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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第5章 吾唯足ルヲ知ラズ
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47 夏にとける

 昼休みの空は青く澄んでいた。

 北棟四階。いつもの外階段には、これまたいつも通りの顔が並ぶ。文庫本を開いた矢口の向こうでは、航一が大きなあくびをしていた。変わらない光景の中に、今日は小野の姿もある。いつもは騒がしい小野のお喋りが聞こえてこないのは、両頬に詰め込まれたコロッケパンのせいだ。


 光を帯びた雲が流れる様を見上げながら、弁当の最後の一口を口に運ぶ。今日の回鍋肉は完璧だった。からになった弁当箱をそのままに、紙パックを持って立ち上がる。手すりにもたれて中庭を見下ろしながら、バナナオレを一気に飲み干すと、とろりとした甘さが口の中に広がった。


 さっと風が吹いて、木々がざわめく。中庭のすみの花壇でコスモスがゆれた。鮮やかな赤色の花に、例の写真を思い出す。


 赤いブーゲンビリアが咲き誇る庭。石畳を踏む白い素足と、絡みつくようなアイビーの緑。美しい黒髪の少女が手にしていた、一輪の白い薔薇。


 去年の文化祭で展示された〈真珠の髪飾りの少女〉。

 やっと見つけたあの写真を見て、百瀬は何を思っただろうか。



『彼女の美しさは消えない、僕の中だけで生きてる』



 桜井先輩はそういって卒業した。あの作品を学校に置いたまま。二年後に取りに来るといい残して。

 ――二年後。つまり、城崎涼子が卒業するはずだった年に。


 もう一度、風が強く吹いた。くしゃくしゃと髪をかき回す風には、夏の名残が混じる。


 桜井先輩が何を思っていたのか、俺は知らない。話をしたこともない相手なのだから当然だ。ただ、あの写真を見た時から、気になっていることがあった。


 印象的な赤と緑。

 美しい純白の少女を覆い隠すような草花と、冷たい石畳。


 はじめて見た時、まるで檻のようだと思った。華やかにやわらかく纏わりつく、冷えた檻に囚われた少女。

 そんな感想が浮かんだけれど、すぐに気のせいだと思い直した。コントラストが美しい写真の陰が、どこか憂鬱に見えているのだろうと。けれど調べた図鑑には、こんな言葉があった。




 赤いブーゲンビリア〈あなたしか見えない〉


 アイビー〈死んでも離れない〉


 白薔薇〈私はあなたにふさわしい〉




 先輩が花言葉を知っていたかはわからない。知っていたとしても、そこに意味を込めたとは限らない。ただ一ついえるのは、桜井先輩にとって、城崎涼子は間違いなく「特別」であったのだろうということだけだ。そしてその「特別」を、きっと百瀬も求めていたんだろう。


 小さなピンク色の石に縋るような瞳を思い出す。ファインダーの向こう、桜井先輩が見つめる世界の一部になることを、百瀬は望んでいたのかもしれない。

 この先の二人がどうなるかはわからない。けれど、百瀬の思いが少しでも先輩に届けばいい。


 誰かを心から愛することができて、その誰かから思いを返してもらえるなら、その人生はとても満ち足りた素晴らしいものなんだと思う。俺もいつか、そんな誰かに出会うことはできるだろうか。心の一部を預けて、寄り添い合えるような、誰かに。


「ほい、タカちゃん。あげる」


 ふいに背後から声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか近くに来ていた小野が、持っていた小さな包みを俺の頭にのせてくる。


「なーにたそがれてんのさ、腹でも痛いの?」

「違うわい」


 呆れた顔で睨みつけてやる。頭にのせられた包みを受け取ると、小さなホワイトチョコレートだった。「サンキュ」と合図を送ると「どういたしやして」と返ってくる。

 隣に来た小野と、並んで手すりにもたれる。


「去りゆく夏を惜しんでたんだよ、俺ってば風流人だからな」

「あらら、それは失礼」


 お徳用パックの袋からミルクチョコレートを取り出した小野が、にかりと笑った。袋のおもてに描かれた〈スマイルチョコ〉のイラストにそっくりだ。屈託のない笑顔に、こちらも自然と笑みがこぼれる。


