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信義  作者: 坂井 準
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第1日

森を切り開いて、一軒の教会が建っていました。

木造の小さな建物でした。

普通のカトリックの教会のような、ステンドグラスとか、十字架に磔にされたイエスの像、マリア像などの装飾は何もありません。学校の体育館を狭くしたような空間に、木製の長い椅子が並べられ、正面には、唯一、そこが教会であることを示すものとして、イエスの肖像画が飾られていました。

私の父はその教会の牧師でした。プロテスタントの流れを汲むある会派に属していました。

長兄は、既に父の後継者として、牧師の道を選んでおり、父と交代で、毎週日曜日の礼拝を主宰していました。

私は、今を去ること50年前、11人兄弟の下から2番目として生を受けました。私が生まれた時、長兄は既に成人し、結婚して、近所に独立した住居を構えており、子供もいました。つまり、年上の甥がいたことになります。

そこは人口30万人ほどの地方都市でした。地方都市といっても、賑わっているのは駅の周辺のみで、私の生家は、駅からバスで30分以上かかる片田舎にありました。周囲は田園と森林ばかりでした。森林をところどころ切り開いて、民家が数軒密集する集落がいくつかありました。昔から住んでいる人ばかりの集落には、ほとんど同じ苗字の人たちが住んでいました。

私たちの家族はよそ者でした。私の父は、ほかの土地から流れてきて、そこに住みつきました。

父は、その市から電車で1時間ほどかかる町の出身でした。母方の実家もそれほど遠くないところにありました。

私は、母に連れられて、母方の郷里を月に1回くらい訪れました。ですが、父方の実家には、ついぞ一度も行ったことはありません。というのも、父は、宗教上の対立から、実家と縁を切っていたのです。

父の生家は、代々続く浄土真宗の寺院でした。父は長男でもあり、当然ながら、僧侶として寺院を継ぐことを期待されていました。父自身、当初はそのつもりでしたようです。

ところが、父は、仏教以外の学問に関しても見聞を深めたいと、大学に進みました。祖父は、父には大学など行かず、すぐに寺院を継いでもらいたかったようです。寺院を継ぐのに、高等教育などは必要ないという考え方でした。この段階で既に、祖父と父の間には相当の確執が生じました。

父は、大学に在学中、現在信仰しているプロテスタントの一会派の教義に触れ、目が開くような思いをしたといいます。ですが、幼少時から学んできた浄土真宗の信仰を捨てることはできませんでした。父は学生結婚をし、子供を設け、郷里に戻りました。宗派として妻帯は許されていましたが、この結婚自体、父は祖父にひとことも相談せずに決め、祖父もやむなく追認したもののようです。祖父はすぐにでも寺を継いでもらいたかったようですが、父は、何か心に引っかかるものがあり、まだ修業が必要だということで、それを拒み続けました。祖父の父への不信感は増大し、言い争いが絶えないようになりました。遂には、お互いほとんど口もきかないような状態になりました。

そんな中、太平洋戦争の戦火が拡大しました。

寺は山の中に建っていたため、空襲に遭うことはありませんでした。当時、僧侶といえども兵役を免除されたわけではないようですが、地元の古刹であることが考慮されたのか、祖父や父のもとに赤紙が届くことはありませんでした。父の幼なじみの多くが戦死しました。

終戦後、父は、妻と3人の子供を連れ、突如、寺を出ました。キリスト教の洗礼を受け、宣教活動に勤しむことを決めたのです。出奔後、父は、祖父に長文の手紙を書き、自分が別の信仰を選んだこと、寺を継ぐことはできないことを知らせました。

祖父は激怒しました。信仰を捨てるまでは、親子の縁を切ると通告しました。

父は、教団のこの地方の本部の要職に抜擢され、その要請に従い、宣教活動と教会の主宰のため、各地を転々としました。そんな生活を10年も続けた後、私の生まれた集落に、小さな教会から歩いて数分のところにある2階建ての木造家屋に居を定め、牧師として腰を落ち着けました。

父は、祖父との断絶を常に気にしていました。定期的に祖父には手紙を書いていたようです。ですが、手紙の中で、自らの信仰が真理であること、祖父も一刻も早く仏教を捨て、真実の道を選び取るべきであると記すにつけ、祖父の怒りは増大する一方でした。

結局、祖父は、その後生まれたたくさんの新しい孫の顔を見ることなく、急性心不全でこの世を去りました。葬式は、浄土真宗の様式で行われ、父がそこに参列することはありませんでした。祖父の寺は、叔父が継ぐことになりました。

数十年後、叔父も亡くなり、宗教法人の財産の相続をめぐって、叔父の子と、もう一人の叔父が、争いを繰り広げることとなりました。私はそれを後に裁判の記録からたまたま知りました。

父をはじめ、私の家族が信仰していたのは、厳しい教義で知られるある会派でした。ローマ法皇など、この世の権威をすべて否定し、神と御子イエス・キリストのみに信仰を置くというもので、聖書に書かれていることを字句通りに解釈しました。三位一体を否定するなど、一般的なカトリックとは教義が異なり、プロテスタントの流れを汲んでいながら、独自の聖書解釈を持つものでもありました。

