ご想像にお任せするよ
「ああ、めんどくさい。本当にめんどくさい。つまらないのよ、舞踏とか。私の天賦の才を少しでも舞踏に使うなんて、きっと神様がお許しにならないわ」
「ノエリア、僕だって君の時間を奪うことは心苦しい。ただし舞踏会に参加しないという選択肢はないんだ。わかってくれるね?」
「わかっているからこそ文句を垂れているのよ、この道化。お前のような兄を持って私は不幸者だわ。女嫌いに二枚舌、ろくに社交もできない野蛮な人。死ねばいいのに」
「ははっ。悪いけどお爺様より先には死ねないかな」
とんでもない会話を聞いている。
ペートルスの部屋の前で、ノーラは立ち尽くしていた。
先刻ペートルスが帰還したという旨を聞き、舞踏会の件について相談するために寮を訪れた。
しかし扉をノックしようとした瞬間、聞こえてきた会話がこれだ。
機会を改めてまた今度来よう。
そう思い、ノーラは忍び足で引き返そうとした。
「さあ、愚痴はそこまでだよノエリア。お客人も君の悪態を恐れて逃げてしまいそうだからね」
心臓を掴まれたような心持でノーラは喉を鳴らした。
扉が開くと、その先には全てを見透かしていた表情のペートルスが立っている。
「こんにちは、ノーラ。今日も綺麗だね。入って」
「し、失礼します……」
部屋の中には『姫』がいた。
黄金の髪を長く伸ばし、驚くほど整った顔立ちを退屈に染めている。
ひと目でかなり高貴な身分だとわかるオーラ。
彼女はノーラを見てため息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。
「ごきげんよう。ルートラ公爵令嬢、ノエリア・ウィガナックと申します。そこのペートルスの妹ですわ。以後お見知りおきを」
「ご、ごきげんよう。ノーラ・ピルットと申します」
先程までの会話が嘘のように、ノエリアは麗しいカーテシーをした。
裏と表があるのはノーラも同じだが、ここまでの落差はない……はず。
少なくともノーラはここまで優雅な振る舞いはできない。
「ノーラ。わざわざ僕の部屋を訪ねてくるっていうことは、用事があって来たんだろう? 普段は僕の部屋にまったく来てくれないからね」
「あらあらお兄様。好んでお兄様の部屋を訪れる令嬢なんているはずもないでしょう? 冗談はそのステキな笑顔だけになさって?」
「彼女は僕に用事があって来たんだ。君は少し黙っててくれるかな?」
「まあ。それは失礼いたしましたわ。では立派なお兄様の言いつけどおり、黙っていることにします」
空気が張り詰めている。
まるで戦場にいるかのようだ。
前に魔物の前に立ったことがあるが、そのときよりも緊迫感がある。
ペートルスの向かいに座らされたノーラ。
彼女は笑顔の兄妹に対して、こちらも負けじとぎこちない笑顔を浮かべていた。
以前なら狼狽して何もしゃべれなかったが、今は違う。
「ペ、ペートルス様に相談があって。もうすぐ舞踏会があるじゃないですか」
「ああ。楽しみだね」
「それで……わたし、ダンスができないことに気づきまして。あとお相手がいないことにも気づきまして。どうしようかと迷っているんです。欠席しようかとも思いましたが、クラスNに所属している生徒が舞踏会を欠席するのはあり得ない、と言われてしまって……どうしましょう?」
ノーラの相談にペートルスは考え込んだ。
今の状況はどう考えても手詰まりである。
ペートルスですら解決するのは一筋縄ではいかない問題だろう。
彼はティーカップを揺らしながらしばし悩み、口を開いた。
「僕の見立てによれば、二週間もあれば君は躍れるようになる。しかしダンスの相手については……すまない。正直、僕も思いつかないね。別に欠席しても構わないんじゃないかな?」
「え、いいんすか?」
「僕はクラスNの名誉とかどうでもいいしね。まるで高位の貴族だけが所属できる学級、みたいな扱いだけど……本来は特殊な力を持つ者であれば誰でも所属できる学級だったんだ。名誉だの地位だのを保つために、舞踏会に参加しなければならないなんて馬鹿らしい。……まあ、かくいう僕も周囲の期待に負けて参加しているんだけどね」
