婚約者から悪役令嬢と呼ばれた自称天使に、いつの間にか外堀を埋められた。
「お腹が空きました。朝食を準備していただけるかしら?」
まだ朝の早い時間に、呼び鈴が鳴った。首を傾げつつ店の扉を開けると、気位の高そうな美少女がひとりでこちらを見上げている。どう考えても平民ではない。その上、服装が妙だ。ドレスではなく、夜着を着ている。仕立ては上等だが、外を歩くのにふさわしい格好とは到底言えない。
「申し訳ありませんが、ここは食事を提供する店ではないのです」
「わたくしが、お腹が空いたと話しているのですよ?」
俺の言葉に、少女は不思議そうに頬に手をあてた。自分の願いは聞き入れられて当然だと思っているらしく、頭が痛くなる。丁重にお帰りいただきたいが、これはなかなかに難しそうだ。お付きの人間に回収を頼みたくても、彼女の周囲に関係者の姿は見当たらない。厄介なことになった。
「失礼ですが、そもそもお支払いはどうなさるご予定なのでしょうか」
「まあ、お金の話が先にきますの? わたくし、普段から値段を聞いたこともありませんのに」
「さようでございますか。それならば、なおさらお食事の用意は難しいかと」
「なんてこと。わたくしを満足させることはあなたにとっても名誉なことなのですよ?」
小首を傾げてうっすらと微笑んでみせる彼女は、命令することに慣れきった根っからのお嬢さまらしい。取り乱す必要も、大声をあげる必要もない生活。だが、それならば余計にわからない。どうして彼女は貴族街にあるとはいえ、高位貴族御用達とは言い難い自分の店にやってきたというのか。
「それではお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。お屋敷の方に遣いを出しましょう」
「……それは、困りますわ。わたくし、おじいさまたちと喧嘩をして、家出をしてきているのです」
「……最悪だ」
「まあ、何かおっしゃいまして?」
「いいえ、何でもございません」
真面目に商売をしているだけなのに、どうしてこうも厄介事ばかりが飛び込んでくるのか。先日から自分を悩ませている人物が頭をよぎる。俺はこんな家出令嬢に関わっている暇はないのだ。早く対策をとらなければ、店どころか故郷が潰されかねないというのに。困ったと口にしながら決して引こうとはしない少女が憎たらしい。どうすべきか思案していると、背後から陽気な声が聞こえてきた。
「カルロ、こんな時間に珍しいわね。おやまあ、この娘っこは誰だい。えらいべっぴんさんじゃないか」
「ああ、この子は」
「わたくし、お腹が空いたのですけれど、どんなにお願いしてもお食事を用意していただけないのです」
事実だが、大事な要素をいくつも削った状態で隣の店の女将に告げ口される。これでは、「見ず知らずの人間に、代金もなしに食事の用意をするように命令した高飛車な貴族令嬢」とは絶対に思うまい。案の定、ふくよかな身体を揺らしながら、女将が俺を叱りつけてきた。
「カルロ! あんたって男は。このお嬢ちゃんが何をやったのかは知らないが、小さい子に食事抜きの罰を与えるのは感心しないね」
「それは誤解だ。そもそも彼女は俺と無関係で」
「いいかい、カルロ。小さい子がひもじい思いをするようなことはあっちゃならないんだよ。可哀そうに、寝間着のまま外に放り出すなんて。レディをなんだと思っているんだい」
「いや、この子は自分が望んでその格好をしていて」
「カルロ、子どもは教え導くもの。好きにさせることだけが愛情ではないし、かといって厳しくしつけることだけが正しいわけでもない。あんたは実の子どもでなければ、子どもが苦しんでいても知ったこっちゃないっていうのかい」
「そんなお人好しだと、尻の毛まで抜かれるぞ」
「カルロ!」
「わかった、わかったから。頼む、落ち着いてくれ。この子に食事を与えて着替えさせる。それでいいだろう?」
慌てて女将に頭を下げる。彼女はこうと決めたら絶対に譲らない性格だ。このまま店の前で押し問答を続けていても仕方がない。おまけに女将の声で辺りの店の人間が何事かと集まり始めた。
これ以上この場にとどまっては、話がさらにややこしくなる。どんな高位貴族が彼女の後ろに控えているのかわからない以上、目立つのは得策ではない。本人が実家との連絡を拒否していて、警らにも頼れないのであればなおさらだ。俺は見知らぬ少女の手を取り、大急ぎで店の中に戻った。
