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信義  作者: 坂井 準
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第2日

本日は、予定を延期いただくこととなってしまい、申し訳ございませんでした。午前中休んでいましたので、体調はすっかり回復しました。

もう40年も前のことですのに、姉の死について語ることが、これほどまでに現在の自分に影響を及ぼすとは想像できませんでした。私にとって、過去を振り返るという行為が極めて危険を伴うものであることを再認識せざるをえませんでした。

当時、半狂乱となった母親や、兄や姉たちのうちひしがれた姿、以降しばらくの間暗闇に支配されるようになった家庭の状況を思い返すと、心が耐え難いほどに重くなります。

事件当時、私は7歳でしたので、起こったことの意味をおぼろげにしか理解していませんでしたが、数年後には理解できるようになりました。

言うまでもなく、自殺は、神に背く行為でした。次姉はそのことを充分理解しており、あえてそれを選んだのです。それほどに、姉にとっては、生きることが耐え難い恥辱だったのです。

次姉の自殺は家族全員に等しく大きな衝撃と耐え難いほどの悲しみをもたらしました。中でもその度合いが大きかったのは、次兄でした。次兄と次姉とは、年齢は10歳も離れていましたが、お互いに母譲りの快活な性格で、気が合ったため、次兄は次姉をひときわかわいがっていました。

次兄は、当時26歳でした。塾講師の仕事をしながら、教会の祭祀の手伝いをしていました。毎日夕刻には、家に来て、家族と夕食をともにしました。食事前のお祈りは、父に代わって、次兄が捧げることもありました。

夕食の席では、母と次兄、次姉がいつも会話の中心でした。ですが、次姉の死以降、次兄は自分の家に閉じこもりがちになりました。時々、ひどく酔っ払って夕食の席に現れ、父に口論をふっかけました。口論の内容は、子供の私にはよく理解できませんでしたが、「罪の赦し」とか、「裁き」という言葉が聞き取れました。

事件から1年ほどたったある日、素行の悪いことで知られていた近所の青年が一人、家を訪れました。青年は、少年院を出てきたばかりだが、過去の罪を悔い改めたいので、祈ってほしい、と言いました。父は、青年を家に招き入れました。

このようなことは、我が家では特別なことではありませんでした。様々な人が我が家を訪れ、同じような申し入れをしました。本気で来る人もいれば、からかい半分で訪れる人もいましたが、父は例外なく人々を迎え入れ、彼らのために祈りを捧げ、食事を与えて接待しました。

しかし、青年は、本当に悔い改めたいのかどうか、疑わしい態度でした。ガムをくちゃくちゃ噛みながら、椅子にふんぞり返り、貧乏ゆすりをしていました。お茶を出したところ、葡萄酒はないのかと要求しました。

たまたま家を訪れていた次兄は、青年の姿を見るなり、このような人間のために祈る必要はなく、食事を与える必要もないと父に食ってかかりました。父は、穏やかに次兄をなだめましたが、次兄はいきなり、青年に殴りかかりました。皆が止めるのを聞かず、次兄は青年をさんざんに殴りつけ、家から追い出してしまいました。

次兄は家から飛び出し、それからしばらくの間、姿を見せませんでした。教会の仕事も放棄してしまいました。塾講師の仕事は、無断欠勤を繰り返した末、クビになりました。

1年後、次兄は重度のアルコール依存症として治療の必要な状態となり、父や長兄によって、精神病院に入院させられました。

こうして、家族は不幸のどん底に突き落とされたのです。


次姉の事件について、当時、私は詳しいことを知らされませんでした。当然でしょう。子供が知るような内容のことではなかったからです。家族は皆、詳細については触れたがりませんでした。何年かたってから、私なりに事件を調べようと試み、図書館で当時の新聞をひっくり返すなどしましたが、詳しいことは載っていませんでした。結局、私にとって、長い間、事件はうやむやのままでした。

大人になって、私は少年審判の記録を読むことができ、その全貌を知ることになりました。姉は、神社の裏側で、年上の悪い男たちに暴行を受けたのです。姉は激しく抵抗したために、殴られたり、蹴られたりしました。審判の記録には、少年たちの供述がこと細かに記載されていました。

