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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第1章 いつかの少年
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17 見えない檻

「それは、つまり」


 真剣な口調で高森が呟いた。


「矢口さんも一緒に掃除用具入れに入りたい、ということでしょうか」

「んなわけあるかい」


 ……思わずつっこんでしまった。


「そうじゃなくて、怖さを克服するために外へ出てみないかってことだよ」

「外へ?」


 頷く。


「パニック障害は恐怖から逃げるほどに不安が増幅する。苦手な場所を避けていたらいつまでもその恐怖は克服できない。だから高森さんも、普段は苦手な教室に誰もいない時間を見計らって修行していたんだよね?」


 ついでに閉鎖空間に慣れるために掃除用具入れに入っていたわけだ。ひと気のない教室で動く高森の影を見た誰かが、例の怪談の噂を流したんだろう。いつの間にか去年の事故の話と結びついて北棟の幽霊ということになってしまったみたいだが。


「はい。インターネットの記事や本から、対応や治療方法を知りました。パニック障害は脳の信号が過剰になることで発生するので、薬物療法や行動療法が一般的な治療方法だと。投薬治療はできませんが、行動を変えることなら自分でもなんとかできます。脳の認知を変えるために少しずつ慣らしていけば、いつかきっと元通りの状態に戻るかもしれない。ただ」


 高森が言葉を濁した。


「記事や本でパニック障害のことを調べていると、症状について詳しく書いてあるんです。今の私よりも酷い状態のことが書いてあって、これよりもっと悪くなるのかと思うと怖くて先が読めなくなってしまいました。修行なんて偉そうなことをいってしまいましたが、本当は、全然立ち向かえていなくて」


 すみませんという声が細くなって消えていく。


 理解不能な現状をなんとか変えようと行動するのは決して簡単なことではないはずなのに、自分の努力も認められないくらいに追い詰められている。

 動けないのは身体だけじゃない。心が、囚われてしまっている。まるで見えない檻に閉じ込められているみたいに。


 気を取り直すために少し話題を変える。


「いつから発作が起きるようになったんだ?」

「一年ほど前からです」


 思い出す素振りもなく高森はすぐに答えた。


「高校に入学してしばらくたった頃です。少し風邪気味で、朝の電車で具合が悪くなってしまって。我慢していたんですけど、結局耐えられなくて、調布駅で降りてそのままホームで倒れてしまいました。助けを呼ぶこともできなくて、それがすごく怖くて。その日はなんとか学校へ行きましたが、帰りの電車でも倒れたらどうしようと思うと不安で仕方なくて。結局その日は学校から連絡して祖母が車で迎えに来てくれました。でも翌日から電車に乗るのが怖くなってしまって。通学時間は苦痛でしたが、その頃はまだ電車に乗ること以外はなんとか普通に生活できていました。ですが、少しずつそれも苦手になって。いつの間にか教室で授業を受けることすらできなくなってしまいました」


 遠く黒雲の中に稲光が走った。こちらの空ではまだ太陽が光っているのに。

 雨雲が少しずつ近付いてきている。多分、午後からは雨になるだろう。


「高森さん、知っている場所に出かけるのは平気なんだよね」

「はい。地元ならわりと動けます」

「それじゃ、今週の土曜に一緒に出かけてみない? できれば、少し苦手な場所まで」


 ほんのわずか静寂が落ちる。


「はい」


 返事をした高森の声には力がこもっていた。


「矢口さんがよければ、ぜひお願いします」


 携帯電話の番号を交換する。高森が口にした十一桁の番号を頭に入れて立ち上がった。


「高森さん、最寄駅は?」

「高幡不動です」

「それじゃ、土曜に駅前で」


 通話を切ろうとしたところで、高森の慌てた声がした。


「あの、矢口さん。今お借りしている携帯電話はどちらにお返ししたらいいですか?」


 忘れていた。


「今、裏庭にいるんだ。窓から外に出してくれる?」

「わかりました」


 保健室の窓にかけられているカーテンはぴたりと閉じられていた。その一部が揺れて窓が細く開けられる。隙間から黒い携帯電話が差し出された。近付いて受け取る。


「あの、矢口さん。質問してもいいですか?」


 踵を返そうとしたところで、カーテンの向こうから高森の声がした。


「どうして助けてくれるんですか?」


 うすい水色のカーテンがふわりと揺れた。


「こんなことをいうのは失礼だと思いますが、私と矢口さんは先日知り合ったばかりの他人です。友達でもない、他人の私を助けてくれるのはなぜですか?」


 確かに突然押し掛けて「力になりたい」なんて、まるで悪質な宗教訪問みたいだ。善意の押し付けも甚だしい。高森が不審に思っても仕方ない。


「俺もこんなことをいうのは失礼かもしれないんだけど。多分、他人だからだと思う」


 断りを入れて、正直に話すことにする。今さら取り繕っても仕方ない。


「あんまり詳しく話せないんだけど、俺にもちょっと事情があってさ。今はリハビリ中なんだ。高森さんの手伝いをすることで、俺も少し回復するかもしれない」


 誰かのために動くことができる自分を、もう一度信じられるかもしれない。


「だから、俺は俺のために行動するから、高森さんは高森さんのために動けばいいよ」


 自分勝手な理屈で申し訳ないけれど。


「わかりました。お世話になります」


 カーテンに透ける影が一礼した。電話の時よりも少し明るくなった高森の声が、窓の隙間から届く。


「また明日、お電話しますね」

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