第6日
妻はなかなかバスルームに行く気配がありません。何をするわけでもなく、ぼんやりとテレビの画面を眺めています。一度洗面のためにバスルームに入りましたが、また戻ってきました。
私は、もしかしたら妻も、決定的瞬間を迎えるのが怖く、それを先延ばしにしようとしているのではないかと疑いました。しかし妻は、早く子供が欲しいと口にしていましたから、交渉に支障がなくなった今、できるだけ早くその機会を迎えようと考えるはずです。私は妻の内心を慮ろうとしてみましたが、女性との交際経験がない私には至難の業でした。無為に三十分ほどの時間が流れました。
私は遂に、妻に、シャワーを浴びないのか、と問うてみました。すると、妻は「そうね」と言い、ようやく重い腰を上げました。そしてバッグから着替えその他必要なものを取り出して、シャワールームに入りました。やがて妻がシャワーを浴びる音が聞こえてきました。
私はまたどきどきし始めました。妻は今夜交渉を行うことを前提としていないのではないか。私は、最初にホテルに誘った時の妻の断固とした拒絶と自身に訪れた衝撃を思い出し、この後再びそれが訪れるのではないかと恐怖しました。
テレビは国営放送を映し出しており、ニュース番組が流れていました。スーツを着た男性アナウンサーが淡々とその日の出来事を語っていました。その時アナウンサーの背後に映し出された、事件の当事者と見られる人物の映像を、私は漠然と、なんだか見たことのあるような顔だなと思って見ていました。
その後拡大された人物画像を見た瞬間、私の体を不意に雷に打たれたような強い衝撃が貫いました。
私は腰をかけていたベッドから飛び跳ねるようにして、テレビの直前に摺り寄り、食い入るようにその画像を凝視しました。画像はすぐに消え、アナウンサーは次のニュースを語り始めました。
私の体はがくがくと震え始めました。
妻がシャワーを終え、脱衣場で体を拭いている気配がしましたが、私の震えは止まりませんでした。
流されたニュースの内容は、1年半ほど前に東京で起きたある猟奇的な事件に関連するものでした。未成年の少女二人が立て続けに誘拐され、いずれも暴行を加えられた後殺害されました。その後、少女の誘拐未遂も2件起きました。警察の総力を尽くした捜査の結果、近所に住む30代の独身男が逮捕されました。容疑者は当初一貫して否認していましたが、取り調べの段階で犯行を自供しました。ところが刑事裁判が始まると、容疑者は自供を撤回し、無罪を主張しました。取り調べにおいて暴行を受け、自白を強要されたというのです。
とりわけ検察での取り調べが過酷なものであり、検察官から連日殴る蹴るの暴行を受け、睡眠もほとんど取らせてもらえなかった、暴行は、パイプ椅子で頭部を殴打するような常軌を逸したものであり、歯が折れ、顔が変形するほどだったというのです。
世評は、いくらなんでも検察においていまどきそのような暴挙が行われるはずはなく、無罪を主張するためのでっち上げ、または誇張ととらえていました。
ところが、同様の被害を証言する元受刑者が複数出てきて、週刊誌が「自白強要に手段を選ばない暴力検察官」などと書き立てたため、捜査がされた結果、当該検察官が行った度重なる暴行が事実である疑惑が出てきたというのです。
私がこの日たまたま目にしたニュースは、この検察官が暴行の疑いで逮捕されたことを伝えるものでした。
そしてテレビの画面に映し出された元検察官(この時点で、既に辞職していました)の顔は――
どうしたって見間違えることはありません。
それは20年前に家を出て姿をくらませていた次兄でした。
生き別れになってから相当の月日がたっているので、容貌が変化しているのは当然のことです。髪は白くなり、顔には皺が目立っていました。しかし、その男は、丸顔で鼻が低く、目が細く、顔全体を横に引っ張ったかのような、我々家族が共通して持っている特徴的な相貌を備えていました。そして苗字こそ違っていましたが、名前は次兄のものでした。
私は混乱しました。
次兄は失踪後、結婚したり養子になるなどして、姓を変えたのだろうか。別人として生きていたということだろうか。検察官になるためには司法試験に合格しなくてはならないが、姓の変更、司法試験の受験、司法修習、検察官の登録など、家族と断絶した身でありながら、どのようにそれらを遂行したのだろうか。
数々の疑問が渦巻きました。
テレビは既に別のニュースを伝えています。同じホテルに宿泊している私の両親は、このことを知っているのでしょうか。
両親はめったにテレビを見ません。新聞も取っていません。信仰と関わりのない世俗の情報を無闇に入れるべきではないという考えからです。直接、次兄と連絡を取っているのでなければ、両親にこの情報が入る方法はほぼありません。次兄と連絡を取っていながら、それを家族に隠しておく理由は見つかりません。
私はこのことを両親に話すべきかどうかを考えました。しかし、激しい混乱から、私はほとんど思考能力を失っていました。
その時、奇妙なことが起こりました。
部屋の窓ガラスを、どんどんどんどん、と強く叩く音がしたのです。
私ははっとして耳を澄ませました。
部屋は前のように静まり返っています。
そこは12階でした。窓の外に人がいることは考えられません。むろん部屋には私以外いません。一体何が起こったのでしょうか。