***
「はあ、まったく朝食までに時間がかかりますこと。早く用意していただけるかしら?」
「一体どうしてこうなった?」
「店構えのわりに、まあまあの内装ではありませんか。これならば、食事も食べられないということはないでしょう」
この状況に何の疑問も抱いていないらしい小さなご令嬢は勝手に奥のテーブルに我が物顔で陣取り、やれやれと仕方なさそうに肩をすくめている。胃の痛みが空腹ゆえのものなのか、それとも彼女によるものなのか、今だけは考えたくない。
不躾にならないように、けれど物珍しさを隠せない様子で部屋の中を観察する少女。いきなり部屋を荒らすことはないだろうと放置することにして、急いで食事の準備をする。メニューはいつも通り、俺が実家で食べていたものが中心だ。王都から出たことのない彼女にとっては異質なものだろうが仕方がない。そもそも王都の食事を用意しろと言われたところで、辺境育ちの自分には作れやしないのだから。
スープの残りを温め直し、卵とベーコンを焼く。このベーコンは自家製だ。王都のお上品なものとは違って野性味あふれる味だが、力強い旨味が自慢だ。彼女が残すようなら、俺が美味しくいただいてやろう。王都の高位貴族は白パンを好んでいるが、俺は故郷の黒パンが好きだ。一般的な黒パンとは異なる酸味が抑えられた黒パンは、風味が豊かで食べ応えがある。
「どうぞお待たせいたしました。お口に合うとよいのですが」
目の前に出された料理を前に、片眉を上げた少女だったが、さすがに面と向かって文句をつけてくることはなかった。これ以上駄々をこねたところで、別のものが出てくることはないとわかっていたのだろう。あるいは、どんなものでも口に入れるしかないくらいには空腹だったかもしれない。どう見ても渋々といった状態で料理を口に運ぶ彼女だったが、一口食べるなり、大きく目を見開いた。みるみるうちに頬が薔薇色に染まっていく。
「これは」
「その様子では大丈夫だったようですね」
「まあまあですわ! ところでこちらは、王都の料理ではありませんね?」
「故郷の料理でございます。王都の料理は甘いものが多いですが、故郷の料理は塩と香辛料が多いので、だいぶ趣が異なるかと」
まあまあと評価されたが、それはあくまで「王都が一番」という高位貴族らしい反応だ。彼女がこの料理を気に入ったらしいことは、一心不乱に食べている様子を見ればよくわかる。しばらく黙々と食べていた少女だったが、腹が満ちたのか満足げににこりと微笑んだ。やれやれ。不味い料理を出したということでお咎めをもらうことはなさそうだ。
「ご満足いただけたようで何よりでございます」
「最初はどうなることかと思いましたが、これならばしばらく滞在しても、食事に困るということはなさそうです」
「大変申し訳ありません。まるで、我が家での滞在が決定されたかのような言い方でしたが?」
「ええ、そのつもりですが」
ふざけるのもいい加減にしろよ?
そう怒鳴りたくなるのを、ぐっとこらえる。高位のお貴族さまとのやりとりは厄介だ。ことを仕損じれば、彼らは虫けらのように簡単に自分たちを踏み潰してくる。腹立たしいことだったが、彼らの気まぐれひとつで、自分たちの人生は左右されてしまうのだ。ため息をつきたくなるのを堪えていると、彼女がいいことを思いついたと言わんばかりに手を叩いた。
「ねえ、もっと気さくにお話ししてはくださらないの?」
「どういう意味でしょうか」
「先ほどの女性を相手にしている時には、今のような嘘くさい笑顔と気持ちの悪い敬語ではなかったでしょう?」
「……おやおや、ずいぶんとお口が悪いようで」
「だって、遠回しにお願いしてもあなたにはわたくしの気持ちがちっとも伝わらないんですもの」
つまり俺が気が利かない対応をするから、自分が歩み寄ってやっているのだということらしい。まったく不必要な心配りだ。辺境育ちの俺には、王都の貴族の迂遠な物言いはまどろっこしいだけだ。そもそもそこまでわかっているのであれば、これ以上俺を巻き込む前に家に戻ってもらいたい。いっそこのまま不貞寝できたら、どれだけ幸せだろう。
「申し訳ありませんが、言葉遣いを後から咎められる恐れもございます。その命令は承諾いたしかねます」
「もう、わたくしが気にしなくてよいと言っているのです」
「ですが、口約束では畏れ多い。特に貴族の皆さまとのお約束では、口約束ほど形を変えやすいものはございません」
