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テンダーブルーの箱庭  作者: 伏目しい
第5章 吾唯足ルヲ知ラズ
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46 続・一般的男子高校生の日常

 月曜放課後。図書室には真木が先に来ていた。

「よ」と片手を上げながらカウンターへ近付くと、いつも通りに「ん」と短い頷きが返ってくる。


 鞄を足元に転がして、パソコンを操作する。開室の準備を整えてひと息つくと、隣で真木がぼそりと呟いた。


「このあいだは、ごめんなさい」


 先週の休みのことをいっているのだろう。気にするなという意味で、右手をひらひらと振ってやる。


「たまの休みくらい平気だって。ツダセンが手伝ってくれたし」


 はたと気づいて、先週の無礼を詫びる。


「俺の方こそ、急に連絡してごめんな」


 今思えば、翌日まで待ってから真木の教室を訪ねてもよかったのだ。血相変えて放送室へ飛び込んだのは、我ながら少し恥ずかしい。


「そのことも含めて、ごめんなさい」


 真剣な声に振り返ると、真木が深々と頭を下げていた。


「美桜が迷惑をかけたわ。ううん、美桜だけじゃなくて、私も。本当にごめんなさい」


 いつになく項垂れている相棒に、少々調子が狂う。責任感の強い真木のことだから、俺を巻き込んだことを申し訳なく感じているだろうとは思ったが、予想以上に落ち込んでいるらしい。

 これは下手な慰めをいってもかえって追い詰めてしまいそうだ。頭をかいて、ポケットを探る。


「はい、これ、忘れ物」


 生徒手帳の間にはさんでいたしおりを差し出す。


「書かれているメモは俺宛だろ? NDCなんて、図書委員じゃなきゃあんまり馴染みがないもんな」


 いいながら、しおりのメモに目を落とす。明るい紅の和紙に鉛筆で書かれた薄い文字。




 783.7 → IM

 148.8 / 594 → SM

 740 → MS・TK・RS

 700 → TH・MI

 070 → AS・SM

 010 → TT・SM

 763.2 → X




 NDC、Nippon Decimal Classification。

 日本十進分類法は、日本の図書館で広く使用されている図書分類法だ。大学図書館や専門図書館では独自の分類を用いているところもあるけれど、学校図書館では基本的にNDCが使われている。図書館の本の背ラベルに書かれている数字、というと、イメージしやすいだろうか。これがあれば、どんな内容の本なのかがすぐにわかるし、各分野ごとにまとめて効率的に書架整理ができる。先人の知恵が集まった優れものだ。


 顔を上げた真木が、しおりを見て気まずそうに目をそらした。予想通りの反応に、思わず苦笑がもれる。


「ちょっと気づくのが遅くなったけど、ちゃんと届いたぜ」


 真木のメモに書かれた数字を、NDCの分類で表すとこうなる。




 783.7(野球)

 148.8(占星術)

 594(手芸)

 740(写真)

 700(芸術、美術)

 070(ジャーナリズム、新聞)

 010(図書館)

 763.2(ピアノ)




 ここまでわかれば、アルファベットはイニシャルだろうことは容易に推測できる。俺と真木の共通の知り合いで、各項目から連想できる人物の名をあてはめていけばいい。




 783.7(野球) →  IM(松嶋樹)

 148.8(占星術) / 594(手芸) → SM(水谷さら)

 740(写真) → MS(篠原美奈子)・TK(木島友弘)・RS(柴本亮太)

 700(芸術、美術) → TH(檜山藤吾)・MI(石上正孝)

 070(ジャーナリズム、新聞) → AS(笹山茜)・SM(真木栞)

 010(図書館) → TT(高谷貴文)・SM(真木栞)

 763.2(ピアノ) → X




 俺の知り合いの中で、ピアノに関係があるのは一人しかいない。


 ――Xは、百瀬。


「最初はさ、告発文かと思ったんだ。美術倉庫を荒らした犯人はXだっていう。けど違うよな。真木は、百瀬を止めて欲しかったんだろ? これ以上、嘘を重ねて欲しくなかった。だから、このメモを残したんだ」