すると、どんどんどんどん、どんどんどんどん、と、今度は2回、窓を叩く音が大きく響きました。
私はぎょっとして飛び上がりました。窓ガラスの方を食い入るように見ましたが、変わった様子はありません。
恐る恐る窓に近付き、カーテンを一気に開け放ちました。
外には何もなく、隣接するビルの灰色の壁が、無機質に立ちはだかっていました。見下ろすと、ホテル前の大きな車道をひっきりなしに車が行きかい、かすかにエンジン音やクラクションが聞こえてきました。
私はそこに茫然と立ち尽くしました。
忘れかけていた遠い記憶が甦ってきました。
15年前、故郷の自宅の部屋。
友達から借りた外国の雑誌で生まれて初めて卑猥な画像を目にし、その醜悪さに衝撃を受けた夜、まさにこれと同じことが起きたのです。あの時は弟が私を驚かすためにやったことかと疑いましたが、そうではなかったのです。
その時、妻がシャワールームから出てきました。
「どうしたの?」と妻が言い、私は振り返りました。
私がよほど素っ頓狂な顔をしていたのでしょう。妻は少し驚き、「どうしたの?」と再び言いました。
私は今起きた出来事を妻に説明する言葉を持ちませんでした。何かの勘違いか、気のせいと捉えられるように思われました。
「いや、なんでもない」
「酔っぱらったんじゃない?」と妻が言いました。「ひどい顔をしてる」
私は、もはや初夜をいかに迎えるかなど考えられないほどに混乱していました。この日は眠りました。
翌日から我々は新婚旅行に飛び立ちましたが、その間一度も交渉を行いませんでした。旅行の日程が進むにつれて、私は徐々に慌て始めました。このままでは一生妻と関係を持つことができなくなるのではないかと危惧しました。ですが焦れば焦るほど、妻にそのことを持ち出す心理的な障壁は高くなりました。
旅行から帰って、2部屋しかない狭い官舎で新生活を始めると、この問題はじきに解決しました。
既にお話しした通り、妻は子供を欲しがっていました。そこで、排卵日になると自ら私を誘うようになったのです。
ここで新たな問題が発生しました。
私は今更ながら自らの性に関する知識の乏しさを痛感することとなりました。
かつて女性とホテルに行った一度きりの経験においては、私は緊張のあまり不能に陥り、行為を成し遂げることができませんでした。また司法修習時代に数回、特殊な浴場を訪れましたが、そこでの行為は、相手の先導による全くの受け身のものでした。
いざ、妻との間で正々堂々と交渉を行うことが叶い、しかも妻の方から求められたにもかかわらず、結局、私は何をどうしていいかほとんどわからないのでした。
まずは第一に、私はまたしても極度の緊張から、体が反応せず、さらには妻の体をまさぐっても、結婚前はあれほどそれを切望していたのにもかかわらず、欲望を感じる余裕さえありませんでした。自らの手で刺激し何とか反応させ試みても、反応が充分なものでないため目的を遂げることができません。大変困った事態に立ち至ってしまったのです。
ただ妻はこれに関して楽観的でした。私を慰めるためか、最初はうまくいかないものと告げ、気長に行こうという立場を取ったのです。これは私にとっては幸いでした。
失敗を恐れる必要がないということは私の精神的な重圧を開放し、緊張を解くことに寄与しました。そのおかげもあり、数次の失敗を経たのち、私は無事に体を合わせることができるようになりました。
しかし悲しいかな、そのあとどうすればいいのか私はわからないのでした。
現在のように、成人向けの映像は巷間に流通しておらず、それを見て学ぶという方法もありませんでした。
私はかねて、一人で行う行為においては手を上下することによって終局に至るが、本番においては、単に合体することのみによって至らなくてはいけない、そのようなことが可能なのかと、疑問に感じていました。
私は何度か、一人で行う際に手を動かさず、握力で圧迫することにより終局に至るかどうかを試してみたことがありました。当然のことながら、それは困難でした。
私はいい年をして、交渉の正しい仕方も知りませんでした。
ですが、考えてみますと、交渉の正しい方法など、誰も教えてくれるものではありません。私が幼かった当時は、性教育など禁忌であり、学校では性にまつわる事柄など教えませんでした。
最近では性教育が普及しているのかも知れません。それにしても、終局に至るためには体を動かして刺激するということまでは教えないのではないでしょうか。それとも通常の男なら、そのようなことは教わらなくても自然に行うものなのでしょうか。
動物ならば本能により交尾を行います。人間はどうなのでしょうか。幼少期に無人島に取り残された男女がいたとして、成長して思春期を迎えお互いの体を求め合うようになった場合、どのようにして交渉を行うのでしょうか。
何も手本はありません。体をまさぐりあって戯れているうちに、偶然その方法を発見するのでしょうか。
動かずにいる私に、妻は、体を動かすように告げました。あれほど頑なに婚前交渉を拒んでいた妻ですから、私より前に経験があるはずがありません。それにしても、どういうわけか、妻は交渉に関しては私より博識でした。
子供を欲しがっていた妻ですから、何か女性向けの書物を読んで勉強をしたのかも知れません。