言った言わないから始まり、都合の良いように解釈したり、言葉尻をとらえて貶めたり、勝手に噂として膨らませたり。王都の貴族のやり方に慣れるまでの間に、散々煮え湯を飲まされてきたのだ。警戒しすぎることはない。小さな女の子の戯れだと思ってなめてかかればきっと自分は破滅する。俺の言葉に彼女は意外そうに目を瞬かせた。
「わかりました。それならば、これでいかがかしら?」
ぐんと身体から魔力が引っ張りだされるのがわかった。こいつ、こちらの同意も得ずに勝手に誓約魔術を使ってくるなんて。相手の意志を確認することなく魔術を行使できるのは、魔力が非常に相性が良いか、魔力差が極端にあるときだけだ。それだけの魔力量があるというのなら……。彼女の実家候補がいくつか思い浮かんで、さらに胃が痛くなった。
「これであなたは、わたくしをあなたの姪として扱っても問題ありませんわ」
「なるほど」
「ついでにわたくしの実家について詮索しないこと、わたくしに三食を与えることについても誓約として加えておきました。しばらくご厄介になりますわ、叔父さま」
「なんだこの誓約は。ふざけるなよ」
俺の嘆きに、少女は楽しそうに口角を上げるばかりだった。
***
今後、また不意打ちで魔術をかけられてはたまらない。俺は目の前の疫病神と話し合いをすることにした。
「一緒に暮らすというのなら、こちらのルールに従ってもらおう」
「ええ、よろしくてよ」
「まず俺の名前はカルロだ。覚えておけ」
「わたくしが名前を呼ぶ必要などあるのかしら? あなたは、わたくしが名前を覚えるほど重要な人間なの?」
「そう思うなら、この家から出ていくといい。俺は君を姪と同様に扱う。王都の高位貴族の家族がどんなものかは知らんが、ここは俺の家だ。俺のやり方に従ってもらおう。そういう誓約のはずだ」
俺の言葉にすっと少女が目を細めた。まだ幼いと言ってもいい容姿なのに、これだけの威圧感。魔力量の差で押しつぶされてもおかしくないが、俺は正気を保っている。「姪として扱う」という条件から鑑みて、俺の言動が問題ないからこその結果なのだろう。それは彼女もわかったらしい。
「叔父さまではいけませんの?」
「本物の姪でもあるまいし、『おじさん』などと呼ばれてたまるか」
「あら、もしかして年齢を気にしていらっしゃるの? もしかして、ご結婚予定の婚約者さんや恋人はいらっしゃらないということかしら」
「今は関係ないだろう。放っておいてくれ。それで、君の名前は?」
「わたくしは天使です」
「ふざけているのか?」
「まあ、カルロったら。ふざけてなどおりません。わたくし、家ではみんなから我が家の可愛い天使と呼ばれておりますの」
「つまり、本名を名乗る気はない、家名も教える気はないということだな。よくわかった」
「『俺の可愛い天使』と呼んでくださってもよくってよ」
「遠慮しておこう」
急遽、だまし討ちのような形で始まった少女との共同生活。もちろんふたりの暮らしは、穏やかさとはかけ離れているものだった。
「っきゃあ!」
「なんで熱した油に大量の水をそそいだ!」
「だって、料理の本に蒸し焼きのレシピが載っておりましたわ」
「揚げ物の最中に蒸し焼きをする馬鹿がどこにいる。火事で蒸し焼きになるのは俺たちだろうが。仕方がない。そこで、野菜でも洗っていろ」
「えええ、つまらないです」
「ごちゃごちゃ言うな。食事の時間が遅くなるぞ」
いつもより火が通り過ぎたおかずを子どもに食べさせるのも忍びなく、仕方なく俺は自称天使がダメにした食事を食べた。もちろん彼女には、俺が新しく作り直したものを出している。
「カルロ、大変です! 台所に魔法具がありませんわ!」
「一般家庭にそんなものがあるはずなかろうが」
「まあ、では食洗器もないのにどうやってお皿を洗うのです? カルロが言ったのですよ。働かざる者食うべからずと。わたくし、実家の調理場の様子を見学に行ったことがございますけれど、こんな何もない洗い場ではありませんでしたわ」
「手で洗え」
「嫌ですわ。やったことありませんもの」
「料理ができないのだから、皿くらい洗ってもらわねば」
「……わたくし、全部お皿を割ってしまうかもしれませんけれど、よろしくて?」
「最悪だ。ならば食器を拭くことはできるか?」
「魔法具で乾かしませんの?」
「もちろん手作業だ」
その日は、結局皿が数枚割れた。
「おつかいですか?」
「そうだ。一般的なお金の価値や使い方がわからぬままでは困るからな」