父や長兄は、姉が精神的な二次被害を受けることを憂慮し、犯行を通報することに消極的でした。それに徹底的に反対したのは、次兄でした。結局、次兄が、事件を警察に通報しました。

捜査の結果、主犯の少年3人と、見張り役の少年一人が逮捕されました。少年たちは審判に付され、その結果、4人は少年院に送致されました。見張り役の少年は、1年で出所し、自宅に戻りました。それが、悔い改めると称して我が家を訪れたあの青年でした。主犯の3人は、2年半後に出てきました。 

次兄は、父や長兄が、通報をためらったのみならず、罪を犯した人を憎むべきではない、罪を裁くことができるのは神だけであり、人がそれに関して論評をしてはならないという立場であることが許せませんでした。次兄は、人の心を踏みにじる卑劣な犯罪を行い、被害者を死にまで追いやった犯人たちを、心から憎悪していました。主犯たちが2年半で出所し、地元でのうのうと暮らしていることを知ったら、次兄は彼らを自らの手で殺しかねない勢いでした。その意味で、主犯たちは、命拾いをしたと言えるかも知れません。

というのも、次兄は、アルコール依存症の病院から逃走し、そのまま行方をくらませてしまったのです。


次姉の巻き込まれた犯罪と、その自殺に至る一連の出来事は、当然のことながら、我々家族に大きな打撃をもたらしました。と同時に、平和で、ついぞ大きな事件など起きたことのない集落にも衝撃を与えました。しばらくの間、集落は、この話題で持ちきりになりました。小学校低学年だった私にも、集落のただならぬ雰囲気は実感できました。学校の先生方も、私や弟には、腫れものにさわるような対応をしました。

道路では、主婦たちが集まって小声で話をしています。私たち家族の誰かが通りかかると、話をぴたりとやめます。

最初は、被害者でありながら、死を選ばなくてはいけなかった次姉への同情論が支配していたようですが、いつしか、悪い仲間と付き合っていたのだから自業自得だ、また、信者を救済すべき立場の牧師が、家族さえも救済できないのか、という批判的な論調に変わってきました。

次兄がアルコール依存症になり入院すると、その論調に拍車がかかりました。私たち家族は、次第に集落の中で孤立するようになりました。日曜日に教会に礼拝に訪れる人々も目に見えて減って来ました。古くからの信者も離れていき、教会にいるのは家族だけ、ということもありました。

がらんとした教会の中で、父がこうべを深く垂れて、長い祈りを捧げるのを、私はいつもうす眼をあけて見ていました。


被害が自業自得ではないかということを、一番実感し、自責の念にかられていたのは、次姉自身だったでしょう。素行の悪い仲間との交際をさんざん咎められていたのですから。本人を思う家族の忠告を聞き入れなかったことが、このような結果に結び付いたのだと悔やみ、死を選ぶまでに悩み抜いたのです。

次姉は、他人を疑うということを知りませんでした。我が家は、見知らぬ人が家を訪ねてきても、信仰のためというのであれば、またそうでなくても、招き入れ、食事を与え、何日か宿泊させたりもしました。他人を疑うというような教育を受けていなかったことが、姉の不幸を招いたとも言えるのです。

父や長兄が心配していた、二次被害も確かにありました。姉は警察に何回も呼ばれて事情聴取を受け、審判では証言を求められました。一歩外に出れば、近隣の人々が汚いものを見るような眼で姉を見ました。そして、ひそひそ話をしました。16歳の少女には、耐え難いような毎日だったと思われます。狭い集落でしたから、生きている限り、事件の記憶はついて回ります。

次兄は、反対を押し切って事件を警察に通報した本人であり、そのことが結果的に姉を追い詰め、自殺に追いやったのではないかと苦悩していたと思われます。犯人たちを許せないという強い思いと同時に、自分の行動が間違っていたのではないかという不安に苛まれていたでしょう。ですから、次兄が突然精神病院から脱走し行方をくらました時、家族は、次兄さえもが死を選んだのではないかと、大変心配しました。

