第4日
数多い兄弟の中でも、東京の大学に通わせてもらえたのは私だけでした。決して裕福な家庭ではありませんでしたから、奨学金を受け、アルバイトをしながらの大学生活でした。
坂井さんも、同じ大学のご出身とのことですね。私は15年ほど先輩ということになります。もちろん、先輩風を吹かせるつもりなどは毛頭ありません。
田舎で生まれ育ったため、あこがれの大都会に出られたことがうれしく、誇らしくもあり、私は、時間を見つけては、東京の街のあちこちを探索しました。とりわけ、古書店が立ち並ぶ神田神保町の界隈をよく歩き回りました。私は、大学の勉強とは全く関係のない、サルトルやらキルケゴールやら、ハイデガーやらヴィトゲンシュタインやらの書籍を探し当てては、購入しました。
界隈には、新刊書を売る大きな書店もいくつかあり、低層階には、アイドルや女優の写真集がところ狭しと平積みにされていました。それらを見て歩くのも、楽しみの一つでした。時折気に入ったものがあれば購入しました。
ある日、それら平積みされた写真集のうちの1冊が私の目に止まりました。表紙には、ブロンドの長い髪の、目を見張るほどかわいらしい女の子が、上半身何も覆い隠すことのない状態で写っていました。私はあまりのかわいさに衝撃を受けました。心臓の鼓動が極度に激しくなり、どうしてもそれを手に入れたくなりました。写真集は、ビニールで梱包されていて、中身を確認することはできませんでした。しかし、表紙の女の子の魅力に打たれ、私はすぐに購入を決めました。
昂奮に打ち震えながらレジに持っていき、震える手でお金を払い、急いでアパートに戻りました。
その写真集は、「聖・少女」というタイトルでした。
購入する時には意識していませんでしたが、それは、ある日本人写真家の手による東欧の白人少女たちの、ありのままの姿が掲載された写真集でした。10歳から16歳までの少女モデル6人が掲載されていました。
表紙の女の子は、13歳のナタリーという女の子でした。ナタリーは、細身の体つきをしており、肌の色はやや赤茶っぽく、ブロンドの長い髪にゆるやかなウェイブがかかっていました。清楚で、おとなしそうで、本当に美しくてかわいらしく、神々しいほどの魅力を持っていました。何ページかにわたって掲載されたナタリーの姿を眺めながら、私はこれまでにないほどの昂奮を覚えました。
別のページには、12歳のヴェロニカという女の子が掲載されていました。ヴェロニカは、前髪は短くしていますが、やはりウェイブのかかった長いブロンドを腰まで伸ばしていました。体つきは、ナタリーよりもさらに華奢でした。手足も細く、子供子供していて、白くて美しく、気が強くてお転婆な雰囲気が漂い、うっとりするほどのかわいらしさでした。
この二人を交互に、食い入るように見つめるうち、昂奮が頂点に達しました。その時の快感は、生まれて初めての時には及ばないものの、それを彷彿とさせる気持ちよさで、全身がとろけるような悦楽でした。
少し休憩したあと、私はもう一度ナタリーとヴェロニカを眺めました。この二人のかわいらしい、少女らしい未熟な肢体を隅から隅まで眺め回すと、昂奮が頂点にまで高まるのでした。
その日から、私は何かにとりつかれたように、毎夜、12歳のヴェロニカと13歳のナタリーを食い入るように眺め回しながら、背徳にふけりました。一晩に二度も三度もすることもありました。そのたび、身悶えするような、著しい快感を覚えました。
しばらくするとさすがに飽き、ほかの被写体でするのですが、また時間がたつと「聖・少女」に戻って来るのでした。
それまで、私は成人女性の裸体や、アイドルの画像を主に用いていました。とりわけ、アイドルの画像を多く用いました。それらは着衣、水着のもので、もちろん裸体などはありません。肌の露出の多い水着姿よりも、むしろ着衣の画像を用いることの方が多かったのです。アイドルは、みな10代であり、13歳とか、14歳の女の子もいました。私は、自分自身がまだ10代でしたから、自身が異常であると意識したことはありませんでした。
しかし、写真集「聖・少女」で、12歳や13歳の少女の抗しがたい魅力を知ってからは、さすがに、自分が少し特殊な嗜好の持ち主であることを認識せざるをえませんでした。
