15 しのぶれど
「写真を受け取った小杉先生が美術室を出た後、木島が奥の現像室に入った。確か道具を取りに行ったんだよな?」
「ああ、ポスター描くのに長めの定規が欲しかったから」
窓際の机に立てかけられた一メートル程の長さの定規を指して、木島が頷く。
「念の為にノックして中にいる柴本の返事を確認してから入ったよ。フィルムを感光させちゃまずいから。使いたかった定規ってのは部活の備品なんだけど、長くて置き場所に困るってんで現像室の奥に押し込んでてさ、ちょっと探すのに手間取った。柴本と一緒に棚の上とか見たりしてな。結局、壁の隅に立てかけてあったんだけど。けど手間取ったっつっても、探すのにかかった時間は二、三分くらいかな」
木島が「な?」と柴本に確認して、柴本も「そうだね、たいした時間じゃなかった」と返す。
木島に頷き返して、視線を石上に移す。
「木島が現像室に入ってる間に石上が来た。中身が間違っていた三番の封筒を返して、美術部の写真を受け取るためだ。でも、部屋の中には誰もいないし、写真が置いてあった机の上にも何もない」
「そうだよ。仕方ないから誰か写真部のやつが戻るのを待つつもりだった。とりあえず写真を返そうと思って封筒を机に戻したところで、美術部の後輩から呼び出しの電話がかかってきて、急いで部室に戻ったんだ」
「その石上が部屋を出てすぐに、木島が現像室から出てきた」
「タイミング悪いやつだな」という木島に「お前がな」と石上が返す。
「さて」と呟きながら部屋をぐるりと見回した。
「この時点で第二美術室に残された写真は三番の封筒に入った新聞部の写真だけになった。で、次だ。ポスターの続きを描いていた木島に、篠原先輩から電話が入る。電話の内容は、忘れた書類を生徒会室まで届けて欲しいというもの。そこで篠原先輩に書類を届けるために、木島がこの部屋を出る。その木島に留守を任されたのが柴本だ」
うんうんと柴本が頷く。
「柴本が留守番してる間に、松本先生が写真を受け取りに来た。そして、ここでも行き違いが起きたんだ」
木島と石上が呆れた目で柴本を見る。「ええ!? また俺!?」と柴本が頭を抱えた。
「第二美術室を訪ねた松本先生は、ドアの近くで躓いて荷物をばらまいてしまった。しゃがむのがつらそうな先生に代わって、柴本が荷物を拾う。『写真はどこだ?』と訊ねた松本先生に、柴本は『机の青い封筒』と答えている。一応確認するが、柴本、松本先生が封筒を取ったところを見たか?」
項垂れた柴本が弱々しく首を横に振った。
「見てない。ちょうど屈んでたし、松本先生もすぐに見付けて上着のポケットにしまったみたいだったから」
上目遣いで首を捻る。
「俺、なんかおかしなこといったかなあ?」
「柴本が悪いんじゃないよ。ほんのちょっとした勘違いだ」
肩を落とした柴本に苦笑して、ひらひらと右手を振って見せる。柴本に悪いところはない。ただ、相手の事情がちょっとだけ違っていた。
「松本先生が第二美術室に来た時、この部屋には二つの封筒があった。一つは柴本が用意した松本先生の写真が入った青い封筒。もう一つが、石上が返した新聞部の写真が入った緑の封筒だ」
机の上に置かれた二つの封筒。
イスに躓いて荷物をひっくり返した松本先生は、やれやれと苦笑しながら立ち上がる。「いやあ、歳だねえ」なんていいながら。
荷物を拾ってくれる柴本に礼をいって、松本先生が部屋の中を見回す。いつものように穏やかな声で「写真はどこかな?」と訊ねながら部屋の中央へ歩き出す。
散らばった荷物を拾いながら、柴本が松本先生に答える。
「机の上の青い封筒ですよ」
部屋の中央で、松本先生が歩みを止める。
机の上の二つの封筒。
青と緑。
松本先生は手を伸ばし、自然な仕草で一つの封筒を取る。