父は、すぐに捜索願を出しました。けれども、何日たっても、次兄の行方は知れませんでした。家族は、今にも、どこかで次兄の遺体が発見されたとの知らせが届くのではないかと、恐れおののき、日夜祈りを捧げながら暮らしていました。

ところが、2週間過ぎたところで、次兄から父に宛てた長い手紙が届きました。手紙で、次兄は、家族を捨て、信仰を捨て、別世界で生きていくことを宣言しました。既に某所に身を落ち着けているが、そこにも長居をするかどうかはわからない、これからは自らのことは自ら決め、自分一人の意思で生きていく、二度と手紙は書かないが、捜索をするようなことはやめてほしい、と語ったのです。手紙には消印はありませんでした。

こうして、次兄は、28歳にして失踪し、家に戻ることはありませんでした。家族の誰も行方を突き止めることはできませんでした。信仰をめぐって祖父と対立して義絶をした父は、やはり信仰をめぐって、子供の一人から絶縁をされました。皮肉な運命のいたずらでした。


次兄の行方がわからなかった2週間、私は、次兄が無事に帰って来るように、毎日祈っていました。脈略がよくわからないのですが、次兄が戻って来ない限り、自分も病気が悪化して、そのまま死ぬのではないかという恐怖に支配されたのです。

私は、朝晩、教会に行き、祈りを捧げました。また、眠る前にも、布団で横になって祈り、次兄の帰還を願いました。

信仰という面では、弟と並んで劣等生だった私ですので、家族からは、驚きの目で見られました。次兄と私とが特別仲が良かったというわけでもないのです。それでも、次姉の自殺に続いての次兄の失踪は、私にとってもよほどの衝撃だったのだろうと、家族は想像したようです。

私には、幼少時から常に支配されていたある感情がありました。それは、自分が余計者なのではないか、という気持ちでした。家族にとって、自分はいてもいなくても変わらない存在、むしろ不要な存在なのではないか、迷惑な存在なのではないか、という思いです。

父は、無口で、自制的で、自分の子供たちにもあまり構わない人間でした。母は、いつも陽気でしたが、父につき従い、家をあけることも多かったのです。ですが、私に対する父母の愛情が欠如していたとは思いません。それなのに、自分は見捨てられた存在なのではないか、という思いが終始私にはつきまとっていました。

私は、この気持ちは、たくさんいる兄弟の下の方には共通して生じるものではないかと考えました。ところが不思議なことに、私の観察では、弟には、そのような感情は一切存在しないようでした。弟は、この頃も明るく元気に遊び回っていました。

どこからこの感情が来るのかはわかりませんでした。そしてこの感情がもたらした副作用のように思われるのですが、私には、その頃続いた家族の不幸が、なぜか自分のせいのように思われるのでした。打ち沈んだ家庭の中で、私は人知れず正体不明の罪悪感にさいなまれ、体調も崩し、学校にも行けなくなってしまいました。


次兄の失踪から2年もたつと、家の中は次第に落ち着き、弟の快活なお調子者ぶりもあって、笑いも戻り、家庭は以前の明るさを取り戻しました。私の体調も徐々に回復し、通常通り学校に通えるようになりました。

次兄の失踪から3年後、長姉が、信仰を共にする仲間と結婚し、家を出て行きました。翌年、三兄(当時25歳)、四兄(当時23歳)が、それぞれ家を出て独立をしました。兄弟のうち、残されたのは、姉二人、兄一人、弟の5人となりました。

この年、私は中学校に入学しました。家が広く使えるようになり、それまで大部屋で生活していたのですが、私は弟と二人部屋を与えられました。部屋には二段ベッドがあり、上を私、下を弟が使用しました。

