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信義  作者: 坂井 準
3/10

第3日

私は田舎で生まれ、田舎で育ちましたから、写真集「マイ・ヴィーナス」に掲載されているような、洗練された白人女性、ブロンドで美しく、都会的で、洗練され、知的で、自立しているように見える女性に憧れのようなものがありました。そのような魅力的な女性に、それがたとえ日本人であっても、この先の人生で出会えるかどうか、はなはだ心もとないものがありました。

私は、幼少の頃から、母親に似て小太りで、それを揶揄するようなあだ名をつけられていました。中学生になっても、恥ずかしがりやで、女子生徒と話をするなどできませんでした。こんな自分が、将来、人並みに恋愛をしたり、結婚をしたりすることができるのか、不安を抱えていました。

将来、恋愛し、結婚をすることができたとしても、おそらくそれは「マイ・ヴィーナス」に出て来るような美女ではないだろう。そのような美女とは一生出会うことはないだろうと思われました。「マイ・ヴィーナス」を食い入るように眺め、激しい昂奮に身を委ねながら、中学生の私は、そのような絶望感も同時に味わっていたのです。

この夜、裸でベッドに横たわり、「マイ・ヴィーナス」のお気に入りの写真を眺めながら、何気なく手を動かしてみた時のことです。突如、私の身に、信じられない感覚が起こったのです。

下半身に、電流が流れるかのように、また、雷に打たれたかのように、驚くべきほどの快感が発生し、それは一瞬にして全身にまで拡大し、脳天をも貫きました。それは、それまで生きてきた中で一度も体験したことのない、体がしびれるような、とろけるような、いてもたってもいられないほどの、怖くなるほどの激しい快感でした。

これはまさに衝撃的な出来事でした。

私はこの時、性というもの、大人たちが隠したがる性というもの、なにやらとてつもなく深い神秘を秘めているらしい性という大きな事実を、初めて、身を持って理解したように思ったのです。

性というものは、このように体が打ち震えるほどの、怖ろしいほどの快感をもたらすものである。このような快感をもたらすものであれば、大人たちが隠したがり、かつ秘かに語りたがり、常になにやら過大に取り扱われているようであるのは当然のことである。そして、自分自身の身にもこのような快楽がもたらされるのだということを知ったのは、大きな喜びでした。

これほどの悦楽の境地に至ることができるのであれば、これから毎晩、これを実施するしかない、と思いました。

ですが、このようなことを思い浮かべたのは、ほんの一瞬のことでした。私の身に、さらに驚くべきことが起きたのです。

体が、まるで別の生き物であるかのように、脈動を始めました。と同時に、全身を包みこんでいたとろけるような快楽が、頂点に達しました。

一体何が起こったのか、愕然としたのもつかの間のことでした。突如、私の身に目を疑うことが起きたのです。


その瞬間の快感は並大抵のものではありませんでした。

自分が人並みに生殖能力を持つ男であることの証左を目の当たりにし、私はうれしくなりました。

私は快感をもう一度味わいたく思い、体を動かしましたが、今度は妙な不快感を覚えるので、諦めました。

すると、急速に、罪悪感が立ち上ってきました。それはおそらく、性を、神の意思とは異なる目的に用いたという後ろめたさでした。私は父や兄から、繰り返し、性というものの誤った用い方について、警告を受けてきていました。もう、このような行いはやめた方がいいと感じました。

ですが、私はあの身が震えるほどの快感を忘れられませんでした。それは、本当に何物にも代え難いほどの悦楽でした。

翌日、私は学校に行き、後藤と佐々木に、自分が経験したことを話しました。ところが、二人ともそれを信じませんでした。二人とも、まだそのような経験はなかったのです。

後藤や佐々木に嘘つきとなじられましたが、私は夜になったら昨夜のあの悦楽をもう一度体感してみようと、わくわくしていました。後ろめたさはありましたが、あの快感は、それをはるかに乗り越えるものでした。

夜、再び私は弟が寝静まるのを待ち、「マイ・ヴィーナス」を見ながら、昨夜と同じことを実行しました。ところが、その時の快感は、昨夜の怖ろしいほどの気持ちよさに比べると、はるかに乏しいものでした。

