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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第1章 いつかの少年
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14 その手は取らないけれど

 号砲の合図で走り出す。

 自分の足音を後ろへ置き去りにしたまま身体は前へ進み、一歩ごとに景色が流れていく。


 あと数歩で、音が変わる。


 トップスピードに乗った瞬間、耳元を過ぎる風が音を変える。

 風切り音とは違う、エンジン音もチェーンやペダルが軋む音も混ざらない純粋な風の音。

 心音が身体中に響いてうるさいはずなのに耳の奥はやけに静かで、ほんの一瞬、時が止まったような錯覚をおこす。


 ゴールラインを駆け抜けて息を整える。空を見上げると額の汗が首筋から背中を滑り落ちていった。

 白く輝く太陽の向こうに黒い雲が重たく広がっている。


 どこか遠くに雷鳴を聞いた気がした。




 ◆◆◆




「矢口ってさ、何かスポーツやってたのか?」


 授業後の更衣室で高谷が話しかけてきた。並んでシャツのボタンをとめながら頷く。


「中学まではサッカー部だったよ」

「なるほど、速いわけだ」


 感心した様子でタオルに手を伸ばすと、額の汗を拭いながら振り返る。


「粟國は? 何部だった?」

「バスケ」


 シャツの袖をまくりながら粟國が答える。


「中二で辞めたけどな」


 粟國は背が高い。バスケをしている姿はよく似合うだろう。

 騒がしい足音が近付いて肩を叩かれる。


「すごいな矢口、めちゃくちゃ足速いじゃん」


 振り返るとクラスメイトの小野が満面の笑みを浮かべていた。


「なんか部活入ればいいのにさ、もったいないって」


 明るい笑いに苦笑を返す。素直な賞賛がくすぐったい。


「褒めてくれるのは嬉しいけど、部活はいいかな。放課後も土日もつぶれちゃうしさ」

「そっかー、確かに部活やってると時間ないもんなー。俺もいつも課題の提出ぎりぎりになるし」


 頭をかく小野に高谷が呆れた顔をした。


「課題が遅いのを部活のせいにするなよ。提出間際になってやり始めるからだろ」

「その通りなんだけどね、タカちゃんにだけはいわれたくないよ。毎回同じ提出ぎりぎり組じゃん」

「俺のは完璧主義が故のぎりぎりなんだよ。こだわりがあんの」

「俺だって数日前にならないとエンジンかかんないだけだし? エンジンかかったらマジ早いし?」


 いつまでも続きそうな応酬に粟國と二人肩をすくめる。相手にしていたら次の授業に遅れそうだ。

 荷物を手に更衣室を出る。高谷が慌てて追いかけてきた。


「置いてくなって薄情者」

「漫才コンビの邪魔しちゃ悪いと思ってさ」


 からかうと高谷が口を尖らせた。


「誰がコンビだよ。どう見たって小野のピン芸だろ」


 更衣室の中からは騒がしい声が響いてくる。「なんで全部脱いでんだよ、小野」「いやパンツは履いてるって!」というやり取りと賑やかな笑い声に、三人とも同時に吹き出した。


 高谷は不満そうだが、高谷と小野はいいコンビだ。去年からのクラスメイトということもあるだろうが、気の合った会話の応酬は隣で聞いていて小気味いい。

 荷物を振り回しながら高谷があくびをした。


「次、ツダセンだっけ?」

「そう、課題返却ですよ、完璧主義の高谷くん」


 うげと唸り声がする。


「おい、ジャージを振り回すな、人にあたるぞ」


 粟國が注意したと同時に、後ろから走ってきた女生徒に高谷の荷物がぶつかった。その拍子に女生徒が持っていた手提げ鞄が廊下に投げ出される。


「ごめん」


 高谷が慌てて謝る。

 振り返った女生徒は高森だった。口を押さえて真っ青な顔をしていたが、俺に気付くと頭を下げた。そのまま俯いた顔を上げることなく走り去る。


「ちょっと、鞄は?」


 放り出されたままの手提げ鞄を見つけた高谷が声をかけるが、高森は立ち止まることなく東棟へ消えていった。


「どうしたんだ、ありゃ」


 粟國が怪訝な表情を浮かべる。


「なに、アレ」


 廊下の後ろで声が響いた。

 粟國と高谷も同時に振り返る。女生徒が四人、呆れた顔で高森が消えた先を見ていた。


「知らない。なんか急に更衣室飛び出してった」

「気分悪くなっちゃったんじゃないかな、さっき体育だったし」

「その体育で走り回ってたんじゃん、意味不明なんだけど」


 四人の中で一番背の高い女子が大袈裟なため息をついた。


「病弱な設定なんでしょ、〈保健室の高森さん〉は」


 女生徒たちが通り過ぎるのを待って、高森の鞄を拾い上げる。体育は七組と八組合同で男女別になっている。確か今日は、女子の方は体育館で体力測定だったはずだ。苦手だといっていた体育館での授業に参加したのだろうか。


 頭を下げる直前の高森の顔を思い出す。発作を堪えるように両目を強く閉じていたが、目の端には涙が浮かんでいた。


 きっと闘っているのだろう、今も。


 ポケットに手を入れて携帯電話があることを確認すると、粟國と高谷を振り返って頭を下げる。


「ごめん、二人に頼みがあるんだけど」


 高谷が目を丸くした。


「なんだよ急に改まって。どうした?」

「携帯を持ってたら、少しの間貸してくれないかな」


 粟國と高谷が顔を見合わせた。粟國が両手を上げる。


「悪い、ロッカーに置いてきた」

「俺はあると思うよ、ちょっと待って」


 高谷が荷物の中に手を入れる。しばらく探っていたが、やがて赤色の携帯電話を取り出した。そのまま「はい」と差し出す。


「ありがとう高谷くん。しばらく借りるよ」


 携帯電話を受け取って走り出す。


「矢口、授業は?」

「急性の仮病で保健室ですっていっておいて」


 背後で高谷の呆れた声がした。


「そんな冗談がツダセンに通じるかよ」

「高谷と殴り合いの喧嘩をして手当て中ってことにしとくか」

「俺が睨まれるだろうが」


 遠ざかる呑気な会話に口元が緩む。

 そのまま足を止めずに廊下を駆け抜けた。

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