一度だけ、私は妻に、自分より前に経験があったのかどうかを尋ねてみたことがあります。妻は、何か照れ笑いのようなものを浮かべましたが、そんなことはないと否定しました。
ともあれ妻の手ほどきもあり、我々夫婦は人並みの事柄を行うことができるようになりました。最初はおどおどとしていた私も、徐々に緊張を解き、落ち着いて臨むことができるようになりました。
回数を重ねれば重ねるほどに、そこから得られる快感は増加していきました。この行為は、精神的かつ肉体的に著しい快感を男にもたらします(女性については、いまだによくわかりません)。
一人での行為とは異なります。これほどの大きな充足をもたらす行為はほかにはありません。
中には一度もそれを経験することなく一生を終える者もいます。この筆舌に尽くし難い悦びを体験しないのは大きな損失でしょう。
人間として生まれてきたからには、この驚くべき愉悦をもたらす行為を、一度でも多く、できれば何度でも繰り返して行いたいと願うのは無理もないことでしょう。
妻は毎日基礎体温を測定しており、我々夫婦は1ヶ月の中でいわゆる危険日に集中して交渉を行いました。私は毎月訪れるこの祝祭の数日間を待ちわびるようになりました。
今晩あたりそろそろ妻の認可が降りるのではないかという日は、昼間仕事をしていても、そわそわして、早く家に帰りたいと切望しました。家に帰って、妻の作った夕食を取りながらも、早く夜が来ないものか、早く時間がたたないものかと、そればかりを思いました。
世の勇壮な夫であれば、夜を待たず、帰宅するなり妻を押し倒してしまうこともあるのでしょう。しかし私にはそんな意気地はありませんし、妻も不規則な行動を好みません。
今夜はできるだろうと期待し、待ちに待って、夜、結果が否だった時の絶望感は甚大なものでした。そのような時は、大して飲めないにもかかわらずやけ酒をあおりました。
一方で、妻の認可が降りた時の喜びは激烈で、私は飢えた獣のように妻にむさぼりつきました。私の妻への扱いは手荒なものだったようで、妻はそれをひどく嫌いました。もっと丁寧に自らを取り扱うよう要望しました。場合によっては中断させられました。私としてもせっかくの行為をやめさせられるのはたまりませんから、極力、焦らず、注意深く妻を扱うように気を付けるようになりました。
何度も重ねるにつれて、私には欲が出て、いろいろな位置や状況を試してみたいと思うようになりました。ベッド以外の場所で行うとか、衣服を付けたまま行う、またいわゆるコスチュームプレイなどと呼ばれる行為などです。
しかし、妻はそのようなことには一切興味がありません。イレギュラーな行為は、頑なに拒否しました。
それでも私は充分満足でした。
私は見た目も凡庸な風采の上がらない男で、女性から見た性的魅力などは皆無です。恋人がいたこともありません。上司の提案でお見合いをしなかったならば、一生結婚はできなかったかも知れません。通常の女性との交渉など一度も経験することなく、生涯を終えていた可能性も充分にあります。
そんな男が、月のうちの特定の日程ですが、集中して行為を行い、極上の悦楽を味わうことができたのです。
なんという幸福でしょう。
妻は、裸にしてみると、着衣の時予想したのよりはさらにぽっちゃり体型でした(私も同様ですが)。
着衣の上からその存在を意識し、それに触れたいと私が羨望していた妻の胸部は、小ぶりではありますが、豊かな膨らみを持っており、私を魅惑しました。
私は妻の胸部に執着しました。異常なほどに昂奮し、体は著しい変化を示します。妻は私を迎え入れます。筆舌に尽くし難い気持ちよさです。快感で全身がとろけそうになり、頭がぼーっとします。
快楽を持続させたいため、できるだけ我慢しますが、限界が訪れます。
脳天を貫くような悦楽で、体がぶるぶると震えます。
終局と同時に、私はすべての鬱屈と、熱情と、願望、理念、志向、私の存在そのものの凝縮された塊を一つ残らず放出するように感じました。
なんという快楽でしょう。また次回が楽しみで、待ち遠しくてなりません。体力が許すならば、何度でも挙行したいと思います。
これは私にとっては、信じ難い楽園のような日々でした。
ですが、そんな日々も数年で終わることとなります。私はいずれ奈落の底に突き落とされることになるのです。
我々夫婦はなかなか子供を授かりませんでした。
妻は、どちらに原因があるのか診察を受けた方がよいと私を促しましたが、私はそのような病院に連れ立って行くのが恥ずかしく、何かと理由をつけて先延ばしにしました。
ですが、妻は強く主張し、その問題で夫婦関係が危うくなるのも困りますので、しぶしぶ重い腰を上げ、産婦人科を訪れました。検査の方法と手順、不妊治療のいくつかの類型について説明を受けました。排卵誘発、人工授精、体外受精、顕微授精などの方法があるとのことでした。後日改めて検査を受けることとなり、その日は帰りました。
妻は、私が治療に積極的な姿勢を見せたこともあり、ほっとしたようでした。
回数を重ねるほどに、得られる快感は増大してきたと前に述べました。これは多くの夫婦・恋人に当てはまるのではないかと思います。最初は、お互いの体が硬く、ぎこちなく感じられます。それが次第になじんできます。遂には、お互いの肉体がまるで相手のそれに合わせて設計されているかのような一体感を覚えるようになります。