――三番と書かれた、新聞部の写真が入った緑色の封筒を。
「松本先生は緑色のことを『青』というんだ」
柴本の口がぽかりと開いた。
しばらく固まった後、「あ、あー、あーあーあー」と謎の声を上げながら何度も頷く。
「そっか、そうだよな、松本先生はそうだよ」
頭を抱えた柴本が自分の髪をくしゃくしゃとかき回した。
「そういえばそうだな。松本先生は緑色を青という。森や草木を描いた絵は『緑が美しい』と褒めていたが、ただの緑色を指す時はいつも『青』だ」
檜山先輩の言葉に、真木も頷く。
「私、松本先生が緑色のファイルを『青いファイル』といっているのを聞いたことある」
木島が「それ、俺も聞いた」と手を上げ、石上は「そうだよな、松本先生だもんな」とため息をついた。
何ともいえない微妙な空気が、第二美術室の天井からのたりと落ちて床に広がっていく。白けた空気をふり払うように木島があははと頭をかいた。
「誰が悪いってんじゃないけど、つまりはうっかりしてたってことだな」
うぐうと唸った柴本が、がくりと肩を落とす。石上が呆れたようにため息をついた。
「うっかりなら木島、お前もだろ」
「なんでだよ」
心外だという顔で木島が石上を睨む。
「高谷の話の通りなら、お前は二回、三番の緑色の封筒の近くを通ってんだぜ。ドアを出入りするなら真ん中の机の横を通るんだからな。書類を届けに行く時と戻って来た時、それから気分転換に部屋を出ていく時に、青色の封筒も通り過ぎてる。それで何も気付いてないんだから、お前だって大概うっかりだろ」
うぐうと唸った木島が、柴本と並んでがくりと肩を落とす。
やれやれ。
「預かった写真の封筒は全部渡し終わったつもりだったんだ。机の上に意識が向かなくても仕方ないって」
一応フォローしてみるが、柴本も木島も俯いたままだった。
閑話休題。
「松本先生が緑の封筒を持って行った後、書類を届けた木島が戻り、柴本が校内の撮影に出る。それからしばらくして、木島が気分転換のために第二美術室を離れた」
全員の目がそっと篠原先輩に向けられた。
「ここで、会議が終わった篠原先輩がようやく部室に戻ってくる」
篠原先輩の顔は真っ白だった。強く噛み締められた唇だけが赤く染まっている。震えている肩を指先で押したら、今にも涙がこぼれてしまいそうだ。
「会議の途中か終わった後かはわからないけど、部室に戻る前に、篠原先輩は写真を間違えて渡したことに気付いた。先輩は焦った。小杉先生の手に渡る前に、早く写真を回収しなくてはいけない。慌てて部室に戻ると、部屋には誰もいなかった。会議に行く前、木島が写真を封筒に入れるといっていたのは聞いたけど、どんな封筒に入れたのか篠原先輩は見ていない。机の上には、青い封筒が一つ。会議が終わった時間を考えると、新聞部と美術部はとっくに写真を取りに来ているに違いない。一つだけ残された封筒を見て、篠原先輩はそれが自分の写真だと思った」
ほんの一瞬、間に合ったと胸を撫で下ろしたかもしれない。だけど、ちゃんと写真を確認するまでは安心できない。
「ここからはただの想像だけど、おそらくこんなことがあったんじゃないかと思う」
篠原先輩から視線をはずして、机に広がるペンキに目を落とす。ぺたりとした黒は乾き始めていた。
「机の上にある封筒を見つけた先輩は、急いで回収しようとした。けど、違う写真が入っている可能性を考えると、中身を確認する必要がある。焦った先輩が封筒をひっくり返して写真を出したのか、手が滑ってうっかりばらまいたのかはわからないけど、封筒から出した写真は机の上に広がった。写真はモノクロ。さっきもいったように、新聞部と美術部の写真はカラーだ。モノクロの写真を見た篠原先輩は、一瞬で自分の写真だと思った」
ほっとした篠原先輩が写真に手を伸ばす。早く、この写真を隠さなくてはいけない。
