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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第5章 箱庭の中の僕ら
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40 白紙の問題

 雨のにおいがした。


 中間試験一日目。教室の中はかすかに緊張感が漂っている。

 朝の喧騒の中、席に座って参考書を開く。世界史の範囲を確認しながらページをめくっていった。

 雨音が教室を包み込んでいる。


 結局、高森には何も聞けなかった。

 金烏祭が終わってしばらくすると試験期間に入ったため、ここ最近は高森とあまり連絡をとっていない。


 体育祭の日に鈴川から聞いた言葉が頭をよぎる。



「高森さんがいじめを受けていたという話は知ってる?」



 ――知らなかった。全く。


 パニックの発作に苦しんでいることは知っていたが、いじめられていたなんて聞いたことはない。

 思い上がっていた自分を殴りたくなる。笑顔を向けてくれる高森を見て、少しでも救えたかもしれないと自惚れていた。最悪だ。全く成長していない。自意識過剰で自信過剰。羞恥が黒く胸を焼いていく。


 予鈴が鳴り、クラスメイトが次々に席を立つ。参考書を全てロッカーに片付け、筆記用具だけを持って席を移動する。試験中は出席番号順に着席することになっていた。出席番号は五十音順だから、このクラスで俺は窓際の一番後ろ、最後の席になる。


 しばらくすると体育教師の岡崎が教室に入ってきた。〈二年七組〉と書かれた水色の封筒から試験問題を取り出し、前の席から配布していく。


 配られた問題用紙を受け取ると、紙の端に青い付箋がついていた。はがすと〈二−七〉と手書きのメモが書かれている。配布の目印につけていたのを担当の教師がそのまま忘れてしまったのだろう。カンニングを疑われるようなものでもないため、試験が終わるまで机の端に貼っておく。


 中間一日目の最初の試験は世界史だった。岡崎の「はじめ」という合図とともに、一斉に解答用紙をめくる音がする。


 解答用紙に名前を書き終えたところで、教室の外が騒がしくなった。何事かと顔を上げると、英語教師の日高が珍しく険しい顔をして教室のドアを開けた。ドアの外から手招きで岡崎を呼び、二人で少し会話をした後、日高は慌ただしく教室を去っていく。


 教卓に戻った岡崎が試験の中止を告げた。突然の事態に教室は騒然となる。

 配布していた問題用紙を回収すると、岡崎は教室全体に自習を告げて出ていった。教室のあちこちで何事かと囁く声がする。


 休み時間になり、いっそう騒がしくなる教室の中で、高谷が俺の前の席に腰を下ろした。


「なんだったんだ、さっきの。あんなのはじめてだよな?」

「うん。試験の中止は聞いたことない」


 高谷が声を顰めた。


「もしかして、カンニングとか?」

「それならその一人が処分されるはずだろ。試験自体を中止することはないんじゃないか」

「だよなあ」


 腕組みをして首を傾げた高谷の隣に、航一が立つ。


「航一、さっきの試験どう思う?」

「詳しいことはわからんが、どうやら八組でトラブルがあったらしい」

「八組で?」

「さっき、岡崎と日高が話していたのが聞こえた。俺の座席はドアの側だからな」


 状況がよくわからない。首を捻っていたところに小野が駆け込んできた。


「おい、聞いたか? さっきの試験の話」

「なんかわかったのか?」


 高谷が身を乗り出す。


「八組の試験問題が消えたらしい。用意してた問題用紙が全部まっしろになってたって!」




 ◆◆◆




 放課後、昇降口で靴を履き替える。結局帰りのホームルームでも、今日の試験についての説明はなかった。一時間目の試験が中止になった後、予定より三十分程遅れて二時間目の試験が実施された。試験後は速やかに下校するようにと教師から指示があったから、おそらくこの後に臨時の職員会議が開かれるんだろう。


 試験中止は確かに珍しいが、別の日に改めて実施されるだろうし、特別にどうということでもない。

 スニーカーの靴紐を結びながら今日の昼飯をどうするかぼんやりと考えていると、高谷が息を切らして走ってきた。


「矢口、よかった! まだ帰ってなかった!」

「どうしたの、何か忘れ物?」


 それとも明日の化学の範囲を忘れたとか? と呑気に続けようとした俺の腕を高谷が掴んだ。


「高森がまずいことになってる」


 一瞬、目を合わせる。


「場所は?」

「保健室」


 短いやり取りの後、その場に鞄を放ってスニーカーのまま走り出す。

 保健室に駆けつけると廊下に人だかりができていた。誰かのヒステリックな声があたりに響いている。


「別に責めているわけじゃありません。あなたが印刷室の鍵を持っていた理由を聞いているのよ」


 この声は社会科教師の野崎だ。


「野崎先生、そんないい方をしたら怖がらせてしまいますよ」


 音楽教師の三津島が野崎をなだめているような声も聞こえてくる。

 保健室前の廊下にはあっという間に人が増え始めていた。人混みをかき分けて入口の前に立つ。


「怖がらせているわけではありません。私は質問しているだけです。どうなの、高森さん。説明しなさい」


 保健室の中では、仁王立ちになった野崎が高森に詰め寄っていた。三津島が高森を庇うように二人の間に立っている。その背中の向こうで高森の顔が真っ白になっているのが見えた。