この頃、私は今に至るまで続くある悪習を覚えてしまいました。

その行為は、明らかな神への裏切りであり、家族の誰にも決して知られてはならいけない怖ろしい悪魔の所業でした。

私がそのようなおぞましい行為に手を染めるに至った経緯を語るにあたっては、それに先立って、私の家庭で行われていた性教育について語る必要があると思われます。


我が家の信仰するキリスト教会派の教義は厳格でした。姦淫は、殺人や異教崇拝に並ぶ大罪の一つに数えられていました。女を見て心に情欲を抱く者は姦淫を犯していることになる、とのイエスの言葉も、字義通り解釈しました。性の歓びは、夫婦間にのみ許された神からの賜物であり、したがって、不倫はもとより、結婚前の男女の交渉も、姦淫と同じであるとされていました。

現在の社会では、結婚まで貞操を守るなどということは、過去の因習のように考えられています。ですが、この会派の教えでは、結婚前の交渉は、お互い合意の上であっても、婚約者どうしだったとしても、大罪でした。

また、前にもお話しした通り、避妊は神の意思に反するものとされていました。さらに、一人での行為も、神が設けた性の目的に反するものであり、決して行ってはならないとされていました。

私や弟は、幼い頃から、眠る時には両手を布団の上に出すよう、父や長兄から指導されました。冬の寒い夜などは、つい布団にもぐり込んでしまいます。

私のすぐ上の姉は、誰に頼まれたわけでもないのに、私や弟の監視役を買って出ていました。私や弟が布団にもぐっていようものなら、姉は、大騒ぎをしました。この頃は、私も弟も、なぜ両手を布団の中に入れてはいけないのか、理解していませんでした。

私が小学校5年生か6年生になった頃、長兄との聖書朗読の勉強の席で、長兄が、人間の性の仕組み、子供ができるメカニズムなどについて、私たちに教えました。そして、性の事柄に関する神の意思を充分理解するように、性にまつわる誤った情報や誘惑を避けるように、また、一人での行為は避けるように、と教えました。

子供のできる仕組みについて、弟は、あんぐりと口をあけ、驚いたように話を聞いていました。が、私は、実はそれらのことを既に熟知していました。ほかならぬすぐ上の姉が私にそれを教えたのです。

すぐ上の姉は、私や弟の悪行をどんな些細なことでも暴き出し、兄たちに密告するばかりか、いつも姉貴風をふかせて、私たちを説教しました。姉は持っているわずかな知識を過大にふりかざし、兄たちの真似をして、神の教えやキリスト教徒の道を説くなどし、私や弟が大人しくうなずいて聞いていれば、自尊心を満足させ、得意げにほほえむのでした。

ところが、私が4年生くらいになると、前にもお話ししました通り、本の虫となり、聖書に関しても、ほかのあらゆることに関しても、姉よりはるかに詳細な知識を持つようになりました。そして、姉の知ったかぶりの説教に対しては、その誤りを指摘したり、正しい内容を教えたりするようになりました。姉はそれが大いに不満で、何とかして私をやりこめようとしました。

私が5年生になったある日、姉は私を納屋に呼び出しました。そして、赤ちゃんはどうしたらできるのか知っているか、と秘密めかした声で問いました。

私は、知りませんでした。家には百科事典など書籍が豊富にありましたが、性に関する知識の書かれたものは、むやみに子供たちが触れないように親たちが遠ざけていたのか、一度も目にしたことがありませんでした。私は、知らないと言いました。

姉は勝ち誇った笑みを浮かべました。そんなことも知らないのか、まだ子供だな、と言いながら、聞いてもいないのに、得意げに、さも大きな秘密をこっそり教えてやるという口調で語り始めました。

まず、姉は、男の子は年頃になると、女性の裸を見たときにある反応が起きるのだ、と言いました。これには、既に私も心当たりがありました。家にあるルノワールの画集に描かれた、豊満な乳房を持った裸婦を見ると、もやもやした不思議な感情がわきおこり、知らないうちに反応が起きていることがありました。その際に体の部分に触れると、なんとなく気持ちがよくなるということも知っていました。

さらに、姉は、お互いに惹かれ合った男女が体を重ね合わせ、一体となり、精液と卵子とが結合すると、赤ちゃんができるのだ、と教えました。

姉が語ったのは以上で、表現も曖昧であり、用語にも間違いがあったかも知れません。ですが、生まれて初めて知った、子供の誕生に関する事実は、私には衝撃的でした。そして、これらの事実について、より詳しいことを知りたいという強い欲求に駆られました。

