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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第4章 吾唯足知
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31 真珠の髪飾りの少女

 写真部に着いたのは約束した時間の数分前だった。西棟一階第二美術室の前に立ち、携帯電話で時間を確認してからノックする。


「失礼します、実行委員です」


 ドアを開けて中の部員に声をかけると、作業をしていたらしい顔がこちらを向いた。


「よう。お疲れ、実行委員」

「なんだ、柴本だけか。他の人は?」

「他の部員は北棟へ行ったよ。美術部との合同企画の準備と会場の下見。俺は写真の整理と片付けがあるから、居残りだ」


 柴本が机の上の段ボールをぽんぽんと叩く。


「部長の篠原先輩から、作品の保管場所が足りないって相談があったんだけど」


 不在なら出直した方がいいだろうか。

 柴本が不思議そうな顔で首を傾げた。


「写真部の作品なら、ちょうど整理が終わったから、今から倉庫へ運ぶとこだけど」

「倉庫?」


 今度はこちらが首を傾げる。

 あ、と声を上げた柴本が、気まずそうに目を伏せた。


「朝の打ち合わせで美術部の倉庫を使わせてもらうことになったんだ。だからもう大丈夫っていうか……ごめん、連絡不足だったみたいだ」

「いや、解決したならよかったよ」


 申し訳ないといった様子で頭をかく柴本に、片手を振って何でもないことを示す。


「ついでだから運ぶの手伝うよ。この箱でいいのか?」

「悪いな、助かる」


 二人で段ボールを二箱ずつ抱えて北棟へ向かう。柴本は両腕に大きな紙袋も下げていた。歩くたびに紙袋が足に当たってがさがさと揺れる。


「そっちも持とうか?」

「重くはないから平気だ。ちょっと邪魔だけど」

「いやにでかい作品が多いな、企画展用か?」

「大っきいのは去年の文化祭に使ったやつがほとんどかな。うちの作品倉庫じゃかさばるから困ってたんだよね」


 よろよろと歩く柴本の背を追うように、少し遅れて後に続く。中庭を抜けて北棟へと歩く途中、西棟の校舎の向こうからホイッスルの音と掛け声が響いてきた。


 何気なく、西の空を見上げる。この空の下ではスポーツに打ち込む運動部員たちが、この瞬間も汗を流して努力しているんだろう。比べて、特に生産性のない日々を過ごす怠惰な自分を省みると、申し訳ないような居た堪れないような気分に襲われる。


 仕方ない。人には向き不向きがある。俺は俺にできることをやるだけだ。


 北棟の美術部倉庫を開けると、微かに埃の匂いがした。ひとまず、抱えていた箱を床に下ろす。


「どこにしまえばいいんだ?」

「しまうのは俺がやるよ。運んでくれて助かった、ありがと」


 手のひらについた埃を払いながら、倉庫をぐるりと見回す。室内にいくつも設置された背の高い棚には、これまでの美術部員が創った作品がずらりと並べられていた。五月に石上たち美術部がだいぶ片付けたと聞いたけれど、それでもまだかなりの数が残っているようだ。


 棚の隅で埃をかぶっていたスケッチブックを手に取り、気まぐれにページをめくってみる。鉛筆で描かれたやわらかな絵が目にとまり、ああ、いいなと思う。スケッチの端には、一九八七年三月と走り書きがあった。俺が生まれる十年も前。このスケッチブックを描いたその人は、何を思ってこの烏山高校での日々を過ごしていたんだろうか。


