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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第1章 いつかの少年
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16 いえなかった言葉

「パニック障害、ですか」


 小さく呟くと高森は無言になった。電話の向こうでしばらく沈黙が続く。壁に頭を預けて返事を待った。


「はい、知っています」


 やっぱりそうか。


 高森が細く息をはいた。


「発作が起きるようになってから、自分の症状について調べました。はじめはただの体調不良だと思いましたが、自分の身体が上手く動かせなくて、気持ちがコントロールできない状態はどう考えても異常です。本やインターネットで、この症状がパニック障害という精神疾患によく似ているということを知りました。ですが」


 言葉が途切れる。


「病院での治療は、難しくて」

「病院に行けない理由が?」


「はい」という返事のあと、少しの間があった。


「はじめは身体の病気を疑いました。突発的に具合が悪くなる原因が何かあると思って。特に嘔吐感が強いので胃腸の検査もしましたが全く異常はありませんでした。父も祖父母も心配してくれましたが、そのうち呆れて話を聞いてくれなくなってしまいました。検査の結果では健康そのものだった私の話が、どうしても信じられないみたいです」


 空気が揺れたような声が落ちた。

 何かを諦めたような小さな笑い声。


「父や祖父母の気持ちもわかります。家の中では平気で、学校でもまわりに誰もいなければ大丈夫で。近所の道を歩いているだけの時なんかは本当になんともないんです。ただ、どこにも逃げられないと思うと、身体が動かなくて吐いてしまいそうで、それでまた怖くなって。

 インターネットで、パニック障害という言葉を見つけた時、自分の病気はこれなんじゃないかと思いました。もし病気なら、きっと治せるはずだと。出口がなくて苦しかった日々に、はじめて希望が見えた気がしました。やっと抜け出せると思うと嬉しくて、すぐ家族に相談しました。外が怖くて仕方がなくてつらいのは、病気のせいだから。この病気が治れば元通りに大丈夫になるはずだと訴えました。ですが、その時にはもう私の話を聞いてくれる人はほとんどいませんでした」


 携帯電話を持つ指先に力が入る。明るい声で話す電話の向こうで、高森が泣いているんじゃないかと思った。


「一度だけ母が心療内科へ連れて行ってくれました。カウンセリングを受けて、精神安定剤を処方してもらって。けれどそれを知った祖母に、仮病の次は精神病患者の真似事かと叱られてしまって」


 だから病院へは行けませんと笑う。


 笑うしかないのだろう。泣いても怒っても現実は変わらない。あがいても仕方ないのなら笑うしかない。それがどんなに悲しくて傷付くことだったとしても。


「すみません、暗い話を」

「ああ、いや、別に、こちらこそ」


 思わず間抜けな返事をしてしまう。


「こんな話をしておいてなんですが、父と祖父母はひどい人たちではないんです。とても常識的な、普通の優しさを持つ人たちです。ただ、私の身に起きた出来事や私の話が、普通とは少しズレているせいで不信感を持ってしまっているだけで。父たちの常識からはずれてしまった私がいけないんです」


 ぽつりと零す声は頼りなく、寂しさが漂っていた。


 確かに、高森の例はあまり身近な話ではないかもしれない。人は自分が理解できる世界のものしか見ることはできなくて、その世界は自分が思うほど大きくはない。

 けれど。


「高森さんの事情が普通とズレているのが事実だとして、それは高森さんのせいじゃない」


 小さくて狭い俺たちの世界は、経験と知識で広げていくこともできる。

 ほんのわずかな広がりかもしれないが、その隙間でようやく息を吸うことができる人もいるかもしれない。


 俺だって偉そうなことをいえる身じゃないが、そう信じていなければ本当にちっぽけな世界の中で、知らないうちに押しつぶされてしまう。

 今、この壁の向こうで、身を縮めて苦しさに耐えている高森のように。


「高森さん、提案があるんだ」


 左手で心臓を押さえつける。百メートル走を走り切った時よりも鼓動がうるさく全身に響いた。


「もし許してくれるなら、高森さんの修行に俺も参加しても構わないかな」


 高森が息を呑んだ。突然のことに理解が追いつかないといった様子で聞き返す。


「修行に、ですか?」

「うん、一緒に。急に変なことをいって驚かせて申し訳ないんだけど」


 情けなく声が震えそうになるのを必死で抑える。昨日はいわなかったことを、いえなかった言葉を今度こそ口にするために。


「きみの力になりたいんだ」

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