私は、かなり落胆しました。一体、何が違ったのだろうと思いました。

翌日、またその翌日と、私は、行為にふけるようになりました。父が牧師であり、家族全員が深い信仰心を抱く神聖な家の中で、私は夜な夜な神の意思を裏切る背徳の行為を続けていたのです。


それから35年の歳月が流れました。私は、成人し、結婚しましたが、いまだに週に何度か、行為を続けています。

正直に言いますと、生まれて初めて体験したあの35年前の夜が、私の人生における最大の快感の体験であり、それ以来おそらくは5000回近いそれを経験していますが、あの時の快感を超えることは一度もありません。

もちろん、今でも、それは相当に気持ちのいい、身がとろけるような行為ですが、あの初めての夜の、体が打ち震えるような、意識が飛んでしまうくらいの、恐ろしいほどの快感を、私は二度と体験していません。

あの快感がほしくてたまらず、試行錯誤を繰り返しました。

一つだけ言えることは、欲望が昂揚していればいるほど、快感は高まるということです。欲望があまり高まっていないのに、惰性で行為をした時は、乏しい快感しか覚えることができません。


中学3年生になり、私は高校受験のための勉強を始めました。

私は小学校・中学校と成績は良かったのですが、それまで、まともに勉強らしい勉強をしたことがありませんでした。というのも、私は当時本の虫で、新学年になって教科書が配布されると、1ヶ月か2ヶ月で全部読んでしまい、その後も暇さえあれば繰り返して読んでいましたから、あとは授業を普通に聞いていれば、学習すべき内容は自然に頭に入ってきたのです。

ところが、中学2年になって例の行為を覚えてからは、常に頭の中が妄想で一杯になり、集中力がなくなったのか、成績が下がってしまいました。中学3年になって受けた模擬試験で、志望する高校に入る可能性が低いという結果が出て、私は慌てました。少し体系立てて勉強をする必要を感じました。

後藤と佐々木とは、別の学級になったこともあり、やや疎遠になりました。

あとから聞いた話ですが、この頃、後藤は、近所の書店で写真集を購入していたところ(だんだん度胸がついて、隣町の書店まで行かず、近所の書店で堂々と購入するようになっていたのです)、佐々木の兄の同級生である山田という不良高校生に見つかってしまい、学校にばらすと脅され、口止め料代わりに買ったばかりの写真集を奪われてしまったそうです。

後日、後藤は再び山田に呼び出され、お前ノーカットを見たことあるか、と聞かれました。後藤は、ノーカットとは何かと聞き、説明を受け、見たことがないと答えました。

見たくないか、と山田が問い、後藤は見たいと答えました。山田は、それなら、俺の持っているとっておきの外国製のノーカット写真集をやる、と言いました。その代わり、お前の持っている写真集をあるだけ全部よこせ、と告げました。ノーカット写真集はそれだけの価値があるのだ、と山田は主張しました。それができなければ、中学校の職員室に匿名の電話をかけ、お前が書店で堂々とエロ本を買っていることをばらす、と脅されて、後藤は泣く泣くこの不平等な交換条件をのむこととなりました。後藤は、佐々木や私のところに出回っていた蔵書を回収して山田に差し出しました。そして、約束通り、外国製のノーカット写真集を手に入れました。

後藤が山田に譲り渡したコレクションの中に、「マイ・ヴィーナス」も含まれていました。「マイ・ヴィーナス」は再び人手に渡ってしまったのです。

後藤が「マイ・ヴィーナス」ほかの貴重な写真集と引き換えに手に入れた写真集は、やがて私のところにも回ってきました。当時、後藤もノーカットなるものには興味津々でしたから、あながち不平等な交換条件とはいえなかったかも知れません。もっとも、「マイ・ヴィーナス」は、後藤も佐々木も私も認める稀に見る上質な写真集でした。「マイ・ヴィーナス」の喪失だけは、我々にとって大変惜しい出来事でした。

紙袋に包まれた写真集をどきどきしながら持って帰った私は、そのことが頭に一杯で勉強に身が入らず、深夜を待たず、勉強机の上にこっそりそれを取り出してみました。相変わらず私は弟と同室でしたが、受験勉強に集中するためと言って、母親に頼み、勉強机の周りをカーテンで覆ってもらっていました。夜の11時頃で、弟はもうベッドに入っていました。いつもの独り言もやんでおり、もう眠りに入っていると思われました。

