体も、全部が空っぽになった気がした。
天井を見上げたその目に、もう光はなかった。
あったはずのもの、信じていたもの、全部をなくした彼女は、
そのまま、ただ目を閉じた。
何も変わらない部屋の中で、何かが終わった音がした。