「その時、ドアの外で声がした。木島と真木が戻って来たんだ。真木が、写真を間違えてごめんと木島に謝る声は、篠原先輩の耳にも届いた。第二美術室のドアは薄いらしいからな。廊下で窓拭きをしてた美化委員が、部屋の中の柴本の声を聞いてるくらいだ。その声を聞いた先輩は焦った。二人は今にもドアを開けて入って来そうだ。散らばった写真を全部拾っている時間はない。机の側には展示の看板に使う板と黒のペンキ。慌てた先輩はペンキ缶を掴むと写真の上でひっくり返した」
ばらまかれたペンキで、写真は黒く塗り潰される。
「木島と真木が部屋に入ってくる前に、篠原先輩は奥の現像室に隠れた。青い封筒をポケットにしまい、息を整えて部屋の様子を伺う。そして木島と真木が部室にまかれたペンキに驚いているところに、何食わぬ顔で合流したんだ」
ちらりと真木を見ると、無表情のままで篠原先輩を見つめていた。
眉間に皺を寄せて考え込んでいた柴本が手を上げる。
「ちょっと待て、部長が現像室に入ってから木島たちが来るまでに、他の誰かがペンキをまいてった可能性はないのか? 部長が持ってる封筒は犯人が落としたのを偶然拾ったのかも。美化委員の二人だって、ドアをずっと監視してたわけじゃないっていってたろ? 可能性は低いかもしれないけど、ゼロじゃないよな?」
早口で訴える柴本に首を振る。
「時間的にそれはかなり厳しい。篠原先輩が第二美術室に入った後、木島と真木が来るまでには、ほんの少しの時間しかなかったんだ。仮にその数分で他の誰かが写真とペンキをばらまいたんだとしたら、そいつはかなり焦っていたはずだ。そうなると、ペンキの缶が現像室前に転がっているのはおかしい。急いで逃げるのなら、缶はペンキがまかれた中央の机からドアまでの間に落ちているはずだ」
「ペンキをまいた後、奥の部屋に向かって缶を放り投げたのかもしれないだろ?」
「もしそうなら音がしたはずだ。美化委員の二人は、柴本が松本先生と話している声を聞いている。石上が入った後に部屋から怒鳴り声が聞こえてきたとも。でも、缶が転がったような物音がしたとはいってない。それに何より、篠原先輩がそう答えてる」
『何か聞かなかったかって? いいえ、何も聞いていないわ。静かだったし、何も気付かなかったの』
柴本が残念そうに俯く。
「写真部の部長が美術室に入る前に、すでにペンキがまかれていた可能性は?」
石上が木島を指した。
「つまり、こいつが犯人で、ペンキをまいた後に美術室を出た。そこに写真部の部長が会議から戻って来たってのも考えられなくはない」
「おい」と木島が石上に白い目を向ける。「可能性の話だ」と石上がそっぽを向いた。
「それなら、美術室に戻った時点で篠原先輩が部屋の異常に気付くはずだ。部員を庇った可能性もあるけど、少なくともペンキを発見した時点では、誰がどんな事情でこんなことをしたのかわからない。なのに、わざわざ現像室に隠れて、何も知らないフリをしているのはちょっと変だ」
篠原先輩が両手を顔に押し当てた。固く握った拳の隙間から覗く唇が震えている。小さな声がこぼれた。
「どうしよう。私、なんてこと……」
俯く篠原先輩の背中が微かに震えた。慰めようにも言葉が出てこないまま、全員が気まずそうに顔を見合わせる。
沈黙の中、最初に口を開いたのは意外な人物だった。
「やってしまったものは仕方ない。事情を説明して誠心誠意謝ればいい。万が一松本先生が許してくれなかったとしても、それが礼儀だし、けじめってもんだ」
檜山先輩が篠原先輩の前に立つ。篠原先輩がゆっくりと顔を上げた。
「不安なら俺も一緒に謝ってやる」
「藤吾くん……」
篠原先輩の瞳が揺れる。
ん? これは、もしかして……
妙に緩んだ空気の中、入口のドアががらりと開いた。