前にもお話ししましたように、私はこの頃、知識欲が非常に旺盛で、家にあるいろいろな書物を読みあさっていました。いくつかの分野では、大人顔負けの知識を持っていました。ところが、性については、まだ何も知りませんでした。

姉が私に教えたのは、性についてのほんのさわりであり、内容も不正確なものでした。しかし、私は、この世の中に、自分の知らない、性という、とてつもなく奥深い、秘密めいた事実が存在していることに驚愕しました。そして、性にまつわる事柄について、より深く知りたいという、ほとんど強迫的な願望に駆られました。

この日から、数年間にわたって、私の頭の中は性のことで一杯になりました。寝ても覚めても、そのことばかり考えていました。おかげで学校の成績も下がってしまいました。これまで、休みがちだったのにもかかわらず成績は学級で一番でしたが、四番から五番くらいに落ちてしまいました。

私は、図書館に通い、人目につかないように苦労しながら、性について書かれている書物は何であれ、食い入るように読みました。男女の体の構造であるとか、性にまつわる様々な用語を覚えました。書店で立ち読みもしました。これらにより得られた知識は、正しい知識もあればそうでないものもあり、玉石混交でした。ですが、じきにこの面においても、非常に博識になりました。

そして私は、姉が私にそうしたように、学校の友達たちをつかまえて、赤ちゃんはどうしたらできるのか知っているか、と問いただし、知らない者には自分の得た知識を伝授することに喜びを見出すようになりました。決してほめられた話ではありませんが、性に関して、私は伝道師のようになったのです。

このことはやがて教師にも知れました。牧師の息子である私が、性についてあることないことを教室中に触れ回っていると問題になりました。母親が学校に呼ばれ、教師から強い注意を受けました。


病的なまでの強い探究心にかられ、性にまつわるあらゆる情報をむさぼるように入手しようとした自分でしたが、この頃(小学校5~6年)は、完全に頭でっかちで、獲得した知識に見合うほどには心も体も追いついていませんでした。私はいまだに母親にべったりくっついて甘えていました。冬の夜は、寒いと言って母の布団にもぐりこみました。恥ずかしいことに、時々おねしょもしました。

ルノワールの裸婦や、小学生向けの雑誌に性に関する正しい知識が掲載されている時の裸の女性のイラストなどを見ると、もやもやした感触を覚え反応が起きましたが、それ以上のことはありませんでした。

ところが、中学校に入ると、より具体的な欲望が芽生えてきました。町に出て、若い女性を見ると、その胸の膨らみや、やわらかそうな肌に、むらむらとした感情が沸き起こりました。

女を見て心に情欲を抱く者は、姦淫を犯していることになる。

その禁を破ったことへの罪悪感は不思議になく(私は家族の中で最も信仰心が乏しかったのです)、女を見て情欲を抱くという、今まで漠然としすぎて理解できなかったことの意味が自分にもわかったということが、新鮮な驚きでした。

やがて、いまだ見たことのない女性の裸を見てみたい、と思うようになりました。

当時はインターネットなどありませんから、女性の裸はおろか、アイドルの水着姿などをこっそり眺める機会もありません。女性の裸を見るには、バスで町に出て、それらが掲載されている雑誌や書籍を購入するしかありませんでした。

当時の中学校では、外出時は制服の着用と校章の使用が義務付けられていました。男子生徒は全員丸刈りでした。そんな姿で、女性の裸が掲載されている書物を購入するなど、到底不可能です。補導されるおそれもあります。

女性の裸を見てみたいという欲求は、日に日に募る一方でした。とはいえ、例えば女風呂を覗くとか、そのような反社会的行動をたくらもうとしないだけの倫理は、聖職者の家庭に育った者として、さすがに持ち合わせていました。

そんな中、ついにその願望が満たされる日がやってきました。


中学校は、自宅や教会のある集落からはやや離れた商業地区にあり、私は、自転車で通学していました。

中学校で、私は、佐々木と後藤という二人と親しくなりました。佐々木と後藤は、私とは別の小学校の出身で、小学校時代から仲が良く、いつも行動を共にしていたようです。私は、中学校に入って、その二人組に参加するような形で親密になりました。