 辞書にはさむという消極的な方法を選んだのは、真木に迷いがあったからだ。嘘はつけない、けれど、本当のことをいうわけにもいかない。でも、このまま放っておけない。


 辞書を利用する生徒は少ない。ほとんど手に取られることのない辞書にはさんだしおりは、誰にも見つからないかもしれない。例え見つかったとしても、俺に届くとは限らないし、届いたところで、俺がメモに気づかない可能性だってある。それに、もし俺が気づいたら、百瀬の計画に巻き込んでしまうことになる。


 迷った末にはさまれた、一枚のしおり。

 生真面目な相棒からの、精一杯のメッセージ。


「ごめんなさい」


 もう一度、真木が頭を下げた。


「美術倉庫の話を聞いた時、美桜の仕業だってすぐに気づいた。本当なら、私が止めなくちゃいけなかった。馬鹿なことはやめなさいって、もっと強くいうべきだったの。でも」


 真木がそっと顔を上げる。


「私には、美桜の気持ちがわからないから」


 戸惑うように呟いたその目には、困ったような、怒っているような、不思議な色が浮かんでいた。


「好きな人が残した写真を見たいだなんて、そんな理由でよその学校に入り込む気持ちなんて、私にはわからない。ルールを破って、人を巻き込んで、まわりに嘘をついて迷惑をかけてまで、それでも諦めたくない想いなんて、私は知らない。美桜は馬鹿だと思う。自分勝手で我儘な大馬鹿。だけど私、その馬鹿を否定できない。悪いことだとわかっているのに、美桜の頼みを愚かだと切り捨てられなかった。私、少しだけ美桜のことを、羨ましいと思ってしまったから」


 真木が深いため息をついた。かろうじて聞こえるほどの小さな声で「悔しいけど」と呟く。本当に悔しそうな声に、つい笑ってしまいそうになるのを何とか堪える。


「理性的でいられないほどの衝動は、私には理解できない。けれど、美桜にとっては何より大事なものだったんだと思う。それを遮るくらいの正義は、私は持てなかった」

「うん、わかるよ」


 俺も真木と同じ立場なら、断れなかったかもしれない。後ろめたさを感じながら、それでも手を貸してしまうんじゃないだろうか。

 真木がちらりとこちらを見た。眼鏡越しの大きな目に睨まれて、思わず仰け反る。


「わからないで。私、反省と謝罪をしているの。高谷がそんな調子だと、ちゃんと謝れない。もっとしっかり怒って」

「そんなこといわれてもなあ。そんじゃ、ちょいと怒ってみますかね、とはならないって」

「さんざん利用されたのに、どうして怒らないの」

「どうしてって……」


 どうしてだろう?