肉体的なつながりは強固になり、歓びは増幅し、相手の肢体が自分にとってなくてはならないものとなります。この人とはもう別れられないと考えるようになります。
この頃の私がちょうどそうでした。
私は、妻にとっても同様ではないかと推測していましたが、後々のことを考えると、それは思い違いだったかも知れません。
妻はあまり積極的・能動的ではありません。したくないことははっきりと拒絶しますが、その代わりに、何をどうしてほしいという要望も口には出しません。大きな声を上げることもありません。
特殊浴場の女性や、成人向け映像作品に出て来る女性は、不自然なほど大きな声を上げます。その方が通常の男性は昂奮するのでしょう。私はそれを聴いても昂奮するどころか、逆に気持ちが白々と冷めていきます。
妻はこの頃以前にも増して、危険日には毎晩のように私を求めてきました。子供が欲しいということもありますが、それ以上に快楽を欲していたのではないかとも思われました。
その夜も我々は交渉を行いました。
私が体を動かすと、私の執着する妻の胸部がかすかに上下に揺れました。妻の呼吸が上がりました。
妻は横を向いており、やや長めに伸ばしていた髪の間から耳たぶの先端が見え隠れしました。以前お話ししたように、これは私が激しく肉欲をかきたてられる状況の一つです。
昂奮が最高潮に達しました。快感が稲妻のように全身を貫きました。妻も身を震わせました。私はしばらくの間動き続けました。
なんという快感でしょう。言葉を失うほどの気持ちよさでした。妻と交わした中で、一番と言えるのではないかというほどの悦楽でした。
性は神から夫婦に与えられた至高の賜物であり、私は神に感謝せずにいられませんでした。
妻は、この時の行為により妊娠しました。私は今でも、行為の快感と妊娠の可能性とは比例するように思えてなりません。
この時結婚からおよそ2年がたっていました。
妻は懐胎を大いに喜び、早速子供の性別を気にしていました。私は、自らに生殖能力が備わっていたことに安堵しました。自分が人並みに父親になるのだという感慨が徐々に沸きました。
と同時に、すぐに考えたのは、妊娠中の行為のことでした。ほぼ2年間にわたって、月のうちの一定の時期、集中して行為を交わしていた愛欲の日々が、まさかこれで終わってしまうなどということはないだろうな、と心配したのです。
私は妊娠中の交渉について書かれた書籍を調べました。すると、安定期に入ってしまえば、特に支障はない、ただし、あまり激しいことは避けるべきで、母体に負担をかけないよう配慮すべし、と書かれていました。私は一安心しました。
妻は悪阻がひどく、妊娠初期の数ヶ月、気分が悪くて横になっていることが多かったのです。時々吐いたりもしていたようです。
私は、仕事から早く帰り、家事を手伝い、妻を介抱しながら、悪阻のひどいこの時期を我慢すれば、また元通りに交渉ができるという期待を胸に、月日が経過するのを待ちました。
ところが、妻の悪阻は意外と長く続きました。食欲がなく体重も減ってしまいました。その上、栄養が行きわたらない結果、流産や早産の危険性があると診断されてしまいました。最早、交渉を再開しようなどとはとても言い出せない状況となりました。
妻の母が心配して来訪し、泊まり込んで妻の面倒を見るようになりました。
やがて妻は長男を出産しました。妻は、女の子であればなおのこと良かったのでしょうが、それよりも異状なく出産できて安堵したようです。私も胸を撫で下ろしました。
慌ただしい日々がやってきました。1日10回近い授乳は、昼夜を問いません。ほかにも、おむつの交換、お風呂など。妻はほとんど寝る暇もありません。私も極力手伝いましたが、昼間は仕事に出ているので、微々たる力にしかなりません。
義母は、妻に乞われ、退院後も滞在を継続しました。2部屋しかない狭い官舎で、幼子含め4人の生活が続きました。
3ヶ月以上たち、私は義母がいる生活に息が詰まってきました。そろそろ帰ってもらうよう妻に頼もうと思ったのですが、一緒に暮らしているのでなかなか切り出すことができません。長男が眠り、かつ義母が風呂に入っている時を見計らって、小声で相談しました。しかし妻は、初めての育児なのでまだまだ不安だ、あと少し辛抱してほしいと言います。
結局義母は半年ほど滞在しました。この頃には長男はハイハイができるようになっていました。
親子3人水入らずの生活が始まりました。
私は妻におずおずと、営みを再開したいと訴えました。しかし、妻はまだとてもそんな気持ちにならないと言います。
私は激しく苛立ちました。精神的に不安定になりました。もうかれこれ1年半近く、交渉がないのです。妻がそのような状況になかったことは重々承知しています。ですが、あの黄金の快楽の日々が奪われたことが、私には大きな苦痛でした。
我々は妥協点を探りました。そこで、行為は行わない代わり、長男が眠った隙に、妻の手で導いてもらうことにしました。妻は、疲れていて面倒臭そうな時もありましたが、しぶしぶそれを行いました。
私は頻繁にそれを求めました。妻には胸部を露呈してもらい、それを見たり、手を伸ばしてそれに触れたりしながら、昂奮を高めました。
