特殊な方
ランドルフと離縁しても、特にエレオノーラの日常は変わらない。
孤独に次ぐ孤独と、光明のない未来。
呪いに罹ったあの日から、彼女は世界と隔絶されて――
「こんにちは、レディ・エレオノーラ」
「ひゃあ!?」
――急に声がして、エレオノーラは筆を取り落とした。
庭の地面に落下していく筆を白い手が受け止める。
「邪魔をして悪いね。これは……庭を描いているのか。絵を描くのが趣味なのかな?」
いつしかエレオノーラのそばに立っていた少年……ペートルスはカンバスを覗いて尋ねた。
彼は緑色の絵具が付着した絵筆をエレオノーラに手渡そうとするが、エレオノーラは手をわなわなと震わせて動かない。
「ど、どどっ……」
「ど?」
「どこかかっ?」
「ああ、どこから入ってきたのかって? イアリズ伯爵家の塀をこう……上手いこと飛び越えて。こっちの離れの方は守衛がいないから、すごく侵入しやすいね」
塀を飛び越えて……というものの、伯爵家を囲う塀はかなり高い。
木によじ登ったとしても超えられないはずだ。
ペートルスが言ったように、離れに守衛がいないというのは事実。
そもそも離れを警備するほど、エレオノーラには価値がない。
たとえ伯爵家に金目当ての侵入者があったとしても、こんな古ぼけた場所を狙う者などいないだろう。
「ま、また……来たんですか?」
「うん。また来るって言ったからね」
「は、はぁ……どうしてこんなところに来るのですか」
「ははっ、そうだね。近づいてはいけないと言われる『呪われ姫』に興味を持つなんて、僕は変わっているのかもしれない」
そう言ってペートルスは庭を歩き始める。
得体の知れない侵入者を不気味に感じつつも、人が近くにいて自分に話しかけてくれるという感覚に、エレオノーラは奇妙な浮遊感を覚えていた。
「雑草がすごい。庭の手入れはしてないのかな?」
「えっと。最初は、しっかり除草してました。でも……めんどくせーからやめました。い、今はこの木の周りだけ、手入れすることにしています」
「そっか。僕が炎か草の魔法を使えたら、一瞬で除草できるんだけどな。どれ、少しずつ雑草を抜いていこうか。君はそのまま絵を描いてて」
「え、ええっ!? い、い、いえ、大丈夫です!
ちょっと荒れている方が風情があるので!」
「うーん……わかった。貴女がそう言うならやめておこう」
先程から出てくるエレオノーラの独特な言葉づかいも、ペートルスは咎める様子がない。
彼の目的は不明。
帰ってくれる気配もないので、エレオノーラは絵描きを再開して現実逃避に耽ることに。
いま描いているのは庭の風景だ。
というかエレオノーラは庭しか描いたことがない。
おかげで同じような絵画が積み重なっていく始末だ。
「……あの木。枝の先に何か引っかかっているね。帽子?」
ペートルスの声に顔を上げ、エレオノーラは筆を止めた。
彼女が描いているカンバスには大きな木が中心に描かれ、その周囲に雑草の生い茂った庭がある。
そして写生対象の木の枝に、くたびれたストローハットが引っかかっていた。
「この前……風に飛ばされて、引っ掛かりました。最近は、日差しが強いので、帽子がないと少し困ります……」
今こうして庭に出ている間も、若干日が強い。
これからますます気温が上がっていくので、なんとか帽子を取り返す方法を模索したのだが……かなり高いところに引っ掛かってしまって取れない。
樹齢十年を超える木の高さは伊達ではなかった。
「……少し音がするよ。気をつけて」
ペートルスはそう言うと、木に向かって片手をかざす。
瞬間――何かが庭を駆けた。
バリバリと裂くような音が生じ、それが急速に木へと迫り……そして帽子が引っかかった枝の付近で爆ぜた。
バチンと爆ぜた音から衝撃波が生まれ、帽子が宙を舞う。
ペートルスはふわりと落ちてくる帽子を掴み、エレオノーラに渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ございます……? い、今のは?」
「ちょっとしたおまじないさ。音にまつわる、ね」
「音の魔術ってこと?」
「いや、魔術とは少し異なるんだ。まあ……そういう能力だよ」
ペートルスは歯切れ悪く答えた。
大きな音に少し驚いたが、とにかく帽子が手元に戻ってきて嬉しい。
これで庭に出るのも億劫ではなくなる。
いつまでも屋内に籠もっていると憂鬱になるので、エレオノーラはたまに庭へ出て運動もしていた。
「帽子がそれしかないなら、今度僕が買ってこようか? ついでにドレスや靴なんかも」
「へぇっ!? い、いえ、いえ……だだじょうぶです。
そんな見ず知らずの方に物を買っていただくなんて」
「遠慮しなくてもいいんだよ。僕が個人的に君に興味を持っているだけだからね。他意はない」
「…………」
ムズムズする。
それがエレオノーラの率直な感想だった。
自分は価値のない人間だと知っている。
自分は化け物と呼ばれるに相応しい人間だと知っている。
だからこそ、このペートルスという少年の態度が理解できなかった。
「あなたは……わたしが、怖くないんですか。どうして、わたしに近づくのですか」
この際、正直に聞いてみることにした。
誰かと話をできるのは新鮮で、少しだけ嬉しいけれど。
それだけにペートルスが目的を果たしたとき、ぱたりと来なくなってしまう可能性を考えると……彼の目的は知っておきたいのだ。
彼が二度とここに来なくなる瞬間を把握しておきたいから。
ペートルスは問いを受けて、しばし考え込んだ。
しばし経ち、彼の語った目的はこうだ。
「こう言っては聞こえが悪いかもしれないけど、興味本位だよ」
ああ、やはり。
彼もまた『同じ』だ。
興味本位で『呪われ姫』を見にくる人間たちと同じだった。
まるで檻の中にいる獣でも見るかのように……多くの人間がエレオノーラを見て、そして逃げ出していった。
「姿を見た者は誰もが畏怖するという『呪われ姫』……僕もどれだけ恐怖できるのか、会う前はすごく楽しみにしていたんだ」
「…………ん?」
「いったいどれだけ僕の心臓を締めつけてくれるのか、体を震わせてくれるのか……近づいたら失神してしまうかもしれない……! 想像しただけでも興奮が止まらなかった……」
「あの」
「だが、実際に会ってみると違った。別に本能的な恐怖は感じないし、多少の重圧がかかる程度。『呪われ姫』もこの程度か……と落胆すると同時に、気がついたことがあったんだ」
「……はあ」
「レディ・エレオノーラ。君に近づくと、すごくドキドキするんだ。これはきっと呪いによるものだと思うんだけど、常人が感じる『凄まじい恐怖』が、僕にとっては『ほどよい刺激』になっているんじゃないかと」
「で?」
「君のそばでしか得られない昂ぶりが、かなりクセになってしまってね。こうしてまた会いにきたというわけだ。そして、許されるのなら今後も君にお会いしたい」
「えぇ……」
要するに、ペートルスは。
「恐怖を感じたい特殊な方?」