第7日
勾留中とはいえ、非常に良くしていただいていることには、感謝しています。拘置所へ移送されてから、個室を与えていただいており、書籍や雑誌の差し入れや閲読は自由にできています。私について報道された週刊誌を読むこともできます。提供される食事はしっかりと残さずいただいています。空調も完備しており、有難いことです。
坂井さんには、身上調書作成のためとはいえ、私のとりとめのない話に忍耐強くお付き合いをいただき、かたじけなく思います。あと少しだけ我慢をいただければと思います。
岡田は毎日面会に来てくれています。今朝も来て、20年以上借りっぱなしだった「ダットサン民法」が数冊、事務所の整理の時に出てきたので返すと言って持ってきました。私は思わず笑ってしまいました。20年以上前の法律書など、内容が古くて参照には値しません。ただ、暇つぶしにはなります。
欲望を解消するすべを奪われたといいましても、実際のところは、私はしばしば家族の目を盗んで、秘かに一人で行為を行っていました。
例えば外部の会合で遅く帰宅した時などは、子供たちを入浴させる役目を免除されますので、一人で入浴することになります。一人で行うにはまたとない機会でした。
風呂場で行った場合、即座に、跡形もなく排水溝に流すことができますので、痕跡が残りません。ただし、当然のことながら、風呂場では写真集や雑誌を見ながら行うことはできません。私は目を瞑り、卑猥な妄想にふけりながら事に及びました。
2~3ヶ月に1回、私は会議に出席するため東京へ出張しました。出張は一人の行為を満喫する絶好の機会でした。出張の際、私は写真集「聖・少女」を必ず仕事用の鞄に忍ばせていきました。また、書店で人目をしのんで女子高生や中学生がモデルとなっているグラビア誌を購入し、ホテルではそれらを見ながら昂奮し、普段の反動から、1時間ほどたっぷり時間をかけてそれを行いました。
数時間置いて、今度は短めにもう一度行いました。1日に3度したことも稀ではありません。翌朝は、朝食を取る前に必ずまた行いました。1泊ですむ出張も無理やり2泊とし、行為三昧の日を送りました。
出張中、「聖・少女」やグラビア誌は二重の封筒に入れて持ち歩いていました。仕事用の鞄の中身を人に見られることはまずないとはいえ、鞄を置き忘れたり、何かの拍子で中身が外に出てしまったりする可能性を考えますと、やはり気が気ではありませんでした。
グラビア誌はまだしも(それも相当危ういのですが)、「聖・少女」は少女写真集ですから、そのようなものを持ち歩いていることが明るみに出たら、社会的な生命は終わったようなものです。
官舎では、以前も述べました通り、これらは本棚の法律書の奥に封筒ごと隠してありました。ところが、家じゅうを歩き回るようになった次男が、本棚の本を全部外に出してしまい、封筒がまる1日床の上に露出していたことがあり、私は肝を冷やしました。
さらには、ゴルフの帰りにうちに寄った先輩が、「あ、こんな本を持ってるんだ」と言いながら古い法律書を本棚から取り出し、奥に隠してある封筒があらわになったこともありました。
私はこのような書物を保有し続けていることの危険性に思いを至らせました。そのうち息子二人のいずれかが封筒を勝手にあけて中身を見てしまうかも知れません。さらに成長して年頃になった息子たちが、父親が少女写真集を隠し持っていることをもし知ったなら、父親を変質者と疑い、深く傷つくであろうし、父親としての尊厳は地に墜ちるであろうと思うと、一刻も早く、このような書物は処分した方がよいと思われるのでした。
ですがこれまでさんざん述べてきた通り、私はこの写真集を相当に気に入っていました。愛していると言っていいくらいでした。せめてソフィア、ヴェロニカ、ナタリーの掲載されている頁だけでも切り取ってどこかに保管しておくことはできないかと考えましたが、やはり家族に見つかる危険性を考えると、残さず処分した方がよいと思われました。
絶対に後悔することはわかっていましたが、私は泣く泣く、「聖・少女」を廃棄することを決意しました。
私は廃棄の方法を考えました。公共施設のゴミ箱に封筒ごと捨てるのが最も手っ取り早い方法でした。駅のゴミ箱は、この頃東京で起きた無差別テロ事件の影響でことごとく撤去されていましたが、商店街や商業施設にはゴミ箱が存置されているところがありました。しかし、私が愛してやまないソフィア、ヴェロニカ、ナタリーが掲載されている大切な書物に対し、ゴミ箱に捨てるなどというぞんざいな扱いをすることはできかねました。
そこで私は昼間、天神の老舗デパートである岩田屋本店に行き、5階紳士服売場の手洗所の一番奥の個室に備え付けられた荷物棚の上に、封筒に入れたままの「聖・少女」をそっと置いて、出てきました。そうすることにより、この書物が誰か他人の手に渡り、新しい持ち主のもとで、第二の人生を送ることができるかも知れないと考えたのです。
