運が良かった
「……でさぁ、ラインホルト殿下とデニス殿下が喧嘩してる場面見ちゃってさ。ラインホルト殿下が『そこに誰かいるのか!?』って叫んだときはマジで死ぬかと思ったわ」
「へへ……王家の秘密、知っちゃいましたねぇ。でもラインホルト殿下に愛人疑惑かぁ……真面目な人だって聞いてましたけどー」
呂律の回らない口でノーラは受け答えしていた。
もはやアリアドナが何を言っていて、自分が何を見ているのかわからない。
そんなに酒は飲んでないはずなのに意識が朦朧としている。
もしかして自分たち、誰にも聞かれてはいけない話をしているんじゃないだろうか。
こんな酒場の真っただ中で。
すでに数時間が経過し、夜も更けてきている。
酒場は仕事帰りらしき労働者たちで溢れかえっていた。
「てかノーラ、顔色真っ赤だけど大丈夫そ?」
アリアドナはノーラの背中をさすりながら尋ねた。
真っ赤と言われても鏡がないので。
「うっ……大丈夫、じゃないかもしれません。吐きそうです、吐きます」
「おいおい姉ちゃん? 吐くなら店の外でな!」
店員が苦しそうなノーラに野次を飛ばす。
店で嘔吐したら出禁もあり得る。
とりあえず人目につかないところへ緊急退避しよう。
足元もおぼつかない彼女をアリアドナが支え、なんとか店の近くにある路地裏へ向かった。
「う゛!!」
「ったく……ここまでアンタが酒に弱いとはね。まあ、酔ってうるさくなるタイプじゃなくて良かったよ」
ノーラ自身も酔ったら口の悪さに拍車がかかると思っていたのだが。
逆にしおらしくなったというか、言葉数が少なくなっている。
頭がぼーっとして何も話す気にならないのだ。
「吐く、吐かない……吐く、吐かない……い゛っ゛」
仮にも淑女とは思えない声を上げるノーラ、それを気だるげに見守るアリアドナ。
こんな姿をペートルスや学園の友人たちに見られたら死にたくなる。
もうすぐ吐く、吐く……と。
酸っぱいのが喉の辺りまでこみ上げてきた時のことだった。
「……ふーん」
不意にアリアドナが声を上げ、周囲に濃密な魔力が満ちた。
何事かと吐き気を抑えて顔を上げる。
アリアドナは大通りの方角に目を向けていた。
視線の先には三名の男。
彼らはまっすぐノーラたちの方に向かってきているようだ。
「どしたんすか、アリアドナ様」
「追い剥ぎきーたよ。この辺は治安悪いし、しゃーないね」
耳を疑った。
酔いすぎて聞き間違えたのかもしれない。
「追い剥ぎってぇ……小説とかに出てくる、あの噛ませみたいな奴らですよね?」
「貴族にとっちゃフィクションみたいなもんだろうけどね。平民の間では割とよく遭遇する連中だよ」
「え……えぇ、マジすか? ここ帝都ですよ?」
「帝都だから何? 生きるのに必死な人はそれだけいるってことよ」
一気に酔いが醒めていく。
男たちはニヤニヤと笑いながらこちらへ歩いて来ていた。
まさしく悪党の見本のような態度と恰好で。
「よぉ、嬢ちゃんたち。酒場で飲んでる時からずっと見てたが……ずいぶんと上等な服を着てるじゃねえか?」
「命が惜しかったら……わかってんな?」
「金を出せって言ってんだよ!」
そして飛び出たのが悪党の見本のような言葉。
間違いない、アリアドナの言う通り彼らは追い剥ぎだ。
まさか平民街の治安がここまで悪いとは。
だが、こういう連中は大抵ザコなのだ。
別の意味で吐き気を覚え、ノーラはアリアドナに縋った。
「アリアドナ様……こいつらぶっ飛ばしっちゃってください……」
「え、無理かも。いやさ……ウチも魔術師としての心得はあるけどね。追い剥ぎって実力に自信があるから他人を襲うんだよ。創作みたいな噛ませ犬じゃねーの。今日がウチらの命日になるかもだから、覚悟しときなー」
彼女の軽い一言は、ノーラを絶望させるには充分すぎた。
