諦観
「――あなたが魔石の回路を壊したのですね、ダナさん」
フリッツは単刀直入に問うた。
疑念を向けられたダナの表情は変わらない。
いつも通りフリッツに向けるような、冷淡で退屈そうな顔だ。
「どうしてそう思うの?」
「刻印の文字の癖ですよ。あなたの文字はとめが丸くなり、細かい点をつなげる特徴がある。回路に刻まれた魔力伝達阻害の刻印も同様の特徴がありました。それに……兄上の研究をたまに手伝っていたダナさんなら、どこを止めればいいかわかるはず。今回の事件では、回路の的確な場所だけを改編して機能させなくしていました」
フリッツはダナが犯人である証拠を列挙していく。
彼は婚約者の様々な癖を把握していた。
それほどまでに婚約者を大切に想い、よく見てきたから。
やがてダナは諦めたように告白する。
「ええ、そうよ」
淡々とした声色で言い放った。
会場から響く楽しげな歓声とは裏腹に、二人の空気は限りなく重い。
フリッツも理解していた。
今までに目を背けていた疑念が、現実が、ただ輪郭を帯びただけなのだから。
「そんなに……私と踊るのが嫌だったのですね」
ダナはフリッツが嫌いだ。
普段の態度を見ても、手紙の内容を見ても一目瞭然だ。
公の場では淑女然として振る舞うが、決してフリッツと関係性を深めようとはしていない。
昨年の舞踏会もダナは嫌々参加しているようだった。
言葉にせずとも態度で伝わるものだ。
「当たり前でしょう? 好きでもない殿方と踊るなんて嫌に決まってるわ」
「……元々、強引に結ばれた婚約でした。仕方ないことですね」
「あなたはオレガリオの足元にも及ばない。あの人は強くて、賢くて、誰よりもかっこよくて……そんな人の代わりに押しつけられたのがあなた。私の気持ちも考えてほしいわね」
容赦のない毒を顔色ひとつ変えずに吐く。
その毒を真正面から受けてもなお、フリッツは真摯に対話を試みた。
「……申し訳ない。兄上に届き得ないことは百も承知。それでもダナさんに釣り合える婚約者になろうと努力はしているのですが」
「無理よ。あの人は天才だけど、あなたは違うもの。セヌール伯爵家とずっと昔から交流してきた私なら知ってる。あなたは凡才で、絶対にオレガリオの後釜には座れないわ。しょせんはオレガリオの代替品だもの」
「……」
ダナとオレガリオは愛し合っていた。
それはフリッツが誰よりも知っている。
だからこそ弟であるフリッツを投げやりに押しつけられたことが、認められないのだろう。
フリッツが視線を落とした、その瞬間。
怒りに震えた声が耳朶を打った。
「――そんなことない」
陰から姿を現したのはノーラだった。
マナーの悪さは一丁前、盗み聞きも当たり前。
そんな彼女はフリッツとダナの会話をずっと聞いていた。
「ピルット嬢……? まさか聞いていたのですか?」
「すみません、フリッツ様。本当なら聞かなかったことにしておくつもりでした。でも……」
彼女は憤懣を湛えた瞳でダナを睨みつける。
「でも、ダナ様の言葉は許せない。わたしがフリッツ様の友人の一人として、後輩の一人として……断言します。フリッツ様はオレガリオ様の代替品なんかじゃない」
あんまりな言い方だと思った。
ダナはオレガリオのことを心の底から愛していたのだろう。
だからこそフリッツが憎いのかもしれない。
……だとしても、言って良いことと悪いことがある。
「あなたはそう思うのでしょうね。オレガリオを見たことがない、あなたは。あの人は何もかもが完璧で……人として美しかった」
ダナは遠い幻想を見つめている。
もう戻らない過去を想起して、目先のフリッツは眼中になかった。
「たしかに、わたしはオレガリオ様を知りません。きっとすごい人だったのでしょう。でも……それって、フリッツ様の生き方がダナ様の価値観に合わなかっただけじゃないですか? わたしは人のため、家と領地のため、努力して積み重ねるフリッツ様の姿は美しいと思いますよ」
ノーラが家の外に出ていちばん驚いたこと。
それは『個性』だ。
出会う人すべてに個性がある。