例えば、避妊は、神の意思に反するものとされていました。私が11人兄弟であることを見ても、その教義は首肯できると思います。

父は教会の要職に就いており、各地の教会を回ったり、伝道活動に従事したりするため、家をあけることが多く、夫婦は行動をともにすべきであるという考え方から、母もおおむねそれに同行しました。私と、1歳下の弟の面倒は、主に長兄夫婦が見ました。長兄はじめ、年の離れた兄・姉たちは、自分にとっては、父親・母親のようなもので、遠い世界に属する人たちでした。すぐ上の姉でも、4歳離れていました。

私と弟は、毎週2回、長兄の主宰する聖書を朗読する会に出席を義務付けられました。聖職者の家族に生まれた者として、教義の基本を、そこで叩き込まれました。

私は、記憶力が良かったため、一度聞いた教義や、聖書の出来事は覚えてしまい、そのうちに退屈で仕方なくなり、よくあくびをして、長兄に叱られました。弟も似たようなものでした。

結局、私は信仰の道を選びませんでしたが、この時叩き込まれた教義はいまだに記憶に定着しており、聖書に出て来る、例えば創世記や、出エジプト記や、イエスの生涯などに関する知識は、クリスチャンと同じくらい、またはそれ以上のものを保有しています。

父は、年上の兄や姉に比し、さらに雲の上のような存在でした。信仰に一途に身を捧げていた父は、もともと寡黙で、厳格で、冗談一つ言わない人でした。幼少時、父とは、会話を交わした記憶があまりありません。

母は、父よりも2歳年下でした。明るく活発、社交的で、誰とでも親しくなり、おっちょこちょいなところがあるという、父とは正反対の性格でした。11人の子供を産んだことからわかる通り、体型は安産型、より正確にいえば、肥満していました。父はやせ型でしたから、こちらも正反対でした。面白いことに、長兄の妻(義理の姉)も、同じような体型をしていました。

我々11人兄弟は、私も含め、父の遺伝子を受け継いで、生真面目で大人しい性格の者が多かったと思います。長兄はその最たるものでした。長女、三男も、どちらかというと、長兄の世界に属していました。

例外として、11人兄弟のうち、3人は、母の明朗な性格を引き継いでいました。一人は、私が生まれた時19歳だった二男です。もう一人は、同じく9歳だった二女。残る一人は、1歳下の弟でした。

二男は、家庭教師を何件か掛け持ちして家計を助けていましたが、友達も多く、積極的にどこへでも出かけ、酒もよく飲み、信仰を第一にすべきであるという家訓をはずれがちで、父や長兄から困りものの扱いを受けていました。二女は、お転婆で、同性よりも男の友達が多く、近所の悪ガキと一緒になってよく遊んでいました。弟は、ひょうきんな性格で、いつも面白いことをして皆を笑わすのが日課でした。

母とこの3人がいれば、家庭から笑いが絶えることはありませんでした。

ところが、奇しくも性格の似通ったこの3人には、のちのち不遇な運命が待っていました。


私は幼少の頃、母にべったりでした。四六時中、母にくっついて歩いていたようです。少しでも母の姿が見えなくなると泣きました。母が、父の巡礼について旅に出ることになると、大声で泣き、行かないように求めました。母は、父につき従うことを義務と心得ていたため、簡単にはその願いを聞き入れませんでした。お姉さん(長兄の妻)が面倒を見るからと言い聞かせ、出かけて行きました。

私は、母がいなくなると、よく熱を出し、寝込みました。そうすると、母が、旅を途中で切り上げて帰ってきました。

幼い頃の最初の記憶として、母と電車に乗って海に出かけたことを覚えています。

うちは家族旅行とは縁がありませんでした。父は仕事を第一に考えていました。うちの家計は、教団から父に払われるもののほか、教会員からの寄付金で成り立っていました(もっとも、母がしていた内職や、次兄の家庭教師の収入は、大いに助けになっていたようです)。人さまのお金で生活をしているのに、おいそれと家族旅行などに行けたものではありません。しかもこの大所帯です。

ですから、あの日、どういうわけで母と二人で海岸に出かけたのか、定かではありません。海水浴をしたわけではないので、盛夏ではなかったはずです。周囲を山に囲まれた、ひなびた小さな海岸でした。結構大勢の人がいました。

海辺で遊んでいると、はるかかなたの水平線が、忽然として大きく盛り上がり、音もなく、こちらに迫って来るのが見えました。

「津波だ」と周りの人が言いました。

人々が一斉に逃げ始めました。母は私の手を引いて走り、山に向かって坂道を駆け上りました。私は何度も転び、足をすりむき、泣きながら走りました。

一度だけ振り返ると、とてつもなく高い波が、先ほどまでいた海岸線を超えて、住宅のある場所にまで押し寄せているのが見えました。ここまで来れば大丈夫という高台まで来ると、今まで私の手を引いていた母の姿がありません。

