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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第3章 あおく、やわく
75/103

19 Tender Blue

 四時間目が終わり、数Ⅱの教科書を机にしまう。廊下に出て昼食の弁当をロッカーから出したところで、背後から声がした。


「高谷くん、今日は弁当ですか」


 振り返ると数学教師の津田が立っていた。相変わらずの無表情だ。


「……そうですけど」

「それはよかった。では、昼食前に手伝いをお願いします」

「何の手伝いです?」


 予想はできたがあえて訊いてみる。


「図書委員の仕事です。五時間目の授業で画集を使いたいと、美術科の堀内先生から依頼がありました。図書室から第一美術室まで資料を運ぶ手伝いをしてください」


 なんてこったい。しかし、図書委員の仕事といわれたら断れない。仕方ないが素直に頷くのは癪なので、一応嫌味をぶつけてみる。


「津田先生、俺、これから昼休みなんですけど」


 ツダセンの銀縁眼鏡がきらりと光った。


「知っています、私もです」




 図書室のドアを開けると画集はすでに用意されていた。三十冊程の厚い本を津田と半分ずつ抱えて北棟の第一美術室へ向かう。


「今日の図書当番は誰なんですか」


 本来ならその日の当番が資料の運搬まで担当するべきだ。言外に不満だと伝えてやる。


「二年の野島くんと吉沢くんです。先程声をかけましたが、腹痛でこれから保健室へ向かうとのことでした」


 腹痛ね。

 他人の腹事情など知りようもない。ごちゃごちゃと文句をいうよりも、さっさと自分で動いた方が効率的だし、精神衛生にも幾分かマシだ。


 津田に続いて階段を下りる。化粧箱から中身の本が滑り落ちそうになって、慌てて抱え直した。これだけ重量のある本を落としたりしたら、背が壊れてバラけてしまうかもしれない。上手くバランスを取り直してひと息つくと、前を歩く津田の背中に訊ねる。


「画集、先生が用意してくれたんですか?」

「はい。何か問題でも?」

「いや、棚からピックアップするのも手間だろうと思って。画集って重いし嵩張(かさば)るし、図書委員に任せてもよかったんじゃないですか?」


 前を見据えたまま津田が答える。


「今日は急な依頼でしたから。時間に余裕があれば図書委員に任せました」


 そうですか。その急な依頼に運悪く駆り出されたわけですね、俺は。

 無言で運ぶのも頭と口が暇なので、前から気になっていたことを訊ねてみる。


「津田先生が司書教諭の免許を持ってるなんて意外ですね」


 図書委員会の顧問の多くは司書教諭免許を持っている。別に免許がなくとも顧問は務まるが、確か津田は司書教諭の免許を持っていたはずだ。


「大学で必要な単位を取得すれば、教員免許さえあれば誰でも司書教諭になれます。それとも」


 踊り場に立った津田が、振り返って俺を見上げた。


「数学教師が司書教諭ではおかしいですか?」

「いや、別にそういうわけでは」


 ないんですけどと続けた声は、もごもごと小さくて我ながら情けない。津田は抑揚のない声で「そうですか」と返すと、変わらない足取りで階段を下りていく。その背中から数歩遅れて後に続きながら、気付かれないように小さく息をはいた。


 なんというか、俺はこの先生がすごく苦手だ。


 重く佇む雲の下を早足で北棟へ向かう。一階の廊下を進み、第一美術室のドアを開けると、慣れ親しんだ絵の具の匂いがした。もう一つ、覚えのある匂いが絵の具に混じり、その気配を追って窓に顔を向ける。透明なガラスの向こうには小さな粒が光っていた。とうとう降り出した雨が、軽やかにガラスの上をすべり落ちていく。


「かたつむりの匂いがする」


 思わず言葉がこぼれた。次の瞬間、恥ずかしさに顔が熱くなる。無意識に思いついたままを口にしてしまっていた。


 何だよ、かたつむりって。小学生か。


 気まずさを誤魔化すために半笑いを浮かべながら振り返ると、こっちを見ていた津田と正面から目が合った。ふっと目を伏せた津田が、視線を窓に向ける。


「はい。夏ですね」


 無機質な声の中に、少しだけやわらかさが混じっているような気がした。意外な反応に、思わずまじまじと津田の顔を見てしまう。てっきり、本来かたつむりは水が苦手だとか、雨の匂いはペトリコールだのゲオスミンだのがどうとか言われるかと思った。


 窓から視線を戻すと、津田は抱えていた画集を教卓に置いた。親指で眼鏡を押し上げ、いつも通りの無表情で俺を見る。


「今日は助かりました。ありがとう」


 そういい残すと、津田はさっさと美術室から出て行った。がらりとドアが閉まり、遠去かる靴音がかつかつと廊下の向こうに響く。やがて音が消え、あたりに静けさが生まれた。窓ガラスを叩く雨の音だけが、かすかに耳に届く。