いいえ、正直に言いましょう。大半の場合、私は目を閉じ、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリーのかわいらしい姿を想像しながら、激しく昂奮し、終局に至ったのです。
しばらくの間、私の鬱屈はこれで解消されていました。しかし、所詮代替行為ですから、あの甘美の時間が恋しくて仕方なくなるのでした。
私はしつこくそれを妻に求めました。妻も二人目を欲しがっていましたので、いよいよそれに応じる日がやってきました。
長男がよちよち歩きを始め、片言を発するようになった頃、我々夫婦は再開しました。
長らく間が空きましたので、最初に体を重ね合わせた時のあの何となくよそよそしい感じがあり、しっくりしませんでした。ですが、回数を重ねるうちに感覚を取り戻しました。私にとっては、最高の悦楽の日々の再訪でした。
ですが、妻は、慣れない育児によるストレスがたまっていたせいか、以前ほどには積極的ではありませんでした。どちらかというと、いやいや応じている様子でした。あまり能動的でない妻でしたが、その傾向はさらに強まりました。あまり快感を覚えているようにも見えませんでした。交渉中に突然長男が起きて泣き出したりすることもあり、気が気でなかったのかも知れません。
しかし、私としてはとろけるような快楽の日々を取り戻したことがうれしくて、妻の事情などお構いなく、妻のまろやかな体にむさぼりつき、その後は疲れてぐうぐうと鼾をかいて眠りました。
妻はすぐに二人目を身ごもりました。妻は子供を二人欲しがっていましたので、大層喜び、私もお祝いを述べました。
ですが、これはあとになって考えてみれば、私にとっては、永遠の牢獄に監置される、惨めでおぞましい、悪夢のような日々の到来を意味していました。
二度目の妊娠なので比較的妻の悪阻は軽いのではないかと考え、私は妊娠中の交渉を打診しましたが、これは無下にも受け入れられませんでした。妊娠期間中、妻の気が向いた時に限り、私は妻の手で導いてもらいました。これはそれなりに快感をもたらす行為ではありましたが、満足度は及びません。一度目の出産の例に倣い、妊娠中および出産後しばらくは交渉ができないことを考えると、私は暗澹たる気持ちになりました。
やがて次男が産まれました。
今回は比較的安産でした。妻は二人目こそ女の子を望んでいたのでしょうが、不満は言いませんでした。一度目の出産の直後にも増して、慌ただしい毎日がやってきました。
この年、私は福岡への転勤を命じられました。転勤の多い職場ですので、東京に9年間いられたことは、奇跡に近いのですが。妻はまだ引越どころではなく、当面の間実家に帰ることとなりました。私は単身、初めての土地に赴任し、官舎でしばらく一人暮らしをすることとなりました。
自由な日々でした。
福岡で私はまた岡田と一緒になりました。岡田は札幌、東京での勤務を経て、福岡に赴任していたのです。私は岡田と連れ立って飲みに出かけ、九州随一の歓楽街である中洲の、女性が接客するような店にも、誘われるがままに出入りするようになりました。
「俺、検事をやめようと思ってるんだ」天神の屋台で締めのラーメンを食べている時、岡田は言いました。
「どうして?」私は問いました。
「一生日本各地を転々とさせられるのはたまらない」
「親父さんが反対するんじゃないか?」
「説得するよ」と岡田は言いました。「実は、ある弁護士事務所からお誘いを受けてるんだ」
「どこから?」
「五十嵐先生だ」
かつて国分町で見かけた知財の大家でした。五十嵐弁護士が携わったゲームソフトの開発をめぐる特許権侵害および詐欺の事案に岡田は東京で検事として関わり、堅実な仕事ぶりが気に入られたらしいのです。
「それはすごいな。いつから?」
「すぐにでも来いと言われている。今抱えている案件が落ち着いてから行こうと思っている。大阪なら、実家も近いので都合がいい」
「今まで刑事事件ばかりやってきて、いきなり知財とか民事の仕事ができるのか?」
「勉強するよ」と岡田は言いました。「勉強は得意だから。お前と一緒でね」
歓楽街の外れには風俗街があり、私はまたしても岡田に連れられ、特殊な浴場を訪れました。ですが、二度目からはその誘いを断りました。特殊浴場では満足に欲求を高めることができず、そこで味わうことのできる快楽は、支払いを求められる四万円近い金額に見合ったものではなかったからです。
それよりも私は早く官舎に帰りたいと望みました。少女の写真集を見ながら一人で行為をするためです。東京では2部屋しかない狭い官舎に家族で住んでいたため、できませんでしたが、こちらでは毎晩一人なので、行為はし放題でした。
私はまだあのすばらしく上質な写真集「聖・少女」を隠し持っていました。一人暮らしの部屋では大手を振って「聖・少女」を堪能し、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリーのかわいらしい姿を食い入るように眺め、毎晩のように行為にふけりました。
一晩に2回、3回とすることもありました。サルは死ぬまでそれをし続けるという俗説がありますが、それに近いものがありました。