教師たちは、私がこの二人と仲良くすることが理解できないようでした。というのも、佐々木と後藤は、成績が学級で下から一番と二番の二人でした。私は学校の勉強だけはよくでき、成績は学級で常にトップだったのです。

私の兄弟は、勉強がよくできることで有名でした。その中でもずば抜けていたのは、失踪した次兄であり、一方、例外的に成績が芳しくなかったのは、すぐ上の姉でした。

佐々木と後藤は、成績が劣悪であるとはいえ、不良少年というわけではなく、非常におとなしい、地味な少年たちでした。佐々木は、男ばかり三人兄弟の末っ子でした。後藤は、両親が離婚しており、母一人子一人の母子家庭に育ちました。この二人が、性に関し、私と異なり頭でっかちな形でなく、実践的に目覚めていたのです。

佐々木は、悪い兄たちから性に関する俗物的な知識を教わるばかりでなく、ポルノ雑誌を譲与され、それをこっそりと学校に持参し、後藤に貸与していました。二人と親しくなった私も、興味津々でしたから、自然な流れとして、それを借り受けることとなりました。

私は、借りた雑誌を紙袋に入れ、学生鞄に隠して、どきどきしながら帰宅し、家族、とりわけ姉や弟の目を盗んで、二段ベッドの上の段で寝転がり、宿題のプリントや包装紙で表紙を隠しながら、こっそりと盗み見ました。

それらの雑誌は、佐々木の兄たちが成人向け雑誌専用の自動販売機で購入したものでした。当時のその手の雑誌は、印刷技術も悪く、写真は薄暗く、モデルもぞっとするほど醜い女性ばかりで、おどろおどろしい淫靡な雰囲気が漂っていました。一部分は黒いマジックで塗られていました。それを目にすると、何とも言えない不快感と吐き気を覚えましたが、同時に、非常に昂奮し、体が大きな反応を起こしました。

私は、これらを盗み見するのが毎日の習慣となりました。もちろん、そのような行為は、神が設けた性の目的に反する悪い行いであり、教えに背くものでしたから、常に罪悪感に苛まれ、きょうは見るのをやめておこう、と毎日思うのですが、どうしても見てしまうのでした。

この頃、自動販売機で売られているような品質の悪いポルノ雑誌でなく、かなり印刷の綺麗で、モデルも秀逸な写真集が書店に並び始めた時期でした。佐々木も後藤も、下等な品質の雑誌では満足ができなくなってきました。二人は、何とかして書店に並んでいる高品質な写真集を手に入れられないものかと思案を始めました。

佐々木と後藤と私は、毎日、学校帰りに公園に立ち寄り、ベンチで菓子パンをほおばりながら、どうやったら書店の棚に平積みになっている魅惑的な写真集を手に入れることができるかを論じ合いました。後藤が言うには、それら写真集には、成人向けと銘打ってあるものと銘打ってないものがある、銘打ってないものならば、未成年でも購入ができるのではないかということでした。佐々木は、書店は本が売れた方がうれしいのだから、たとえ成人向けのものであっても、買い手が未成年だからといって販売を拒絶することはないのではないか、と言いました。それではだめもとでいいから、挑戦してみようということになりました。

といっても、学校の周囲の書店ですと、誰に見られているかわかりません。そこで我々3人は、休日に自転車に乗り、1時間近くかかる隣町の繁華街に出向くことにしました。当時は、現在のような大型書店はどこにもなく、店主がはたきで書棚のほこりを払っているような、小規模な店ばかりでした。隣町の繁華街に着くと、我々は書店を探し当て、まず、後藤が偵察に入りました。私と佐々木は外で待っていました。後藤が戻ってきて、我々が求めているような写真集は置いてなかったと報告しました。

我々は第二の書店を探しました。やはり後藤が下見に入り、店の一番奥の棚に、成人向けの書籍や雑誌がわんさか平積みになっているのを発見したと報告しました。また、店主は気の弱そうな老人で、ここなら、制服姿の中学生が成人向け書籍を購入しても、文句は言わなそうだと言いました。