「なあ、小野。もらっといてなんだけど、そっちのビターチョコと交代してくんない?」


 袋を指差すと、小野はぱちりと瞬きをした。


「別にいいけど。珍しいね、タカちゃん、甘い方が好きじゃん」


 チョコレートを口にほうった小野が、俺の申し出に不思議そうな顔で首をひねった。


「甘党大王の名は返上?」

「名乗ったことねえよ、そんなもん」


 一応つっこんでおいて、ふんと胸をはる。


「反ホワイトチョコレート同盟に加入してんだよ。大人な俺はビター派なの。ホワイトチョコは時々しか食えない」

「なんじゃ、そりゃ」


 今度は小野が呆れた顔をした。「時々は食うんかい」というつっこみは、とりあえず無視しておく。

 背後でくすくすと空気が揺れる音がした。振り向くと、矢口が本を伏せて笑っている。胡座をかいて目を閉じている航一の口元も、わずかにほころんでいた。アホな会話はしっかり聞かれていたらしい。


「はい」


 と小野が手渡したビターチョコレートを受け取る。パッケージのイラストが俺を見上げてぱちりとウインクしていた。その素敵な笑顔の横には、カカオ七十パーセントの表示がある。いくらなんでもビター過ぎやしないかと思ったが、自らねだっておいて、これ以上わがままをいうわけにはいかない。


 もらった包みを開いて、チョコレートを口にほうり込む。ビターな苦さが口の中に広がった。バナナオレで流そうとしたけれど、紙パックは既にからっぽだった。


「タカちゃん、眉間に皺」

「よってない」


 にやにやしている小野を半目で睨む。


「我慢しないで甘いのを選べばいいのに」

「うるせえな。人生には苦さも必要なんだよ」

「人生じゃなくて、チョコの話だってば」


 けたけたと声を立てて笑う小野に、舌を出してやる。口の中の苦さは、いつの間にかとけて消えていた。こんな味もたまには悪くない。さっきは「時々食う」なんてふざけたけれど、ホワイトチョコレートはしばらく食べられそうになかった。あの白い甘さは、今の俺にとってはカカオ七十パーセントのビターチョコよりよほど苦い。


「そういえばさ、宿題で困ってんだよ、夏の歌」


 思い出したというように、小野がぽんと手を打った。


「なんだ、まだできてないのか、そろそろ提出だぞ」

「はじめはできたんだけど、下の句が思いつかなくてさ。いまいちオチが決まらないんだよなあ」

「短歌のオチってなんだよ、落語じゃねえんだから」


 チョコレートの包みをポケットにつっこんで、隣の友人に向き直る。


「どれ、一応聞かせてみい」


 こほん、と小野が咳払いをした。


「空の青 照りつく日差し やけた肌」


 得意気に歌う声がぴたりと止まる。


「……うにゃららららら あらららこらら」

「おーい」

「だってさあ」


 思いつかないんだもんと口を尖らせている友人にため息をつく。頬を膨らませているが、全くかわいくない。


「じゃあ、タカちゃんならどう続ける? 風流人でしょ?」


 うへへと笑う顔に肩をすくめて見せる。仕方ない、チョコレートの礼に、お手本を見せてやろう。……なんも思いつかないけど。


 考えるふりをしながら見上げた空は、青い光に満ちていた。雲が流れ、太陽の光が階段の端を照らす。小さな埃の粒が、光の中をきらきらと舞っていた。


 おだやかな空気。いつもの日常。

 足るを知らない俺には、少し物足りない、退屈な日々。


 特別が欲しいという思いが消えたわけじゃない。矢口や航一、小野に対する憧れは、今も胸の内にある。それから、少しの嫉妬も。


 それでも。


 隣の芝生は青いというけれど、俺の庭の青色だって、そんなに悪くはないはずだ。傷付きやすくて、弱くて、時に痛々しい。けれど、確かな、青。


「……空の青 照りつく日差し やけた肌」


 呟いた声は、風に流れて消えていった。痛みも苦みも、いつかは消えてなくなるのだろう。夏の暑さにとける、チョコレートみたいに。


 振り向くと、踊り場に座る二人と目が合った。期待に満ちた目に、にやりと笑みを返す。こいつらと一緒に笑えるなら、平凡でお調子者の高谷貴文も、存外悪くないかもしれない。

 小さく息を吸って、ウインクをひとつ。


「恋人いても いなくても夏」

読んで頂いてありがとうございました。

このお話は、ひとまずここで完結といたします。

いつか続きを書くことがありましたら、その時はまたどうぞよろしくお願いいたします。

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