私は独身時代、それほど数多くではありませんが、世の多くの独身男性同様、猥褻な雑誌や書籍を保有していました。その中には、当時「裏本」と呼ばれた、あからさまな印刷物も含まれていました。さすがにこれは新居には持っていけないと、結婚を機に処分しました。女優やアイドルの姿が掲載された週刊誌や写真集も若干持っていましたが、すべて処分しました。
特段惜しいとは思いませんでした。男女のあらわな姿にはさほど欲望を刺激されませんでしたし、週刊誌・写真集は、欲しいと思えばいつでもまた類似のものを入手できたからです。
「聖・少女」は例外でした。
冷静に考えれば、男女の姿態や女性の裸が載った出版物を保有していることを妻に知られたとしても、男だから多少は仕方ないとされるでしょうが、10代前半の少女のありのままの姿を写した写真集の保有を知られたら、かなりまずいことになりそうです。
しかし「聖・少女」をいたく気に入っていた私は、どうしてもそれを手放すことができませんでした。
私は、最初に入居した官舎では、本棚の、妻が絶対に見ないような法律書が並んでいる奥に、二重の封筒に入れてセロテープで封緘し、「聖・少女」を隠しておきました。時折、妻が外出している時や、入浴している時などに、それを引っ張り出して開封し、こっそりと行為に及びました。
しかし、妻が突然帰宅するのではないかとか、浴場から出て来るのではないかという不安で気が気ではなく、急いでしなくてはならず、快感も今一つでした。
後処理にも困りました。栗の花に例えられるあの強烈な匂いが狭い部屋に立ち込め、妻にしたことが知れてしまうのではないかというおそれがありました。私は、妻がうすうす気付いていたのではないかと思っています。
それが一人暮らしとなった今、ゆっくりと時間をかけて、いたいけなかわいらしい少女を眺め回し、昂奮し、思う存分に満喫することができるようになったのです。
大変に喜ばしいことでした。
その頃、女子高生が髪を茶色に染めたり、短い丈のスカートやルーズソックスを履いたりすることがはやり始めました。流行は急速に地方都市にも及びました。街でそれらの女子高生を目にすると、激しい欲望を覚えずにはいられませんでした。
ブルセラという言葉が誕生し、巷のブルセラショップに使用済みの下着を売る女子高生と、それを買う大人たちが出現し、批判的に報じられました。援助交際という語が生まれ、主に女子高生が大人の男を相手に売春をすることが問題視されました。
女子高生ブームとも言われました。成人向け雑誌は、流れに乗り、制服姿の女子高生を多く掲載し始めました。
成人女性に制服を着せ、卑猥な姿態をさらすものは、以前からよくありました。一方、この頃、アイドルのグラビア誌とエロ本の中間のような性質を持った雑誌が流通するようになりました。それらは、現役の女子高生を多く起用していました。表紙には、下着が見えそうなほど短いスカートを履いた女子高生の刺激的な姿が掲載されています。中を開くと、高校生、さらには中学生くらいの年齢の女の子が、制服のほか、スクール水着、体操服等を着て様々な姿勢を取っています。大きく股を開く、四つん這いになってお尻を突き出すなど、かなり卑猥な格好をさせられている写真もあります。中にはそれくらいの年代の子が裸体をさらしているものもありました。
いずれ処分しなくてはいけなくなることがわかっていながら、私はこれらを1冊、また1冊と購入しました。年端も行かない女の子たちのきわどい姿態を見て昂奮し、私は夜な夜な、行為にふけったのです。
それらの雑誌のモデルになっている女の子には非常に愛らしい子も多く、私は妄想をし行為を繰り返しましたが、同じ子を5~6回題材にすると飽きがきてしまいました。
私は定期的に「聖・少女」に立ち戻りました。やはり、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリー以外に、私を狂熱的に昂奮させるものはないのでした。快感も段違いでした。
この頃流行り始めた女性の茶髪は、すっかり定着し今に至っており、現在では黒髪のままの女性が珍しいくらいになりました。以前は、女性が髪を染めることは、一部の不良少女か、白髪染めの高齢女性しか行わないものでした。
茶髪の流行は、私にとっては非常に喜ばしいことでした。というのも、12歳のヴェロニカの少しウェイブがかかった長いブロンド、13歳のナタリーのお尻まであるほぼまっすぐなブロンド、それほど長くはないがさらさらでやや発色の薄い10歳のソフィアの髪を幾度となく眺め、昂奮に身を委ねているうちに、私には茶髪と長い髪への強い執着が生じ、それらから激しい昂奮を感じるようになったのです。
女子高生のミニスカートも一過性のものではなく、女子高生の定番品目と化し、15年以上たった今に至っています。これも極めて喜ばしいことです。男性ならば誰でも、女子高生の下着の見えそうな超ミニスカートに対して、著しい性的願望をかきたてられるでしょう。
一方残念なのは、ルーズソックスの流行が10年足らずで終わってしまったことです。超ミニスカートに華奢な生足、ルーズソックスという定番の取り合わせは、前に述べたような雑誌にもよく掲載されていました。その組み合わせには、思春期を迎えた少女たちの、恥じらいと挑発、しがらみと自由・奔放さといった相反する要素が凝縮されているようで、女性にはまるで相手にされなかった自らの高校時代の劣等感への倒錯的な反発、今は一層手の届かないところにいる少女たちとのつながりというありえない事象への妄想から、激しく昂奮を喚起され、行為にふけったものです。