我々は、誰がそれを買いに行くかを議論しました。お金は、後藤が出すことになっていました。しかし、3人のうち誰も、率先して自分が買いに行くと宣言する勇気を持ちませんでした。

そうこうしているうちに日が暮れてきました。

結局、その日は目的のものを購入することができず、3人はしょんぼりと自転車に乗って帰りました。

ところが、数週間後、我々は驚かされました。後藤が一人で隣町の書店に行き、念願の写真集を購入したというのです。

後藤は、下見の際に目にした、平積みになっていたいくつかの写真集のうち、とりわけ魅惑的なモデルが表紙に大写しになっていた1冊が忘れられませんでした。何とかして手に入れたいと、そのことばかりが頭を支配し、何も手につかないほどになりました。後藤は、いてもたってもいられず、翌週、一人で自転車に乗り、同じ書店に赴いたのです。

お目当ての写真集は、まだ平積みになっていました。後藤は、意を決してそれを手に取り、レジに向かいました。無論、中学校の制服のままです。レジの老人は、ぎろりとにらんだようですが、何も言わず、お金を受け取って、商品を紙袋に入れました。

後藤は、写真集を購入したことを我々には言わず、毎晩、そればかり眺めては、一人、甚だしく昂奮していたようです。後藤がそれを告白したのは、購入して2週間ほどたち、そろそろ眺めるのにも飽きてきた頃でした。1冊目で味をしめた後藤は、やはり単身同じ書店に赴き、2冊目を購入したのです。そして、1冊目を、まず佐々木に、次に私に貸してくれました。

後藤も佐々木も、口をそろえ、その写真集が素晴らしい内容であると言いました。

私は、借り受けた写真集を学生鞄に隠して持ち帰り、夜、弟が寝ているのを確認してから、ベッドの上で、期待に打ち震えながらそっと開いてみました。私は、眠る前の読書に必要だからと母に言い、ベッドの枕元にライトを取り付けてもらっていました。

それは、プレイメイト風の白人女性5~6人をモデルにした写真集でした。モデルは、いずれもブロンドの長い髪と、赤茶っぽい健康的な肌をしており、見たこともないほどの美人でした(もっとも、田舎暮らしをしていましたから、白人女性を目にしたことなど実際にはありませんでしたが)。

写真も綺麗で、佐々木の兄たちが自動販売機で購入した質の悪い雑誌とは、雲泥の差がありました。確かに、それは素晴らしい内容のものでした。私は、1頁1頁を食い入るように眺めました。1時間見ていても飽きることがありませんでした。

昂奮は局限まで高まり、体は著しい反応を示しました。この写真集(「マイ・ヴィーナス」という表題でした)は、我々3人の中では、最高の品質のものと評価され、何度も何度も回覧されました。

後藤は、それからも次から次に写真集を購入しました。写真集はいずれも中学生にとっては高価なものでした。後藤がなぜそんなにお金を持っていたのかはわかりません。もしかしたら、昼夜とも働きに出ている母親のお金を寸借していたのかも知れません。佐々木と私は、後藤の購入した写真集をすべてただで回覧してもらいましたから、片棒を担いでいたことになるのかも知れません。

そんなある日、「マイ・ヴィーナス」は受難します。担任の先生に見つかり、没収されてしまったのです。


失態を犯したのは佐々木でした。

佐々木は、「マイ・ヴィーナス」がいかに優れた写真集であるか、そのモデルたちがいかにセクシーであるかを、学級のみんなに説いて回りました。そして、休み時間に、自分の所有物でもないのに、教室の後ろの方の席に男友達を集め、「マイ・ヴィーナス」を回覧しました。おそらくそれに気付いた女子生徒が、先生に報告をしたのでしょう。昼休み、突如、担任の女性教師(当時、40代半ばくらいでした)が、生活指導の男性教師とともに、教室に乗り込んできました。佐々木は驚いて、「マイ・ヴィーナス」を机の棚に隠そうとしましたが、慌てて床に落としてしまいました。女性教師がそれを拾い上げました。

