人の輝き
震えを押し殺し、フリッツは校舎裏に座り込んでいた。
勢いのままに会場を飛び出してきてしまった。
すぐに戻らなくては……と思っても、どうしても足がすくんで動けない。
なんて自分は情けないのか。
多くの人が困っていて、自分にはそれを解決するだけの知識がある。
だというのに――身勝手に過去を恐れ、逃げ出すなんて。
「兄上なら……」
オレガリオなら、きっと迷いなく。
人のために動けるのに。
「駄目ですね、私は」
こんな場所で震えていても、物事は前に進まない。
合理的に、効率的に動くのが天才フリッツの指針だ。
「……フリッツ様」
「っ!」
呼び声を聞き、フリッツは咄嗟に振り向く。
夜闇で姿はよく見えないが……声色からなんとなくわかった。
走ってきたのか息切れしているようだ。
「ピルット嬢……?」
「はぁ……よかった。ここにいたんですね」
「どうしてこんなところに? 学園の中とはいえ、今日は外部からの出入りもあります。一人で歩くのは危ないですよ」
「フリッツ様を探しにきたんです」
自分を探しに。
もしかしてペートルスやダナの命で探しにきたのだろうか。
こんな暗い中、探しにきてくれたことに負い目を感じてフリッツは頭を下げた。
「申し訳ない。少し気分が悪くなりまして。すぐに戻りますので、ご心配なく」
やはり自分は迷惑をかけてばかりだ。
フリッツは心中で嘆息した。
「ううん。すぐに戻らなくても、いいと思います。フリッツ様が責任を負う必要も、過去を思い出す必要もありませんから。だから……ちょっと休みましょう」
そう言ってノーラはフリッツの隣に座った。
彼女の顔は暗くてよく見えないが、逆にそれが救いになっている。
もしも哀れみの視線なんて向けられていたら、フリッツは恥ずかしくて顔を覆ってしまう。
「休んでいる暇など……ありませんよ。私は天才、次代のセヌール伯爵家を背負う者。わずかな時間も無駄にはできないのです」
「天才。フリッツ様が天才って本当ですか?」
「え……?」
ノーラの言葉に顔を上げる。
自分は天才だ。
少なくともニルフック学園の高等科に入学してからは、常に成績首位を保ち、あらゆる点で瑕疵がないように振る舞ってきた。
――兄のように。
「だってフリッツ様、教えるの下手じゃないですか。いつも読んでいる本は学術書ばかりだし。本当の天才だったら教えるのもうまくて、もうちょっと余裕がありそうな日々を過ごしているんじゃないかと思います。なんか……ほら、いつも焦っているような感じで、天才とは程遠い気がします。わたしの勝手な偏見、そして批判に近い意見ですけど」
ノーラが言葉を重ねれば重ねるほど、フリッツの心臓の鼓動は早くなった。
彼女の指摘はすべて合っていたから。
申し訳なさそうに指摘するノーラに対して、フリッツは何も反論できない。
天才らしく振る舞っているだけなのだ。
兄上の代わりを演じようとしていただけなのだ。
兄のオレガリオならもっと余裕がある。
何事も落ち着いて、冷静に俯瞰して、あらゆる問題をスマートに解決する。
「……少し驚きました。まさかピルット嬢がそこまで私を観察しているとは」
「観察というか……ちょっと関わればわかりそうなもんですけどね。すごい努力家だってわかりますよ。努力を積み重ねているからこそ、多くの人がフリッツ様を天才だと勘違いしてくれるんです」
「ふ……ふふ。いやはや、お恥ずかしい。どうか私が『努力しなければならない人』であることは、忘れてください。奮励は貴族の恥とも言いますからね」
「嫌です」
即答した。
ノーラはすぐに嫌だと言いきった。
まさかの返事にフリッツは眉をひそめる。
「フリッツ様が努力家であることは忘れませんよ。誰にも言いませんけどね。努力し続けて常にトップにいるって、すごくかっこいいじゃないですか。泥臭いとか、汗臭いとか……そんなことを言うやつがいたら、わたしがぶん殴ってやりますよ」
「……でも、兄上なら」
「オレガリオ様は関係ないです。わたしはフリッツ様がかっこいいって言ってるんです。セヌール伯爵令息じゃなくて、フリッツ・フォン・ウォキックを褒めたので。そこを勘違いしないでくださいね」
「……」
貴族の責務とか、あるべき姿とか。
ノーラはそういう枷が嫌いだ。
『呪われ姫』として檻の中に閉じ込められているだけの日々を思い出してしまうから、かくあるべきという姿を押しつけられるのが好きじゃない。
フリッツもまた檻に閉じ込められている。
体ではなく心が。
「私はセヌール伯爵家を救わなければならないんです。それが私の務めです。私が稀代の天才として名を馳せなければ、亡き兄上に顔向けができない」
たとえ鍍金であろうとも。
偽物の宝石であろうとも、贋作の芸術品であろうとも。
フリッツはオレガリオの代用品であって然るべきだ。
「ふーん。わたしだったら、そんな責任めんどくせぇから投げ出すけどなぁ」
「なっ……!? ま、まぁピルット嬢は平民ですからね。いち伯爵家を背負う者の責任は理解できないでしょう。私が無能であれば、民にまで迷惑をかけてしまうのですよ」
「人って迷惑をかけるもの、だと思いますよ。平民とか貴族とかにかかわらず、迷惑をかけ合って生きていくんです。度が過ぎたらキレますけどね。フリッツ様は普段から立派だし、多少の迷惑をかけてもいいんじゃないですか?」
「多少の迷惑……ですか。元来無能であった私が、兄上の影を追いかけるのをやめてしまえば……多少の迷惑どころじゃ済まないでしょうね。皆から嫌われることは間違いなしです」
「ふんふん。でも……フリッツ様は優しい人だから。きっとみんな慕ってくれますよ。わたしだって、フリッツ様が信頼できる先輩だって……すぐにわかったんですから」
皮肉には聞こえなかった。
ノーラの言葉は哀れみでも情けでもなく、心の奥底から吐き出されたようだった。
そのときフリッツの胸に落ちた、過去の残滓。
「ああ……そうか。兄上、あなたの言葉は……」
兄が死に、長い時が経ち。
ようやくわかった。
『……フリッツ。お前は優しい子だ。きっと私よりも立派な人間になれる』
フリッツは瞳を静かに閉じた。
今もこうして思い出せる。
亡き人が真っ先に忘れられるのは「声」だという。
けれどもフリッツは、兄の声と共にその言葉をずっと覚えていた。
瞳を再び開けば、冷たい闇が広がっている。
天には綺麗な星空が塗りたくられていた。
彼は息をついて立ち上がると、ノーラに手を差し伸べた。
「…………なんだかカウンセリングみたいになってしまいましたね。そろそろ行きましょう」
「は、はい。もう……大丈夫ですか?」
「おかげさまで。ええ、私をしっかりと見てくれる人がいて安心しました。……ありがとうございます」
ノーラはフリッツの手を取って立ち上がる。
彼の手は宝石を扱うように優しかった。
「どうやら魔石の復旧に苦戦しているようです。どれ……私が軽く解決してあげましょうか」