そのような日々は長くは続きませんでした。
私に遅れること約4ヶ月、妻が長男と次男を連れて福岡に引っ越してきました。私はそれに先立ち、買い集めていた前述の雑誌類を原則として処分しました。原則としてというのは、とりわけ気に入った女の子の掲載された頁については、切り取って、「聖・少女」と同じ封筒に入れて隠しておいたからです。
静かに独身生活を送っていた官舎は、たちまち賑やかになりました。再び慌ただしい毎日が始まりました。
私は、できるだけ育児には参加したつもりでいます。といっても、おむつを替えたり、お風呂に入れたり、家事をわずかに分担する程度で、妻からしてみれば全く足りないと思っているに相違ありません。
再び家族と暮らし始めましたので、私は早く交渉を再開したく、時折その旨を申し出たのですが、妻はそのたびにもう少し待ってと言うのでした。妊娠中は時々してもらっていた手で導く行為もなくなりました。
妻の言うもう少しがどれくらいの期間を言っているのかわからず、ひと月、ふた月あけて、満を持して再提案しても、妻はもう少し、と繰り返すのでした。
当然のことながら、私の欲求不満は高じました。しかし、幼子が二人いる家庭の中で、ひっそりと一人でする機会もありません。
まさに八方塞がりでした。
家族と川の字になって寝て、朝方淫夢を見ると、目が覚めた時には体が著しく反応していました。一度、妻の胸に手を伸ばしてみましたが、まるで痴漢か何かでもあるかのように、強く手をはたかれました。
私は悶々としました。何よりも、この禁欲期間の出口がいつになるのかが見えないということが私を不安にしました。
次男が生まれて1年以上がたち、相変わらず妻が育児にてんてこ舞いしている様子を見るにつけ、これはもう夫婦の生活は諦めた方がよいのかとも思い始めました。
しかし、子づくりに励んだかつての蜜のような快楽の日々、その悦びを思い出すと、どうしてもそれを思い断つことはできませんでした。
妻が、再開をずるずると先延ばしにし、私の内心の懊悩を知ってか知らずか、夫婦の問題に真剣に向き合おうとしていないように感じて、私の心中では、ふつふつと怒りの炎が燃え立つのでした。
次男が一人歩きを始めた頃でしたでしょうか、夜、またしても拒否された私は、遂に堪忍袋の緒が切れました。
「一体いつまで待てばいいんだ」と私は怒鳴りました。「もう少しもう少し、って言うけど、もう少しって一体いつなんだ?」
妻は押し黙ったまま、何も答えません。
「答えろ!」
私は、横になっている妻の両肩を持って強く揺さぶり、叫びました。
それでも妻は何も言いません。
私は、答えろ、答えろ、と何度も繰り返しました。
押し問答、と言うか、妻は何も言わないので押し問答にならないのですが、30分以上も私は妻を問い詰めました。
「頼むから答えてくれ」最後は、懇願になりました。「育児で疲れているのはわかるよ。でも、なんで頑ななまでに拒み続けるのか。何か理由があるんだろう。あるなら言ってくれ」
だが、無駄でした。普段はよくしゃべる妻なのに、なぜか押し黙ったまま、何も答えません。
「なんで黙ってるんだ。何とか言ったらどうなんだ!」
私は、妻が無反応なことにさらに腹が立ち、詰問しました。日頃は温厚な私ですが、この時だけは抑え難いほどの怒りが頂点に達し、妻を殴りつけようとまで思いましたが、すんでのところで自制しました。
気分を落ち着かせた後、私は、これまで訊いてみたくても怖くて訊けなかった問いを発しました。
「まさか、もう一生、しないつもりじゃないだろうな?」
「そんなことはないよ」
妻は弱々しく言いました。その時の妻は、何か照れ笑いのようなものを薄く浮かべたようにも見えました。
突如、恐ろしいほどの不吉な天啓が稲妻のように私を刺し貫きました。
口では否定したものの、妻はもう一生私との交渉に応じることはないだろう。
私はそれを確信したのです。
妻は事をうやむやにし、嵐が過ぎ去るのを待ち、私がすっかり諦めてしまうのを待っている。妻の表情、態度、気配のすべてが、それを明白に指し示していると感じたのです。
凄惨な絶望が私の全身を包み込み、私はがくがくと震えました。私は寝室を出て、台所に行き、濃い蒸留酒をあおりました。もう自分の人生は終わったように思いました。
人間の快楽と幸福の中で至上のものである歓び。それはもう永遠に自分の身に訪れない。
そう決まったのです。
なんという不幸でしょう。
私は天を仰ぎ、神を呪いました。
私はこの時、36歳でした。まだまだ長い人生が残されていました。この先、私は何を楽しみに生きていけばよいのだろう。例えば仕事の面でうまくいき、出世をしたとしても、そのようなことはまるで無意味に思えました。
私は、学生の頃から割と真面目に勉強をし、仕事にも真面目に取り組んできました。家庭でも、比較的良い夫であり、良い父親ではなかったでしょうか。そんな人生はもう糞くらえだと思いました。
