まだ見ぬ夜明け
「マインラート卿は、この国を潰すつもりだ」
老人の言葉に、ノーラは閉口した。
マインラートが国を潰す……常識的に考えてあり得ない。
彼は宰相の息子なのだ。
国を守り、導くことが役目なわけで。
「こ、壊すなんてそんな……マインラート様はたしかに変わった方ですが、そこまで過激な思想をお持ちではないかと」
「……民を尊ぶ国を成す。あのお方の意志だ。千年以上にもわたって連綿と続いてきた、貴族階級による支配。その悪しき風習を断ち、万民が平等な国を作ると……仰せになった」
「…………」
わからない。
ノーラには何もわからない。
マインラートがこの老人に語ったことが、嘘か真なのか。
民に希望を持たせるための嘘かもしれない。
あるいは本気で胸に秘めている野望かもしれない。
「いつまでも凝り固まって変わらぬ貴族の血、文化。常に隆盛し移り変わる民の血、文化。今、グラン帝国は大きな岐路に立たされている。民草が啓蒙され、己を縛る枷に気づき、やがて自由を手にする可能性が――光明がある。マインラート卿はその好機を見逃さないだろう」
魔石の開発を筆頭とする、急速な魔法科学の発展。
他国の文化が流入することによる、価値観の変容。
民たちが次第に気づき始めている、階級社会への疑問。
ここで貴族たちがどのような対応を取るのかによって、国の未来は大きく変わることだろう。
マインラートは確実に隙を突き、国を瓦解させる。
ノーラとしては複雑な胸中だ。
世間を知らず、籠の中で育ってきたにせよ――彼女もまた貴族のひとり。
その一方で民の文化も大好きで……マインラートが本当に野望を抱えているとしても、彼を応援していいものか。
「……秘密に、しておきますね」
「ああ……あのお方を、頼む」
頼むと言われても。
ノーラにできることは何もない。
複雑な心持で彼女は中庭を後にした。
「よ、待たせたな。救貧院内の魔法人形は全部修理したぜ。ピルット嬢には人形を動かして、適当に掃除してもらいたい」
「わかりました。わかりました……うん」
ノーラは疑心暗鬼を生じ、マインラートの顔をチラチラと見る。
本当に飄々とした彼が、国を壊す野心なんかを持っているのだろうか。
「ん、なんか顔色悪いな。やっぱり休むか?」
「大丈夫です。わたしはどこへ向かえば?」
「俺が東棟、院長が北を担当する。ピルット嬢は西棟を頼む」
「了解です。城と比べたらすぐに終わりそうっすね」
「おう。じゃ、よろしく頼むぜ」
でも、きっと。
本当にマインラートが平民を嫌いなら、こんなに民に寄り添わない。
だから老人の語ったことは真実なのだろう。
けれどノーラは真実を語るつもりはない。
誰にも、マインラート本人にも。
◇◇◇◇
「今日は本当にありがとうございました。おかげでまた院内を綺麗にできました」
レナト院長が深々と頭を下げる。
救貧院の魔法人形はすべて修理され、マインラートとノーラの手によって清掃も行われた。
また人形が壊れたら、マインラートはすかさず直しに来るのだろう。
「ノーラ様にも子どもの面倒を見ていただいたようで……助かりました」
「楽しかったです。よろしければ、またお邪魔させてください」
「はい、ぜひ。お待ちしております。あの子も喜ぶでしょう」
時は夕暮れ。
二人は院長に別れを告げ、往路と同じボロ馬車に乗り込んだ。
「ったく……帰りもこれとはキツいぜ。高貴なる俺がこんなクソみたいな馬車に揺られるとはな」
「うんうん、そうですね。高貴なるマインラート様がね……そっすね」
「……なんだ、やっぱり調子悪いな。今日はあんたの言葉にキレがない」
不服そうな様子でマインラートは鼻を鳴らし、古びた椅子を軋ませた。
あの話を聞いた後では、彼の言葉がすべて嘘にしか聞こえなくて。
「じゃあ歩いて帰ったらどうですか? こんなボロい馬車、貴族の方が乗るには適しませんから」
「馬鹿言うなよ。労は貴族の恥だ」
疲れを織り交ぜた空気が馬車に満ちる。