「聖・少女」に掲載されているモデルのうち、最年長は、16歳のヘレンという女の子でした。既に大人の女性と同じような体つきをしていました。通常の男であれば、このような成熟にこそ、より強い欲望を感じるはずのものです。しかし私は、ヘレンには、何の欲望も覚えませんでした。
逆に、最年少は、10歳のソフィアでした。ソフィアは、完全な幼児体型であり、さすがに欲望の対象とするのは一見困難でした。ですが、ソフィアはさらさらの線の細いブロンドの肩までの髪が綺麗で、とてもかわいらしい顔立ちをしていました。とりわけ、髪の間から先端をのぞかせている耳たぶがかわいらしく、私は、ヴェロニカやナタリーほどの頻度はありませんでしたが、この10歳のソフィアでも、時折激しく昂奮しました。
10歳や12歳、13歳の少女のありのままの姿が著しい欲望を喚起し、極度の悦楽をもたらしてくれることを知ってから、私は都内の書店をめぐり、同種の写真集を物色するようになりました。現在では考えられないことですが、当時、神田界隈の書店では、10歳前後の日本人の女の子をモデルとした全裸の写真集が、それなりの需要があるらしく、多数平積みにされていました。関心は惹かれましたが、表紙にそのような低年齢の少女の裸体が大々的にあしわれた写真集をレジに持っていくのは抵抗がありました。そもそもそれら写真集のモデルは、体つきも貧相で、暗い表情をしており、親の金儲けのために無理やりモデルをやらされている雰囲気が漂っていました。「聖・少女」のモデルたちのような、あどけなくあけっぴろげで、快活な印象はなく、写真集自体に、後ろめたい背徳の香りがありました。
白人の少女をモデルとした写真集もいくつかは出ており、何冊かは購入しましたが、満足のいく内容のものではありませんでした。
こうして、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリーのかわいらしい姿は、その後も長らく私の対象であり続けました。
現在では顕著になった、少女にしか欲望を感じないという私の異常な嗜好は、それまでもその兆候はありましたが、自分自身、はっきりとそれに気が付いてはいませんでした。私の異常な性癖は、少女写真集「聖・少女」によって目覚めさせられ、深化させられたのです。
私は、大人の女の過激な姿態を売り物としたいわゆるエロ本には、もともとあまり欲望をそそられませんでした。私はそれらに対してますます興味を失い、むしろ嫌悪を感じるようになりました。自分の欲望を強く刺激するものを求めると、対象は少女になるということを明確に意識するようになりました。
といっても、少女ならば誰でもいいというわけではありませんでした。既に申し上げました通り、この頃、少女を被写体とした写真集は多数出版されていましたが、そのほとんどは鑑賞に堪えないものでした。結局、私は、「聖・少女」に掲載されている、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリーに、偏執狂的な欲望を抱き、日々、耽溺したのです。
「聖・少女」は、その後の私の嗜好の展開に運命的な影響を与えました。
ヴェロニカとナタリーは、腰まで伸びた長い栗色の髪が魅力的でした。ソフィアは、二人よりも薄い、銀に近い金髪をしていましたが、髪はさらさらで線が細く、これまた非常に魅力的でした。爾来、私は女性の長くて綺麗な髪に強い関心を覚えるようになりました。特に、ヴェロニカとナタリーのような、栗色の髪、茶色い髪には、著しく欲望を喚起させられるようになりました。
また、さらさらの髪の間から耳たぶの先をのぞかせているソフィアへの欲望は、耳たぶへの執着を生み出しました。私は、女性の耳たぶにたまらない欲望を感じるようになりました。とりわけ、髪の間から耳たぶの先端がのぞいているという状況には、我慢できないほどの強い昂奮を覚えるようになりました。
実生活では、私は相変わらず女性とは無縁の生活を送っていました。私の入った法学部は、もともと女性が多くありませんでした。もとより積極的な性格ではなかったので、自ら進んで多くの友達を作ることもありませんでした。