これからは、昔の無頼派の作家のように、自堕落で破滅志向の人生を送ってやる、と考えました。酒を浴びるように飲み、女を買い、浮気をしまくってやる。しかし、冷静に考えると、そんなことは土台無理でした。第一私は浴びるように飲むほど酒が強くありません。毎日、どこかに飲みに行ったとしても、まだそれほど高い給料をもらっていない中、小遣いでやりくりしている身では、すぐに資金が尽きてしまいます。
女を買う金なんてありません。その手の女性に欲望を覚えないという問題もあります。では一般の女性はどうかといっても、こんな冴えない男に浮気ができるわけがありません。元々ぽっちゃり体型だった私ですが、この頃さらに中年太りが加速し、早くも髪が薄くなり始めていました。もし万が一、私と浮気をする奇特な女性が現れたとしても、高級な料理店でしゃれたものを御馳走したり、ホテルに行ったりする資金などありません。
代替に一人の行為にふけることさえも、私には許されていませんでした。狭い寮に親子4人で暮らしており、ひっそりとそれを行う私的な空間などはありませんでした。
まさに進むことも退くこともできない状況でした。
大声で叫んで床を転げ回りたくなるほどの底なしの絶望感にさいなまれ、私は部屋の壁に何度も頭を打ち付けました。蒸留酒をかなり飲み、血流がよくなっていたせいか、額が切れて真っ赤な血が顔面を流れ落ちました。私はそれをちり紙でぬぐい、さらに酒をあおりました。
結婚とは一体何なのだろう。
夫婦のつながりとは何なのだろうか。
交渉というつながりが一切絶たれたとしても、夫婦はお互いを思いやり、大切に扱い、信頼し合っていく必要があるのだろうか。世の理想的な夫は、妻をいたわり、尊重し、時には甘い愛の言葉をささやきます。それはもし、交渉を完全に拒否されていたとしても、同じことができるのでしょうか。夫が妻を大切にするのは、交渉というつながりがあることが大前提ではないでしょうか。それを拒まれていたとしても、夫は妻に無償の愛を捧げ続けなくてはいけないのでしょうか。
離婚、という言葉が頭をよぎりました。
性的なつながりが一切ないのであれば、夫婦として共に生活していくことに何の意味があるのでしょうか。それはただの同居人でしかないでしょう。
私は、翌日にでも離婚を申し出ようと決意しました。そして、離婚の原因を作ったのは妻であるから、慰謝料を払うのは妻の方だと考えました。
翌日はひどい二日酔いで、私は仕事を休みました。
離婚について切り出そうと思いつつ、妻が忙しく育児と家事に立ち働いているのを見るにつけ、なかなかその機会を見つけられず、1日が終わりました。
次の日からは出勤しましたが、どんなふうに離婚を申し出ようとか、あるいは離婚を回避し何とか元の正常な交渉を回復する術はないものかと考えを巡らすと、仕事が手に着かず、効率が著しく低下しました。
優柔不断な私のことですから、そのようにして日々が過ぎていきました。以前と変わらぬ、自宅と職場を大人しく行き来する毎日でした。
結局、私が妻に離婚を切り出すことはなく、今日に至ります。
自分にも父親として人並みに子供をかわいいと思う気持ちがあり、できることなら幼い子供たちに、両親の離婚という不幸を与えずにすませたいということがありました。
世間体もありました。我々家族は平凡かつ平和な家族として、職場やご近所からは認知されていました。それを大きく裏切る行動に出るのは、勇気のいることでした。仲人となってもらった元上司に顔向けができないというのもありました。
何よりも、離婚はかなりの精神力を消費する行為であり、それに向けての踏ん切りがつきませんでした。ありふれた日常は、放置さえしておけば、脈々と続いていきます。私はそれに安楽しました。わざわざそれを大きく変えようという気力を持つことができるのは、人生に前向きな積極的な人間だけです。
離婚、もしくは交渉の復活について、夫婦間で根気強く議論することも、もしかしたらできたかも知れません。しかし、長年監禁された人間が逃走の意思を失っていくように、私も問題を解決しようという気持ちを徐々に失っていきました。
私の予想通り、妻との間で交渉が復活することはありませんでした。
次男が今年16歳ですから、それに妊娠期間を加えた年月、我々夫婦は没交渉ということになります。妻以外との女性との交渉の機会もありませんでした。
欲望の最も旺盛な30代の時期に、私は、夫婦ならば当然持っているはずの権利を剥奪され、不幸のどん底に突き落とされたのです。現在、表面上は仲の良い夫婦であるかのように装っていますが、私の心の底にどす黒く横たわる闇が消えることはないでしょう。
妻のかねての念願であった、二人の子供を作ること。それが実現したことで、夫婦生活における私の役割は終わったのです。家計と育児に必要な費用を稼いで家に入れるべきことを除いては、私は用済みの人間となったのです。
妻はその後、赤の他人であるかのように、私の前では、裸体はおろか下着姿さえも見せないようになりました。入浴は元々別々に行っていましたが、脱衣の様子さえも見せなくなりました。子供を二人産んでから急激に太り始めたのも理由でしょう。
実は妻は性的に潔癖な人間で、かつての交渉は、子供を作るための必要悪として、いやいや行っていたのかも知れません。
私がほんの一時期だけ、こよなく愛した、妻の豊かな胸部が、その後どう変貌したのかはわかりません。もう一生見ることも触ることもありませんから、特に影響はありません。