車窓から流れていく貧民街を眺め、マインラートは目を細めた。
「こいつらと同じ場所を歩くだなんて……死んでも御免だね」
言葉の端に滲む嫌悪。
それは地を歩く民に向けられたものではなく、自らに向けられた……自己嫌悪だった。
しかしノーラがマインラートの真意を知ったところで、彼に対する姿勢を変えるつもりはない。
平民を見下しているように振る舞っているわけだし。
言いたいことがあるならはっきりと言えばいい……なんて、愚直すぎる感性を持っているがゆえに。
貴族社会に渦巻く嘘の化粧は、ノーラにはいまいち理解できないものだ。
何事もわかりやすいのが一番。
「意外と好みな場所でしたよ、救貧院。また個人的に行こうと思います」
「へえ。行くのは構わないが、道中には気をつけろよ。治安は別に良くないからな」
「ふふふ……実はわたし、透明人間になれるので。心配無用です」
「は、透明? 嘘だろ?」
ノーラはニヤリと笑って幻影魔術を発動。
四方から視認できなくなるように魔力を纏う。
目の前に座っていたマインラートは目を瞠った。
「おおっ、マジか!? ……って、よく見たらアレだな。魔力がダダ漏れだし、空間が歪んでるし。俺の目は誤魔化せないぜ?」
「そ、そこが課題なんですよねー……幻影魔術の使い手って本当に少ないみたいで。先達に教わろうにも、先達がいないという……」
「俺ですら初めて見たからな。面白そうな属性ではあるが、極めるのはムズそうだ。まあ、よくよく見ないとバレないし……緊急時には使えそうか」
透明化を解除する。
まだまだ課題は多そうだが、地道に鍛えていくしかない。
マインラートは夕陽を眺めながら欠伸をし、ふと何かを思い出したように指を鳴らした。
「ああ……そうだ、ピルット嬢。あんた、歌が好きなんだよな?」
「なんすか藪から棒に。そうですけど」
「歌劇を観に行かないか? 夏の間付き合ってくれた礼も兼ねてさ。世話になったのに何も礼をしないなんて、名家の名折れだからな」
歌うことが好きなのと、歌劇が好きなのはまた別だが。
それはそれとしてノーラは歌劇に興味があった。
一応、元宮廷吟遊詩人という設定だし……観に行くべきだろう。
「ぜひ! ……あ、アリアドナ様も一緒によろしいですか?」
「アリアドナも? なんだよ、せっかく俺と二人きりで出かけられるチャンスなんだぜ?」
「あなたと二人きりになりたくないから言ってるんですよ。それに……アリアドナ様にもお世話になってますから。もっと仲良くなりたいんです」
「ははっ、そうかよ。いいよ、アリアドナも一緒に行こう。……三人で」
この夏、たくさん働いた。
課題もちゃんとやったし、研究も多少は進んだし……自分にしてはよくやった方だと思う。
後は羽を伸ばすという目標を達成するだけ。
「ねえ、マインラート様」
「ん?」
「夏休みの間、遊びました? いやあの、女遊びとかそういうのじゃなくて。ちゃんと息抜きできましたか?」
ノーラの問いかけにマインラートは困ったように肩をすくめた。
宰相の息子として駆けまわる陰で、自分の野望のための種も蒔いて。
表面上は放蕩貴族に見えるが、それはあくまで演出に過ぎなかったことがノーラに見透かされている。
「よかったら、残りの期間……適度に遊びましょう。マインラート様が避けている民の文化とか、意外と触れてみると面白いかもしれませんよ?」
「俺は……」
「わたしも! わたしも、少しくらい遊びたいので……付き合ってください。民の面倒を見るのが貴族様のお役目ですもんね!? ねっ!」
「うぐっ……なんだその気迫は? わかった、わかったよ。仕方ないから付き合ってやるよ。他のご令嬢に嫉妬で刺されないよう、せいぜい気をつけるんだな」
強引なノーラの勧誘に珍しくマインラートは気圧された。
彼の本質を知るには、もう少し時間が……いや、絆が必要なのだろう。
ノーラはただ彼を知りたいと思う。
表層ではなく、本質を見るために。
「……夜明けはいつになることやら」
マインラートは小さく呟いた。