法曹を志望していた私は、在学中に司法試験に合格することを目指していました。1~2年生の頃から割と真面目に勉強を始めており、大学に入ったからといって、羽をのばして遊ぼうとは思っていませんでした。
岡田とは、大学2年生の時に同じ学級になりました。
当時から、長身痩躯で、容姿も秀で、かなり目立つ存在でした。髪を伸ばしており、遊び人の雰囲気を醸し出していました。出身の京都では、高校生の学力試験の成績が府内一だったということです。天は二物を与えずといいますが、岡田の場合、学力と容姿だけでなく、スポーツ万能、社交的かつ明るい性格で多くの人を惹きつけ、二物どころか四物五物もあるように思われました。地味な私にとっては遠い存在でした。
岡田はそんな対極の性格の私にも積極的に声をかけてきました。大勢の中にいるのが苦手な私の性格に配慮してか、岡田が私を誘う時はおおむね一対一でした。何度か飲みに行き、哲学や法学を論議し、人生を語り、いつの間にかかなり親しい仲になっていました。
岡田に誘われて、六本木や赤坂のディスコに遊びに行ったこともあります。私には場違いな感が否めず、おとなしくしていましたが、その華やかな雰囲気は、田舎者の私にとっては新鮮で、自分もいっぱしの都会人になったのだと感興を覚えたものです。
岡田が親しくなった女性二人組と、私を含めた四人で数度、夜遊びをしたことがありました。岡田は、二人組のうちの一人がお目当てで、自然、私は残りの方の女の子とペアということになりました。
その女の子は、よく食べよく飲み、また、よくしゃべり、顔立ちも、目立ちたがり屋な性格も、私の好みではありませんでした。ところがこの子が、私のことを好みであると公言し、積極的に接近してきたのです。
私は、典型的なもてないタイプですが、このように奇妙にも女性から好意を告げられることが、人生の中で二度だけありました。
岡田を含め四人、お座敷で飲んでいた時、この子は私の隣に座り、私の飲みかけの水割りを飲んだり、私に箸で唐揚げを食べさせたりしました。酔いが進むにつれて、私にしなだれかかってきました。
居酒屋を出た後、岡田は、当然のようにお目当ての女の子と消えました。私たち二人は取り残されました。路上で、彼女は私の腕を取り、キスを求めました。私はやむなくそれに応じました。獣のように、彼女は私の唇を求めました。
このまま彼女をホテルに誘うのが自然な流れでした。
私はまだ童貞でした。おまけに、高校3年生の一時期、例の行為の際に快感を覚えなかった苦い記憶から、自分が不能なのではないかという深い恐怖がありました。私はホテルに行っても、うまく交わる自信がありませんでした。
しかし一方で、同世代の男たちのある者は既に体験し、世間の大人たちが過大に語りたがる行為を、自分も早く体験したい、という関心は強くありました。そのためには、自分が不能であるかも知れないというトラウマや、漠然とした行為への恐怖を克服しないことには始まらないこともわかっていました。
そこで私は、内心おののきながらも、上野の裏通りにあるホテルの門をくぐりました。アルコールが少し入っていましたが、早鐘のように心臓が高鳴り、極度の緊張感から、ろれつもうまく回らないほどでした。
場末のホテルの一室で、彼女は、部屋に入るのが待ちきれないくらいの様子でした。部屋に入るなり、私をベッドに押し倒し、唇を求めてきました。彼女は、自分からすべての衣服を脱ぎ棄てて、全裸になりました。私も全裸になりました。
彼女は、迷うこともなく、大胆な行為に及びました。
女性が積極的にそのようなことをするとは、私は予想もしていませんでした。私のような田舎者と違い、今どきの女の子はやはり進んでいると驚きを隠せませんでした。卑近な言葉ではありますが、私は彼女のことを大変な好きモノであると感じざるをえませんでした。
しかし、私はこの時、自分が重大な問題を抱えていることを思い知ることとなりました。
彼女が、風俗嬢のような奉仕に励んでくれたのにもかかわらず、私は、反応する気配さえなかったのです。私は欲望を少しも感じていませんでした。私は、彼女に気付かれないよう、自分をさかんに刺激しました。
