新たな一面
久々にまみえたルートラ公爵家。
白亜の外壁に、天を衝く尖塔の数々。
風光明媚たる大庭園。
久々に帰ってくると、ちょうど一年前に来た日を思い出す。
荷物をまとめたノーラは、夏季休暇のはじめにルートラ公爵家に帰ってきていた。
ペートルスやイニゴ、レオカディアも一緒に。
かつて過ごした客室に入り、ノーラは重い鞄を放り投げた。
ここは実家ではないが、それでも帰ってくると安心感がある。
「エレオノーラ様。学園から公爵家まで、お疲れ様でした。ご入浴かお食事になさいますか?」
部屋に入るや否や、付き添いのレオカディアが尋ねた。
彼女も長旅で疲れているだろうに、すぐに侍女として仕事ができるのはさすがだ。
「ご飯はペートルス様と一緒にするから、お風呂に入ろうかな。ペートルス様、今は公爵様とお話されてるんですよね?」
「はい。しばらく夕時まで時間がありますから、ごゆっくりおくつろぎください。それでは入浴の準備をしますね」
「ありがとうございます。久しぶりに公爵家のデカい風呂に入るなぁ……ちょっと楽しみ」
学園の設備も悪くないのだが、平民設定のノーラは使用できる設備に限りがあった。
特に浴場や娯楽施設の類は階級差がかなりあったので。
離れで過ごしていたころと比べたらマシだが、それでもルートラ公爵家と比べると凄まじくショボく感じてしまうこともあった。
世に出て見聞を広めてきたノーラだが、世間を知るほどルートラ公爵家の規模の大きさがわかる。
マインラートが誘ってきた皇城はきっとこれ以上の大きさなのだろう。
彼女の世界はまだまだ広がっていく。
◇◇◇◇
湯浴みを済ませたノーラは、適当に時間を潰してから食堂へ向かった。
そこにはペートルスがいたのだが……。
「……ね、寝てる?」
椅子にもたれかかり、彼は瞳を閉じていた。
ノーラが足音を立てても、瞳を開けずに安らかに呼吸している。
そういえばペートルスが寝ている光景は見たことがない。
きっとお疲れなのだろう。
せっかくだし寝顔をしっかりと拝んでおこうか。
そう思い、ノーラはペートルスの横にそっと屈みこんだ。
普段は澄ました表情なのに、寝顔はわずかに幼さが残る。
頬でもつついてやろうか……などとくだらないことを考えつつ、ノーラが観察を続けていると。
「……!?」
ペートルスが傾いた。
背もたれから滑り落ち、ノーラの側に頭が向く。
彼女は咄嗟にペートルスの頭を支えた。
いい匂いがふわりと鼻先に漂う。
(やべ……どうしよ……)
――自分が離れたらペートルスが落ちる。
別に床には絨毯が敷かれているし、離れても構わないが。
傾いた彼の頭を抱えながら、ノーラは目を回した。
そっと戻してあげればいい。
少し押し返せばいいだけ。
ノーラはそっとペートルスの頭と肩を押し、元の姿勢に戻そうとした。
だが意外と動かない。
もう少し強めに……
「――何をされているのですか?」
「ひぅんんっ!?」
入り口で声がして、ノーラは奇声を上げた。
レオカディアが当惑した様子で立っている。
そしてノーラが上げた奇声で目を覚ましたのか、ペートルスが身じろぎして。
「……うるさいな」
彼は顔をしかめて耳を抑えた。
それから視線を上げて周囲を見渡す。
「あっ、す、すみません……変な声上げてすみません……」
「……ノーラ?」
「あの、ペートルス様が椅子から落ちそうだったので、咄嗟に支えたんですけど。不意に声が出てしまいました」
不意に外部から衝撃が加わると声が出る性質がある。
音叉のごとき性質にはノーラ自身、辟易していた。
ペートルスは状況を把握したのか、居住まいを正して咳払いする。
「そ、そうか……ありがとう。恥ずかしい姿を見せたね」
彼にしては珍しく歯切れが悪い。
これは明らかに動揺している。
どこに動揺する要素があったのかわからないが、珍しい姿にノーラは毒気に当てられる。
