マインラート・――――
権力は使い方が肝要だ。
毒にも薬にもなり得る。
俺は権力の上手い使い方を知悉していた。
貴族社会の武器は"言葉"。
金とコネが物を言う世界だが、それだけじゃ足りない。
長きにわたって付き合う価値があると……相手にそう思わせれば、交渉は勝利に終わる。
『将来性を見据えれば、父よりも俺の方が価値がある』――と相手を説き伏せればいいワケだ。
だが、俺はその常識が通用しない奴を最初に引き入れた。
真っ先に交渉へ向かったのは……ひとつ歳上の、幼なじみの別荘だった。
「……面白い提案だ」
彼……ルートラ公爵令息、ペートルス・ウィガナックは口の端を持ち上げて笑った。
相変わらず腹の内が読めない人だが、コイツなら協力してくれる。
俺の胸中には確信があった。
「うん、いいよ。君は将来的に国がどうとか語っていたが……そんなことはどうでもいい。その姿勢が気に入った」
なぜならコイツは酔狂だからだ。
最近は鳴りを潜めているが、精神には怪物が棲んでいる。
自分から死地に向かい、その度に危機を乗り越えて強くなる怪物。
俺も大概だが、ペートルス様は俺以上の傑物で。
仲間に引き込めれば俺の計画は成功したも同然だった。
「やけにあっさり引き受けてくれますね、ペートルス様。後でとんでもない要求とかしてこないよな?」
「もちろん。他人の弱味を握るなんて優雅じゃない。それに……君の姿勢には近しいものを感じたからね」
「……なんかさ、ペートルス様。変わりましたね」
「変わった?」
記憶に残るペートルス様を想起する。
「昔はもっとさ、ガキらしかったと思うんです。俺と一緒にやんちゃして、たまに俺ですらドン引きするような……魔物の群れに突っ込んで暴れたりして。今はそんな振る舞いはなくなって、とにかく優雅さと体裁を気にしてる感じだ」
「それが成長というものだよ、マインラート。大願を果たすためには仮面を被る必要がある。……君と同じようにね?」
そう言ってペートルス様は悪戯に笑った。
口元を歪めて笑う彼からは、少しだけ昔の面影を感じられた。
◇◇◇◇
あの日以来、俺は定期的に救貧院へ通っている。
他の救貧院や孤児院、修道院にも行って……とにかくグラン帝国の民を理解しようと努力した。
数字と噂で見るだけじゃない、自分の目で確かめなくちゃならない。
「お、おはよう……マインラート、様」
「おはようございます、マルビナ嬢」
相変わらず顔色が悪いマルビナ。
彼女はまた監房の中で編み物をしていた。
平民が着る服はこうして作られているのだ。
「今日もつらそうです。疲労を回復する薬を持ってきたので……」
こっそりとマルビナに薬を手渡した。
他の人に見られたら、平等じゃないと不満が募るだろう。
「あ、ありがと……」
おずおずとマルビナは薬を受け取った。
焼け石に水だが、ないよりはマシだろう。
「あ、まーたマインラート卿が来てるよ」
そのとき声が響いた。
山吹色の髪をふたつに束ねた、俺と同年代の少女だ。
「こんにちは、アリアドナ嬢」
「うぃ、こんにちは」
「アリアドナちゃん……!」
マルビナの声色が明るくなった。
彼女……アリアドナは救貧院の中でも数少ない同年代の友人らしい。
アリアドナは元は貴族の血筋だ。
庶子で貴族の親の援助を受けていたが、親が他界して救貧院に引き取られたという。
俺がマルビナに話しても伝わらないことを、わかりやすく咀嚼して伝える役割も果たしてくれている。
貴族と平民の常識があまりにも違い、伝わらないことも多いのだ。
「手、見せてごらん」
「うん」
アリアドナはマルビナのか細い手を取った。
彼女の指先は荒れている。
「ご、ごめんね……また針で刺しちゃって」
「いいよいいよ。ほら」
アリアドナが治癒の魔法をかけ、手の傷を治していく。
貴族の血筋には魔力の質が高い者が多い。
アリアドナも例に漏れず、簡単な傷なら容易に治せてしまう才覚があった。
俺は治療に関しては門外漢だが……魔力を含む物質を結合させる特質がある。
傷を治す傍ら、アリアドナはマルビナに優しい声色で語りかける。
「あんさ、マルビナは欲しいものとかない?」
「え、欲しいもの……? なんで?」
「マインラート卿に買ってもらおうよ。いつもこの人の話し相手になってるんだから、それくらいお願いしてもいいって」
「え、え……? だ、だめだよ!」
俺は苦笑いした。