一人で行うときであれば、疲労により欲望をほとんど感じていない時であっても、刺激することにより、目的を達することができました。ところが、反応の気配はいつまでたっても訪れませんでした。
私は焦りました。このままでは、せっかくの機会が無駄になってしまう。ここでうまくいかなければ、自分は今後も到底、女性と交わることができないだろう、と思い詰めました。
彼女はそんな私の苦悩には気付かず、さかんに私を求めてきました。
気が進みませんでしたが、彼女の求めることをしました。これは私にとって、極めて苦々しい体験でもありました。私の、ただでさえない欲望は、さらに消失に至ったのです。
幸い、部屋は薄暗く、はっきり彼女の姿が見えたわけではありませんでした。それでも、私は背筋がぞっとするほどの嫌悪感を覚えました。私は、吐き気をこらえながら、求められるがままに続けました。
彼女は次第に高まったようで、声を上げ始め、そのことはさらに私を冷めさせました。女性が体を触られて快楽の声を発するということが、私には演技のように思われ、とても信じることができませんでした。私には、女性に欲望があるということや、快感が存在するということも、なにやら男の側の妄想に過ぎないように感じられました。
もはや一刻も早くその場から逃げ出したい思いでした。
私の体は、冬の日に冷水を浴びたかのように縮こまっていました。彼女もそれに気付き、再び奉仕を始めました。しかし私はむしろ強い不快感を覚えました。
私は、彼女にやめてもらいました。
「どうして?」彼女は不思議そうに言いました。
「ごめん、きょうはだめみたいだ」と私は言いました。
「どうして?」
「体調が悪いから」私は言い訳しました。
気まずい空気が流れました。私はベッドに横たわりました。驚いたことに、彼女は自ら始め、隣室に届かんばかりの声を上げ始めました。
私はそれを聞きながら、自分が女性と結び付くことは一生できないのではないかという絶望感に打ちひしがれていました。同時に、これは仕方のないことだという諦めに支配されていました。その諦めがどこから来たものかはわかりません。もしかしたら、それは、父母の教えに背き、神の道に背いて婚前交渉を試みた、という自責の念によるものだったかも知れません。
そのうちに、彼女は静かになりました。我々は、会話もなく、ホテルをあとにしました。初冬の透明な月が、街路をぼんやりと照らし出していました。
私に訪れた最初の交わりの機会は失敗に終わりました。この好奇心が旺盛な女の子とは、その後2回会いましたが、なんとなく気まずく、二度とホテルへ行くこともありませんでした。
大学生活4年間を通じ、その手の色恋話は、私には二度とありませんでした。
私は、睡眠時間も削って、司法試験の勉強に没頭しました。ご承知の通り、現在では、法曹志望者は原則として法科大学院を卒業することになっていますが、当時は司法試験に合格することが唯一の法曹への道筋でした。法学部卒業後、司法試験に合格するまでに、最低でも2年は必要だと言われていました。しかし、ガリ勉のかいがあってか、大学4年生の時に、私は司法試験に合格することができました。
卒業後、私は司法修習のため仙台に滞在することになりました。当時の司法修習は2年間でした。
同じ時期、山形での修習生に、岡田がいました。あれだけ飲み歩いていた岡田が、私と同様に在学中に司法試験に合格したことに、私は驚きを隠せませんでした。一体いつ勉強をしていたのでしょうか。そもそも頭のつくりが違うのかも知れません。
私は裁判官を志望していました。法曹三者の中でも、デスクワークが中心で、他人と接する機会が少なくてすむと考えたからです。岡田は父親が元検察官であり、息子にも検察官になってほしいと望み、その前提で学費を出していたようです。
父親が転勤族であった岡田は中学生の頃仙台に住んでいたことがあり、懐かしいと言って、修習の休みの日にはバスに乗って仙台にやってきました。司法試験に合格し多少の心の余裕ができていたことから、私は岡田に誘われて仙台の街を飲み歩きました。