 元々あまり怒るのは得意じゃない。お気楽な母親に「あんたは不精者だから、腹も立てられないのよね。すぐ横になっちゃって」と揶揄われているくらいだ。


 うん? よく考えたらひどいいわれようじゃないか? なんだか腹が立ってきたな。


「ま、いいって。済んだことだろ? 真木もあんまり気にすんなよ」


 へらりと笑って見せると、真木は盛大にため息をついた。どうやら呆れられてしまったらしい。


「そんなことより、しおり、大事にしろよ。鉛筆書きとはいえ、消えなかったら困るだろ」


 改めてしおりを差し出すと、真木は両手で受け取った。指先でひと撫でして、こくりと頷く。


「ん。ありがと」

「どういたしまして」


 珍しく素直な礼がこそばゆい。


「きれいな色だよな、それ。名前に因んだ贈り物とか、センスあるよな。お祖母さんからだっけ?」

「そう」

「もしかして、真木の名前を選んだのもお祖母さんか? 〈栞〉ってさ。本好きな人なのかな?」


 照れ隠しに話をふると、真木はぷいとそっぽを向いた。雑談せずに働けという意味だろう。

 大人しく返却された本を確認していると、真木がぼそりと「違う」と呟いた。


「私の名前を付けたのは母。母は本を読む人ではないし、この名前にたいした意味はない」


 つまらなさそうに淡々とした声だが、会話は続けてくれるようだ。


「意味ないことはないだろ。画数がいいとかさ」

「姓名判断じゃなくて、形で決めたと聞いてる。母は、左右対称の方がユニークだといってたから」


 真木栞。

 なるほど。縦に並べてみれば見事なシンメトリーだ。……最近、どこかで似たような話を聞いた気がする。


 手にしていた本をぱたんと閉じて、真木がため息をついた。少しふくらんだ頬に不満の色が見える。


「苗字なんて結婚でもしたら簡単に変わるから、左右対称の文字を並べたところで意味ないのに。夫婦別姓が導入されない限り、どうせ苗字を変えるのは妻方なんだから」


 確かに、日本社会の夫婦同氏制度は、あと十年経っても変わることはなさそうだ。


「別に、必ずしも女性側が変える必要もないだろ? 相手に〈真木〉を名乗ってもらえばいいじゃないか」

「私はそこまで左右対称にこだわりはない」


 冷たい視線が返ってきた。名前の話は、あまりお気に召さないらしい。


「高谷栞なら、左右対称のままだけどな」


 冗談まじりにいいかけて、慌てて口を閉ざす。なんとなく、今はいわない方がいいような気がした。


 書架整理を済ませてカウンターへ戻る。文化祭の準備を始めようとしたところで、ふと預かっていた物のことを思い出した。鞄から封筒を取り出して、真木の名を呼ぶ。


「これ、百瀬から。真木に渡してくれって」


 振り返った真木に、封筒を差し出す。受け取って中を確認した真木が、眉根を寄せた。


「これ、見た?」

「へ?」


 険しい顔に、慌てて首を振る。


「いや、見てないけど」

「そう」


 ほっと息をついた真木が立ち上がった。落ち着かない様子で数冊の本を手に取ると、カウンターを出る。不自然な動きに心配になって様子を窺っていると、案の定、何もないところで盛大に蹴躓いた。


「おい、大丈夫かよ?」


 よろけた拍子に本が床に散らばる。こんなに焦っている真木は、かなり珍しい。


「大丈夫。ほっといて」

「そんなコントみたいにコケてるのにほっとけるか。ほら」


 カウンターを出てしゃがみ込み、散らばった本を拾い上げる。一緒に落ちていた封筒もついでに拾うと、中から一枚の写真がすべり出てきた。とっさに、目で追う。


「待って! 見ちゃダメ!」


 真木の声が鋭く響いたが、顔を背けようにも、もう遅い。ばっちり見てしまった。


 最初に目に飛び込んできたのは、やわらかな黄色のスフレチーズケーキ。その横には、嬉しそうにゆるんだ真木の顔。一切れのケーキを右手でつかんで、今にもかぶりつかんばかりに大きく口を開けている。普段の真木からは想像できない。皿もフォークも使わない、豪快な食べっぷりだ。


「あはははははは」


 一瞬の後、図書室に笑い声が響いた。声の主は、もちろん俺だ。目の前の真木が、真っ赤な顔で睨んでくる。


「行儀が、悪いのは、わかってる、から」


 切れ切れの言葉が悔しそうに響く。恥ずかしいだろうことはわかっているけれど、笑いはなかなかおさまらなかった。


「いつまで笑ってるの!」

「ごめん、ちょっと、なんかさ」


 珍しく大声を上げる相棒に、片手で待ったをかける。笑いを堪えようと深呼吸をしたところで、もう一度写真が目に入って、思い切り噴き出してしまった。


「高谷!」

「ごめん、わかってるって」


 笑いながら、両手で降参のポーズを取る。羞恥にふるえる真木には悪いが、腹の底の揺れはしばらくおさまりそうになかった。


「いやあ、いい写真だな」

「うるさい」


 にやりと笑って見せると、ぴしゃりと返される。相変わらずのやり取りに、ゆるゆると肩の力が抜けていくのを感じた。


 いつもの平凡な日常が、図書室に満ちていく。そろそろあのドアを開けて、矢口あたりが顔を出すかもしれない。その前に、ちゃんと本を片付けておこう。

 両足に力を込めて、俺はゆっくりと立ち上がった。

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