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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第1章 いつかの少年
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11 声

 教卓の下、こちらに向けた背中が震えているのがわかった。懸命に呼吸を整える息遣いが聞こえてくる。

 やがて大きく吸い込んだ息をはき出しながら「とんでもないです」と高森がいった。


「何かしたなんてそんなことはありません。謝るなら、むしろ私です。私の方が大変失礼しました」


 途切れ途切れのか細い声が聞こえる。


「昨日も、あの、朝の電車で。助けて頂いてありがとうございました。すごく嬉しくて。それなのに私、本当にひどい態度で。ごめんなさい」


 朝の電車では認識されていないと思っていたので、覚えていたのかという事実に驚く。


「いや、それは別にいいんだけど。気にしてないし」


 大嘘だ。思い切り気にしていたし、今朝の占いはあえて見ないようにして家を出た。今日の牡牛座が最下位だったら最悪な気分のまま満員電車に乗る羽目になる。

 俺の事情はさておき、高森には聞きたいことがあった。


「あのさ、何か隠れてたみたいだけど、大丈夫? もし事情があるなら力に……」


 いや、さすがにそれは欺瞞だろう。たいした覚悟もなく口にする言葉じゃない。言い直す。


「事情があるなら、知っておきたいかなって」


 ずいぶんと軽薄で物見高い言葉になってしまったが、こちらの方が真実に近い。

 高森が小さく息をはいた。もしかしたら、ため息だったのかもしれない。


「あれは隠れていたわけではなくて。今も、いいえ、今はちょっと隠れてしまったんですけど。これは、その、近付かれるのが困るので距離を置きたくて」


 はっきりと近付きたくないといわれてしまった。わかっていてもちょっと傷付く。


「ごめん」


 思わず一歩下がると高森が焦った声を出した。早口で付け加える。


「違います。あなたがどうとかではなくて、私が恥ずかしさに耐えられなくて」


 教卓の下に隠れている姿の方が恥ずかしいのではというつっこみは抑える。羞恥の基準は人それぞれだ。余計なことを口にして会話を止めてはいけない。


「それで、なぜ掃除用具入れにいたかというと、つまり、あれはしゅぎょうをしていたので」

「しゅぎょう?」


 予想外の言葉に頭がついてこない。

 就業、終業、授業、事業、始業、紙業、四行、詩行、子魚。


「はい、己を鍛えるために修行していました」


 あ、修行か。


「そうなんだ」

「はい」


 なるほど、修行ね。それは大変だ。夜な夜な一人教室の掃除用具入れにこもって修行を。

 ……で、なんの修行をしていたのかは訊いてもいいのだろうか。


「掃除用具入れに入ることが何か修行になるの?」


 高森が黙った。教室がしんと静まりかえる。沈黙が、いたい。

 しまった。踏み込みすぎた。


「ごめん、言いたくないなら言わなくていい」

「いえ、大丈夫です。すみません」


 教卓の下、高森の指がスカートの裾を強く握りしめた。


「私、怖いんです」


 高森の声がさらに小さくなる。かすかな音を拾うため、息を殺して耳をすませた。

 雨音の隙間から高森の声を探す。


「何が怖いのか、はっきりといえません。閉鎖された空間とか、人が大勢集まるところとか、行動が制限される時とか、色々あって自分でもよくわからないんです。発作的に急に不安になってしまうんです。咳き込んだり吐いてしまいそうになったりして、それで余計に怖くなって、その場にいられなくなってしまいます。電車とかバスとか、そういったところは本当にダメで、乗りたくないし、乗るとすぐにでも逃げ出したくなるんです」


 高森がかすかに息をはいた。抑えるように小さく呼吸を繰り返す。

 少し間が空いたタイミングで声をかける。


「つまり、乗り物が苦手で閉所恐怖症ってことかな」


 教卓が小さく揺れた。多分、首を振ったのだろう。


「私もはじめはそう思いました。酔いやすい体質になってしまったんだろうって。でもそれだけじゃないんです。教室にいるのも、体育館やグラウンドもダメなんです。走ったり動いたりしている間はまだいいんですが、着席や整列の時はとてもその場にいられなくて。プールも想像しただけで震えてしまって、入学以来一度も入れていません。最近は買い物でレジに並んでいるのも怖くなってきて。自分の身体なのに全然思うようにならない。どうにかしたいのに、どうすればいいかわからないんです」


 震える声がほんの少し大きくなった。


「家族も先生方も心配してくれました。ですが、私があまりに我儘ばかりをいうので、今ではほとんど相手にしてもらえません。今も私の話を聞いてくれるのは、母と担任の神谷先生くらいです」

「それは、なんで」


 体調不良を訴える生徒を無視することがあるだろうか。

 高森の声に微かに自嘲が混ざった。


「いつも調子が悪いわけじゃないんです。体調がいい時とか、発作が起きない時は平気なんです。家では元気にしていて、ご飯を食べて笑いながらテレビを観ているのに、電車に乗れないとか教室に入れないとかっておかしいじゃないですか。我儘で自分勝手で、仮病を使ってズル休みをしようとしていると思われても仕方ないです」


 声が笑みを含んだと同時にスカートの裾を握る手に力が込められた。


「嘘つきだといわれて当然です。私が一番、私のことを信じられないんです」


 窓ガラスが雨音に揺れた。

 空は暗闇に覆われている。そろそろ最終下校時刻も過ぎる頃だろう。

 小さく咳払いをして、高森は明るい声を出した。


「すみません、急にこんな話をしてしまって」

「いや、俺の方から質問したわけだし」


 慌てて両手を振るが、高森からは見えないことに気付いて手を下ろす。


「余計なことを聞いてごめん」

「いいえ、聞いてくれてありがとうございます。少し楽になりました。多分、誰かに知って欲しかったんだと思います」


 教卓の下で、高森がこちらに向き直ったのが見えた。


「この度は大変失礼いたしました」


 居住まいを正し、膝の前で両手を揃える。


「声をかけて頂いて嬉しかったです。ありがとうございました」


 白い指先が震えているのが暗闇の中でもわかった。

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