 ぼんやりとした頭で物思いに耽っていると、背後で何かをひっくり返す音がした。続いて、柴本の「いて」という声。


「どうした?」


 隣の棚が並ぶ通路をのぞくと、柴本が床にしゃがみ込んでいる。


「ごめん、ちょっと足を引っ掛けちゃって」

「大丈夫かよ?」

「うん、平気。あーあ、作品蹴っ飛ばしちゃった。壊れてないといいんだけどな」


 柴本が足元に立てかけられていた額縁を引き抜く。

 次の瞬間、目の前には美しい少女がいた。


 柴本が息を呑む気配がして、世界がぴたりと音を止める。


 どこかの庭で撮影されたものだろうか。左手に白い薔薇を持ち、わずかに背を向けて立つ少女の頭上には、赤いブーゲンビリアが鮮やかに揺れている。白いワンピースの裾からのぞく足は、裸足のまま石畳を踏んでいた。石畳を這うように絡むアイビーが、少女の足元につるを伸ばす。真夜中の森を思わせる深い色をした黒髪には、真珠を散りばめたような純白の髪飾りが静かに光っていた。


 額縁の中で、少女が小さく息をする。伏せられた長い睫毛がふるえ、今にも目を開けてこちらを見てきそうな姿に、我知らず身体が震えた。


「これって……」

「城崎涼子だ」


 柴本の声が小さく響く。


「あの写真だ、去年の。前に話しただろ、文化祭で展示した」


 こんなところにあったのか、と柴本が呟いた。


 まるで生きている彼女をそのまま閉じ込めたような作品に、身体の芯が冷えるような、奇妙な感覚に捉われる。

 あまりに幻想的で美しい写真の中、城崎涼子は静かに息づいていた。


「きれい、だな」

「うん。本人も、すごくきれいだった」


 柴本の声には、ほんの少し悲しそうな、残念そうな色が混じっていた。もしかしたら、生きている城崎涼子と直接話をしたことがあったのかもしれない。


 俺はといえば、ただぼんやりと写真の少女を眺めていた。自分たちと同じ時間を生きていた人間がもうすでにこの世界にいないという事実は、不思議なほど日常から離れていて、現実感が希薄だった。人は誰でもいつかは死ぬ。頭ではそうと理解していても、実感としてはいまいちピンとこない。


 額縁の少女、城崎涼子の写真をもう一度正面から見つめる。去年までこの学校に通っていた彼女は、今はもう、この世界のどこにも存在していない。


「これを撮ったのは桜井先輩だよ。去年まで写真部の部長だった」


 柴本が静かな声でこぼすように語った。


「口数が少なくて気難しく見える人なんだけど、写真の話をする時だけは楽しそうだった。人付き合いが好きじゃないみたいで、いつも一人で風景の写真を撮っているような人だったから、城崎をモデルにするっていい出した時には部員はみんな驚いたよ。まさか、あの桜井先輩がってさ」


 柴本がそっと額縁を撫でる。かたりと、棚の隅で何かが音を立てた。


「あの人嫌いの偏屈屋まで落とすなんて、さすが魔性の女だと噂する奴もいた。去年の美術部の部長まで、文化祭に出す絵は城崎をモデルに描くといったものだから、まわりはさらに面白がって騒ぎ立てた。実際、文化祭は盛り上がったよ。他校の奴まで来ていたしね。芸術対決だ、美の決闘だと囃して、どちらの作品の方が素晴らしいか、客に投票させて決めてやろうという声まで上がった。篠原先輩や檜山先輩は止めたけれど、誰も耳を貸さなかった」


 棚の端に、小さく光るものがあった。柴本が拾い上げたそれはうすいプレートで、作品のタイトルが書かれていた。


「みんながどんなに騒いでいても、桜井先輩はいつも通りだった。ただ、城崎涼子の真の美しさがわかるのは自分だけだといって、そこだけは譲らなかったから、美術部の方も火がついて、二つの作品を比べて勝負しようといい出した。わざわざ投票箱まで用意してさ。それでも桜井先輩は何もいわずに、いつもと同じように、ただ写真を撮っていた。元々、他人と関わらない人だから、まわりの騒ぎなんて関心がないんだろうとみんながいっていたし、俺もそう思っていた。けれど、文化祭の二日目。展示会場に来た桜井先輩は、城崎の写真の前に置いてあった投票箱を掴んで、床に叩きつけたんだ」


