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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第2章 レンズ越しのあなたへ
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18 空腹

 片付けを終えて第二美術室を出た頃には、だいぶ日が傾いていた。

 昇降口で靴を履き替え、玄関を出て大きく伸びをする。同時に、腹が盛大な音を立てた。背後に人の気配を感じて振り返ると、鞄と大きな封筒を手にした真木が立っている。


「……聞いた?」


 へらりと笑いながら訊ねる。いつも通りのクールな表情のまま、真木が答えた。


「高谷のお腹の音以外は何も聞こえなかった」


 ばっちり聞かれていた。健康な証とはいえ、ちょっと恥ずかしい。

 正門までの道を真木と並んで歩く。


「でかい封筒だな。課題か?」

「新聞部で使う資料。明日までに読んでおこうと思って」

「持ち帰りってわけか。大変だな、新聞部も」


 長く伸びる影を踏みながら両手を頭の上で組む。オレンジ色の空から溶け出す赤に、少しずつ藍が混ざり始めていた。昼と夜の境。黄昏の中を、二つの影が揺れる。


「図書委員の助っ人に写真部の片付けの手伝いか。損な役回りばかり引き受けるな、真木は」


 部活とか勉強とかもあるのにさと笑う俺の隣で、真木がぴたりと足を止めた。


「別に高谷ほどじゃない」


 真木がまっすぐに俺を見つめる。眼鏡の向こうからのぞく目は、気のせいか少し怒っているようにも見えた。

 視界が点滅して、足元の影が消える。見上げると、外灯が俺と真木を照らしていた。何となく誤魔化すような笑いがもれる。


「いやあ、関係ないのに出しゃばっちゃって」

「そう、関係ない」


 外灯の下に真木の声が響く。


「関係ないのに、木島くんと石上くんが誤解したまま仲違いしないように間に入ったんでしょう。わざわざ馬鹿なことをいったりして、二人の喧嘩を仲裁してた。ペンキをまいた犯人が篠原先輩だとみんなの前で指摘して見せたのは、写真部と美術部の誰かが気付く前に部外者が言い出した方が、話がこじれないと思ったから。もしも後から部員の誰かが部長の失敗に気付いたら、写真部の仲も気まずくなりそうだし。檜山先輩の作品を悪くいったのも、わざと煽って篠原先輩の本音を檜山先輩に伝えてあげるため」


 淡々とした声で真木は続けた。


「今日一緒にいたあの子、大事な約束があったんじゃないの? 他人のことばかり優先して厄介ごとを引き受けるのは、高谷の方だと思う。お人好しが過ぎると損をするわ」


 言い終わると、真木はぷいとそっぽを向いた。これはたぶん、心配してくれているんだろう。思わず笑いがこぼれた。


「お人好しなのは真木もだろ」


 何の話だと言いたげな顔で、真木が俺をちらりと見た。


「ペンキをまいたのが篠原先輩だってことに、真木は最初から気付いてた。だからさっさと第二美術室から離れて、犯人探しを終わらせようとしたんだ。ペンキをまいたのが篠原先輩なら、写真部に対する嫌がらせのはずがない。何か誰にも言いたくない事情があるに違いないと思ったんだろ?」


 真木らしい気の遣い方だ。通りでやたらと不機嫌そうな顔で黙っていると思った。たぶん、早くあの場を切り上げる口実を探していたんだろう。元々口数は多い方じゃないが、普段の真木なら人前であんなふうに機嫌の悪い態度を取ったりしない。

 再び、真木がそっぽを向いた。


「別に、急ぎの用事があったから早く帰りたかっただけ」


 拗ねた物言いに思わず笑ってしまう。急ぎの用があるやつがペンキの片付けに最後まで付き合うかよ。


「なんで篠原先輩がやったってわかったんだ?」


 しばらくの沈黙の後、真木はぽつりと「爪」と呟いた。


「爪?」


 こくりと頷く。


「篠原先輩、指が長くて爪の形も綺麗なの。いつも丁寧に手入れをしていて、時々、薄いマニキュアをつけたりしてる。それがすごく似合っていて素敵だから、先輩に会う時はいつもこっそり爪を見てたの。そうしたら、今日は指の先が少しだけ黒く染まってたのが見えたから、篠原先輩がペンキを触ったんだとわかった。先輩もすぐに気付いて隠していたから、ペンキをまいたのは篠原先輩だって思ったの」


 なるほど。いわれてみれば、確かに篠原先輩は綺麗な手をしていた。


「私は爪の形がよくないから。小さくて平べったくて、マニキュアもネイルも似合わない。篠原先輩が羨ましいと思う」


 真木がぽそりと小声で付け足した。


 ん? そうか?


 ふと真木の手を見る。やわらかな指の先に、切り揃えられた爪が小さく並んでいた。


「桜貝みたいで可愛いと思うけど」


 笑った俺を真木がじろりと睨んだ。両手を身体の後ろに隠し、小さくため息をつく。


「うるさい」

「なんで!?」


 そこは喜ぶとこでしょうよ。

 そのまま、真木はすたすたと歩き出した。頭をかきながらその後に続く。まったく、女心はよくわからない。


 正門を出ると真木はバス停の方へ向かう。確か真木の家は国分寺といっていたから、バスで吉祥寺あたりまで出るんだろう。

「じゃあな」と手を振ると、くるりと真木が振り返った。


「誰にでもいい顔してると、いつか痛い目見るわよ」


 そういい残すと、さよならもいわずにさっさと歩いて行く。黄昏の街に消えていく真木の背中を少しだけ見送って、俺も駅の方へと歩き出した。




 夕方の千歳烏山ちとせからすやま駅は人があふれていた。ホームの向かいに見える下りの満員電車を見送り、上りの各停に乗る。ドアの横に立ち、過ぎていく景色をぼんやりと見つめていた。



『誰にでもいい顔してると、いつか痛い目見るわよ』



 真木の言葉がちくりと刺さる。

 いつでもいい顔をしたいわけじゃないけど、余裕がある時はできるだけ笑顔でいるようにしてるつもりはある。真木がいう「お人好し」ってやつも、まあ自覚はしている。誰にでもってことはないと思うけど。


 電車が止まってドアが開いた。三、四人ほどの人が降り、五、六人くらいが乗り込んでくる。ドアが閉まり、電車はまた動き出した。

 ドアのガラスには表情のない俺がうつっている。


 だってさ、笑っていない俺に価値なんてあるか?


 別に全く価値がないなんて思っちゃいないけど、お気楽でお調子者な高谷貴文でなくなったら、わざわざ俺と話をしたいやつなんていないんじゃないかと思う。俺だって、不機嫌なやつとか、必要以上に気を遣わなきゃいけないやつとは、あんまり関わりたいと思わない。


 別に無理して笑ってるわけじゃない。人のために尽くそうとか思ってるわけでもない。ただ何となく、まわりが求めてくれる高谷貴文を選んでいるだけだ。

 時々、それが窮屈に感じることはあるけれど。


 電車が桜上水に着いた。ホームに降りて改札へ向かう。

 すでに日は落ちて、あたりには暗闇が広がっていた。街灯の中を少し早足で歩く。


 早く帰って夕飯を食べよう。お腹が空っぽのままじゃ、余計なことまで飲み込んでしまう。誰かの舌打ちとか、教室の隅から聞こえるひそひそ声とか、いわなきゃよかったと何度も後悔している言葉とか。


 腹と同じように頭も空っぽにして、何も考えないように足を進める。自分の家が見える頃には、駆け足になっていた。


 大丈夫、問題ないと自分に言い聞かせる。

 この焦燥感は、きっと、腹が空いているせいだ。

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