「まあ、わたくしに必要なこととは思えませんけれど」
「貴族の生活を支えているのは平民たちだ。高位貴族の世界しか知らないようでは、いつか足元をすくわれるぞ」
「失礼な!」
「だが事実だ。まあ行きたくない、行けないというのであれば強制はしないが」
「大丈夫ですわ、行ってきますとも! それで、どちらまで?」
「危なっかしくて遠くまで行かせられるはずがない。隣の女将のところにいって、このメモの通りを買ってきてくれ」
「ひとを子ども扱いして!」
「実際、子どもだろうが。君は」
一事が万事この調子。朝起きてから夜眠りにつくまで、自称天使はひたすらにかしましかった。まあ何不自由なく育ったご令嬢が、使用人ひとりいない家で暮らしているのだから頑張っている方ではあるのだろう。実際、いつの間にか少女は言われずとも手伝いをするようになった。こちらが帳簿を見ながら頭を悩ませていると、的確な助言をくれることもある。素直に礼を言えば、彼女は驚いたように目を丸くした後、嬉しそうにはにかんでいた。
その姿は年相応に可愛らしいもので、普段からそんな風に笑っていればよいのにと思ってしまった。まあ、高位貴族というものは自分の感情を表に出すべきではないと言われているので、日頃のあのつんとした態度も仕方がないのかもしれないが。そして、今なら聞けるような気がした。どうして彼女が、家出をしてここへやってきたのかを。
ある日の午後、おやつの準備をしてから俺は自称天使をお茶に誘った。
「まあ、本日はジャムクッキーなのですね!」
「ああ。ちょうど故郷から、店で出す用の品物が届いたのだ。偶然甘いものが入っていたから、試食がてらおやつに出すことにした」
「わたくし、王都のお菓子とは異なるこのお菓子が大好きなのです」
「それはよかった。では早速紅茶と一緒にと言いたいところだが」
「だが?」
「そろそろ、君の話も聞かせてもらおうか。もちろん、話したくなければ話さなくてもかまわない」
「よろしいのですか?」
「その代わり、このクッキーは全部俺のものだ」
「まあ、なんて卑怯な!」
「話したくなったら声をかけてくれ」
涙目になって俺を睨みつけてくる少女には、最初に出会った時の取り澄ましたご令嬢の雰囲気は欠片もなかった。さくさくとした素朴なクッキーは、それだけで十分美味しい。女性や子どもならジャムを載せた方が評判がいいだろうが。いつまで我慢できるだろうか。半分まで先に食べることになってしまうと、さすがに甘さが鼻につくような気がするな。
そう思っていると、なんと二枚目の途中で自称天使が根を上げた。もしかしたら、本人もそろそろ話したかったのかもしれない。子どもが家出をしてしまうほどの悩みごとを、心の中に押し込めておくことなんて無理に決まっている。
「……婚約者に幻滅してしまったのです」
「ほう」
「お前を愛することはないと」
俺は頭を抱えたくなった。目の前の年端も行かない子どもの相手は、一体いくつなのだ?
「すまん、相手はいくつだ? 子どもは範疇外と公言するほど年の差があるのか。それならば、子ども相手に欲情する変態よりマシだと思うよりほかないが」
「残念ですが、わたくしと同い年ですわ」
「相手は一体何を考えてそんなことを言ったんだ? これは、派閥のバランスも考えた政略結婚なのだろう?」
「ええ。事実わたくしも、多くは望んでおりませんでした。お互いに思いやれる夫婦であれば嬉しいですけれど、政略として割り切った婚姻でもお互いの取り決めを守っていただければ問題ありませんの。けれど、わたくしの婚約者はわたくしのことを『中継ぎの婚約者』といったのです」
「中継ぎ? 誰か別の相手がいるのか?」
「ええ。わたくしのように高飛車で高慢ちきな悪役令嬢とはまったく異なる、身分にとらわれない聖女のような女性に出会うことが、運命として決まっているそうです」
「運命? 悪役令嬢? 相手は頭の病気か何か?」
「ふふふ、わたくしも同感ですが、残念ながら正気のようでしてよ」
こんな幼いうちから、相手と信頼関係を育むこともなく、理想の女性像ばかりを追い求めているなんてどうかしている。よしんば理想の女性が目の前に現れたところで、射止めることが可能なのか。この国の王子ともなれば可能かもしれないが、だがしかし……。
「それで、君は甘んじてそれを受け入れると?」