文化横丁で行きつけだった安い中華料理屋で食事をし、岡田が飲み足りないというので、国分町のショットバーまで歩いていた時です。あの五十嵐弁護士を見かけました。知財分野で活躍し、テレビにもよく登場していた高名な弁護士です。五十嵐弁護士は通り沿いの雑居ビルにある高級クラブから退店してきたところでした。口髭を生やし、見るからに高級なダブルのスーツを身に着けていました。クラブのホステスと思われる、着飾った女性たちが見送りに出ていました。路上で、五十嵐弁護士は彼女たちにチップとして現金を配り、ホステスたちは歓声を上げました。
「いいな」岡田は言いました。「俺もいずれはああいう遊びがしたい」
「検事には無理だろう」
「そんなことはないよ」岡田は否定しました。
五十嵐弁護士は呼んでいたタクシーに乗り込んで、走り去りました。
「あの人、確か大阪の人では?」私は問いました。
「何かこっちに案件があったんだろう」岡田は答えました。「全国から引く手あまたなんだろう。俺もあれくらいビッグになりたいものだな」
「あの人を手本にするのはどうかと思うな」私は言いました。「俺はあの人、あまり好きじゃない」
「どうして?」
「品がない」
「お前はいつも万人に好かれようとする」岡田は少しむっとして言いました。「一部で嫌われるくらいがちょうどいいんだ」
ある晩、岡田は昔の友達と稲荷小路で飲んでいて山形への最終バスを逃し、私のアパートに泥酔して転がり込んできました。岡田が私のアパートに泊まることはよくありました。私が修習で早く出なくてはいけない朝も、岡田はまだ寝ていることがあり、合鍵を渡しているくらいでした。この日も仕方なく泊めてやりました。
布団を並べて眠っていた夜中、突然、岡田が私の上に覆いかぶさってきました。何の冗談かと、突き飛ばそうとしましたが、岡田は強い力で迫ってきます。必死の思いですり抜け、岡田に思い切り平手打ちを食らわせました。岡田は一瞬だけ驚いた顔をしましたが、再び横になり、鼾をかいて眠ってしまいました。
「お前、もしかして両性愛者か?」
翌朝、私は岡田に尋ねました。岡田は何のことかわからないという顔をしました。
「昨晩、酔っ払って俺に迫っただろう」
岡田は驚いた様子でした。
「ごめんごめん」と岡田は言いました。「寝ぼけて、山形のアパートと勘違いしたんだろう」
どうやら岡田は、飲み屋で知り合った女を山形のアパートによく連れ込んでいるようで、隣に眠る私を、そのような女と思い違えたらしいのです。
「お前、そういう行きずりの女と過去何人くらい関係してきたんだ?」
「数えてないけど、大したことはないよ」岡田は笑って答えました。「50人とか60人とか?」
「世の中は不公平にできてるな」私は嘆息しました。
勉学も見た目も完璧に見える岡田ですが、実はだらしないところがあり、二日酔いで寝坊して修習を欠席したり、私との待ち合わせを忘れて自分のアパートで寝ていたりしました。私が肌身離さず持っていた「ダットサン民法」と呼ばれる当時有名だった法律書を数冊、仙台にいる間だけと乞われて貸したところ、どこかに置き忘れてきたこともありました。そのような時、決まって「ごめんごめん」と、大して悪いことなどしていないかのように、笑って誤魔化すのでした。その様子には愛嬌があり、「しょうがないな」と許してしまうのでした。
岡田はあるとき、私を特殊な浴場に連れて行きました。国分町周辺に数件、その手の店がありました。岡田は欲望が旺盛で、彼女なのか行きずりの女なのかわかりませんが、女性には不自由していないにもかかわらず、よくそのような店に行こうとしました。もしかしたら、異性に全く縁のない私に配意していたのかも知れません。
高額な費用のかかることでもあり、人並みに交渉ができないのではないかという考えから、私はそのような場所に行くことに積極的にはなれませんでした。ですが、交わりが不能であるという不安感を、いずれどこかで克服しておかないと、一生自分は不能のまま生きて行かざるをえないだろうという焦燥もありました。
当初、私はそのような場所に行っても、やはり目的を遂げることができませんでした。ところが、二度三度通ううちに、こつを覚え、何とかできるようになりました。
そのこつとは、目を閉じ、10歳のソフィア、12歳のヴェロニカ、13歳のナタリーの姿を想起し、様々な妄想を巡らすことでした。それがうまくいけば、かろうじて自分は目的を果たすことができるのでした。