6.アイデンティティ
ツルさんはカップを少し音が立つように置きながらため息をつく。
「ヤタ君、昔はそんなじゃなかったよねー」
ちょっと待て……待ってくれ、その前置きはまさか……
「小学生の頃はウェイウェイ言ってたもんねー」
何でまたこの場で僕の過去のパーソナリティが開示されるんだ?
今日のこれはお別れ会で?社会に飛び立つ前の?学生時代の総括?が行われているのか⁉
「わ……忘れたよ」
少なくともウェイウェイにはなってなかったはず。そんな記憶はない。
「いやー確か中2まで言ってたね。中1の頃は両思いの子いてブイブイ言わせてたもん。そんで中2でその子、別の男子とくっついてたから、それで落ち込んだーみたいな?ウェイウェイ言わなくなったのをあたしは知ってるよー」
探偵が犯人を追い詰めているような構図になっている。何か自白しなければならないようなことが僕にあるとでも言いたいのだろうか?
「あの……私ここにいて大丈夫?」
那青さんは遠慮がちに右手を挙げて、僕に気を遣ってくれたようだったが、
「大丈夫、大丈夫ー」
と、ツルさんは僕へのお伺いをまた勝手に引き取り、許可を出した。
まぁでもそうだな、総括が必要だってんならくれてやる。
友人が一人もいない状況にならなかったのはツルさんのおかげだ。
思い出に残したいというのであれば、その恩は、ここでこういう形で少しでも返せるなら返そう。那青さんもついでに面白がればいい。
さて、とは言え誤解を放っておくのは精神衛生上よろしくない。
これが最後ならばツルさんにもちゃんと伝えておかなければ。
「えっと、中2で成長痛みたいなのに患って……」
オスグッド・シュラッター病。オスグッドと成長痛は仕組みとしては全く別物だけど、この場では構うまい。
「それでサッカーを諦めざるを得なかったんだけど」
ちゃんとした因果があるのだ。
振られたから落ち込んだんじゃなく、サッカーをやめたらあの子は離れて行ったんだ。『サッカー部で割と目立ってた僕』のことを好いてくれてただけで、対象は『僕』そのものではなかったんだ。まぁ、それはそれで確かにショックではあったけど。
「あーそうだ、その頃幽霊部員になってたもんねー!確か梅雨前に」
「はぁ⁉ツルさんの記憶が詳しすぎてびっくりするわ!」
コーヒーを吹き出しそうになった。
「んー、今だから言っちゃうけど、その頃ヤタ君のこと好きだったからねー」
「え……えっ⁉」
「明日香ちゃん、そうだったんだっ⁉」
今、コーヒーを口に含んでたら絶対吹いてた。やっぱ……総括なんですね。
「そっかー、ヤタ君の話よくしてたもんね、明日香ちゃん」
「ああー、いやいやいや、今は違うよ?構えなくて大丈夫だから。ちゃんとダーリンはおりますし。ヤタ君ごめんねー?」
僕が一瞬期待したみたいな体で謝るな。
「病気なら仕方ないよね。小中学くらいだとスポーツできる男子がモテたのは、きっとどこでもそうなんだと思うし」
那青さんはまだ、僕が変わった理由を『女子』のせいだと思っているようだ。
「そうじゃなくて、僕はそこまで6年間サッカー少年だったから……」
言い始めたものの通じる話か?小2から中2の頭までサッカーを中心に僕は生活していた。6年間って辞めた当時だと人生の半分近いわけで……
「そっか、アイデンティティの問題か。それは確かに辛いかも」
……驚喜する。那青さんは当時からの僕の心境に言葉をあてがってくれた。
「あたしだってヤタ君がサッカーに本気だって知ってたもんねー。だからかっこいいなって錯覚してたわけだし!」
錯覚って……上げて落としてをあまり繰り返さないでくれ。
「明日香ちゃん、錯覚って」
漫画なら汗の符号が付くような表情で那青さんが突っ込んでくれた。
「あ、ごめん、ちょっとギョッとした?あたしら2人の間ではジョークで通るから大丈夫!当時の話、当時の話ー!」
いや……僕は傷つくぞ、簡単に傷つくぞ……
「サッカー少年からサッカーを奪えば、在り方っていうのかな、振る舞いとかどうすればいいかわからなくなるかもね」
那青さんはほんとに汲んでくれるなぁ。この深遠さはまさか哲学の副産物か?真理が身近だとこうも思慮深くなるものなのか?
「大袈裟に言うとそうかも。サッカーから目を背けざるを得なくなって、試合中継さえ観れなくなったもんだよ」
当時の心境がそこまでのものだったのかしっかりとは覚えていないので控えめに肯定したが、ツルさんは可動域いっぱいを使って首を横に振る。
「いやー、全っ然大袈裟じゃないでしょー」
「私も話を聞くだけでもそう思った」
「何せ、ビフォーアフターの差がすごかったもん。よっぽど辛かったんだよねー。だって未だに浮上してないくらいだから!」
ツルさんのディスりは留まることを知らない。
「新たな目標を見付け、個人的には浮上傾向にはあると思うんですけど……」
「那青ちゃんが言うところの『振る舞い』が取り戻せてないってこと!昔は明るくてキラキラしてたのに今は暗くてジュクジュクしてる!」
ジュクジュクってなんぞや。
「ジュクジュク?」
ほら那青さんもニュアンスの把握に困っているぞ。
「だけどジュクジュクも悪くないってあたしは知ってるけどねー」
やっぱりフォローにありがたみを感じにくいが、ツルさん的にそれがOKだと言うのなら受け入れよう。
しかし……
「あのさ、いい加減僕の話はよくない?パーッとする日の会話じゃないでしょ、コレ?」
もっとも僕にとってはコレでもまぁ別にいい。
自分の過去の心境は他人にも理解してもらえることが判明した。
僕の心境はアイデンティティの問題だったのか。コレは使えるんじゃないだろうか?
こそっとスマホにメモを残した。
『ジュクジュクアイデンティティ』