その写真集は、写真集というよりも雑誌でした。活字はみな英語で、誰かが海外旅行から持って帰ったものだったかも知れません。日本の雑誌とは異なり、粗悪なうすっぺらな表紙がついており、紙質も悪く、雑誌全体がすぐに丸まってしまうような代物でした。

中身は、複数の白人の男女を写したものでした。

それは、目をそむけたくなるような醜悪な物でした。男女の姿態は、恐ろしく醜怪で、私は眼前で犯罪を目にした時のような後ろめたさを覚えました。欲望は微塵もわかず、むしろ、将来このような行為を自分も行わなくてはいけないということが、たまらない苦行のように思われました。

私は、怖いもの見たさで、何度もそれを凝視しましたが、とても欲望を覚えるには至らず、見れば見るほど深い絶望感がこみあげてきました。

本来であれば、このような直接的な描写に、強い欲望を覚えるべきであるのに、自分は嫌悪しか感じない。私は、自分が不能なのではないかと疑いました。

深甚な絶望が私を襲いました。

その時、誰かが壁をどんどんどん、と強く叩く音がして、私は慌ててズボンを引っ張り上げ、雑誌を引き出しに隠しました。

私の勉強机は庭に面したガラス戸に接していました。夜は雨戸を立て切っていました。それは、誰かが雨戸を外側から叩いたような音でした。

私は、弟が起きていて、いたずらをしたのだと思いました。弟は、私が寝ていると下からベッドを蹴り上げたり、勉強中に後ろに立っていて驚かしたりと、時々妙ないたずらをしたのです。私は勉強机を囲んでいるカーテンを開けて、弟のベッドをのぞきこんでみました。ところが、弟は、すやすやと寝息を立てて眠っていました。

ひょっとしたら泥棒が庭に忍び込んだのかも知れないと、私は怖くなりました。ですが、外まで出て確認する勇気もなく、両親や兄たちを起こすのも忍びない気がして、そのままあと1時間ほど勉強をして、就寝しました。


私は高校に進学しました。自宅からバスと電車を用いて45分ほどかかるところにある進学校でした。後藤や佐々木とは別の高校になりました。

高校入学の前の年、5番目の兄が、教会に関連したボランティア活動に携わるために、21歳にしてアメリカに渡りました。こうして、11人兄弟のうち、七つ上の姉、四つ上の姉、私と弟の4人だけが家に残りました。自宅の間取りに余裕ができたため、この4人は、それぞれ自分の部屋を割り当てられました。

中学の時日本史にはまっていた私ですが、高校になると、今度は哲学に熱中しました。同じ趣味を持つ友人と、学校帰りに喫茶店に通い、今思えば空疎な哲学談義を繰り広げました。

そんな趣向の持ち主でしたから、当然、女性には縁がありませんでした。中学の頃も、私は女子生徒と口をきいたことはほとんどありませんでした。30年以上前で、保守的な土地柄でもありましたから、中学生が男女交際をすることは一般的ではありませんでした。むしろ、小学生くらいの年齢にありがちな、男子と女子の対立が中学校でも温存されていました。そんな中でも、一部の早熟な男子は、女子と頻繁に話をしたり、一緒に出掛けたりして、友達付き合いをしていたようです。しかし私は、極度に恥ずかしがりやで、自分の容姿に劣等感もあり、とてもその仲間入りはできませんでした。

高校に行っても同じようなものでした。さすがに高校生ともなると、男女交際を始める者も出てきましたが、私は哲学が趣味なくらいですから、変わり者と見られており、いつも男どうしでつるんで行動していました。気になる女性がいないわけではありませんでしたが、自分には男女交際をする資格などないと、はなから諦めていました。

その代わり、欲望は日増しに募り、自宅に個室も与えられたため、例の行為は毎晩欠かさない習慣となりました。

私は自分で行為の題材となる書籍を購入するようになりました。といっても、私が用いましたのは、漫画雑誌の巻頭に掲載されているアイドルの水着姿や、普通に衣服をつけている姿などが多く、たまに裸体の掲載された写真集も用いましたが、いわゆるエロ本の類いは、それほどは購入しませんでした。アイドルは、ほとんどが10代で、自分とそう年齢が変わりませんでした。