佐々木は職員室に呼ばれ、こっぴどく怒られました。生活指導の男性教師からは、2~3発、ひっぱたかれました(生徒が平手打ちをくらうなど、当時は日常茶飯事でした)。

当然、本は没収されました。こんなものは、大人になってから見ろ、学生のうちは勉強に集中しろ、と言われました。どこで入手したのかとも問われたようです。

佐々木は、後藤から借りたとは言わず、兄にもらったものだと説明しました。すると、ほかに隠し持っているのがあれば全部提出しろ、と言われました。佐々木は、もう持っていません、と答えました。幸い、親が呼ばれるようなことにはなりませんでした。

「マイ・ヴィーナス」が没収されたのは、我々3人にとって痛手でした。

後藤はほかに10冊近く写真集を保有していましたが、いずれも日本人がモデルのものでした。現在では、芸能人はじめ、驚くような美人が抵抗もなくヌードになりますが、当時は、ヌードモデルなどは、お金に困ってやむなくやっているような、どことなく暗い影のある女性が多かったのです。体つきも、ブロンド美女の豊満で健康的なそれに比べると、貧相で、見劣りがしました。

再度入手しようにも、「マイ・ヴィーナス」は、完売したのか、もはやどこの書店でも見当たりません。

ところが、没収されてから半年くらい後、後藤が母親と遠出をした際に、県庁所在地の大きな書店で、「マイ・ヴィーナス」が売られているのを発見しました。翌週、我々3人は、親に交通費をもらって県庁所在地に行き、その書店で再度、「マイ・ヴィーナス」を購入しました。今度は、小遣いの中から、3人でお金を出し合いました。こうして、無事(?)、この魅惑的な写真集を再び我々は回覧し合うことが可能になりました。

 のちに、「マイ・ヴィーナス」は再び受難することになります。

ですが、それを語る前に、「マイ・ヴィーナス」に絡んで自分に起きたある事件のことを語る必要があります。忘れもしません、中学2年生の夏の日、私の身に驚くべきことが起きたのです。


後藤から借り受けた、主に白人女性の裸体の掲載された写真集を、夜中にたっぷり時間をかけて閲覧していると、激しく昂奮し、体が反応を示しましたが、気がつくと、衣服がわずかに濡れていることがありました。

その夏の日、私は風呂から上がると、体が火照っていたので、素っ裸でベッドに寝転がり、歴史の本を読んでいました(この頃私は日本史にはまっており、とりわけ戦国時代の武将が出て来る小説や、歴史書を片っぱしから図書館で借り、読みあさっていました)。

私は、下段のベッドにいる弟が寝静まるのを待っていました。枕の下に、久しぶりに借り受けた「マイ・ヴィーナス」を隠してあり、早く見たくて仕方がありませんでした。

弟には妙な癖があり、起きている間、絶えず独り言を言っているのです。それもかなり大きな声で言うので、知らない人からすると、見えない誰かと会話しているように聞こえます。我々家族はこれには慣れっこになっていました。また、弟は寝つきがよく、眠るとすぐに大きな寝息を立てるので、起きているのか寝ているのか、大変わかりやすかったのです。

午後11時半頃を過ぎると、弟がすやすやと寝息を立て始めました。我が家にはテレビもなく、娯楽もありませんでした。家族が寝静まるのは早く、両親も10時過ぎにはベッドに入っていました。

静まり返った部屋の、二段ベッドの上の段で、私はどきどきしながら「マイ・ヴィーナス」を取り出し、素っ裸のまま、布団もかけず、昂奮に打ち震えながら、ページを繰りました。

私がとりわけお気に入りだったのは、巻頭に掲載されているモデルの、上目づかいにこちらを眺めている写真でした。ブロンドの長い髪、赤茶色の肌。想像をめぐらすうちに、昂奮が極度に高まりました。

私は30分以上も同じ写真を眺め、昂揚に身を委ねていました。体は著しい反応を示し、いつものように、衣服が少し濡れていました。

私は何気なく体を動かしてみました。

その時、信じられないことが起こったのです。

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