「おじいさまやお父さまに、婚約を解消してくださいとお願いしましたが、できかねると一蹴されてしまいましたわ。日頃はあんなにわたくしのことを可愛がってくださっていたのに、所詮女なんて政治の駒でしかありませんのね」
「まだ幼い君にそうも達観した台詞を吐かれるとは」
「仕方がありませんわ」
「だが納得できなかったから、家出をしてきたんだろう?」
「そうですわ。でも、逃げるだけでは何も解決いたしません」
そう言って、自称天使は寂しそうに微笑んだ。その笑顔が、どうしてだか無性に腹が立つ。当然のように俺に命令をしてきた彼女は、身分社会のことを俺よりもよく理解しているのだろう。だから、家族にどうにもできないと言われて諦めてしまった。今回の家出は、心を落ち着かせるまでの小さな逃避行でしかないということか。
「馬鹿だな。どうして諦めようとするんだ。君らしくもない」
「え?」
「戦え。欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れろ」
「戦う?」
「君の家族は今すぐの婚約解消には反対したかもしれない。だがそれは、機を見ろと言っていたのではないか。俺たちだって、やみくもに商品は売らない。物にはちゃんと売り時というものがある。何も知らずにいれば、買い叩かれるだけだ」
「時機を待っている……」
「君が欲しいものは何だ。そんなくだらないことを言ってくる婚約者なのか? 君の将来の夢は? そんな屑のお嫁さんか? 違うだろう?」
「わたくしが欲しい物、それは……」
そこまで言ったところで、店の外が急に騒がしくなった。まったく忌々しい。どうやら招かれざる客のお出ましのようだ。自称天使は、クッキーに手を伸ばすこともなく深く考え込んでいる。
「君はここにいるように。一緒に来たところで、君に手伝ってもらうことはない」
あんな奴らに会ったところで、不愉快になるだけだ。目を丸くする自称天使に部屋から出てこないように言い含めて、一階に向かう。俺はできるだけ愛想よく見える笑顔を張り付けて、店の扉を開けた。
***
扉の向こうには、予想通りにやけた顔の王子が、下着のようなドレスを身に着けた下品な女とともにふんぞり返っていた。騎士はどうした。なぜにこの国の人間は、高位貴族も王族も身軽に出歩くのか。もう少し危機感を持ってもらいたい。そもそもこんな風に気軽に街歩きをしていなければ、王子にいちゃもんをつけられることもなかったというのに。
「このような場所まで、足をお運びいただきありがとうございます」
「まったくだ。気が利かない人間が多いせいで、我々が自ら出向かなくてはならぬとは。それで、準備はできたのだろうな」
「準備とは、さてなんのことでしょう」
「貴様、忘れたのか。貴様の店で取り扱っている商品を、我が未来の花嫁が気に入ったと言っているのだ。結婚祝いに製法ごと王家に差し出すのが筋であろうが!」
「我が故郷の品を気に入ってくださったことは、嬉しく存じます。何かご希望のものがございましたら、献上品としてお納めすることもできましょう。ですが、土地の産業を領主の承認もなしに、製法ごと献上するなどありえません」
「田舎貴族とそのお抱え商人ごときがなめた口を叩きおって」
もちろん領主に尋ねたところで、結果は同じだろうが。口に出さずとも相手に伝わっていたらしい。堪え性のないらしい王子が剣を抜いた。まずい、こちらが何か行動を起こせば攻撃したとみなされる。つい小さく舌打ちをした。
目の前の男は王族とは思えないほど魔力が低い。結界を張れば問題ないだろうが、防御したことについて難癖をつけられかねない。いっそ軽く斬られておくか。これくらいの斬り合いで死なないことは経験済みだし、倒れたあとにこっそり治癒をかけるのもありか? 逡巡していたその時。
「カルロ!」
甲高い声が響いた。まったく、自称天使め。二階でじっとしていろと言っただろうが。実家の身分を表に出せなければ、何をされても文句は言えんのだぞ。見た目だけなら完璧な美少女なのをもっと自覚してもらわねばなるまい。少女を庇うように後ろに下がると、予想通り王子が、面白そうなものを見つけたようににやりと笑った。
「なんだ、そのガキは」
「申し訳ありません。わたしの姪でございます。邪魔になるから、部屋の中にいるように言っていただろう。今すぐ戻りなさい」
「……はい」
奥に引っ込んだ自称天使の後姿を、王子は舐め回すように見つめている。