当時数少なかった友人のうち、高校生男子としては正常なことですが、性的な事柄に興味津々だった佐野という男が、KMという名の成人向け劇画家をいたく気に入り、作品を多数所有していました。私は佐野から時折貸与を受け、それを読みながら昂奮し行為にふけったものです。

内容の大半は、醜い中年男と若く美しい女性が登場する、成人向け劇画にはありがちなものでした。反社会的かつ非人間的な内容ですが、成人向け劇画とはすべてそのようなものです。

その中の1話に、理不尽に会社を解雇された中年男2名が、復讐のために、自分を解雇した社長の豪邸に押し入り、社長を縛り上げるというものがありました。社長には美しい妻と一人娘がいました。妻はそれなりの年齢の想定で、肉感的に誇張され描かれていました。私はそれにはさほど欲望を喚起させられませんでした。

一方で、10歳前後の想定と思しき一人娘に、私は至極昂奮したのです。一人娘は、あどけなく、かわいらしい顔つきをし、薄い色のさらさらした髪の毛を持つものとして描かれていました。

私はこの少女が登場する場面だけを繰り返し眺め、夜な夜な行為にふけりました。

今思うと、既にこの頃私の性的倒錯は発露していたのだと思われます。


私は、父親や兄の主宰する教会にはほとんど行かなくなりました。意外にも、両親たちはそれを咎めたりはしませんでした。信仰は、個人個人が選び取るべき問題であり、誰かに押し付けられるものではないという考えからでした。

とはいえ、幼少時からの教育が根付いており、私は神を信じていました。

この頃、自分の体が日に日に大人のそれへと変化を遂げていました。私は、自身の体が、生殖が可能な態様に変化していくのを目の当たりにして、人体の神秘を感じました。

精巧に仕組まれている人間の体が、長い年月をかけて単細胞生物から進化してきたものだとはとても思えず、それら人体の神秘は、人が神の創造によるものであることの証左と思えるのでした。

しかし、一つだけ私には理解できないことがありました。

男は、女の体のあらゆる部分を好ましいものと感じ、欲望を覚える。それは、産めよ増えよ地に満てよという神の意思に合致する。それなのに、なぜ女性の部分だけは、あのように醜悪に創られているのか、ということでした。

私は、女性の部分に欲望を覚えることができませんでした。むしろ、ぞっとするほどの嫌悪と吐き気を感じました。私は、自分が異常ではないかと悩みました。将来、大人になり、女性と交わる機会がやってきたとしても、これではとても実行できないのではないかと思いました。

私は、高校3年間、ほとんど女子生徒と会話をしませんでした。

この頃、自分の容姿への劣等感が非常に高まっていました。我々兄弟姉妹はみな、低い鼻、細い目、横に引っ張ったかのような丸顔という、特徴的な相貌を持っていましたが、自分は中でもその均衡が最も崩れ、不細工であるように思えました。それもあってか、女子生徒の前に出ると緊張してしまい、何を話していいのかわからず、頭の中が真っ白になりました。声は震え、手足も小刻みに震えました。

至近距離にいる女子生徒が、その衣服の下に、醜悪な部分を隠し持っており、お互いに衣服をまとってはいるものの、もし衣服がなければ、それはほんの手の届く距離に存在しているのだということが頭をよぎると、いてもたってもいられないほど恥ずかしくなりました。お互いが、隠すべき存在を宿しているにもかかわらず、そのことから目をそらし、なんでもないかのように会話をするというのが、異常に不自然なことのように思われるのでした。

女子と話す時に、そんなことが頭をよぎるのはおかしいことで、他の誰もそのようなことは意識していないと理解はしていました。ですが、この頃の私はやや病的でした。緊張していることを気付かれるのが恥ずかしくて、私は女子と話す状況をできるだけ避けるようになりました。


高校3年になると、私は、大学受験のための勉強を始めました。

受験勉強を始めると、ストレス解消のためか、さらに例の行為の回数は増えました。前にもお話しした通り、私は、行為により最大の快感を引き出すためにはどうすればいいか、様々な試行錯誤をしましたが、結局、人生で最初の驚くべき陶酔を再び獲得するには至りませんでした。