マルビナの謙虚さと、アリアドナの悪戯心を比べたら。
「構いませんよ」
「ほら、マインラート卿もこう言ってるし。この人、国のすっごい人の息子なんだから」
「でも……」
やっぱりマルビナはいい子だ。
俺と同い年とは思えないくらい真っ白で、穢れがなくて。
ひたむきに生きている。
「マルビナ嬢のご趣味は? 好きなものとか、遊びとか」
強引に聞き出そう。
普段から社交界で舌戦を繰り広げている俺が、平民を意のままに誘導するのは容易なことだった。
「好きなもの……う、歌とか……? お母さんとよく一緒に歌ってたよ」
マルビナは両親を喪い救貧院に入った。
その両親は歌劇を見ることが趣味で、よくマルビナも一緒に行っていたという。
歌……歌か、何を贈ればいいだろう。
「なるほど、すてきなご趣味ですね。アリアドナ嬢は?」
「ウチ? うーん……あ、ちょっと来てよ」
「わかりました。ではマルビナ嬢、また」
「うん、またね」
アリアドナが目配せしたので、俺は後に続いた。
二人で話したいことがあるのだろう。
人気のない中庭へ移動し、俺はアリアドナと向かい合った。
「悪いね、乞食みたいな真似して」
「いえ、構いませんよ。アリアドナ嬢は何が欲しいのですか?」
「あ、ウチはいらね。マルビナにだけプレゼントしたってよ。あの子が少しでも元気になればいいからさ」
虚しそうに笑うアリアドナ。
彼女は知っていた。
マルビナが病に侵されていることを。
俺も院長も知っているのに、マルビナ本人は知らない。
金がなくて治療が受けられないという。
俺が金をやれば解決しそうな問題だが、そう簡単にはいかないのだ。
彼女に金を与えれば、他の病に侵されている入院者に不満を持たれる。
そして大規模な金の融資もできない。
この救貧院は公爵派の名家が管理している。
大規模な融資は買収、および敵対行為と捉えかねられない。
俺がもう少し勢力を広げて、正式にこの救貧院を買収できればいい。
それまでの辛抱だ。
少しでも彼女を元気にしたい……そんなアリアドナの切なる願いが、俺にも伝わってきて。
「マルビナの歌声さ、すごく綺麗なんだよ。いつかアンタにも聞かせてやりたいね」
「ええ、楽しみにしています。彼女へのプレゼントは……何がいいでしょうか。歌劇の入場券、楽器、詩集などなど考えていますが……」
「ははっ、変なとこで真剣だね。マインラート卿があげたいと思ったものをあげればいいよ。何あげてもマルビナなら喜ぶでしょ」
「……それもそうですね」
ああ、そうだ。
彼女はきっと喜んでくれる。
この救貧院に暮らす人たちは、過酷な環境の中でも互いを助け合って生きている。
穢れない彼らの姿に感銘を受けている俺がいた。
彼らを救いたいという院長の願いにも共感できて……だからこそ、親父の言葉は肯定しかねるもので。
「アリアドナ嬢。もう少しで……きっとこの救貧院を買い取れます。そしたら、今よりもずっといい暮らしができますから……もうしばらく辛抱を」
「……優しいね、マインラート卿は。でもさ、いちいち貧民を救おうなんて考えてちゃキリがないよ」
「今はまだ、手の届く範囲だけを救います。でも……私が宰相を継いだ暁には。きっと全てを救います」
アリアドナはなんとも言えぬ表情で笑った。
それは諦観か、同情か。
きっと――彼女の方が現実を見据えていたのだろう。
◇◇◇◇
結局、俺はマルビナを救えなかった。
俺が救貧院を買収したころには、とうに病気で死んでいて。
贈り物をすることも、彼女の歌声を聞くことも。
何もできなかった。
貴族連中は、親父は……あの手この手で俺を妨害してきた。
もう少し早ければ……助かったかもしれないのに。
「……汚ねぇな」
汚ねぇよ。
貴族連中は穢れてやがる。
高貴なんかじゃない、高尚なんかじゃない。
欺瞞と虚偽に塗れた俺たちなんかより……平民の方がよほど綺麗だ。
彼らは真っ白で、毎日を一生懸命に生きて、前を向いている。
どれだけ貴族からの理不尽を科せられようと、したたかに明日を見ている。
貴族と平民は違う生き物だ。
俺たちのような穢れた存在が、純潔なる民を侵してはならない。
「ごめんな」
謝ったって、もう何も戻らないのに。
戻らないから。
これから何も失わないために。
俺は純白に触れず。赤き血を尊び。
やがては己を縛る家名すらも捨てて。
必ず――この国を民に明け渡してやる。
貴族は俺が滅ぼす。