消えた姫君
「本当に……誰もいないじゃないか……」
イアリズ伯爵邸、無人の離れでランドルフは立ち尽くした。
ヘルミーネがエレオノーラと帝都で遭遇したと聞いた彼は、まさかそんなわけあるかと離れを訪れた。
しかし実際に『呪われ姫』の監獄はもぬけの殻。
ヘルミーネは、それ見たことかと言わんばかりに声を張り上げた。
「ほらね、いないでしょ!? お姉様が帝都でペートルス様と歩いてたのよ!」
「そ、そうだな……だが、いつの間にエレオノーラは消えていたんだ? そんなこと俺たちに知らされてないし。そもそも呪いを持つあいつが、どうして外に出ているんだ?」
呪いある限りエレオノーラが人目に触れることはできない。
ヘルミーネ曰く……帝都で出会った姉は一切の威圧感なく、欠片も恐ろしい気配を感じなかったという。
まさかルートラ公爵令息がエレオノーラの呪いを消したとでも言うのだろうか。
「お姉様は呪いが消えたから外に出て遊んでるのよ。私たちに秘密にしてるなんて悪趣味ね」
「エレオノーラの呪いが消えたとすれば世紀の大発見だが……イアリズ伯爵がその事実を喧伝しない理由がわからないな。呪いが消えたのなら喜ばしいことじゃないか」
「お前たち! 何をしている!」
噂をすれば、イアリズ伯爵が血相を変えて走ってきた。
彼は息を切らして顔を紅潮させている。
「お父様! どうしてお姉様がペートルス様と一緒にいるのを教えてくれなかったの!?」
「っ……お前たちに教える必要はない。どこでそれを知った?」
「帝都でペートルス様と歩いてるお姉様に会ったのよ。それで……まあ、嫌な目にあったの。いったいどういうこと?」
ヘルミーネは歯切れ悪そうに言った。
「そうか……たしかにエレオノーラは別の家に移っている。しかし、その理由をお前たちに話すわけにはいかんのだ。もちろん他言も無用。エレオノーラがイアリズ伯爵家にいないことについては、王命に等しい箝口令が敷かれている。決して他家の者に言ってはならんぞ」
「はぁ? なんで……」
「ヘルミーネ。もういいじゃないか。あいつがイアリズ伯爵家からいなくなることは、お前も望んでいただろう? 素直に喜べ」
ランドルフの諫言のとおりだ。
むしろヘルミーネとしては、邪魔なエレオノーラが消えて喜ぶべきだった。
しかしそれ以上に、不可解なことが多すぎて……何よりペートルスと姉が一緒にいることが気に食わなかった。
「っ、もういい。わかったわ、誰にも言わなければいいんでしょ!?」
すねた態度でヘルミーネは本邸へ歩いていく。
そんな彼女の背を見つめて伯爵は嘆息した。
「……お義父様。ヘルミーネの口は俺が塞いでおきます。決して他言はさせないのでご安心を」
「ああ、悪いな。余計な詮索はしないでもらえると助かる」
「わかりました。どうしてエレオノーラが消えたのか、俺には皆目見当もつきませんが……お力になれることがあれば、いつでもお申しつけを」
ランドルフは労いの言葉をかけてヘルミーネを追っていく。
あのわがままな娘を任せておくにはちょうどいい男だが、彼もまたエレオノーラを暗殺を企てた候補の筆頭なのだ。
エレオノーラに対して一方的に婚約破棄を突きつけた男だし、安易に事情を話すわけにはいかない。
この一件はペートルスに報告しておくべきだろう。
エレオノーラが家から出ていることが広まってしまう可能性がある、とも。
人の口には戸が立てられない。
どれだけ厳重に箝口令を敷いたとしても、何かの拍子にバレてしまうものだ。
暗殺を誰が仕組んだのかは、いまだに明らかにならない。
「まったく……頭が痛い話だ」
◇◇◇◇
「もう……なんなの……!」
苛立ちを抑えきれず、ヘルミーネは居間を歩き回る。
最近は何もかもが思うようにいかない。
エレオノーラが名高いペートルスと一緒にいることも、媚びを売ったペートルスに叱責されたことも。
そのほかにも些細な苛立ちが募り、とにかく彼女は不満だった。
「忙しないわねえ。どうかしたの、ヘルミーネ?」
そんな彼女を見て、イアリズ伯爵夫人にして母のトマサが首を傾げた。
娘が喧しいのはいつものことだが、今日はなおさら。
夫人は髪飾りを編んでいた手を止めて動き回る娘に尋ねる。
「べ、別に。少し嫌なことがあっただけ。お母様には関係ないわ」
「あらまあ、悲しいわね。そんなこと言わないでちょうだい? あなたはたった一人、私の娘なんだから。なんでも相談していいのよ?」
「相談してどうにかなることじゃないの。ほんとになんでもないから、気にしないでよ」
「そう……あ、ヘルミーネ。いま髪飾りを編んでたのよ。あなたに似合うと思うんだけど、ちょっとつけてみてくれない?」
母の一言にヘルミーネは顔を上げた。
手先が器用な母は、よくドレスや装飾を自分の手で仕上げている。
新たな自分を飾る道具に、ヘルミーネの苛立ちは少し収まった。
「へぇ……どんな髪飾り? もうすぐ夜会だし、つけていこうかしら」
「ほら……これよ」
トマサが差し出したのは妖艶な雰囲気をもつ髪飾りだった。
真紅の花に、黒い羽を差したシンプルかつ目を惹く意匠だ。
一見すれば上出来な代物だが、髪飾りを手に取ったヘルミーネは不服そうに息を漏らした。
「ええ……なんか嫌な色合いだわ。もっと綺麗で薄い色合いがいいかも。ピンクとか、水色とか……あとキラキラした装飾ももっとほしいわね」
「あら、お気に召さない? でも意外と似合うかもしれないし、とりあえずつけてみて……」
「おい、ヘルミーネ。話がある」
髪飾りを娘につけようとした瞬間、不意に声が割り込んだ。
ランドルフが剣呑な視線で居間にやってきた。
「何よ? その話って今じゃなきゃいけないの?」
「ああ、今じゃなきゃいけない。先程の件についてと、次の夜会について。それと父上から婚約についてまとめるようにとも仰せつかった。……お義母様、ご歓談中のところ申し訳ありません」
「はぁ……ったく。お母様、また後でね」
「ええ、気にしないで。婚約者同士、仲よくなさいな」
ヘルミーネはまたもや不機嫌になり、ランドルフに手を引かれていく。
トマサは娘に拒絶された髪飾りをそっと懐にしまった。
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