「レオカディア、夕食の準備はできた?」
「はい、まもなくです。食堂に運んでもよろしいですか?」
「ああ。頼んだよ」
「承知しました」
礼をしてレオカディアは去っていく。
食堂には再びペートルスとノーラのみが取り残された。
ノーラはおずおずといつもの席に座り、何を話そうかと思考をめぐらせる。
「あの……ほんと、すみません。耳元で叫んで」
「大丈夫だよ。寝るべき場所ではない食堂で寝てしまった僕が悪い。……何か、変な寝言は言っていなかったかな?」
「いえ、何も。極めて安らかなお眠りでした」
変な寝言とは。
それすなわち、変な夢を見ていたということだろうか。
だとすれば覚醒直後のペートルスの動揺もうなずける。
「もしかして卑猥な夢でも見てました?」
「はは、直球だね。ご想像にお任せするよ」
この答え方はたぶん違うな……とノーラは思案する。
政治に関する機密性の高い内容の夢とか。
もしくは小さいころの夢とか。
ペートルスの人間的な側面は、一貫しているように見える。
公爵家でも学園でも貴公子然としていて、先程のように寝顔や動揺した姿は見せたことがなかった。
付き合うこと半年、ようやく新たな側面が見えたのだ。
「ペートルス様ってストレスすごそう」
「いきなり何を……?」
◇◇◇◇
夕食後、ノーラはさっそく例の件について切り出した。
「マインラート様の言ってた仕事、結局引き受けるべきなんでしょうか」
「経験としては悪くないだろう。魔力操作の精度も上がるだろうし、何より皇城で働けるのは貴重な機会だ。だが……君は『ノーラ・ピルット』として働くことになる。正体が『呪われ姫』であることはバレてはならないね」
「たしかに。わたしの顔を知っているのなんて家族くらいですから、たぶん大丈夫だと思いますが……」
ましてや眼帯もしているのだ。
一見して正体を悟られるようなことはないだろう。
特に夏休みの予定はない。
余程の激務でもなければ引き受けるのはアリだが……一点だけノーラが懸念していることがあった。
「わたしの右目について。まだ入学して半年で焦りすぎかもしれませんが、あまり進展がありません。夏休み中も研究に時間を割くべきではないでしょうか」
「それなんだけどね……研究的な意味でも、マインラートの依頼を受けてみるべきだと思うんだ」
「え、どういうことすか?」
研究と仕事。
どちら両立するべきか悩んでいたが……ペートルスには目論見があるらしい。
「グラン帝国は文明の発展のため、城に数多くの研究機関を備えている。魔術や異能、超常現象についてなど……『帝立研究所』と呼ばれる場所で研究が行われているんだ。一度、そこへ足を運んでみるのもいいかもしれない」
「帝立研究所……なんか最先端な研究をしてそうですね。でも、いち雇われの身で研究機関に入れるのでしょうか?」
「そこはマインラートに言っておくよ。ノーラを帝立研究所に入れてあげてほしい、とね。腐っても彼は宰相の子だ。それなりの裁量権はある」
「浮ついた男のくせに意外と権力者なんですよね、あの人」
そういうことなら……引き受けてみようか。
色々な経験をしてみたい。
イアリズ伯爵家という狭い箱庭を抜け出したノーラにとっては、目に映るすべてが新鮮だ。
お城で働いてみる……なんて経験もきっと素敵な思い出になる。
「やってみます。なんかおもしろそうだし」
「そうか。では、マインラートには僕の方から連絡しておくよ」
「ありがとうございます。……あ、でもその前に。いったん実家に顔を出してこようかと。お父様が帰ってこいって手紙でうるせーので」
「ああ、お父上もきっと心配していることだろう。顔を見せて安心させてあげるといい」
半年に一度くらいは帰省したい。
でなければ父が手紙を送ってくる頻度が激増してしまう。
妹と義母に囲まれ、きっと父は窮屈な思いをしていることだろう。
ノーラは哀れみの情を覚えた。