「ふん。平民にしてはまあまあ見られる顔をしている。もう少し育っていれば下働きとして召し上げてやらんでもない。そうだな、成人の儀を迎えたらこちらでもらってやる。それまで他の男の目につかないように、しっかり育てておけ」
「殿下、あたしの前で浮気ですかあ。ひどいですう」
「愛しているのはお前だとも。あの娘は下働きと言っただろう? 心配するな。あのいけ好かない婚約者は婚約を解消したら手元に残しておくことはできないから、その代わりだ。お前も好きに扱うといい」
「ええ~、公爵令嬢さま、殿下のそばにいてくれないんですかあ。殿下のことが大切なら、お嫁さんになれなくても、他のひとに貸し出されても、頑張って働いてくれると思ったのにい」
「愛情を知らない冷酷な女なのだ。だが、父上に反対されては致し方ない」
「そうですかあ。じゃあ、仕方がないですねえ。さっきの子が大きくなるのが楽しみですう。魔力もたくさんあるみたいですし、きっと役に立ってくれますよお。そうだあ、あたし、お腹が空きました。近くのカフェに行きたいですう。貸し切りにしてください~」
「よし、わかった」
自分たちの都合のよいことを好き勝手に並べ立てて、騒々しく彼らは帰っていった。扉を閉めると同時に、ひょっこりと自称天使が顔をのぞかせる。
「なんですか、あの理解不可能な生き物たちは。殿下は下働きと言って、わたくしに下の世話をさせる気でしょうし、下品女はわたくしを魔力の高い子どもを産むための道具として、貴族たちに貸し出すつもりのようですわね。貴族が平民に対して横暴に振舞うとは聞き及んでおりましたが、これほどとは思いませんでしたわ」
「おい、どこまで聞いていた。二階に行けと言っただろう!」
「高位貴族の子女にとっては、閨教育など当たり前のことですもの。政略結婚の相手に執務を押し付け、ご自分は愛妾とただれた生活という方も珍しくはございません。それでも、さすがにああも不躾で下衆では驚いてしまいましたわ。服をはぎ取られたような心持ちでしたもの」
「怖い思いをさせた。済まない」
大袈裟に両腕をさすってみせながら、自称天使は考え込む。
「あれは確かにこの国の王子殿下なのですか?」
「ああ。もしや、初対面か? 君は王子殿下に目通りが叶う家柄だと思っていたが。女癖の悪さにご家族が警戒していたのか?」
「いいえ、そういうわけではありませんが……。ちなみに王子殿下は成人の儀を済ませていらっしゃいましたか?」
「ああ、かなり盛大な祝いだったはずだが。あの時も、さんざん店の中のものを持っていかれたな。まったく、忌々しい」
「そう、ですか……」
「どうかしたのか」
「少し、考えさせてください」
俺の言葉に自称天使の瞳の色がゆっくりと濃くなった気がした。深く息を吐き、瞳を閉じる。次にこちらを見上げてきた彼女の顔は、最初に出会った時の高慢な少女とも、一緒に暮らしている中で目にしたあどけない少女とも違う、理知的で何かを決意したものに変わっていた。
「カルロ、あなたはあの馬鹿王子に脅されている。そうですね?」
「恥ずかしながらその通りだ。品物を欲しがるだけならまだしも、製法から技術者まで全部取り上げられてしまったら、故郷の人々の暮らしは立ち行かなくなる。今でさえ、王都の商人に買いたたかれている状態で、それを改善するために俺がやってきたというのに」
「この店にあなた以外の使用人がいないのは、王子のせいですか?」
「王子のせいというよりも、安全のために実家に帰したんだ。俺だけなら、多少剣で斬られようが、魔術で攻撃されようが死にはしないが、下働きや職人たちはそうもいかないからな」
「……なるほど、わかりました」
「何がわかったんだ?」
「わたくし、婚約者と戦う覚悟ができましたわ」
きらりと少女の目が光った。燃えるような激しさを持つその瞳は、思わず目が離せなくなるほど美しい。自称天使の美しさは、この意志の強さにこそある気がした。
「そうかい。そりゃあ、よかったな」
「あら、カルロも頑張るのでしょう?」
「ああん? 何を言っている」
「だって、先ほどから瞳がきらきらしていらっしゃいますもの。戦うの、お好きなのでしょう?」
「はっ、まあ嫌いじゃないさ」
「大好きだというお顔をしていらっしゃいますのに。素直ではないのですから」
故郷の人間は脳筋ばかりだ。俺の剣の腕はそこそこ、魔術だってそこそこだが、金銭のやり取りに関しては家族よりはまあまあできる。だからこそ、自ら手を挙げて王都へやってきたのだ。このまま負けっぱなしというのは、俺の誇りが許さない。
