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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第1章 いつかの少年
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12 この手は伸ばせない

 パソコンを立ち上げてインターネットの検索エンジンを開く。

 検索するワードは〈電車 こわい 病気〉。

 いくつかヒットしたサイトを上から順に開いていくと、すぐに「パニック障害」という言葉に行き着いた。


 パニック障害。Panicパニック disorderディスオーダー、通称PD。


 突然理由なく、動悸やめまい、嘔吐感などの症状が現れ、その症状を繰り返すことで不安や恐怖の感情から行動が制限されてしまう病。

 精神的なものが原因であり健康面に問題のない場合でも発症する。病院で検査をしても健康に問題なしと診断されてしまうため、かえって発作に対する無力感を強めてしまうこともあるという。


 インターネットにはパニック障害が引き起こす様々な症状について示されていた。

 また発作を起こしてしまうのではないかという恐怖を常に抱えている〈予期不安〉。発作が起きた時にすぐに逃げられない場所や場面、助けを求めることができない状況を避けてしまう〈広場恐怖〉。〈発作〉〈予期不安〉〈広場恐怖〉を繰り返す中で、全ての行動に対して常に過度な不安が付き纏う悪循環。これでは日常生活に支障をきたすだろう。


 ひと通り目を通してため息をつく。

 思ったよりも症状は深刻だ。高森は買い物へ行くのにレジに並ぶのが怖いといっていた。教室に入れないことも電車に乗れないことも、発作を恐れるあまり予期不安や広場恐怖を感じて身動きが取れなくなってしまっているのだろう。


 パソコンを閉じる。

 全てを理解できたわけではないが、高森が大変な思いをしているというのはわかった。

 イスの背もたれに身を預ける。キャスター付の脚が軋む音がした。


 大変だよな。そうだよ、生きているとしんどいことはたくさんあるさ。それじゃ、お互い頑張っていこう。お疲れ様。


 心の中で高森に呼びかける。教卓の下でうずくまる顔は伏せられていて俺からは見えない。


 そうだ、それでいい。

 他人には極力関わらない方がいいのだ。どうせ碌なことにはならないのだから。


 ヘッドフォンを取り上げて耳に押し当てる。

 傷付くのも立ち上がるのも、お互いの場所で、それぞれの力で、なんとかしていくものだ。それが人生のタスクってやつだろう。


 音楽プレイヤーのスイッチに指をかけたところでノックの音がした。返事をする前にドアが開き兄が顔を出す。片手を上げていつものようにへらへらと笑った。


「なに」

「ちょっと一年の教科書見せてくんない?」


 無言で本棚を指差してやると、サンキューと言って部屋に入ってきた。数Aの教科書をめくりながら奇妙な鼻歌を歌っている。


「バイト?」

「そ、次は高一と高二。いいよね、花の高校生」


 羨ましいわーと笑う顔に意味もなく苛つく。

 週二で塾講師のバイトをしているらしいが、こんな調子で生徒から信頼されているのか甚だ疑問だ。


「羨ましいっつっても、兄貴と俺とじゃ三年しか違わねぇだろ」

「その三年が大きいのよ、直哉くん。足の生えたおたまじゃくしと尻尾が縮んだおたまじゃくしくらいには違うわけ」


 あんま変わんなくない?


「お、ここやな」と教科書に目を落とす兄の背中にため息をつく。

 たった三年の違いが随分と大きな差に思えるのは、単に俺の成長が三年分追い付いていないせいなのだろうか。それとも。


「高校なんて不自由なだけだろ。講義をサボってふらついてる大学生の方がよほど気楽だと思うけどね」


 気付いた時には既に遅く、つい口から出た言葉には思いがけず棘があった。

 出かかった舌打ちを呑み込む。

 振り返った兄の顔は予想通りニヤついていた。


「なになに、いい感じにもやついてんじゃない」


 丸めた教科書で肩を叩きながら兄は嬉しそうに笑った。


「高校はいいぞ。不自由さの中で自由にもがくことができる。痛くて曖昧で理不尽な、愛すべき時間だよ。やわらかな箱庭だ」


 兄の目には懐かしさが浮かんでいた。口元の笑みがほんの一瞬だけ歪んだように見えたが、すぐにいつも通りのへらりとした笑い方に戻る。

 さわさわと撫でられたように背中が落ち着かなくて、無理やりに顔をしかめてみせた。


「結局、不自由なんじゃねぇか」


 兄は返事をせず、丸めた教科書のはしで俺の頭を叩いた。ぽこんと軽い音がする。


「ほんじゃ、これちょっと借りてくわ」


 部屋を出る直前に「あ、そういえば」と兄が立ち止まった。


「こないだ好きだっていってたロックバンド、八月にアルバム出すらしいぞ」

「知ってるよ」


 知らなかったけど。

 つまらない見栄が口をつく。


「それと、別に好きとはいってない」

「へいへい、そいつは失礼しやしたよ」


 バイバイキーンと手を振りながら今度こそ部屋を出ていく。

 廊下から「チンパンジー、こころはパンダ」という謎の歌が聞こえ、やがて静かになった。


 クソ兄貴め。へらへら引っかき回していきやがって。

 心の中で毒づき、ベッドに横たわって枕に顔を埋める。


 曖昧で不自由な箱庭。

 兄が愛すべきだといった時間の中で、高森は今も苦しみ続けている。


 ――だからなんだよ。


 ヘッドフォンをつけて音楽プレイヤーのスイッチを入れる。耳も頭も音楽で満たしてやれば、この繭の中までノイズは届かない。


 だからなんだよ。うるさいんだよ。邪魔をするなよ面倒くさい。


 ボリュームを思い切りあげてやる。

 俺は自己満足なヒーローごっこのために、誰かを利用するのは辞めたんだ。

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