 賑やかだった会場は、一瞬静まり返ったという。誰も動けずにいる会場の真ん中で、桜井先輩は投票箱を何度も踏みつけたそうだ。いつも通り、何にも関心を示さない無表情のまま。粉々になるまで。


「その後は、誰も城崎の写真の話はしなかった。文化祭が終わった後はいつの間にかどこかに片付けられていたし、写真部では城崎の写真について語らないことが暗黙のルールになっていたから。でも俺は、たぶん、桜井先輩は写真を燃やしたんだろうと思ってた」


 柴本は手にしていたプレートを額縁の上にそっとのせた。〈真珠の髪飾りの少女〉というタイトルが、暗い倉庫の中でうすく銀に光る。


「どうして、先輩が写真を燃やしたと思ったんだ?」

「確信があるわけじゃなかったんだけどね、何となくだよ」


 柴本が曖昧に笑う。


「ただ、一度だけ、桜井先輩と話をする機会があったんだ。文化祭のすぐ後、二人で部室に暗室を作ってる時にさ。先輩は『彼女の美しさは消えない、僕の中だけで生きてる』っていった。それを聞いた時に、先輩はあの写真を捨てたんじゃないかって気がした。もう誰にも見つからないように、消してしまったんだろうって。そのままゴミ箱に、ってのはさすがに考えにくいから、燃やしたんじゃないのかと思ってたんだ。まさかこんなところで、また見るとは思わなかった」


 小さく息をはいた柴本が、写真の中の城崎を見つめる。


「俺は城崎と話をしたことはほとんどない。けれど、入学した時から城崎の存在は知っていた」


 柴本の言葉に、心の中だけで頷き返す。一度も話したことのない俺でも、城崎涼子のことは知っていた。それくらいに、彼女は「特別」だったのだ。良くも悪くも。


「城崎のまわりには、いつも噂があった。悪意の塊みたいな言葉や、嫉妬や敵意の目を向けられても、城崎は、ただ前を見て真っ直ぐに立っていた。まわりのことなんか一切気にならないという顔で。それが余計に妬まれることになったんだろうけど、それでも、城崎は強かった。強いと、誰もが思っていた」


 写真を見る柴本の目が、苦しそうに伏せられた。


「彼女が学校の屋上から飛び降りるなんて、思ってもみなかった」


 去年、廊下で見かけた城崎の横顔を思い出す。凛とした瞳で颯爽と歩く姿は、美しく、強さにあふれていた。


「城崎涼子が死んだのは、俺たちのせいなのかもしれない」


 ぽつりとこぼした柴本が、くしゃりと髪をかき回す。数秒後、顔を上げた柴本は乾いた声で笑った。


「なんてね。ごめん、変な話して。あの城崎が俺たちのことなんか気にするわけないよな。自殺かどうかもはっきりしてないんだし。もしそうだとしても、もっと高尚な悩みを抱えてたんだろうな」


 苦さの混じる笑みで、がしがしと頭をかく。


「この写真が急に目の前に現れたから、驚いてつまらないこと喋っちゃった。ごめん、忘れてくれる?」

「つまらなくなんかないよ。柴本にとっては、大事なことだったんだろ?」


 はっとした顔で柴本が俺の目を見る。

 たぶん、ずっと気にしていたんじゃないだろうか。俺に話したのも、誰かに聞いてもらいたかったからかもしれない。城崎涼子に対して抱いていた、後悔と罪悪感を。


「城崎が生きていたら、謝りたかった。文化祭の時、騒ぎを止められなくてごめんって」


 笑みを消した柴本の声が、倉庫の中にぽつりと落ちる。


「写真も絵も燃やせば消えるけど、死んだ人間は簡単には消えないんだな」


 掠れた声に、どう返せばいいかわからず沈黙する。

 写真の中では、赤いブーゲンビリアが鮮やかに揺れていた。

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