 美術室の中をゆっくりと進み、抱えた画集を教卓にのせる。津田が置いて行った画集を手に取り、ぱらぱらとめくった。画集は教科書に載っているような有名な画家の作品を一冊ずつにまとめたシリーズもので、一番上の表紙には『Vincent(フィンセント) Willem(ヴィレム) van(ファン) Gogh(ゴッホ)』と書かれていた。


 ページをめくっていると、印象的な青と黄が目に飛び込んでくる。作品名「Terrasse du café le soir」。邦題「夜のカフェテラス」。


 ゴッホといえば「ひまわり」が有名だけれど、俺は「夜のカフェテラス」が一番好きだ。暖かな灯りに照らされたカフェの向こうに見える夜空の青に、不思議と心が落ち着く。空に光る星は秋の星座だとどこかで聞いた。南フランスの暖かなアルルの街だって、きっと秋の夜風は冷たいに違いない。深い青の空と黒い街影は、やがてくる冬を待つように、ほんの少し冷たさを隠しているように見える。カフェを照らす黄色は、幸福の象徴だ。


 画集を閉じ、両手で持ち上げる。ずしりとした重さが腕に伝わり、自然とため息が漏れた。一見、同じ量を運んだように見えるが、俺が持っていた画集と紙質が違う分、津田が運んだ方が随分と重い。


 津田は正論しかいわない。言動には無駄がなく、全てが効率的だ。生徒の間では、ツダセンの正体はロボットだという噂がまことしやかに語られているが、そういう冗談が飛び交うくらいに、津田の言動は徹底している。


 そんな津田が、時々図書室の掃除をしていることを、俺は知っている。本や棚の整理は図書委員が担当しているが、図書室の机や床の掃除は美化委員の仕事だ。けれど、美化委員顧問の横溝のやる気がないせいで、月に一度くらいしか活動していない。廊下に飾られた花の水が毎日取り替えられているのも、教室の古びたイスの背のネジがいつの間にか締め直されているのも、階段踊り場の掲示板にある剥がれかかった掲示物が貼り直されているのも、全て津田がやったことだ。津田本人に訊ねても、どうせ「仕事ですから」としかいわないんだろうけど。


 画集の表紙をそっと撫でる。つるりとした紙の感触が、指先に伝わる。

 俺は津田が苦手だ。正論で効率重視の現実主義者。楽観的で感情のままに動く俺とは相性が悪いし、たぶん向こうもそう思っているはずだ。


 けれど。


 ふるえる雨を眺めながら、俺の幼稚な感想を淡々と肯定した声を思い出す。津田は、決して他人の言葉を馬鹿にしない。

 窓の外では、ガラスに落ちた水が次々にはじけていた。


 俺は津田が苦手だ。けれど、嫌いでは、ない。




 ドアが開く音に顔を上げる。入ってきたのは美術教師のブラッド先生だった。俺を見つけたブラッド先生が「おや、高谷くん」とにこりと笑う。


「お邪魔してますブラッド先生。画集、ここでいいですか?」

「そこでいいよ、すぐに使うからね。ありがとう」


 俺の質問に答えつつ足の先で器用にドアを閉め、よっこいしょと荷物を抱え直す。「急に頼んで悪かったねえ」といいながら大股で教卓に歩み寄り、両手に抱えていた紙の束をばさりと教卓横の机に置くと、先生はやれやれと腰をそらした。


「職員室からたいした距離でもないのに堪えるね。寄る年波には勝てんなあ」


 困ったもんだと頭をかく先生に笑みを返し、からかい混じりの軽口を叩く。


「日本のブラッド・ピットともあろう人が、情けないこといわないでくださいよ」

「いや全くだ。これじゃあ小杉の奴に馬鹿にされてしまうな。いかんいかん、私が弱音を吐いていたことは内緒だぞ、高谷くん」

「合点承知です」


 右手を額に当てて敬礼すると、ブラッド先生は人好きのする顔でくふふと笑った。笑いながら、一度机に下ろした紙束を無造作に掴んでばさばさと端を揃える。その拍子に、紙の間から何かが床に落ちた。


「先生、落ちましたよ」

「おっと、すまんね」


 落ちたのは教職員用のネームホルダーだった。〈美術科・堀内〉と書かれたそれを先生に手渡す。


「首にかけてるのも邪魔くさくってね。つい適当なところに置いてしまう」


 受け取ったネームホルダーをポケットへ押し込むと、ブラッド先生は不満気な様子で口を尖らせた。


「大体、名札なんぞなくても顔を見れば私だとわかるだろうに。こんな端正な顔をした美男子はそうはいないぞ。なあ高谷くん、そう思わんかね?」


 真面目な顔で鼻を鳴らす先生の目には、いたずら小僧のような笑みが浮かんでいた。


 我が烏山高校美術科の堀内先生は、生徒から「ブラッド先生」の愛称で慕われている。少し日に焼けた顔にはいつも笑みをたたえ、目元には深い皺が刻まれている。おそらく五十歳は超えているんじゃないかと思うけれど、年齢を感じさせないくらいにいつも元気だ。