そんなある日、私にとっては衝撃的な事件が起きました。

その日は、母の実家に3日ほど滞在して戻ってきたばかりでした。私は自室にこもり、久しぶりに行為を行いました。ところが、何の快感も覚えませんでした。小便を排泄したくらいの感覚しかありませんでした。

私は大変な衝撃を受けました。

私は、自分が快感を覚えることのできない体になってしまった、不能となってしまったのだと思いました。いわば不感症に陥ったのだと思い込んだのです。

まだ性的な交渉を一度も体験したことがなく、当面の間体験する気配さえもない今から、既にして不能になってしまった、自分は一生不能者として生きていくしかないのだと思い込み、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、泣きたいほどに落ち込みました。これというのも、神を崇拝する神聖な家に住みながら、夜な夜な、家族に隠れ、身を汚す行為を続けてきたことへの天罰だと思いました。

それでも翌日、私は恐る恐るそれをしてみました。しかし、やはり快感を覚えず、ますます落ち込みました。

その翌日、翌々日もそうでした。

私は、これではもう生きている価値などないのではないかとまで思い詰めました。どう考えても、これほどひどい天罰はないように思われました。どうすればこの天罰を免れ、元通り、快感を得ることができるのか、真剣に悩みました。この天罰から免れられるのなら、どんなことでもすると思いました。

今考えると、この悩みは大したものではありませんでした。欲望を充分感じないままに、惰性で行為をしていますと、快感は非常に乏しいものになります。今ではそのことを理解していますが、当時は、欲望を充分感じないなどということがなかったものですから、快感を得られないことが大変な衝撃であり、私はどん底に突き落とされたように感じました。

実のところ、私はそれからも行為を続け、そのうちに、快感は徐々に戻ってきました。ですが、あの時の、自分が不能者になったのではないかという衝撃は並々ならぬもので、その損傷はトラウマのようになり、後々まで尾を引くこととなりました。


私は、大学受験を経て、東京の大学に進みました。故郷を出て、遠く離れた東京で一人暮らしを始めました。

それまで、聖職者の家族でありながら、家庭内でこっそり行為を繰り返していたことに、私は常に大きな罪悪感と引け目を覚えていました。一人暮らしになり、私はその引け目から解放され、大いに安心しました。ですが、実際に一人暮らしを始めてみると、どういうわけか欲望が減退し、回数はむしろ減ることになりました。


この頃、我が家では、また一つ、不幸が静かに進行していました。それは、弟に関連します。

弟とは、年齢も1歳違いで仲がよかったので、幼い時はいつも一緒に行動し、よく喧嘩もしていましたが、お互い高校生になり個室を与えられると、自然に疎遠になりました。

弟には少し変わったところがありました。前にもお話しした通り、しょっちゅう独り言を言って、大声で笑ったりおこったりしていました。妙に潔癖なところがあり、例えば弟の鉛筆を借りて机の上に戻しておくと、鉛筆の並べ方に一定の規則があるらしく、それを乱されたことに憤慨するのでした。

弟は、高校生になると自室に閉じこもりがちになりましたが、次第にこれが昂じて、家族と一緒に食事も取らないようになりました。そして、不登校が始まりました。食事も満足に取らず、昼夜が逆転してしまいました。

弟は、精神を病んでいたのです。

原因はわかりませんでした。この頃、私は、自分の受験勉強にかかりきりで、あまり弟のことを気にかけていませんでした。受験に成功すると、さっさと東京に出てしまいました。私の知らないところで、両親や兄は大変な苦労をして、弟を病院に連れて行きました。弟は、次兄がアルコール依存症で入院したのと同じ病院に入院することになりました。

以来、現在に至るまで、弟は入退院を繰り返しています。

このことは私たち家族に再び暗い翳を落としました。近隣の人たちに、10年前の姉の事件と、次兄の失踪についての記憶がよみがえりました。なぜ、厚い信仰に身を捧げていながら、あの家族が次々と不幸に見舞われるのか、と噂しました。神を信仰することなど、何の意味もないのではないかとささやかれ、また教会に通う信者が少なからず離れることとなりました。

ですが私はそんな家族の悩みなどどこ吹く風で、東京で大学生活を楽しもうとしていました。

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