こうして私が10年以上も保有し、何百回もそれを用いて行為にふけり、私の性的嗜好さえも決定付けた少女写真集「聖・少女」は、遂に私の手を離れることとなりました。同書が次に手洗所の個室に入ってきた者によって持ち帰られたのか、清掃係によって処分されてしまったのかは、知る由もありません。
その後しばらくして、「聖・少女」の廃棄は少し早まったのではないかと思う事態が起こりました。
私は福岡赴任から3年で再び転勤となり、家族とともに松山に引っ越すこととなったのです(岡田は、とっくに福岡を去り、宣言通り大阪の五十嵐綜合法律事務所に勤務していました)。子供が二人いるということで、家族向けの広い官舎が割り当てられました。
私はよく仕事を持ち帰ることがあり、書斎が必要と強弁し、自分の部屋を手に入れることができました。鍵のかかる引き出しのついた机を購入したので、雑誌類は隠しておくことが可能になりました。
また、持ち帰った仕事を深夜に処理することを口実に、書斎にベッドを持ち込んで、そこで寝起きすることになりましたから、家族が寝静まったあとなどは比較的自由に行為をすることができるようになったのです。
これは大変好ましい環境の変化でした。もう少し我慢していれば、「聖・少女」を保有し続けられたかも知れないと、私は大変残念に感じました。
しかしほどなくして、いわゆる児童ポルノ規制法が制定・施行され、18歳未満の者の裸体を掲載した書物は違法となり、発刊されたり、流通したりすることはなくなりました。
最初に書斎を持つようになってしばらくしてから、私は初めて自宅用にパソコンを購入しました。
インターネットが家庭に普及し始めた頃でした。私は、インターネット上に、女優やアイドルの画像を沢山掲載したサイトがあることに気付き、それらを探索してお気に入りの画像を探し回ることを覚えました。
当時のインターネットの通信速度は現在に比べると極端に遅く、サイト上にあるサムネイルと呼ばれる小さい画像をクリックしてから、大きな画像が表示されるまで、5分、10分かかったり、処理がタイムアウトで終了してしまうことも稀ではありませんでした。サムネイルがあればまだいい方で、画像1、画像2などと表示され、いちいち開かないと、その内容がわからないこともありました。
気の遠くなるような根気の良さで画像を探索し、気に入ったものがあれば保存するのですが、パソコン本体に保存しますと、いつ家族に見られるかわかりませんから、当時一般的だった記憶装置であるフロッピーディスクに保存しました。しかしフロッピーディスクの容量は少なく、1枚にせいぜい画像2~3枚しか保存することができません。フロッピーディスクから画像を呼び出すのも、じりじりと大きな音がする上に、随分時間がかかったものです。
そのようにして、私の机の引き出しにはお気に入りの女の子の画像を収納したフロッピーディスクが増殖していきました。
この頃私が大のお気に入りでしたのは、EKという、当時14~15歳だった女優でした。EKの水着画像が多くネット上に出回っていました。細面で髪が長く(短い時もありました)、美形ですが、あどけなさを残したかわいらしい顔つきをしていました。かなり細身の肢体が特徴である一方で、胸は小ぶりながらもしっかりありました。
私はフロッピーディスクをとっかえひっかえしながらEKの水着画像を次々にパソコンに呼び出し、その華奢な体を眺め回しては昂奮し、行為にふけりました。
もちろん、それ以外の女の子の画像も数多く入手しており、そちらも用いました。
EKにぞっこんだった時期は数年続きました。
EKの次に私が耽溺したのは、子役出身の女優で、当時12~13歳だったKMでした。KMは割と肉付きが良く、ぱっちりとした小動物のような目や子供子供したかわいらしい顔立ちに欲望を刺激されました。水着画像はそれほど出回っていませんでしたが、タンクトップやショートパンツなど肌の露出の多い画像が多くあり、とりわけ中学生にしては肉感的なその太腿には極めて性的欲求を喚起させられました。年端の行かない少女の身体を眺め回し、妄想をしながら激しく昂奮し、毎晩のように終局に至りました。KMのかわいらしい姿態を想像すると、職場にいても昂奮して反応し、早く家に帰りたくなるのでした。
私が松山にいる間に、岡田は同時期に入所した事務所の後輩弁護士と結婚しました。結婚式は帝国ホテル大阪で盛大に行われ、私も出席しました。媒酌人は所長の五十嵐弁護士でした。新婦は、すらりと背が高く、京都大学を出た才媛でした。植田有紗という、芸能人のような名前を持ち、結婚後も旧姓を続用するとのことでした。後輩とはいえ、岡田とは同い年でした。
坂井さんも先刻ご承知の通り、我々法曹は司法修習の期によって先輩後輩が決まります。私と岡田は36期でしたが、有紗さんは38期でした。
誰もがうらやむような美男美女の二人でした。翌年には岡田夫妻に娘ができました。
松山に3年いた後、私は大阪に赴任しました。再び岡田と同じ都市に住み、働くこととなりました。岡田は歓迎会をやってやると言いましたが、お互いに忙しく、実現は初夏になりました。