ペートルスも本当は舞踏会に参加したくないのだろう。
毎回ダンスをするときに妹を呼ぶくらいなのだから、嫌々ながらも参加しているのは容易に想像できる。
参加しなくてもいいと……そう言ってくれたが。
ペートルスが構わないと思っていても、他の面子はそうはいかない。
例えばマインラート。
彼はノーラが不参加を決め込もうものなら、烈火のごとく怒り狂うに違いない。
『平民風情がクラスNの評判を落とすとは何事だ』と。
「で、でもマインラート様とか怒りそうですし。やっぱり参加した方がいいんじゃないかなって」
「彼は怒るだろうね。クラスNという肩書きに誇りを持っているし」
「そうですよね……でもお相手がいないしなぁ……」
――チラッチラッ。
ノーラはしきりにペートルスの顔色をうかがう。
いっそ彼が相手になってくれたりしたら楽なのだが、彼は学園の花。
平民ごときと踊るわけがないし、今まで頑なに誰とも踊ってこなかった姿勢を変えるわけがない。
自分から誘ったらまるでペートルスのことを慕っているみたいだし、言い出すこともできず。
早いところ適当な相手を見繕ってほしい。
ペートルスの命令なら、ノーラの相手を命じられた人も渋々従うだろう。
「……はぁ、じれったい。ノーラ嬢、あなたは兄と踊りたいのではなくて?」
そのとき様子を静観していたノエリアが沈黙を破る。
彼女は兄譲りの笑顔でノーラに尋ねた。
「え、ええっ……とですね。いえ、ペートルス様とわたしでは身分が違いすぎますし、注目を集めるのも嫌ですから。誰か空いてそうな殿方がいれば紹介してほしいな、とか思ってたくらいで……ペートルス様と踊るとか、そんな不遜な考えは抱いていません」
「そうなのですね。お兄様はどう? ノーラ嬢に紹介できそうなお相手はいらして?」
「…………」
このときノーラは理解していなかった。
次期ルートラ公と見なされるペートルスが、ノーラに相手を紹介するということ。
それはルートラ公爵家からの婚約の紹介と同義であることを。
つまりペートルスがノーラに相手を紹介すれば、ノーラはその人と半ば強制的に婚約を結ばなければならなくなるのだ。
軽い気持ちで相談したが、ペートルスにとっては限りなく重い選択だった。
「――いいや。ノーラ、悪いけど僕は君に相手を紹介できない。ごめんね、僕は……君に誰とも踊ってほしくないんだ」
「へ?」
「今回の舞踏会、僕は君と踊ることはできない。その上でわがままなのは承知しているが、舞踏会では誰とも踊らないでほしいんだ。僕はまだ『ペートルス』じゃなくて『ルートラ公爵令息』だから、今は君の手を取ることができない。……ただ、これは僕の独りよがりだ。君が他の殿方と踊りたければ好きにしてくれて構わない」
「……?? ええっと、わかりました?」
ペートルスの言葉の意味がまるで解せないノーラ。
しかし傍観しているノエリアにとっては衝撃的な光景だった。
今のペートルスの発言は――
「力になれなくて悪いね。練習だったらいつでも付き合うよ」
「いえいえ……わたしこそ変な相談をしてすみません。あの、できるだけみなさんに恥をかかせないようにしますから。ありがとうございました」
「相談してくれて嬉しいよ。またね」
ノーラを丁重に送り返したペートルス。
彼の表情はどこか浮かなかった。
自分の言葉が正確にノーラに伝わっていない気がして。
ノエリアはいまだに釈然としない気持ちで尋ねた。
「お前、あの方が好きなの?」
今の今まで、一度もペートルスが他人に『誰とも踊ってほしくない』なんて言わなかった。
裏を返せば『いつかは君と踊りたい』――ひいては婚約を結びたいとも考えられる。
もちろんノエリアの考えすぎかもしれないが、兄の様子がいつにも増して変だ。
問われたペートルスは不安げな表情を引っ込め、すぐに笑顔に塗り替える。
「ご想像にお任せするよ」