 思わず飛び出そうとした俺の横を誰かが通り過ぎる。


「野崎先生、失礼します。鈴川です」


 生徒会長の鈴川が野崎の前に立つ。塚田と高坂も後に続いた。


「お話中にすみません。ここは他の生徒も利用しますので、詳しい話は生徒会室を使われてはいかがですか?」


 体育祭で話をした時とは別人のような、落ち着いた話ぶりだ。鈴川はにこやかな笑みを高森に向けた。


「高森さん、悪いけどちょっと来てくれるかな。高坂、職員室から鍵を借りてきてくれ」


 高坂の隣にいた塚田が異を唱えた。


「いや、生活指導室の方が近い。部屋も広いしな」


 野崎がわざとらしく長いため息をついた。


「そうね、このままじゃ埒が明かないわ。塚田さん、生活指導の横溝先生を呼んできてくれる?」


 塚田がわずかに顔を顰めた。


「はい、わかりました」


 すかさず返事をした高坂が保健室を出ていく。入れ違いに、八組担任の神谷が姿を見せた。


「野崎先生、これはどういうことですか」

「彼女に少し確認したいことがあるんです。ちょうどよかった、神谷先生も同席してください」


 神谷の眉がわずかに動いた。普段あまり表情を変えない神谷にしては珍しい。

 高森が咳き込んだ。額に汗が浮き、握り締めた左腕には右手の爪が食い込んでいる。


 まずい、発作だ。


「失礼します」


 近くにいた数人を押し除けて高森の手を取る。


「ちょっと、何」


 野崎が甲高い声を上げた。


「具合が悪いようなので外に連れて行きます」


 軽く一礼して部屋を出ようとした背中を、野崎のヒステリックな声が追いかけてくる。


「どうせいつもの仮病でしょう。嘘をつくのもいい加減にしなさい」


 この場に押し留めようと近付く野崎を、神谷が静かに制した。


「私のクラスの生徒です。話なら私が聞きます。矢口、高森を頼む」


 目だけで頷き、保健室を出る。そのまま北棟の外階段へ向かった。野崎もここまでは追ってこないはずだ。


 四階踊り場の階段に高森を座らせ、発作の波が落ち着くのを待つ。高森はポケットからハンカチを取り出すと、震える指で顔に押し当てた。


 さっき保健室で、野崎は印刷室の鍵といっていた。印刷室の鍵と高森になんの関係があるというのか。野崎は社会科教師で、今日中止になった世界史の教科担当だ。まさか、二年八組で消えた試験問題と関係があるのだろうか。――そのことで高森が疑われている?


 俺が考え込んでいると、青白い顔のまま高森がぺこりと頭を下げた。ハンカチを握りしめて力なく笑う。


「すみません。ご迷惑をおかけしました」

「いいよ。それより何があった?」


 高森が困ったように眉を下げる。


「わからないんです。試験が終わった後で帰り支度をしていたら、野崎先生がお見えになりました。野崎先生のお話では、私が世界史の試験問題のありかを知っているんじゃないかと。知りませんとお答えしたんですが、それならなぜ印刷室の鍵を持っていたのかと訊かれて」

「そのあたりは俺も聞いてた。印刷室の鍵ってなんの話だ?」

「先週の水曜に印刷室の鍵を職員室へ届けたんです。おそらく、そのことをいっているんだと思います」


 高森が印刷室の鍵を?


「なんだって印刷室の鍵なんか持ってたんだ」


 校内の各部屋を利用するために生徒も鍵を使うことはあるが、基本的にはその部屋の利用に関係する委員会や部活に所属する者以外は貸出できないはずだ。例えば放送委員以外の生徒が放送室の鍵を借りることは、特別なケースでもない限り滅多にない。


「落ちていたんです」

「落ちてた?」


 高森が頷いた。


「はい。保健室のドアの前に落ちていました。その日は試験後に提出する予定のノートをまとめていて、少し帰りが遅くなってしまったんです。ノートを書き終えて帰ろうとドアを開けたら、目の前に鍵が落ちていました。プレートに印刷室と書いてありましたので、そのまま職員室へ届けたんです」


 一週間前を思い出すように高森は少し言葉を切った。


「職員室の入口で先生方に声をかけたんですが、とてもお忙しそうで『貸出用のキーボックスへ戻しておいて』と仰るだけでどこへ置けばいいかわかりませんでした。私は貸出用のキーボックスを使ったことがありません。困っていると三津島先生がいらっしゃって、事情を説明すると『これから職員会議だから、僕があとで返しておくよ』といってくださったので、お渡ししました。水曜にあったことはこれだけです」


 高森が小さく呟いた。


「私、なにかよくないことをしたのでしょうか……」


 何も返すことができないまま、沈黙が落ちる。

 何が起きているのかよくわからない。

 雨音の中で俯く高森の横顔が、なぜか知らない女の子のように見えた。

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