周りには逃げてきた人たちが大勢いて、大変だ大変だと騒いでいました。私は、大声をあげて泣きながら、母の姿を探し続けました。近くにいたおばさんが、一緒に母を探してくれました。

母は、山小屋のような小さな建物の前で、男たちに囲まれて話していました。泣いている私を見つけると、母は駆け寄ってきました。ですが私は、その時、母がなんとなく不機嫌だったのを見逃しませんでした。

後になって過去の新聞を当たったものの、その時期、郷里の周辺で津波があったという記事は見つけることができませんでした。ひょっとしたら、あの出来事は私の脳が作り出した偽りの記憶だったのかも知れません。


私は、1歳違いということもあり、弟とは仲が良く、いつも一緒に遊んでいました。幸い、子供が遊ぶ野山があふれていましたから、夕暮れまでどろんこになって遊びました。長兄の息子(年上の甥)も、1歳違いでしたので、3人でよく遊びました。しかし、長兄の息子は、聖職者の家族の跡取りであり、英才教育を受けていましたから、信仰という面でおちこぼれの私や弟とは次第に距離を置くようになりました。こちらは他人の畑に侵入して秘密基地を作ったり、畑の上で転げ回って農作物を荒らしたりと、牧師の息子たちとは思えないいたずら小僧ぶりで、近隣の顰蹙を買っており、しょっちゅう母が謝りに言っていました。よく母や大きい兄・姉たちに怒られました。

ところが、小学校3年生くらいになると、私は病気がちになりました。既にお話ししましたように、母がいなくなると決まって熱を出すようになりました。学校も休みがちになりました。どこかが悪いのではないかと、母に連れられていくつかの病院を回りましたが、異常はありませんでした。弟の方はあいかわらずのわんぱくぶりでしたが、私は年の3分の1くらい学校を休んでいるような状態でした。

私は暇なので、家にある書物を片っぱしから読むようになりました。といっても、聖書やそれに関連する書物にはあきあきしていたので、百科事典やら、父が大学で学んだらしい科学やら物理やらの本を、中身がよくわからないままに乱読しました。学校の教科書も読みました。自分の分だけでなく、兄や姉のお古を引っ張り出してきました。うちの家族にはテレビを見て団らんするという習慣はなく、もちろん当時テレビゲームもインターネットもありませんでしたから、体調が悪く外で遊べなくなった時、本を読むことが唯一の娯楽となりました。おそらく当時、特定の分野については、私は学校の先生よりも詳しい知識があったでしょう。学校の成績も、欠席がちの割には、いつも一番でした。


私が病気がちになったのは、ちょうどその前後に家族を襲った不幸と無関係ではないでしょう。信仰のもとに結ばれ、仲が良く幸せそうに見えた大家族でしたが、この頃、事件が立て続けに起こり、暗い闇の中へと突き落とされたのです。

発端は、当時高校生だった2番目の姉に関係します。子供の頃からお転婆で、男の子と一緒になって遊んでいた快活な次姉でしたが、高校生になっても変わらず、地元の、素行が良いとは言えない男たちとよく行動を共にしていました。当然、家庭では次姉の行動は問題視されており、聖職者の家庭に属するものとして、誤解を生むような行動は慎むように、父親や長兄、長姉から度重なる注意を受けていました。次姉も気にしてはいたようですが、一度できあがった交友関係を断ち切るのは困難だったようです。

夕方から突然豪雨となった夏の夜、次姉が遅くなっても帰って来ないので、大騒ぎになりました。父や長兄が探しに出ました。私はいったん就寝しましたが、家庭内のただならぬ気配に、なかなか寝付けず、12時過ぎに寝間着を着たまま起き出しました。

その時、全身ずぶぬれになった次姉が帰宅しました。制服が破れ、顔は泥だらけになり、ひどい状態でした。次姉は何も言葉を発することはできず、玄関先に倒れ込みました。

私はまだ子供でしたので、何が起こったのか、説明を受けませんでした。寝室に行って眠るように言われましたが、一晩中家の中は騒がしく、なにやら大変なことが起こったということはわかり、胸騒ぎがして眠ることができませんでした。

翌日から次姉は入院しました。入院は1ヶ月ほど続きました。家族は入れ替わり立ち替わり姉を看病しました。父は、1日に何度も教会へ行き、ひざまずいて、長い祈りを捧げました。

退院後、次姉はすっかりふさぎこみ、学校にも行かず、家に閉じこもるようになりました。

姉はある暴力的な事件に巻き込まれたのだと長兄から説明を受けました。食事の前のお祈りでは、父が、毎回、家族を見舞った不幸に触れ、姉が、事件によって受けた身体的・精神的な痛手から、神の意思によって1日も早く立ち直ることができるよう、繰り返し祈りました。

明るかった食事の席は暗く、重いものに変わりました。

半年ほどたつと、次姉は再び登校ができるほどに回復しました。時折笑顔も見せるようになりました。このまま、以前の快活な姉に戻ってくれるよう、家族は神に祈りました。

ところが、春休みのある夜、最悪の結果が訪れました。

次姉は裏山の大木に紐をかけ、首をくくったのです。

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