帝国の混迷
「うーん……すまん! わからんっ!」
アロルドは合掌して頭を下げた。
まさかの返答にマインラートの口笛が響く。
「賢者殿でもわからないとはな。こりゃ、ピルット嬢の呪いは相当手強いぜ?」
正直、失望はなかった。
ルートラ公爵家で分析し、ニルフック学園で入念に調べ……ここまで研究してきた日々を鑑みれば、そう簡単に解明できるとは思っていなかったのだ。
「まるで魔物を相手にしてる時みたいな感覚だった。相手の恐怖心を煽る術……ってのは覚えがあるが、そういう類の目は聞いたことがねぇんだ」
立ち上がったアロルドは壁際の書棚に手をかける。
それから青い表紙の本を抜き取り、ノーラに手渡した。
「えっと……『世界魔眼大全』?」
「姉ちゃん、魔眼って知ってるかい?」
「はい、研究の一環で調べたことがあります。調べてもよく理解できなかったんですけど……」
魔眼。
ノーラの右目に関して真っ先に正体が疑われた代物である。
図書館で調べた限り、色々と難しいことが書いてあって理解しきれなかったが……『瞳に宿る魔力の波動から魔眼ではない』と仮定された。
「世の中にはわんさか魔眼の種類がある。漂う魔力を自在に操れる魔眼、複数の属性が使えるようになる魔眼、相手のすね毛を引っこ抜く魔眼……すごいのから、しょうもないのまで千差万別。その大全の中にも姉ちゃんの目に似通ったものがあるかもしらん」
あくまでノーラの右目が魔眼ではない……という結論は、クラスNの講義だけで決定したものだ。
さらに詳しく調べることで、新たな知見が得られるかもしれない。
「ありがとうございます。お借りします」
「あー、その本は返さなくていいぜ。何か困ったことがあれば、コルラードの野郎を頼ってくれや」
二人の会話を静かに見守っていたマインラート。
彼は用件が済んだことを確認し、早々にノーラに退室を促した。
「よーし、ピルット嬢。他に聞きたいことがないなら帰るぞ」
「おう? そういや、マインラートの坊ちゃんは俺に相談とかしなくていいのか?」
「はい。賢者殿ならご存知かもしれませんが、俺の専門分野は『錬象術』っていう学問でして。単純に魔力物質を結合させることが得意な体質ってだけなんですよ」
「ああ……錬象術っつーと、あのドマイナーな学問か。しかし、この城の魔法人形は全部お前が作ってるんだろう? それなら大したもんじゃねえか!」
マインラートはずっと自分の研究に消極的だ。
ノーラのように力によって被害を受けていないのだから、当然の反応と言えるかもしれない。
それに今の彼はやたらと急いでいるように見えた。
普段はノーラに触れることすら嫌がるようなマインラートが、今は手を引いて退室させようとしている。
彼の意思を汲み取ってノーラも立ち上がった。
「それでは、賢者様。わたしたちはこれで失礼します」
「おう、元気でな! 機会があればまた会おうや!」
研究室から出る間際、マインラートは深々と頭を下げた。
「……賢者殿。どうか陛下のこと、よろしくお願いいたします」
「心配すんな。俺もできる限りの手は尽くすさ」
静かに閉まる研究室の扉。
珍しくしおらしい表情のマインラートに、ノーラはどんな声をかけるべきか逡巡を見せる。
口ごもりながら歩いていると向こうの方から声を上げた。
「ったく……賢者殿も気楽なもんだな。今はあの人しか頼れる人がいないってのに」
「陛下の容体に関して、ですか?」
「そう。国中の医者を集めても、陛下が快復される見込みはなかった。だから外国から賢者殿を招致してまで躍起になっているのさ。ただ、あの気楽さを見せられたんじゃあな……陛下には生きていてもらわないと困るんだ。今はまだ……な」
あからさまに不機嫌というか、落ち込んでいるというか。
怒りではない……焦りだ。
「ええと……これを聞いていいのかわからないし、不敬かもしれないですけど。陛下が快復されないと、何か困ることがあるのですか?」
マインラートは肩をすくめた。
そんなことも理解できないのか……と言わんばかりに。
周囲に人影がないことを確認し、声をひそめて語る。
「グラン帝国は三つの大きな派閥に分かれてる。陛下を中心に据える『皇帝派』、ルートラ公爵家を要とする『公爵派』、シュログリ教を擁する『宗教派』。これまでは陛下が健在なことで均衡を保っていたが……その安寧が崩れつつあるのさ。公爵派は相変わらず強欲だし、宗教派は二十年くらい前から神が姿を見せなくなって威信が落ちている。皇帝派の中でも第一皇子のラインホルトと、第二皇子のデニスが対立を始めたり……色々と政情が乱れていてね。宰相を務めるスクロープ侯爵家の立場としては、かなーり面倒なことになってるのさ」
一気に雪崩れ込んできた情報。
ノーラは情報処理が追いつかず、ぐるぐると目を回した。
とりあえず陛下が病に倒れて、いろんな派閥が緊迫した雰囲気になっているということ。
「た、大変、ですね……?」
「よくわかんねぇって顔してやがる。ま、平民には関係ねえよ。せいぜい戦火に巻き込まれないように気をつけるんだな。貴族の勝手な都合で民に迷惑をかけるのは……絶対にやっちゃいけない。俺も全力で国の治安は守るさ」
彼の語調は強かった。
"貴族として"の強い意志が籠っている。
位高ければ徳高きを要す……と言えるほど、マインラートは高潔な性格ではないが。
それでも誇りはあるのだろう。
「わたしが平民だろうと貴族だろうと……もう少し、国政に目を向けた方がいいんでしょうか。何も知らなくて情けない気持ちになります」
「いや、その必要はない。国を取り仕切るのは貴族の役目で、民はその安寧を享受してればいいのさ。言ったろ? 貴族と平民は違う生き物だって」
やはり……マインラートの心には明確な線引きがある。
「そうですか。じゃあ、わたしは目先の任務に集中します。せめてこの魔法人形を動かして、城の人たちの暮らしを少しでも豊かにできるように」
「お、いいじゃないか? 民には民の仕事があるってね。また別の機会に、あんたを頼ることがあるかもしれない。そのときはよろしく頼むぜ」
「……? はい、わかりました」
別の機会とは。
疑問に思いながらもノーラはうなずいた。