「それで、今後の方針は決まったのか」
「ええ。まずは、一度家に戻らなくてはなりません。今回のお礼を差し上げるのは、少し……いいえだいぶ先になりそうですが」
「心配する必要はない。こちらは、俺が誘拐犯に仕立て上げられなければそれでいい」
「そこは大丈夫でしょう。ここに来た時と同じように、きっと簡単に家まで帰れますわ」
「どういうことだ?」
「その時が来れば、きっとわかります」
そこで、自称天使は俺の手を握りしめた。婚約者との戦いを想像しているのだろうか、その手が小さく震えている。俺は安心させるように、ゆっくりと握り返してやった。彼女がなぜか驚いたような顔でこちらを見上げてくる。
「勝算はありそうか?」
「細かいことは、お教えできませんけれど。でも、きっと面白い結果になりますわ。ですがもしもわたくしが……」
少女は口ごもる。「もしもわたくしが失敗したら」、聞きたいことはそういうことだろう。口に出せば真実になるような気がして、言葉にできないのなら、俺が安心させてやるしかあるまい。
「どうしようもなくなったら、俺のところに来い。都落ちで悪いが、故郷まで連れて行ってやる」
「本当、ですか?」
「急になんだ」
「わたくしのこと、面倒を見てくださるのですか!」
「なんだ、失敗前提で動くのか」
「答えてください」
「君ひとりくらい養ってやるさ。一族全体となるとお手上げだから、その辺りは先に相談しろよ」
王族相手の喧嘩なら、そう簡単にことは運ばないだろう。それでもいろいろなことを諦めていた少女が自分の足で立ち上がるのを見て、協力しないほど落ちぶれてはいないつもりだ。
「約束ですよ?」
「わかった、わかった」
「神に誓えますか?」
「君は天使なんだろう? 神と君の名に誓って、約束してやる。何かあったら、俺が面倒をみてやる。安心して、喧嘩してこい」
「絶対ですよ。破ったら、承知しませんからね!」
「わかった。俺は、約束は守る。男に二言はない」
「わかりました!」
俺の答えを聞くと、天使は嬉しそうに笑う。がくんと、身体から魔力が吸われるのがわかった。
「おい、いきなり魔力を吸うなと言っただろうが」
「ごめんあそばせ。ついうっかり、嬉しくて力を押さえることができませんでしたの」
「おい、待て。今の言い方では、また何か誓約を結んだな?」
「大したことではありません。約束を守ってくださるのなら、命に別状はありません」
「おい!」
「また逢う日まで。どうぞ、いい夢を」
そのまま頬にキスを落とされた。子ども扱いは嫌じゃなかったのか? 寝かしつけの際に、子ども向けのおやすみの挨拶をしようとして、へそを曲げられたのはまだ記憶に新しい。まったくもって、子どもというのはよくわからない。
思った以上に魔力を抜かれていたのか、気が付いた時には翌日だった。どうやったのか、寝台まできちんと運ばれている。ここまでできるのなら、どの家に帰るのかまできちんと教えやがれ。そして自称天使の姿は、予想通り影も形もなくなっていた。
***
ちょろちょろと自分の周りをうろつく少女がいないことで、仕事はとても円滑に進む。けれど、彼女の不在は妙に俺を落ち着かなくさせた。こんな風に彼女のことを考える余裕があるのは、例の頭のおかしい王子の件がある程度片付いたからなのだが。せっかく問題が解決しそうだというのに、この喜びを彼女と分かり合えないのはとても残念でならなかった。
「旦那さま、お客さまです」
逆恨みによる襲撃の心配もなくなり、職人や下働きたちも元通り呼び寄せることができた。そのおかげで生活は、自称天使と過ごしていた頃よりもずっと快適になっている。それなのに不自由なふたり暮らしの中、ぴいぴいと騒ぎ続ける小鳥のような声が懐かしくて仕方がない。まったく、俺もやきが回ったか。
「面会予定は入っていないぞ」
「それが、例の公爵家のお嬢さまが旦那さまにお会いしたいそうで」
好機と見て取ったのか、王子の来訪の後、この国の筆頭公爵家からの接触があった。例の王子の婚約者の祖父を名乗るいかついじいさまが、俺の元へやってきたのだ。ふたりして散々悪巧みをして王子とあの下品な女もろとも追っ払ってやったのだが……。なぜにその家のお嬢さまがここへ来る必要がある? そもそも彼女の手を煩わせたくないがゆえに、あのじいさまが出張っていたのではないのか?
