流水は腐らず、止水は腐りゆく
子どもと遊んでノーラはくたびれていた。
小さい子の活力はすごい。
昔は自分もあれくらい元気だったのだが、今では根性なしである。
鬼ごっこをして疲れたのか、少年は自分の部屋に戻って眠りについた。
マインラートはまだ魔法人形の修理をしているらしい。
「マインラート様まだかなー。早くしろよなーおっせぇなー」
愚痴りながら救貧院の庭を歩く。
マインラートは自分が作る人形に対しては情熱を籠める節があるので、修理にも時間がかかっているのかもしれない。
救貧院の中庭は綺麗に落ち葉が掃かれていた。
季節は夏、照りつける陽ざしが暑い。
ノーラは屋内に戻ろうと踵を返したが……日陰で座り込む老人が目に映った。
ほつれたビーバーハットを被り、長い白髭を蓄えた老人。
彼は鋭い目つきで足元の桶を睨み、懸命に靴を磨いていた。
よほど集中しているのか、まったくノーラのことを気にかける様子がない。
老人のそばには何足もの靴が置かれている。
サイズはバラバラで、救貧院で暮らす人たちの靴を磨いてあげているのだろう。
「あのー……わたしもお手伝いしましょうか?」
返答はない。
靴を磨く音だけが中庭に響く。
相手はご老人だし、聞こえていないのだろうか。
無理に話しかけても仕方ないし、そのまま横を通り過ぎようとしたとき。
「……マインラート卿の連れか」
唐突に老人が言葉を発した。
「え、あ、はい。そうです」
「…………座れ」
老人はすぐ隣にあるベンチに目をやった。
言われるがままノーラはベンチに腰を下ろす。
皺深い手を止めることなく、ひたすら磨きをかける老人。
「アリアドナは……来ていないのか?」
「え、アリアドナ様ですか? 来ていませんが……救貧院と関わりのある方なのですか?」
アリアドナは子爵家の娘だ。
救貧院と関係はなさそうに思える。
だが、返ってきたのは予想外の答えで。
「あの子はこの救貧院の出だ。類稀な魔術の才を見出され、子爵家の養子に入った」
「そうだったんですね……アリアドナ様にはお世話になっております。すごく優しい方ですよ」
「……そうか」
そういえば、アリアドナはやけに平民の文化に詳しかった。
治安の悪い場所に行くのも抵抗がなさそうで……得心がいった。
マインラートと共にこの救貧院に帰省することもあるのかもしれない。
今回マインラートがアリアドナではなく、ノーラを誘ったのはなぜなのだろうか。
「マインラート様は、よくこの救貧院に来られるのですか?」
「ここだけではない。マインラート卿は貧しき民を救うため、各地の施設に足を運んでおられる。あのお方が初めてここに来られたのは……七年ほど前だったか」
「そんなに昔から?」
年齢で言えば、マインラートが十歳くらいのころだ。
ノーラがさっき遊んだ少年と同じくらい。
そんなに小さなころから貧しい民を気にかけていたのだろうか。
普段の彼からは、平民を気にかけている様子などまったく感じられない。
「意外、です……」
「何がだ」
「普段わたしが接しているマインラート様は、平民と貴族を厳しく区別するんです。『平民とは口も利きたくない』とか、『平民と貴族は別の生き物だ』とか。とても厳格に階級社会を意識して行動しているような感じで。こうして民のために働いているのが意外だなぁ……と」
「…………」
老人は沈黙していた。
もしかして言わない方が良かっただろうか。
マインラートのイメージを損ねてしまったかもしれない。
口を滑らせてしまったか……とノーラが青ざめた瞬間。
老人はようやく靴を磨く手を止めた。
「『流水は腐らず、止水は腐りゆく』」
「……へ?」
「マインラート卿が昔、院長と儂にだけ説いた言葉だ。常に流動するものは腐敗することなく、停滞するものは腐敗する。流水と止水が何を意味するか、よくよく考えればマインラート卿の思惑も見えてこよう」
ノーラは知識の引き出しを開けた。
今しがた老人が言った格言は、たしか異国の偉人が遺したものだったと記憶している。
元来は戦争の最中に反乱軍が挙兵した際、用いられた格言だったはずだが。
いまグラン帝国は他国と戦争などしていないし。
どちらかと言えば、三大派閥間で内紛が起こりそうな雰囲気である。
「移り変わるものと、変わらないもの……うーん。ポップな歌とクラシカルな歌とか? 流行りのお菓子と伝統のお菓子とか?」
「ふむ。それもまたひとつの答えだろう。あのお方の真意から遠くはない答えか」
「あ、意外と合ってるんですね」
適当に言ったつもりが、意外と的を射た返しのようだ。
だが核心を知りたい。
遠くはない答え……ということは、すなわち大正解の答えもあるわけで。
ノーラのうずきを察したのだろう。
老人は重苦しく口を開いた。
「――血だ」
「ち」
ぽかんとノーラは口を開けた。
血が移り変わるとは……どういうことだろうか?
考えを巡らせていると、思考の整理がつかないうちに老人が衝撃的な二の句を継いだ。
「マインラート卿は、この国を潰すつもりだ」