弁護士になってから収入が激増したようで、岡田の容貌は見るからに変わっていました。派手な柄のスーツとネクタイに、舶来の高級腕時計。髪を伸ばし後ろで束ねていました。目はぎらぎらと輝いていました。
「『岡田君、年収が億行くまでは愛人はやめとけ』と五十嵐先生に言われたよ」と岡田は得意げに話しました。
五十嵐弁護士に愛人がいるのは業界では有名な話で、愛人に産ませた娘を事務員として雇用しているとの噂でした。
「億? あと何年かかるんだ」
「来年あたりには行くんじゃないか」
「愛人作るのか?」
「実はもういるんだ」と岡田は言いました。「五十嵐先生には内緒だけどね」
「まだ結婚して数年だろう」私はあきれて言いました。
北新地の京都料理店で鱧をご馳走になり、二次会は高級クラブに連れて行かれました。岡田は、お気に入りのホステスに高級シャンパンを口移しで飲ませると宣言し、実行しました。周りのホステスたちが囃し立てました。私は、岡田の行状のすべてに何か危険極まりないものを感じました。岡田が何か間違った方向に進んでいるように思いました。岡田は、ホステスたちを連れていわゆるアフターに行くつもりのようでしたが、私は途中で離脱しました。
岡田が弁護を担当する事件が私の部に回付されることが何度かありましたが、私は友人であることを理由に忌避しました。岡田は仕事中毒と言えるほどに働いているようで、仙台や福岡でのように頻繁に飲むということはなくなりました。ただ、裁判所の廊下などでは時々顔を合わせました。
ある時、裁判所構内の売店で法律書の新刊を探していると、岡田に出くわしました。
「大谷、少しだけ時間あるか」
岡田は私を構内の喫茶店に誘いました。
「忙しいのに、悪いな」岡田は言いました。「実は、独立を考えてるんだ」
「もう?」私は驚いて言いました。
アソシエイト(勤務弁護士)として研鑽を積んだ後、独立して自分の事務所を構えるのは弁護士として通例のことですが、下積み期間は少なくとも10年と考えていました。この話を聞いた時点では、岡田が五十嵐綜合法律事務所に入所してまだ5年足らずでした。
「いつからだ?」私は訊きました。
「早ければ来年、遅くとも再来年にはと考えてる」
「今の事務所に不満でもあるのか?」
「そんなんじゃない。五十嵐先生も応援してくれている。現在のクライアントも、そのまま持って行っていいと言われてる」
「一人でやるのか?」
「いや、既に何人かの弁護士には声をかけている。知財を中心に、一般の民事も幅広く手掛けようと思っている。無論、検察人脈も活かして、刑事も扱うつもりだ」
「夢があるな」
「大谷、一緒にやらないか?」岡田は言いました。「元検事と元判事が組めば最強だ。事務所名は連名でいい」
「無理だよ。弁護士というのは、俺の性に合わない」
私が即答したのは、もちろん自分が弁護士に向いていないということもありましたが、その頃の岡田に何か危なっかしいものを感じていたからでした。昔から成功への願望が強かった岡田ですが、必要以上に急いでいるように思えました。
五十嵐弁護士の引き立てがあったのでしょう、岡田はこの頃から関西ローカルのテレビ番組に時々コメンテーターとして出演し、イケメン弁護士として知られるようになりました(ちょうど、「イケメン」という言葉が流行り始めた頃でした)。その後、全国放送にも出演するようになりました。
五十嵐綜合法律事務所に入所してから7年後、岡田は念願の独立を果たしました。岡田法律特許事務所と称し、淀屋橋の新築ビルの1フロアを借りて開所しました。盛大な事務所披露パーティーが行われ、私も呼ばれました。岡田はトレードマークとなった長髪に加え、口髭をたくわえ、ダブルのスーツを着こなしていました。その外見は、元ボスの五十嵐弁護士から大きな影響を受けているようでした。洗練された笑みを浮かべ、次々に訪れる大物弁護士や裁判官、政治家、マスコミ関係者を接待していました。
事務所には、岡田以外に男性弁護士2名、女性弁護士2名、弁理士1名が所属していました。私は、秘書として入所した3名の女性が、揃いも揃って美人であることに驚きました。一般に、弁護士事務所の受付や秘書には美人が多くいます。重要顧客である企業の幹部は、男性社会である日本ではほぼすべて男性ですから、彼らにより良い印象を与えるため、見た目の秀でた女性に接客させるのです。ですが、岡田の雇った秘書は水準が飛び抜けており、女優と見まごうほどでした。3人とも背が高く、二人は長髪、一人は短髪、揃って明るい髪色でした。白のブラウスに黒のタイトなミニスカートと、制服のように統一していました。
「どうぞ」と、長髪の子の一人が、私にシャンパンを運んでくれました。香水がぷーんと漂いました。まるで女性が接客する夜の店に来たかのようでした。何でも、レースクイーンやグラビアアイドルを多数擁するゼロワンファミリーという大阪の芸能事務所から岡田が引き抜いたとのことです。私はここでも、岡田の行動に何か危なかしいものを感じざるをえませんでした。
ご承知の通り、私の不穏な予感は後に的中することになります。