首を傾げつつ客人のもとへ向かえば、そこには不貞腐れたような顔をしたじいさまと、光り輝く美しいご令嬢が微笑んでいた。一瞬見惚れそうになり、慌てて挨拶を返す。これほどの宝玉を投げ捨て、硝子玉を大切にしていたなんてあの王子は本当に惜しいことをしたものだ。
「お初にお目にかかります。わたしはこの店の主人をしております、」
「まあ、ずいぶんなご挨拶ですこと。初めましてだなんて、わたくしのこと、お忘れになってしまいましたの? 一緒になってくださると約束したのに。本当にひどい方ね」
「は?」
「貴様、儂の孫娘をたぶらかしおって。その上、知らぬふりをするなどもってのほか、そこになおれ!」
「え、少々お待ちください。何をおっしゃっているのか」
「ええい、問答無用!」
いきなり光り輝く剣を取り出し、公爵家の前当主は俺を追いかけまわしてくる。勘弁してくれ。必死に剣をかわす俺を満足げに見守りながら、令嬢は可愛らしく頬に手をあててみせた。
「だって、わたくし約束いたしましたもの。わたくしが望めば、面倒を見てくださるのでしょう?」
「それ、は」
「まあ、あの時の言葉は嘘でしたの。わたくし、あなたの言葉だけを頼りにここまで必死で生きてきましたのに。馬鹿王子の件の解決にもちゃんと協力したでしょう?」
「おお、愛しい天使よ。泣くでない。おじいさまが、絶対にこの男をお前の婿にしてやるからな」
よよよと芝居がかって泣く令嬢と、そんな彼女を必死で慰めつつ、俺への怒りに顔を般若のようにする公爵家の前当主。このままでは令嬢を弄んだあげくに捨てたなどというとんでもない悪評が立つ。この街で商売を続けるどころの話ではなくなってしまうだろう。
「申し訳ありません。もう少し、わかりやすく説明していただけないでしょうか?」
「カルロ、寂しいですわ。わたくしにとっては十年ぶりでも、あなたにとってはそれほど長い年月ではなかったでしょう? それともわたくしは、あなたの天使にはなれないのかしら?」
先ほどから繰り返される「天使」という言葉には確かになじみがあった。目の前でしてやったりとばかりに微笑む令嬢の顔は、確かにあの自称天使の美少女によく似ていて。
「まさか」
「アンジェラ、やはりこの男は斬りふせねばなるまい」
「おじいさま、いけませんわ。辺境伯の御子息を理由なく傷つければ、最悪、内乱が起きます」
「おい、どうしてそれを」
俺が声をあげれば、アンジェラと呼ばれた自称……どころか真実天使だった彼女は、艶やかに微笑んだ。
「わたくしには及ばずとも、かなりの魔力量があり、魔力の相性が良い時点で、それなりの貴族であることはわかります。それにもかかわらず、馬鹿王子の見下し具合。おそらく国境守備の重要性もわからぬ王子ゆえの暴挙だと考えました。そうして調べてみれば、カルロという名の」
「わかった、わかった。だが、あの時の君は確かに少女だったはずだ。それにもかかわらず今の君は、妙齢のご令嬢に見える。それはどう説明する?」
「それはたぶんですけれど、神の御加護かと。安心してくださいませ。わたくしは、正真正銘成人済みの乙女ですから」
「はあ?」
「なんだ、貴様。我が家の天使の言うことが信じられないというのか!」
「もう、おじいさまったら。長くなりますし、どうせなら美味しいものを食べながらお話しましょう? わたくし、葡萄のジャムを挟んだクッキーが食べたいですわ」
自分の希望が通らないはずがないと思っている微笑みは、出会った頃と同じようで少しだけ違う。今は、思わず折れたくなるような絶妙な角度でおねだりポーズをしているのだ。一緒に暮らしている間に、この娘は一体何を学んでいるのやら。
「ジャムクッキーを出すことはやぶさかではないが、それで何を話し合うと?」
「ですから、結婚式の日取りやらなんやらですわ。ここで暮らすにせよ、辺境にお嫁入りするにしろ、準備は大切でしょう?」
「やめろ、周りが誤解する。この間まで子どもだった奴に、今すぐ恋情も劣情も抱けるはずないだろうが!」
「今すぐでなければ、よいのでしょう? 十年待ったのですもの、長期戦は得意ですわ。子どもでなくなったわたくしは、好みから外れているわけではないのでしょう?」
「黙秘する」
「カルロが嫌がっても、外堀から埋めてしまえばこちらのものですわ」
「どこでそんなやり方を学んだ」
「カルロの元で暮らしていた時ですけれど? 悪役令嬢らしくて素敵でしょう?」
「俺はそんなに悪辣じゃない」
「それに本気で嫌なら、自力で逃げ出せばよいのでは? できるけれどやらないというのは、つまり」
「うるさい、黙れ」
この賑やかさと突拍子のなさ。久しぶりの騒々しさは、嫌いではない。俺は、彼女の望み通り葡萄のジャムをたっぷり挟んだクッキーと紅茶の準備をすることにした。
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