呪われ姫として軟禁され、ほんの数人としか関わったことのない彼女にとって……学園での出会いは刺激的すぎた。
驚くことも多々あった。
例えばフリッツを見て。
――こんなに努力できる人が、この世にいるのか……と。
「……かわいそうに。知らないのでしょうね、貴族の常識を。努力は誇るものではないのよ。むしろ非才の身、恥ずべき血筋として扱われるべきなの。労せずして栄誉と地位を得るのが一流の貴族だもの」
「……っ」
そのとき、ノーラの感情が弾けた。
このダナという人間とは根本的に価値観が合わない。
怒りをなんとか堪えつつ、彼女は深く呼吸した。
「ダナ様はフリッツ様に釣り合う方なのですか?」
「……どういうことかしら」
「フリッツ様は常に学園でも首位の成績をキープしています。偉大な発明をして、魔術の名手で、学園中の生徒からの憧れの的です。そのハンカチだって、あなたのために滅多に手に入らない生地を用意したんですよ。こんなに素晴らしい婚約者に対して、ダナ様からは何かお返ししたんですか?」
ダナは胸元のハンカチを見た。
白銀の布地は優美なる輝きを放っている。
青色の刺繍でセヌール伯爵家の印章が縫われた特注品だ。
ダナはそのハンカチをしばし見つめ……するりとつまみ上げる。
そして無造作に布を織り、地面に投げ捨てた。
「何、してるの……?」
「いらないわよ、こんなもの。欲しいなんて言ってない。興味のない殿方からの献身ほど、迷惑なものはないわね」
「…………」
絶句せざるをえなかった。
人倫とか、社会性とか、そういうレベルの話じゃない。
ダナには人の気持ちがわからないのだ。
「いい加減にしろよ……それ以上、フリッツ様を馬鹿にするな!」
「あら、急に声を荒げてどうしたの? はしたないわよ」
「はしたないのはテメェの性格だろうが! こんな……こんな真似をして、恥ずかしくないのかよ!」
思わず前のめりになって詰め寄ろうとしたノーラ。
しかし、彼女の腕を強い力が抑えた。
「……もう、いいですよ。ピルット嬢、ありがとうございます」
フリッツは笑顔で佇んでいた。
どこか困ったような、諦めたような、儚い笑みで。
「でも……」
「私をよく見てくれている人がそばにいた。その事実がわかっただけでも、満足なんです」
フリッツはノーラを庇うように前へ出る。
地面に落ちたハンカチを拾い上げ、土埃をはたき落とした。
白銀のハンカチはダナのもとへ帰らない。
フリッツは丁寧に折って懐へしまった。
「……ダナさん。婚約を白紙に戻しましょう。両親は私が説得します」
「私も……もう歳なのよ。二十代の半ばに差しかかって、二度も婚約者をなくしたら。そんな私に令息が寄ってくると思っているの?」
「私が奪ってしまった時間は取り戻せません。その点についてはお詫び申し上げましょう。私もダナさんも、最初から親に抗議していればよかったのです。本当に自分の好きな人と結ばれたい……と」
「……あなたと婚約を結んでいた時間、無駄だったのね」
「ええ。ですから、これ以上時間を無駄にしないように……何もなかったことに。ダナさんの家も、腐っても名家ですから。相手がいないということはないでしょう。どうか兄上のように、完璧で揺るぎない殿方を見つけてください」
「…………ええ、そうさせてもらうわ。ごきげんよう」
ダナは短く返事して去っていった。
ノーラが目にしたのは一組のカップルの婚約破棄。
けれども、決して他人事とは思えなかった。
きっと二人が別れたことは正しかった。
彼らが幸福な未来へ歩むための一歩目だ。
それなのに、胸の奥に苦い味が残り続けている。
「さて……困りましたね」
フリッツは何事もなかったかのように顔を上げて、舞踏会の会場を見上げた。
いまだに楽団が奏でる音色は響き渡っている。
「舞踏の相手がいなくなってしまいました」
不意にノーラの前に白銀が舞った。
フリッツは入念にハンカチの汚れを落としてから跪く。
「ピルット嬢。私と踊っていただけますか?」
「え、えっと……? まあ、相手がいなくなってしまったのなら仕方ないですよね」
彼女はそっと目の前に捧げられたハンカチを手に取った。