筋骨隆々の悪漢三人に行く手を阻まれている。
大通りに逃げれば誰かが助けてくれるかも……なんてノーラは淡い期待を覚えたが、治安が悪い夜の街で助けてくれる人などいない。
衛兵がそこかしこにいる貴族街とは違うのだ。
「気の強そうな嬢ちゃん……アンタ、反抗的な目してやがるな? ったく……身の程を弁えない奴がたまにいるんだよなぁ?」
「…………」
アリアドナは返答せずに魔力を練り続けていた。
彼女は今までになく神妙な面持ちで佇む。
ノーラにはわかる。
アリアドナの周囲に渦巻く魔力の規模は――今までに見たこともないくらい、デカい。
男たちは何もしないアリアドナと、その後ろで怯えるノーラを見て口元を歪めた。
これはカモだ。
中々この街では見ない女たちだと思ったら……やはり『お客様』らしい、と。
だが。
「白雷」
アリアドナがひとつ呟く。
瞬間、バチと何かが弾けた。
数秒後に三名の男は白目を剥いて倒れる。
今のは……雷の魔術だ。
そして相当に精度が高い。
威力、規模、所作……すべてが一瞬で男たちを気絶させるために調整されていた。
「よっしゃ。運がよかったね」
「よ……余裕じゃないですかーっ!? なんであんな脅すようなこと言ったんですか!?」
どこからどう見てもアリアドナの圧勝である。
瞬殺である。
運がいいとか、そういうレベルじゃない。
圧倒的な実力の隔たりがあった。
ノーラの指摘に対して、アリアドナは渋い顔でかぶりを振った。
「いや、運がよかったんだよ。熟練の輩は、あらかじめウチらが魔術師だと見抜いて魔封じを使ってくる。女子供が相手でも油断せず、隙を突いて気絶させてくる輩もいる。今回、慢心しきった雑魚と当たったのは運がよかったんだ」
この街は油断ならないんだよ、とアリアドナは言葉を結んだ。
彼女の言葉にはやけに実感が籠っている。
ノーラは自分と相手の認識の齟齬を感じ取り、どことなく恥ずかしい気持ちになった。
「そ、そうですか……助かりました。あの、早く大通りに出ましょう」
「大通りに出ても安全とは限らんけどね。とりま、酒場に金だけ払いに行こうか」
「はい……」
とうに吐き気も引っ込んだ。
青ざめた顔で頼れる先輩の後ろを歩く。
すると、大通りに出る直前にアリアドナが振り向いた。
彼女の双眸がノーラの顔をまじまじと見つめる。
「ノーラ。アンタさ、平民出身って嘘でしょ」
「んえ」
急に図星を突かれてノーラは押し黙った。
これまでの振る舞いを鑑みれば、見抜かれるのも無理はない。
さりとて貴族出身ですと自白するわけにもいかないのだ。
「……ま、隠してるのは理由があるんだろうし。別に詮索はしないけどさ」
「は、はい……色々と複雑な事情がありまして。秘密にしておいていただけると助かります」
庶子だとか隠し子だとか、貴族には明かせない秘密もある。
だから出自を偽る者も珍しくはないし、踏み入ることも好ましくない。
アリアドナの気遣いには感謝せざるを得ないノーラだった。
「マインラート卿はアンタの出自知ってるの?」
「いえ、マインラート様にも嘘をついてます。そのせいであの人にはよく見下されますけど」
「……そっか」
複雑そうな声色で呟くアリアドナ。
彼女は改めて忠告するように言った。
「自衛できないなら、治安の悪い平民街には一人じゃ近づかないこと。それか貧相な身なりで行くこと。おっけー?」
「はい……! おっけー、です!」
「よーし。ま、一人じゃこんな場所に来ることもないだろうけどね」
いい勉強になった。
社交界にも世俗にも混じらずに生きてきたノーラには、両者の隔たりを認識することができていなかった。
貴族は民に支えられて生きるもの。
それなのに、こんなに荒れている場所があるとは……なんだか国の将来が不安になってきた。