婚約破棄
ペートルスと名乗る少年と出会った日の午後。
エレオノーラの父、イアリズ伯爵が離れを訪れた。
父のそばには婚約者のランドルフの姿も。
エレオノーラは壁際に立ち、父とランドルフはその反対側の壁際に立っている。
これ以上近づくと、呪いによる恐怖で正気を保てないのだ。
イアリズ伯爵が険しい表情で口を開く。
「エレオノーラ。今日は話があって来た。ランドルフ殿……君から話すかね?」
「わかりました。……ひ、久しぶりだな、エレオノーラ。げげっ、元気にしてたか?」
若干上ずった情けない声でランドルフは尋ねる。
こうして対面して顔を合わせるのは二年ぶりくらいか。
今朝エレオノーラの朝食を捨てたという情報を握っているため、もはやランドルフに対する情はなかった。
「うん」
短く返事をする。
ただ一言発しただけなのに、ランドルフの肩がビクリと震えた。
「そ、それはよかった……で、その。話というのは他でもない。俺とお前の婚約を白紙に戻そうと思って……その、エレオノーラが悪くないのはわかっているんだがな? どうしてもその呪いが治りそうにないし……な。わかってくれるな?」
ランドルフは申し訳なさから怯えているのではない。
純粋にエレオノーラの圧力に怯え、息を切らしながら話しているのだ。
こんな風に恐れられるのは慣れきっているため、エレオノーラは特に動じずにうなずいた。
婚約解消を了承する合図だ。
言葉を発すると悪態をついてしまうことを今朝に自覚したので、彼女はあまり口を開かない。
つつがなくランドルフとの婚約は解消してしまいたかった。
「そ、そうか……理解してくれて嬉しいよ。代わりと言ってはなんだが、君の妹のヘルミーネと婚約を結ぶことにしたよ。イアリズ伯爵と俺の家の縁が切れるわけではないから、そこは安心してほしい」
安心しろと言われても。
妹のヘルミーネとランドルフが懇意にしていることは、ずっと昔から知っていた。
仕方なく妹と婚約を結んだようにランドルフは語っているが、最初からそのつもりだったのだ。
「話は以上だ。そ、それでは……イアリズ伯爵。俺はこれで」
ランドルフはそう言って足早に離れを出て行った。
一刻も早くその場から離れたかったようで。
残された父、イアリズ伯爵はエレオノーラから目を逸らす。
「……すまんな、エレオノーラ」
「構いません、お父様。その……」
その……と言いかけて、エレオノーラは口を噤む。
つい暴言が出てしまうような気がして、二の句が継げなかった。
両親や妹、婚約者に恨みがないと言えば嘘になってしまうから。
きっとペートルスに吐いたよりも凶悪な悪言が出てしまう。
「そ、そうだ……何か悩んでいることはないか? こちらでの暮らしは不自由していないか? 何か欲しいものがあれば遠慮なく言いなさい」
不自由していること。
真っ先に思い当たったのは――空腹だ。
朝食を捨てられたせいでエレオノーラは腹を空かしている。
しかし、ヘルミーネとランドルフに食事を捨てられたなどと告白することは、あまりに惨めで言い出せなかった。
それに自分のような生きている価値のない者が、何かを要求するなど。
彼女は静かにかぶりを振った。
「そうか……お前には不自由をさせてすまないと思っている。何かあったらすぐに言うのだぞ。お前がよく読んでいる作家の本も、もうすぐ屋敷に入ってくる予定だ。あとで届けよう。……ではな」
父も離れを去り、再び空間に静寂が戻った。
誰もいない孤独な空間はかえってエレオノーラに安寧を与えてくれる。
婚約を解消されたことで、ようやく彼女は真に社会とのつながりが切れた。
これでもう、何かを背負うこともない。
「……寝よ」
することも特にないので、エレオノーラは寝室に戻って寝ることにした。
◇◇◇◇
本邸に戻ったランドルフは清々しい気持ちだった。
彼を出迎えたのは、新たに婚約者となったヘルミーネ。
「お帰りなさい、ランドルフ様! どうだった?」
「ああ、無事に婚約を解消できた。これでお前と婚約を結べるな!」
「ふふっ……お姉様も不憫ね? 唯一の頼みの綱がランドルフ様だったんじゃないの?」
「馬鹿を言うな。俺にあんな化け物と結婚しろと言うのか?」
「それもそうね! 無茶を言ったわ」
喜々としてエレオノーラの陰口を言い、二人は居間に入っていく。
居間にはヘルミーネの母にして、エレオノーラの義母であるイアリズ伯爵夫人が座っていた。
「あら、お帰りなさい。どうだったの?」
伯爵夫人の問いにランドルフは言葉で答えず、優雅に一礼する。
「イアリズ伯爵夫人。これからは『お義母様』と呼ばせていただいても?」
「あら、まぁ……! ええ、もちろんよ! 無事にヘルミーネとの婚約が成立したのね!」
「はい。今後とも両家で円満なお付き合いができればと」
「おっほっほ! ネドログ伯爵家との関係性もますます深まっていくでしょうね。あの恐ろしい娘ではなく、わたくしの子のヘルミーネと婚約するんですもの。これからもよろしくお願いね?」
「ははっ、そうですね。思えばエレオノーラとかいうあの女は、幼少の砌よりかわいげがなく……」
母娘と婚約者の三人は、エレオノーラの陰口を中心に交流の輪を広げていった。