 噂によると、数年前の入学式、担任挨拶で舞台に立った先生は、マイクが回ってくるなり「どうも、ブラッド・ピットです」といいながら軽やかなステップとターンを決めて見せたらしい。喝采の中、ウインクした先生は、後で校長から「新入生から主役を奪ってどうする」と叱られたそうだ。以来、生徒だけでなく保護者からも、本名の〈堀内〉でなく〈ブラッド〉と呼ばれることが多い。いつも飄々としていて掴みどころがない人だけれど、時々ふと口にする言葉に不思議と説得力がある。〈弥勒の松本〉と並んで、俺がひそかに憧れる大人の一人だ。


 揃えた紙束を小脇に抱えたブラッド先生が「おっと、そういえば」といってくるりと振り返った。


「高谷くん、今ちょっと時間はあるかい?」


 今にも腹が鳴りそうだが、ブラッド先生の頼みとあらば断るわけにはいかない。


「大丈夫ですよ。何か運ぶものでもありますか?」

「いや、手伝いじゃない。先週提出してもらった課題のことなんだがね。もう一度考えてみないかい?」

「……不可だから再提出ってことですか?」


 先週の美術の課題といえば、確か指定された色に名前をつけるやつだ。ブラッド先生がその場で即興で作り出した色を見て、その色の名を考える。黒板に立てかけたキャンバスを前に筆を走らせた先生は、生徒を見回してこういった。


「これはただの混ざり合った絵の具だ。これに名を与えて君だけの『色』を作ってごらん」


 配られた課題プリントの欄にそれぞれが思い思いの名を書いていくなか、俺は、ただキャンバスを見つめていた。


 紙の上をすべる鉛筆の音だけが響く美術室。キャンバスを染めた絵の具が、部屋の中に溶け出してくる。


 藍、紺、紫、橙、朱、紅、赤、山吹、萌黄、緑、柳、若葉、青、青、――青。


 真っ白なキャンバスにぺたりとはりついた青色の絵の具。澄んだ青にたくさんの色が重なる。

 すごく、きれいな青だった。


 深くて、でもどこか不安定で、ごちゃごちゃと色々なものが混じっていて、それでも透き通った青でありたいという祈りがあるような。


 まるで、

 まるで自分のようだと思った。


 誰かが鉛筆を落とした。からんと床を転がる高い音が意外なほどに大きく響いて、はっとする。気付くと、ほとんどの生徒は課題を書き終えて自分の創作にうつっていた。教卓にプリントを提出した小野が、そのまま俺の方へ近付いてくる。


「ずいぶん悩んでるね。珍しいな。タカちゃん、こういうのぱっと思い付きそうなのに」


 にこにこと笑う小野を前に、慌てて机の鉛筆に手を伸ばす。


「いやあ、なかなか浮かばなくってさ。俺の類まれなる感性に語彙が追いつかねえんだよな」


 何かを誤魔化すように笑いながら、思い付くままに鉛筆を走らせる。プリントを覗き込んだ小野が笑った。


「なんだよそれ」

「かっけえだろ」


 呆れ顔の小野に笑みを返して立ち上がると、教卓前の紙箱にプリントを放り込んだ。席に戻る前、黒板に立てかけられたキャンバスにちらりと視線を走らせる。じわりと滲む青が目に染みて、慌てて視線を逸らした。


 奥の部屋に入った先生は、課題のプリントを取り出して俺に手渡した。プリントには〈スーパーテンダネスブルー・ミステリアスバイオレットアドサイレントグリーン〉と書かれている。我ながらふざけ過ぎているとは思うが、この時は焦って上手く言葉が出てこなかった。


 胸ポケットにさした万年筆を手にした先生が、指先で器用にくるくると回す。


「この名前も悪くないんだけどね、必殺技名みたいでかっこいいから。けれど、あの色を見て君が最初に思った名は、それではないんじゃないかと思ってね」


 まいった。なんでわかるんだろう。

 プリントを握りしめて空笑いをする俺を見て、ブラッド先生がうふふと笑う。


「宿題にしようか?」

「いえ、ここで書いていきます。ペンをお借りしてもいいですか」

「もちろん」


 先生が差し出した万年筆はずしりと重く、それでいて不思議と手に馴染んだ。ペットは飼い主に似るというけれど、物も持ち主に似るのかもしれない。静かに息づく様な万年筆を手に、とりとめのない考えが頭をよぎる。


 こんなふうに歳をとりたい。そう思わせるような大人に、俺はなれるだろうか。


 文字を綴る。ペン先はなめらかに藍色の線を引いた。

「お願いします」と渡したプリントに目を落とした先生が、目を細めてやわらかに微笑んだ。


「うん。いいね」


 ぐちゃぐちゃで不安定で叫び出したくなる様な。


 透き通った空へ手を伸ばして祈りたくなる様な。


 やわく、脆く、優しい、青。


 〈Tender Blue〉

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